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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (三戸南部氏による領国支配の強化)

三戸南部氏による領国支配の強化 三戸南部氏の動きについては、一五世紀半ば以降、不明な点も多い。,南部氏の津軽への勢力拡大の動きについては、同時代史料が少ないために、これまで後代の史料に基づいて検討されており,一応それらの史料に基づけば、津軽支配の強化は、延徳三年(一四九一)に、南部氏の一族である南部光信(なんぶみつのぶ,写真189 南部(大浦)光信倚像  津軽氏の系譜である『前代歴譜』に光信が九戸郡下久慈から南部氏,また、江戸中期に盛岡藩主南部氏が編纂を行った家臣の系図集である『系胤譜考』などによれば、久慈氏の流れをくむ / 三戸南部氏による領国支配の強化
通史編2(近世1) (三戸南部氏の津軽進出と大浦築城)

三戸南部氏の津軽進出と大浦築城 戦国時代の初期、三戸南部氏は、当主信時(のぶとき)あるいはその子政康,三戸南部氏が、本貫地糠部郡だけではなく津軽地方をも領国内に収めようと一族を配置し、積極的に進出を行っていたのである,そしてこの天文十五年以後、三戸南部氏は、鹿角(かづの)・比内(ひない)に通じる津軽南部の要衝石川城に三戸南部当主安信,こうした三戸南部家が内部で動揺していた元亀二年(一五七一)五月、為信は三戸南部氏に反旗を翻し、石川城を / 三戸南部氏の津軽進出と大浦築城
通史編1(古代・中世) (安藤氏の没落)

安藤氏の没落 その後の両者の衝突は永享四年(一四三二)にみられ、安藤氏と南部氏との戦いの結果、安藤氏,幕府側の勧告に対して、南部氏側では承引できず重ねて勧告することになっている。,その後、康季の子義季は享徳二年(一四五三)に津軽鼻和郡大浦郷根倉(ねくら)館に立て籠ったが、南部氏に攻,いわば、南部氏の傀儡(かいらい)的な存在であったのだが、南部氏にとっては、北方海域に割拠していた安藤氏,南部氏は自らの支援で安藤氏の擁立をしてまでも、安藤氏権力を吸収したかったのである。
通史編1(古代・中世) (内乱期の蝦夷沙汰)

建武政権は、南部氏にこの権限を任せようとしていたのであろうか。,少なくとも南部氏は津軽のみならず、閉伊郡で警察権を行使し、比内(ひない)郡・鹿角(かづの)郡などで所領,を新しい知行人に渡したりしていることから、南部氏を北奥羽・蝦夷地を統括する者として見なしていたという。,、糠部三戸城を拠点とした三戸南部氏が早くに幕府に降り勢力を広げていた。,この両者は、しだいに三戸南部氏が優位に立っていく。
通史編1(古代・中世) (尊氏側につく)

尊氏側につく 顕家の恩賞が南部氏に厚く、安藤氏に薄かった節(ふし)があり、そうした不満もあったのか、,南部氏は顕家の権威を背景に、津軽地方にも着々とその影響力を浸透させていった。,おそらく安藤氏はこうした事態の推移に反発したのであろうが、これは南部氏が陸奥国司の配慮によって津軽に大,きな勢力を持ったことに対する土着豪族としての反発であるともいわれ、南部氏と安藤氏との宿命の対決はここから
通史編1(古代・中世) (津軽曽我氏の滅亡)

しかし南部氏自体はその勢力を保ち、詳細は不明であるが曽我氏をはじめとした津軽方面の豪族を滅ぼして、津軽地方,曽我氏が南部氏の前に屈することとなった具体的な経過は、それを伝える古文書がまったく残されていないため不明,しているはずの所領や軍忠関係をはじめとしたさまざまな古文書が、現在は遠野南部家文書として伝来されていることから、南部氏
資料編1(古代・中世編) ((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)

