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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(古代・中世)
(曽我泰光とその妻)
泰光の妻は、高麗氏出身の蓮阿(れんあ)の女子慈照(じしょう)である(遠野
南部家
文書・正慶二年〈一三三三,史料一一四八)に、弥四郎頼綱の「女子・讃岐局・法名慈照」と見え、高麗氏の女系系図(史料一一五〇・遠野
南部家
文書
通史編1(古代・中世)
(姻戚から伝領した所領)
一二九〇)七月、幕府引付頭人は「宮内卿殿局」に対して「可下令二明申一給上」と執達しており(斎藤文書、遠野
南部家
文書,の泰光の譲状でも「くないきやうのとのゝつほね、あうりやう(押領)せらる」と見えるので(斎藤文書、遠野
南部家
文書
通史編2(近世1)
(津軽家の自己認識確立への試み)
頼秀が近衛家の始祖である近衛基通の女をめとり、藤原氏本流との縁戚関係を有したこと、八代から一〇代までは
南部家
,十二月二十四日付の豊臣秀吉朱印状(資料近世1No.三)の宛先では為信を「南部右京亮」としており、津軽家が
南部家
,しかし、十七世紀では、藩主自身が源氏から藤原氏への転換を自家の系図に記すとともに、
南部家
からの津軽伐(,そのような事例にのっとれば、為信のことを「南部右京亮」と記した秀吉の朱印状は、幕府から公式に
南部家
と無縁,近衛家との関係でも、
南部家
との関係を明らかにするようなことはタブーであった)。
通史編1(古代・中世)
(曽我光頼とその家族)
光頼と「ありわう」御前との間の子が、「いぬ太らう(郎)」(斎藤文書、遠野
南部家
文書・正和二年)で、「よいちすけみつ,当初、この資光「一子」だけであったようである(斎藤文書、遠野
南部家
文書・正和二年)。
通史編1(古代・中世)
(片穂家から伝領した所領)
この地頭職は正和二年(一三一三)、「ありわう」の子、光頼嫡子資光へ譲渡された(斎藤文書、遠野
南部家
文書,際して、「おやよりさきたちまいらせ候あいた、(中略)恐れなから」と、父光頼に譲渡され(斎藤文書、遠野
南部家
文書,)、さらに正中三年(一三二六)、資光の遺児「いぬなりまろ」に譲渡された(斎藤文書、遠野
南部家
文書)。,「ありわう」は正和二年(一三一三)九月を最後に史料にその名を残していない(斎藤文書、遠野
南部家
文書)。,安藤の乱鎮圧への出陣に際して、当地についても父光頼に宛てて単独の譲状をしたためている(斎藤文書、遠野
南部家
文書
通史編1(古代・中世)
(曽我貞光とその家族)
史料六二三に「他界」とある)、光頼の他腹の子と推定される「おとはう(乙房)丸」(史料六二三、斎藤文書、遠野
南部家
文書,このことからすると、経光は資光が「一子」(斎藤文書、遠野
南部家
文書・正和二年)と呼ばれていた以後、光頼
通史編1(古代・中世)
(高麗氏から伝領した所領)
しようとしたらしいが、正慶二年(一三三三)三月には相論の地になっていたことが知られる(斎藤文書、遠野
南部家
文書
通史編1(古代・中世)
(曽我光弘とその妻)
曽我系図の宝治元年(一二四七)「北条時頼袖判下文」(遠野
南部家
文書)では「光広」と見え、またのちの建武元年頃
通史編1(古代・中世)
(津軽曽我氏の滅亡)
ただ本来、津軽曽我氏に伝来しているはずの所領や軍忠関係をはじめとしたさまざまな古文書が、現在は遠野
南部家
文書
通史編2(近世1)
(三戸南部氏の津軽進出と大浦築城)
この大浦為信の時期、三戸
南部家
では当主晴政に実子晴継(はるつぐ)が誕生し、家督継承をめぐって養子信直を,こうした三戸
南部家
が内部で動揺していた元亀二年(一五七一)五月、為信は三戸南部氏に反旗を翻し、石川城を
資料編1(古代・中世編)
((1)南北朝時代の「石川楯」)
元弘四年正月十日曽我光高代沙弥道為軍忠状案、建武元年六月日曽我光高申状・曽我光高軍忠状、同年六月十二日北畠顕家御教書、「
南部家
文書,った者として「曽我彦三郎・曽我与次若党」以下の名を、また建武元年十二月十四日の津軽降人交名注進状(「
南部家
文書
通史編1(古代・中世)
(曽我氏系図の復原)
については、平賀郡を中心として鎌倉時代から南北朝時代にかけての比較的豊富な文書が残されたことや、遠野
南部家
文書中
通史編1(古代・中世)
(津軽曽我氏の所領・名取郡)
)七月、宝治合戦の勲功の賞として陸奥国名取郡土師塚(はじづか)郷地頭代職を与えられた(斎藤文書、遠野
南部家
文書
資料編1(古代・中世編)
(第一章 綱文・史料一覧)
…………………………
南部家
文書 183 ●建武元年(一三三四)?,…………………………
南部家
文書 185 ●このころ、安藤祐季、津軽静謐を述べる。,……
南部家
文書・盛岡
南部家
文書 217 ●正平十六年(一三六一・北延文六)正月十八日、北畠顕信、北党,…………………………
南部家
文書 233 ●応永二十三年(一四一六)十月、上杉禅秀の乱。,…………………………
南部家
文書 334 ●天正十~十二年(一五八二~八四)ころ?
