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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (城門番所の警備)

廃藩当時には、追手門(現存)・西坂門、二の丸の内南門(現存)・内東門(現存)・内北門(賀田門)、西の郭,の埋門(うずみもん)、内北の郭の東門、三の丸の外東門(現存)、本丸の武者門・南門・北門、四の郭の外北門
通史編3(近世2) (瓦の利用)

各丸の城門については二の丸の南門(現南内門)と東門(現東内門)、三の丸の南門(大手門とも表記。,「国日記」での初見は二の丸東門と南門で、天和三年(一六八三)七月六日条にみられる。,その後、三の丸南門、次いで東門と続き、四の丸北門は元禄十四年(一七〇一)に認められる。
通史編2(近世1) (城下高岡の形成)

さらに丑寅(うしとら)櫓・辰巳(たつみ)櫓・未申(ひつじさる)櫓と東門・南門が描かれており、いずれも現存,当時は二の丸と三の丸を結ぶ通路は東門(二の丸東門)と南門(二の丸南門)を通る二つだけであったが、現在は,門は東門(三の丸東門)・南門(三の丸追手門)および三の丸と四の郭(北の郭)の間にある和徳堰の南にあった
資料編3(近世編2) (3 現存する天守・城門等の考察)

二の丸南門   脇戸付き櫓門   銅瓦葺    二の丸東門   脇戸付き櫓門   銅瓦葺    三,十七世紀後半以降は搦手門であるが、築城当初は追手門であったとされ、その後、碇ヶ関に通じる道が開かれて、三ノ郭南門,図11 二の丸南門 立面図・平面図 (『重要文化財弘前城修理工事報告書』より転載) 図12
通史編3(近世2) (幕末の政情と近衛警備)

続いて承昭は十五日に会津容保(あいづかたもり)に替わって御所の南門警備の朝命を拝受し、二十一日に参内(
通史編3(近世2) (三 八幡宮の祭礼と山車の運行)

田茂木・亀甲町より外北門(亀甲門)から城内へ入り、賀田門より三の丸へ入り、東内門から二の丸へ入り、外南門
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●寛永十四年(一六三七)、この年、津軽信吉の弟津軽信隆の屋敷、城の南門の付近に建築を許され、信隆、盛岡采女
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