これがいわゆる「石川大仏ケ鼻城」で、ここに石川城は、南部氏の津軽支配の拠点として再び姿を現わす。,このときの、南部安信・高信による津軽平定と石川居城は、南部氏の領国支配強化政策の中で行われたことであった,南部氏の津軽への本格的進出は、十五世紀に始まる。,この高信の活躍もあって、三戸南部氏は安信の子晴政の代に、戦国大名として大きく発展する。,石川落城に対して、南部氏は早速軍勢を大鰐・宿川原に出陣させ、その後もしばしば軍勢を送った。
通史編2(近世1) (九戸一揆の背景)

九戸一揆の背景 戦国末期の北奥の糠部郡(ぬかのぶぐん)は、三戸南部氏を中心とした九戸氏・櫛引(くしひき,そのため、三戸南部氏の宗家としての地位は、非常に不安定なものであったのである(小林清治「九戸合戦」『北辺,しかし、天正十八年(一五九〇)七月二十七日の豊臣秀吉朱印状によって、三戸南部氏の当主信直(のぶなお)が,南部氏の宗家としての地位を公認され、それ以外の九戸氏らは三戸氏の「家中(かちゅう)」あるいは「家臣」として,図8.南部信直画像  九戸政実はすでに、戦国末期の南部晴政の代から南部氏の家督をねらっており、信直
資料編1(古代・中世編) (三 板碑の造立者とその時期)

これらの板碑は、工藤貞祐の時代に造立されたことは事実と推測され、南部氏の手に移ってから見捨てられたと考,板碑を造る石材の供給地から離れていることも原因の一つに推定されるが、この地域が室町時代の早い時期に南部氏,南部氏は板碑信仰に関心が薄く、もともと板碑文化があまり流入していなかった県南地方では、室町時代に入っても,南部氏が津軽で知行した地域では、板碑はしだいに忘れられ、新規の造立もないまま、埋没していったと見るのは,後年、南部氏に追われた藤崎の安藤氏の場合、勢力圏と考えられる地域の板碑造立は、一三〇〇年代に入ってから
通史編1(古代・中世) (文献史料から見た戦国動乱の激化)

反乱の中心は葛西一族の大光寺城主や藤崎安藤氏で、一五世紀の半ば以来南部氏に従ってきた津軽領主層の、南部氏,しかし南部氏が安東氏を滅ぼし津軽領内に侵攻してくることから始まることには変わりはないようである。,結果的には南部氏側の勝利に帰し、鹿角郡中を確保したことなどが記録(史料九五二)として残されている。,また、大浦氏と南部氏との対立抗争の要因は、津軽の統一や下剋上などといったものではなく、土地の取り合いと,南部氏は延徳三年(一四九一)、南部久慈(くじ)氏の一族光信(みつのぶ)を津軽西浜種里(たねさと)に入部
通史編1(古代・中世) (南部晴政の登場と一族間の対立)

三戸南部氏の場合も、安藤氏を十三湊から追放した南部義政の「義」字は、将軍足利義教(または義持)の偏諱を,写真195 三戸古城の図  晴政の時代、南部氏の勢力拡大は糠部郡より南へと進んだ。,目指す出羽の下国安東氏と鹿角地方をめぐり抗争が繰り広げられ、永禄十年、鹿角郡は安東氏に、同十二年には南部氏,しかしながら、三戸南部氏は大きな弱点をその領内に抱えていた。,さらに、三戸南部氏内でも深刻な内部対立が発生する。
通史編1(古代・中世) (奥羽地方の戦国時代)

一方、北奥羽は陸奥北部の南部氏と北出羽の安東氏の二大勢力がそれぞれ勢力を拡張していく。,南部氏は曲折はあったとはいえ津軽地方に勢力を伸ばし、戦国期に入ると南下して北上川流域へとその勢力を伸ばしていく,しかし、一族の八戸南部氏・九戸氏などは三戸南部氏に準じた勢力を保持しており、戦国大名としての支配は不安定,~一五八七)が蝦夷地から北出羽に及ぶ勢力となり、南部氏との間でしばしば鹿角(かづの)・比内(ひない)地域
通史編2(近世1) (北奥羽の領知確定)

