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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(伏見滞在と派閥抗争)
図38.徳川家康画像 すでに名護屋在陣において、南部信直は天正十五年以来一貫して
取次
として接点,日本之つき合」のため、あるいは「上衆」に「なふり心」にされないためにすがり、一方津軽為信は徳川家康を
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,津軽為信は、有力大名である利家にも
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を依頼しようとしていたが「表裏之仁」と評され、さらに政権を支える,つまり、「御前之衆」は秀吉と大名との間に立ってその意向を伝える
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であり、その
取次
を行う相手は秋田氏と,隣郡之衆」であったが、この「隣郡之衆」の中心である秋田実季に対して伏見作事板にかかわる秀吉の朱印状の
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通史編2(近世1)
(浅利騒動の停戦命令)
特に浅野長吉については、浅利氏はすでに前年に誓紙を提出して
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を依頼していたのである。,前田利家は、豊臣政権内にあって分権派の中心であり、浅利氏は政権内の分権派の中心である有力大名浅野・前田氏を
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,秋田氏に対する擁護は、秋田氏を支えることによって杉板の円滑な徴収を実現するためであり、当時の
取次
とは政権,実季は、文禄期から慶長初年にかけて秀吉に頻繁に呉服・白鳥を贈っているが、その
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を果たしたのは秀吉の右筆山中長俊,(やまなかながとし)と長束正家であり、秋田氏はこれら秀吉の側近や奉行衆らを
取次
として秀吉からの領有権保障
通史編2(近世1)
(名護屋における「日本之つき合」)
これに乗じて津軽氏も彼らと「入魂」になりたいと思い、徳川家康に
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を依頼したが、家康がその斡旋(あっせん,)のため信直の
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を果たしている前田利家の所へ行ったところ、前田利家は、南部は自分の力でどうにでもなるが,つまり、為信は政権の中枢にある利家を
取次
として依頼しようと考えていたのであるが、為信はかえってそれに失敗,し、利家だけでなく政権の有力な
取次
を果たしていた浅野長吉とも関係を悪化させていったのである。 ,信直は西国大名らと陣屋を接し、長期にわたって「日本之つき合」に配慮していかなければならず、ただひとり
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通史編2(近世1)
(北奥羽の領知確定)
〇)の奥羽の仕置後も奥羽の大名の領国支配維持を担当し、また、文禄二年に秀吉から朱印状によって南部氏の
取次
,
取次
は、政権の政策を大名に浸透させ、また大名から政権への
取次
を果たしつつ、最終的には政権に大名を従属させることを
通史編2(近世1)
(豊臣政権の奉行衆)
が大きく影響していたのであり、太閤蔵入地からの収入によって廻漕される伏見作事板にかかわる秀吉朱印状の
取次
通史編3(近世2)
(青森商社の設立)
その後、商社組織は順次固められて行き、青森に本局が、弘前に
取次
所が設置され、六月十六日に青森では頭取に
通史編2(近世1)
(九戸一揆の始まり)
四月十三日に出発した利直は、北国海運によって京へ向かい、五月二十八日に上洛、翌二十九日に南部氏の
取次
である
通史編3(近世2)
(神事能)
一七一一)の「町支配分限帳」(長谷川成一編『弘前城下史料』上 一九八六年 北方新社刊)には、地謡と役者
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通史編2(近世1)
(九戸一揆の背景)
秀吉は、浅野長吉を政権の「
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(とりつぎ)」として、信直の領国支配を支え近世大名として存続できるよう保障
通史編5(近・現代2)
(供出と配給)
弘前市の場合、その
取次
会社に角弘鋼鉄店が当たった。
通史編2(近世1)
(豊臣再仕置軍の奥州下向)
浅野長吉は、天正十八年七月の奥羽仕置以後も一貫して信直に対する
取次
を果たす一方で、今度の再仕置においても
通史編2(近世1)
(寛文蝦夷蜂起と津軽弘前藩)
つまり幕府は、津軽家が幕府に対して意向を申し入れる際の
取次
として利房を指名したことになる。
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