通史編1(古代・中世)
(掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)
南部光徹氏蔵 写真118 岩手大学附属図書館蔵宮崎文書 写真119 撮影 写真120 八戸市立図書館蔵
南部家
文書,神奈川県鎌倉市 鶴岡八幡宮蔵 写真144 津軽一統志首巻 弘前市立図書館蔵 写真145 八戸市立図書館蔵
南部家
文書,京都市 等持院蔵 写真154 栗原信充『肖像集』・『日本肖像大事典』 写真155 八戸市立図書館蔵
南部家
文書,守矢早苗氏蔵 写真163 秋田系図 秋田美篤氏蔵 写真164 陸奥国宣 建武2年3月23日付 八戸市立図書館蔵
南部家
文書,大日霊貴神社蔵 写真227 岩手大学附属図書館蔵新渡戸文書 写真228 同上 写真229 八戸市立図書館蔵
南部家
文書
通史編2(近世1)
(九戸一揆の始まり)
また、これより先の天正十八年三月、大浦(津軽)為信が
南部家
からの独立を図り、浪岡(なみおか)城を囲み城代楢山帯刀,機会をねらっていた政実にとって、奥羽の一揆と連動するかたちで自らも一揆を起こし立ち上がらねば、二度と
南部家
通史編1(古代・中世)
(南部晴政の登場と一族間の対立)
それには、「関東衆」として三戸
南部家
の当主晴政とみられる「南部大膳亮」と並んで、九戸氏の当主とみられる,九戸氏は周辺の浄法寺(じょうぼうじ)氏・久慈氏、さらに七戸氏、岩手郡の福士(ふくし)氏、八戸
南部家
の支族新田,晴政時代の後半期、元亀年間(一五七〇~一五七二)ころには、
南部家
中が両派に分かれて内紛が続いていた。
通史編1(古代・中世)
(鎌倉幕府滅亡と津軽曽我氏)
その六月の鎌倉陥落の直後、関東の曽我一族らとともにそろって鎌倉警備を担当している(斎藤文書・遠野
南部家
文書
通史編1(古代・中世)
(為信の離反)
為信の離反 元亀年間のころ、
南部家
中は晴政支持派と信直支持派とに分かれ、内紛を引き起こしていた。
資料編2(近世編1)
(第一章 編年史料出典・典拠一覧)
…東京大学史料編纂所 と 東照宮御実紀………国史大系本「徳川実紀」(吉川弘文館刊) 遠野
南部家
文書,本城善一氏蔵 め 明暦年録………………………………国立公文書館内閣文庫 も 盛岡
南部家
文書
通史編1(古代・中世)
(南北朝の動乱と曽我氏)
このころの遠野
南部家
文書など曽我氏関係の文書には、「将軍家御教書に応じて」という文面がしばしばみえる(
通史編1(古代・中世)
(安藤愛季の津軽侵略)
愛季の津軽侵攻後、天正十年(一五八二)、三戸
南部家
継承を実現した信直は、弟政信を浪岡城に入部させて津軽郡代
資料編1(古代・中世編)
((1) 南北朝時代の「堀越楯」)
「
南部家
文書」の建武四年(一三三七)七月日曽我貞光軍忠状案には、当時足利方として行動していた曽我貞光が
通史編2(近世1)
(豊臣再仕置軍の奥州下向)
伝え、続けて津軽右京亮(うきょうのすけ)(為信)に対しては大谷吉継(おおたによしつぐ)の指揮下で、「
南部家
中,この「逆意」を企てた「
南部家
中」の者とは九戸政実を中心とする一揆勢であることはいうまでもないが、この朱印状,すでに述べたように、この朱印状には
南部家
中の「逆意(ぎゃくい)」を企てた者を成敗するよう指示されていたが
通史編1(古代・中世)
(津軽平賀郡への入部)
しかし遠野
南部家
文書中に伝えられた、正慶(しょうけい)年間(一三三二~一三三三)以前の作成ともいわれている
通史編2(近世1)
(「津軽一統志」以降の修史事業)
秀栄の後裔は、
南部家
からの養子が入ったが、しかし母方には血脈が続いていて、近衛尚通が津軽に下向した折に
通史編1(古代・中世)
(曽我貞光の奮戦)
五年七月には師助から本領相模国足柄上郡曽我郷内の田畠を、その猶子として譲与されている(斎藤文書・遠野
南部家
文書
通史編1(古代・中世)
(三戸南部氏による領国支配の強化)
ただし、彼らを歴史の流れの上に位置づけることは、
南部家
とのつながりをはじめ(史料八九七「津軽歴世録」によれば,為信が南部姓を名乗ったのは
南部家
の被官だったためとされている。
通史編2(近世1)
(相馬大作事件)
津軽家では、一時的に
南部家
より官位が高くなり、寧親のあとに藩主となった津軽信順(のぶゆき)は、田安斉匡
通史編2(近世1)
(九戸一揆の背景)
をしのぐ勢いを持っており、当主である九戸政実(まさざね)は相変わらず信直の権力下に属する気配をみせず、
南部家
中