津軽氏や南部氏については、現在のところ石高表記の朱印状が確認されていないが、天正十九年の十月までには両氏,また、南部氏の居城が三戸城から天正十九年に蒲生氏郷の普請が加えられた福岡城(現二戸市)に移転され、かつ,南部氏も、戦国末期に獲得した志和(しわ)郡や旧九戸領、和賀・稗貫両郡については知行宛行状を発給していたが,津軽氏が居城を大浦城から、文禄三年に堀越城、慶長十六年に高岡城へと移転させ、南部氏も居城を三戸城から、,、天正十八年から慶長年間にかけて両氏ともに居城を転々と移転させているのは単なる偶然ではなく、津軽氏も南部氏
資料編1(古代・中世編) (二 大浦城の歴史)

義季は南部氏の軍勢に攻められて自殺し、下国惣領家の嫡流は断絶した(『新羅之記録』「下国伊駒安陪姓之家譜,こうした中、安東政季死去より三年後の延徳三年(一四九一)、南部氏の一族・光信が九戸郡下久慈より「大浦・,海からの安東勢力の侵入口である西浜の種里に拠って(「前代歴譜」)、南部氏の前衛の役割を担うことになった,大浦屋形」と称され、津軽の大名の一人として勢力を振るったが(「津軽郡中名字」)、その地位はあくまでも〝南部氏
通史編2(近世1) (伏見滞在と派閥抗争)

「南部修理大夫」「南部中務少輔」は南部氏のだれか不明であるが、「南部大膳大夫」は南部信直のことであり、,南部氏も伏見城下町に屋敷を三棟拝領していたことがわかる。,特に図40Bの地区では、為信と南部氏は街路を挟んでほぼ同じ町内にある。  ,為信は、もとは南部氏の被官であり、戦国末期に独立化を進め、天正十八年七月の奥羽・日の本仕置により南部氏,南部氏も津軽氏も「日本之つき合」を名護屋から今度は伏見城下に移して行わねばならなくなった。  
通史編1(古代・中世) (討幕の論功行賞)

北畠顕家の扱いが、南部氏に厚く曽我氏や安藤氏に薄かったのは事実である。  ,青森市内真部)・湖方(うしおかた)(同後潟)・中沢(なかざわ)(蓬田村中沢)といった外浜の要衝の地が南部氏
通史編1(古代・中世) (為信の離反)

晴政らは、信直支持派の剣吉城主北信愛、浅水城主南慶儀(盛義)を攻め、さらに、七戸氏や八戸南部氏らにも支持,そして、為信は安藤愛季(ちかすえ)や庄内の大宝寺義氏(だいほうじよしうじ)と好みを通じることで南部氏を
通史編1(古代・中世) (工藤氏の活躍)

これらは女加伊寿(南部信政妻)を通じてのちに南部氏に伝領された。
通史編2(近世1) (浅利騒動と津軽氏)

ところがこの八月と決定した秋田氏と南部氏との祝言は、前年から起こっていた浅利騒動によって延期を重ね、翌文禄五年,同九月七日、実季数百騎の軍兵を引率して米代川の辺に出張せり」と記しており、秋田氏はこの時期浅利氏との戦闘で南部氏,すでに信直は秋田氏と名護屋参陣中に盟約を交わし、祝言の約束を取り交わしており、この為信の対応は、南部氏
通史編1(古代・中世) (応永十八年の衝突)

つまり、奥州探題体制が及ぶのは、南奥羽から南部氏の本拠である糠部郡までで、夷島・津軽・秋田という地域は,南部氏への葛西氏の支援は、奥州探題体制側からの支援であったということができよう。
資料編1(古代・中世編) (一 東目屋地区の中世城館と領主の歴史)

十二人屋形城衆とは近世の「関家文書」などに見えるもので、十五世紀半ばの文明年中(一四六九~八七)、南部氏,そして戦国時代末期、大浦為信が南部氏からの独立を目指して行動を始めると、彼ら中小の領主(土豪)たちは、
通史編2(近世1) (北奥羽の大名の動向)

北奥羽の大名の動向 まず、南部氏についてみてゆくことにしよう。,また、これより少し前の天正十五年四月、利家は、南部氏からの要請で、田名部(たなぶ)から逃れた船を見つけ,にさらされていた仙北(せんぼく)の本堂道親(ほんどうみちちか)も、豊臣勢の出羽出動に期待し、その情報を南部氏
通史編1(古代・中世) (東目屋地域に見られる城館跡)

