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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (烏帽子山紛争)

)、南部領は馬門(まかど)村(現上北郡野辺地町馬門周辺)とする大まかな領境設定が行われていた(同前No,この言葉は、山の入会権をめぐって黒石津軽領狩場沢村と南部領馬門村の間に対立が起こり、それが津軽弘前藩と,この争いが津軽・南部領境紛争として有名な「烏帽子山(えぼしやま)紛争」である。,津軽・南部領境上に存在し、付近の南部領の領民が入り、薪・木材・秣などを得ていた。  ,津軽弘前藩の役人から隣領盛岡藩の役人に対して、烏帽子山の一峰、津軽領堀指(ほりさし)山(現平内町)付近に南部領
通史編2(近世1) (九戸一揆の意義)

九戸一揆の意義 九戸一揆鎮圧後、しばらく浅野長吉や蒲生氏郷らの仕置軍は南部領に駐留し、逃散した百姓の,天正十八年の奥羽仕置では検地等の直接的仕置はなされなかったが、この再仕置によって南部領にも直接的に秀吉,九戸一揆鎮圧後の動揺の中で、為信の家臣が南部領へ侵入するという危機感が当時はあったのであるが、この際にも
通史編2(近世1) (厄介視される預手形)

十月二十九日には、預手形の贋板木(にせいたぎ)を作った侍が入牢の処分を受けているし、南部領でも偽札が出回,り、これにかかわった南部領と弘前の男二人が入牢となっている(資料近世2No.一二九)。
通史編2(近世1) (九戸一揆の鎮圧)

九月一日、家康より派遣された井伊直政(いいなおまさ)を含む仕置奉行の堀尾吉晴・浅野長吉・蒲生氏郷らはついに南部領,じょうほうじ)より仙北の小野寺義道・秋田実季・仁賀保勝利らが、そして津軽為信と蠣崎慶広(かきざきよしひろ)は南部領
通史編2(近世1) (北奥羽の領知確定)

このような中で、津軽・南部領境が文禄四年に確定していく(同前No.六二)。  ,津軽領には太閤蔵入地が設定され、この太閤蔵入地からの年貢米を敦賀の豪商組屋(くみや)源四郎に命じて南部領,津軽の米が、浅野長吉により組屋を通じて南部領に売却されていることは、津軽領も南部領も政権からすれば一括
通史編2(近世1) (城破(わ)り)

戸沢光盛領の出羽山本・平賀・仙北三郡では、光盛居城の角館(かくのだて)一城だけが残されたと伝えられるが、南部領,また、南部領では、天正二十年(一五九二)六月十一日、領内の諸城の破却の状況を書き上げているが(「聞老遺事,南部領でも、天正十八年七月二十七日の破却の指令が直ちに実施に移されたとは考えられない。
通史編2(近世1) (陸上交通網の整備)

~浪岡~新城(しんじょう)~油川(あぶらかわ)~青森~浅虫~小湊(こみなと)~狩場沢(かりばさわ)~南部領,正保国絵図では、①の秋田領境は「秋田領八森村江出本道」、南部領への道には「南部江出本道」、②の秋田領への
通史編2(近世1) (九戸一揆の背景)

豊臣秀吉はこのような状況に対し、天正十八年七月から行われた奥羽仕置の際に、和賀・稗貫・南部領の仕置については,なお、南部領は検地等の直接的仕置は受けなかったが、長吉は信直の家臣の中で帰服しないものがある旨を聞き、
通史編1(古代・中世) (為信の離反)

そのような南部領国の混乱のさなか、元亀二年(一五七一)五月、大浦為信(写真197)は反旗を翻(ひるがえ
通史編2(近世1) (帝政ロシアの南下)

延享元年(一七四四)に漂着した南部領佐井(さい)村(現下北郡佐井村)の船乗り、三之助(佐之助ともいう)
資料編2(近世編1) (【解説】)

第四代藩主津軽信政の時期から藩政後期にかけての期間を取り扱い、地域的には津軽領及び江戸、大坂、日本海沿岸地域や近隣の南部領,さらに海運のみならず、近隣の南部領や秋田領との陸上交通(街道)における商品流通の実態を示す史料なども掲載
通史編2(近世1) (伏見作事板の運上と太閤蔵入地)

図31.南部信直へ杉板伐採と廻漕を命じる豊臣秀吉朱印状  このように南部信直は、秋田・津軽・南部領内,また、前年の慶長二年(一五九七)には秋田山で伐採したものが、この年は秋田・津軽・南部領のどの山でも伐採,南部領には太閤蔵入地は設定されておらず、秀吉政権は太閤蔵入地を領内に設定した秋田・仙北・由利・津軽の大名
通史編2(近世1) (信枚の築城)

もりやまくらのすけ)に命じて、外浜(そとがはま)の小国(おぐに)・蟹田(現東津軽郡蟹田町小国と蟹田)において、南部領
通史編2(近世1) (天明六年以降の飢饉)