通史編1(古代・中世)
(津軽奪還を目指して)
この渡海によって、師季が自立した勢力として
南部家
に対抗する土台が形成されたと考えられ、二年後の康正二年
通史編2(近世1)
(金木屋日記にみる対外危機)
者頭(ものがしら)土岐渡人(わたんど)が大将となって、川崎弁天の近くの砂浦という所に動員がかけられ、
南部家
通史編2(近世1)
(「津軽一統志」の編纂)
名所旧跡について記し、以下、巻一から巻九までに津軽家始祖の光信・盛信・政信・為則の事績を述べ、為信による
南部家
資料編1(古代・中世編)
((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)
「
南部家
文書」の年欠三月二十四日付南慶儀書状写には、「津軽郡相破」れ、「自大浦大わに(大鰐)被攻候而、
資料編1(古代・中世編)
(一 はじめに)
大光寺楯・石川楯・船水楯・新里楯・堀越楯・小栗山楯など、数多くの城郭が構えられたことが文書に見える(「
南部家
文書
通史編2(近世1)
(津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)
されたときで、実際にこの時仙台藩主伊達政宗・盛岡藩主南部重直などに領知判物が出されている(伊達家文書、盛岡
南部家
文書,しかし、文化五年の際同時に高直りを受け二〇万石の領知高となった
南部家
の場合、幕府に領知宛行状の発給について
通史編2(近世1)
(「分領」と津軽弘前藩)
両3分永125文 3054両1分永25文 庄内酒井家 1839両 287両1分 2126両1分 盛岡
南部家
通史編2(近世1)
(綱吉政権下における大名課役)
し、幕府が通常の参勤時期を遅らせて、大名への負担を軽減していた(千葉一大「参勤交代制と大名課役―盛岡
南部家
通史編2(近世1)
(伏見作事板の運上と太閤蔵入地)
猶加賀大納言可被申也、 三月廿七日(朱印) 南部大膳大夫とのへ (盛岡
南部家
文書
通史編2(近世1)
(関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)
をねぎらったうえで帰国を命じる書状が、南部・六郷・小野寺・秋田・仁賀保・赤尾津氏に送られ(「陸奥盛岡
南部家
譜
資料編1(古代・中世編)
([十六世紀])
天文二年(一五三三)七月、幕府政所伊勢氏の一族伊勢貞満、細川晴元の要請により書札礼を著し、その中で、
南部家
,浅水城主南慶儀、八戸政栄と書を交し、津軽の大浦為信対策と
南部家
中統一の手だてについて策す。
通史編2(近世1)
(奥羽大名の名護屋参陣)
翌文禄二年三月には渡海が命じられる予定であり、南部信直はそのため正月から渡海準備を始めていた(「遠野
南部家
文書
通史編2(近世1)
(公家との関係)
く近衛家につながることになり、領内に残存する浪岡北畠家の子孫や、津軽の伐(き)り取りに当たって戦った
南部家
資料編1(古代・中世編)
([十五世紀])
●応永二十四年(一四一七)、南部守行、上杉禅秀の乱に戦功あり、
南部家
所伝ではこのとき幕府から陸奥国司職
通史編2(近世1)
(伏見滞在と派閥抗争)
この書状には、「御前之衆」が秀吉の意向を「つけ(告)」る存在として現われている(盛岡
南部家
文書)。
通史編2(近世1)
(名護屋における「日本之つき合」)
文禄元年四月ころに名護屋参陣を果たし、それから約一ヵ月過ぎた五月二十五日、南部信直は八戸氏に宛てた書状で(遠野
南部家
文書
資料編1(古代・中世編)
(出典・典拠一覧(第一章・第二章))
南部御家譜 ………………………………………………………………………………………………… 岩手県立図書館写本
南部家
記録, …………………………………………………………………………………………… 東京大学史料編纂所写本
南部家
文書,……… 山口県文書館本 八戸家系 ………………………………………………………………………………… 『
南部家
文書,……………… 原本写真版・及川大溪氏論文「奥州中世豪族の熊野結縁」(『岩手史学研究』34) も 盛岡
南部家
文書
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
慶安四年(一六五一)八月七日、重臣傍島九郎左衛門等、国元へ書状を下し、由井正雪の謀反と鎮圧の経過、ならびに
南部家
加担
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