戦国時代末期に大浦為信が南部氏からの独立を目指して行動を起こすと、東目屋地域の土豪(中小領主)たちは、,十二人屋形城衆とは近世の「関家文書」などに見えるもので、一五世紀中葉の文明年中(一四六九~八七)、南部氏
通史編2(近世1) (津軽地域の確保と蝦夷荒)

大浦氏は、南部氏との間での飯詰(現五所川原市)「伐取(きりとり)」の過程の中で、そこに居住していた「狄,大浦氏は、南部氏との間で土地の「取り合」と「伐取」を繰り広げ、そこで「伐取」した地域には、町立を行うといった
通史編2(近世1) (大浦城の構造)

図24.大浦城・城下町跡の航空写真  大浦の地は、津軽氏が戦国期以来南部氏との抗争の過程で、その,津軽家の一門・重臣である兼平・一町田両氏などの発祥の地とされる地名や村名が存在し、在地領主を糾合して南部氏
資料編1(古代・中世編) ([十五世紀])

奥州の南部氏もこれに同心するという。,●永享四年(一四三二)十月、下国安藤氏、南部氏に敗れ蝦夷島に敗走。幕府、調停に乗り出す。,●康正二年(一四五六)、この年、秋田湊氏と南部氏が抗争し、北奥羽の動乱におよぶという。,南部氏あてに幕府過書が出される。,奥州の歴史のほか、南部氏の動向、一宮塩竈社領の分布、奥州管領の糠部支配の記事が見える。
通史編1(古代・中世) (得宗領の分割)

得宗領の分割 県下の鎌倉武士たちについては、室町期になって南部氏が入手した曽我氏関係の古文書が多数残
通史編1(古代・中世) (本城(根城)の城館跡)

ちなみに南部安信・高信による津軽平定と石川城への拠城は、南部氏の領国支配強化政策の中で行われたものである
通史編2(近世1) (九戸一揆の始まり)

九戸一揆の始まり 奥羽の各地で一揆が勃発するなか、天正十九年正月、南部氏の居城三戸城では恒例の年賀の,四月十三日に出発した利直は、北国海運によって京へ向かい、五月二十八日に上洛、翌二十九日に南部氏の取次である
通史編1(古代・中世) (下国伊駒安陪姓之家譜)

写真127 下国伊駒安陪姓之家譜  とくに南部氏との抗争について、この家譜にしかみられない記述があることが
通史編1(古代・中世) (刈田・放火)

津軽領内の文献史料ではないが、南部氏側史料「東政勝(ひがしまさかつ)書状写」(史料九八五)の中に元亀年間
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

[十六世紀] ●文亀二年(一五〇二)、この年、南部氏、藤崎・大光寺城を攻め安東教季没落するという。,●永禄十年(一五六七)二月、南部氏、藤崎城を修築するという。 ●永禄十年(一五六七)ころ? ,●元亀年間(一五七〇~七二)ころ、南部氏、晴政・信直の継嗣問題をめぐって内訌。,(南部氏側にこの記録なし。また「津軽一統志」は南部勢の出陣を翌元亀三年とする)。 ●元亀三年?,大光寺城もこのころまでに南部氏側に奪回された模様。
通史編1(古代・中世) (津軽奪還を目指して)

このことから、師季の保護は、南部氏が十三湊安藤氏にかわる安東(この時期に「安藤」から「安東」に氏の表記,ての前信濃守孝安書状には、奥州の情勢が安定したことを賀す文言がある(史料八〇四)ことから、室町幕府が南部氏
通史編2(近世1) (豊臣再仕置軍の奥州下向)

この朱印状の宛所がそれ以前の「南部右京亮」から「津軽右京亮」に切り替えられていることは、秀吉が為信を南部氏,、いまだ独立的気運を持っていた八戸氏と東氏に九戸一揆鎮圧に精力を傾けるよう督励する一方で、伊達政宗に南部氏,朱印状には南部家中の「逆意(ぎゃくい)」を企てた者を成敗するよう指示されていたが、もともと為信自身が南部氏,に対し「逆意」を企て南部氏の領土を割(さ)きとるかたちで独立し、また九戸政実が為信と連合していたことを
通史編1(古代・中世) (十三湊空白の百年)