天保七年の飢饉は全体に太平洋側の被害がひどく、秋田へは仙台・南部領からも多く飢民が流入した。
通史編2(近世1) (蝦夷地への人口流出)

幕府は蝦夷地警備の人員はもちろん、開発の労働力も津軽領・南部領に頼っており、藩も領民の蝦夷地渡航に表向
通史編2(近世1) (漆以外の国産品)

南部領では馬は重要な国産品であったが、津軽領では産業としての馬産はふるわなかった。  
通史編2(近世1) (九戸一揆の始まり)

すでに豊臣政権によって信直が南部領の正式な大名として認定されているとはいえ、宗家の信直をしのぐほどの実力
通史編2(近世1) (浅利騒動の停戦命令)

この時秀吉は、かつて南部領の九戸一揆鎮圧以来、日本国中は私戦が堅く禁止されていたにもかかわらず、このような
通史編2(近世1) (刀狩り)

さらに、この「南部境目」より北の地域については、文禄元年(一五九二)十二月、南部領では一戸(いちのへ)
通史編2(近世1) (鉱山の開発)

このころ、越前国今庄(いまじょう)(現福井県今庄町)の出身で、南部領田名部(現むつ市)にいた足羽(あすわ
通史編2(近世1) (幕府の蝦夷地政策)

殺害された者のなかには、津軽領三人、南部領下北出身者が四〇人も含まれていた。,特に青森もしくは三厩が候補地として挙げられ、津軽領・南部領のうち三〇〇〇~四〇〇〇石の村替えが同時に企図
通史編2(近世1) (津軽領内のアイヌ民族)

北海道地方を除き、近世国家においてアイヌ民族の居住が確認されるのは、津軽領の津軽・夏泊両半島、そして南部領
資料編2(近世編1) (【解説】)

津軽領全域を主たる対象とし、藩政確立期の動向を中心に、江戸、大坂、京都、日本海沿岸地域の各地及び近隣の南部領
通史編2(近世1) (知行安堵と検地)

いずれにしても、ここには津軽郡が含まれず、為信が津軽郡を安堵されていたからということにはなるが、津軽領と南部領
通史編1(古代・中世) (南部晴政の登場と一族間の対立)

南部領国は分裂し、混乱状態に陥っていたようである。
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●文禄四年(一五九五)三月二十七日、豊臣秀吉、南部信直へ朱印状を下し、秋田・津軽・南部領内で材木を伐採,●文禄四年(一五九五)、この年、南部領と津軽領の境界を二本股と苅場沢に決定するという。,●正保二年(一六四五)九月十九日、盛岡藩、津軽牢人工藤氏の南部領入国を認める。,●慶安三年(一六五〇)四月十八日、津軽領より南部領へ帰参百姓あり。,●慶安四年(一六五一)九月九日、遊行上人、領内鰺ヶ沢へ至り、弘前・青森を経由して南部領へ赴く。
通史編2(近世1) (中世の北国海運)

近世初頭で、酒田・敦賀の廻船が南部氏の船宿・御用達金調達・領主荷の廻漕などを担当し、その代わりとして南部領諸湊
通史編3(近世2) (戦局の推移と戦費負担の増加)

しかし、戦闘はすぐに停止したわけではなく、南部領毛馬内(けまない)方面では弘前藩の侵攻が続いた。
通史編2(近世1) (旅行者のみた領内海防)

彼は翌日、小湊(こみなと)、狩場沢(かりばさわ)を経て南部領へと抜けている。
資料編2(近世編1) (【解説】)

領主津軽氏と全国政権との関係動向などを視野に入れて、江戸・大坂・京都、蝦夷地、日本海沿岸地域の各地、隣領の南部領
通史編1(古代・中世) (二 津軽の修験道と神社)

因(ちな)みにいえば、南部領に本山派が多く、津軽領に当山派が多いのは、地域的な特性を考える上で興味深い
通史編2(近世1) (豊臣再仕置軍の奥州下向)

、大崎・葛西一揆を六月までに自らの兵で鎮圧することに成功した伊達政宗も、天正十八年以来、和賀・稗貫・南部領
通史編2(近世1) (信政晩年の藩政)

「津軽風説書」とあるように、南部領内に伝わった津軽領の風聞をまとめたものであるが、それによれば、瀧川の
通史編2(近世1) (伏見滞在と派閥抗争)

南部領には三成ら集権派の手はついに入ることはなく、利家を取次とした南部氏は一定の独立性(自分仕置権)を
通史編2(近世1) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

弘前市 海蔵寺蔵 111 鳥帽子山材木ニ付津軽ヨリ来状 盛岡市中央公民館蔵 112 津軽領平内村と南部領馬門村山論御裁許御裏印絵図
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

南部信直、津軽より南部領への引揚げ者に対する対策を指示する。
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

南部信直、津軽より南部領への引揚げ者に対する対策を指示する。
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