これまでは、「南部氏に攻められた安藤氏が逃散したために、湊機能も失われた」などと推定していた。
通史編1(古代・中世) (大浦氏の城下町建設の流れ)

するきっかけは、西海岸の掌握と西浜の南方にある安東氏に備えて、大浦為信(ためのぶ)の祖父に当たる久慈南部氏
通史編1(古代・中世) (藤崎城と中世都市)

いずれにしても十三湊安藤氏が没落しても、その後も津軽の地には安藤(安東)氏の庶子系が生き残って、南部氏,そのようなことから推察すると、一六世紀前半に藤崎安藤氏が滅亡した後も、藤崎城は「番城(ばんじろ)」として、南部氏
資料編1(古代・中世編) (五 縄張りからの問題点)

第二に、南部高信時代の石川城の中心部、すなわち南部氏の津軽支配の政庁はどこかであるが、城郭の縄張りから
資料編1(考古編) (4.15世紀の様相)

4.15世紀の様相 15世紀の前半は津軽安藤氏の最盛期と考えられる時期、後半は南部氏の支配が広がる時期
通史編2(近世1) (外浜の掌握と開発)

すなわち、大浦氏にとって外浜東部は、開発と対南部氏という軍事的な備えとが同居する地域であった。
通史編1(古代・中世) (堀越城・石川城を中心とした城館群)

堀越城・石川城を中心とした城館群 堀越城と石川城を中心とした城館群のネットワークについては、まず南部氏,このように当市域の南側に位置する石川地区は南部氏にとっても、また大浦氏にとっても非常に重要な場所であった
通史編2(近世1) (知行安堵)

そして、境を接する南部氏についても同じである。,表1 北奥羽大名の領知高(万石以上) 史   料   名 南部氏 津軽氏 秋田氏 小野寺氏 戸沢氏
通史編1(古代・中世) (安藤高季の活躍)

することはできないが、このように正直に申告したのであるから、きっと国方に忠節を尽くすつもりであろう」とし、南部氏
通史編1(古代・中世) (安藤愛季の津軽侵略)

為信は安藤勢との戦いという苦境のなかで、南部氏に降伏を余儀なくされ、和約を結んだ可能性があるという。
資料編1(古代・中世編) ((1) 南北朝時代の「堀越楯」)

津軽における南北両党の合戦はその後も続き、十四世紀後半に津軽曽我氏は南部氏によって滅ぼされるが、「堀越楯
通史編2(近世1) (中世の比内浅利氏)

また、かつての湊城主茂季(しげすえ)の子湊九郎通季(みちすえ)(高季)もこの機に南部氏・戸沢氏らの支援
通史編2(近世1) (中世の北国海運)

このうち、田名部湊は室町期に開かれたといわれるが、具体像が明らかになるのは近世初頭で、酒田・敦賀の廻船が南部氏,南部氏との抗争により安藤氏が北海道に退転したことにより、十三湊が北方の貿易港としての役割をいくつかの港
通史編3(近世2) (藩政前期為信)

為信は慶長五年(一六〇〇)に関ヶ原の戦いに出陣したが、このころは南部氏との抗争も影をひそめ、津軽地方を
資料編1(古代・中世編) (二 本章で取り上げる中世城館跡)

南北朝時代初期、北条氏与党勢力が建武政府に対する反乱を起こした時の拠点となり、戦国時代には南部高信が入部して、南部氏,これらはいずれも、南部氏・大浦(津軽)氏が領国支配の拠点としたものであり、居住・軍事機能を合わせ持った
通史編2(近世1) (伏見作事板の運上と太閤蔵入地)

なお、南部氏も秀吉から伏見作事板の運上を下命されている。,は設定されておらず、秀吉政権は太閤蔵入地を領内に設定した秋田・仙北・由利・津軽の大名らとは別に、直接南部氏
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