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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) ((三)主要人物)

仙台に潜伏した後に、四代藩主津軽信政に召し抱えられ、当田半兵衛と改名した。,天和二年(一六八二)信政に召し抱えられ、元禄十二年(一六九九)一五〇石を賜った。,宝蔵院覚禅法印胤宗(ほうぞういんかくぜんほういんたねむね)の高弟で、四代藩主信政の時に召し抱えられ、宝蔵院流槍術,元禄十五年(一七〇二)江戸で四代藩主信政に召し抱えられ、正徳二年(一七一二)に再び本名に改め、多くの門人,初代藩主津軽為信に慶長二年(一五九七)召し抱えられ、鉄炮役を仰せつけられた。
通史編2(近世1) (町支配の役人)

表29によると、為信の代に召し抱えられた者の先祖は、近江・山城といった近畿地方の出身者が多く、彼らは、,また、万治三年(一六六〇)に召し抱えられたという本城出身の者は細矢といい、この細矢家は、代々出羽国本城
通史編3(近世2) (斎藤規房)

信政時代に諸礼師範として召し抱えられた斎藤規隆の四代目に当たる斎藤規房(のりふさ)(一七六九~一八三九,その後弘前に帰り、寺子屋を開いたが、文化六年(一八〇九)再び召し抱えられて、同十年十月には国学師範を命
通史編3(近世2) (津軽における漆工芸の起点)

藩政成立期ころの漆工芸は、藩主が召し抱えた塗師(ぬし)や蒔絵師(まきえし)が、藩主の調度の製作、武具・,から大野山六郎左衛門、大江宇右衛門、池田源兵衛らの塗師と蒔絵師山野井四郎右衛門、梅原十兵衛らを新規に召し,抱えた。
通史編2(近世1) (「出頭人」の台頭)

一方、後見役であった信英の素行に対する傾倒は、寛文元年、旗本山口直治を通して、津軽家召し抱えを申し出たり,け、延宝三年(一六七五)素行が赦免されると、親交はいよいよ深まるとともに、津軽家に素行の一族や門人が召し,この四人の家老は藩成立時の譜代重臣層の家系ではなく、藩成立以後、新規に召し抱えられて重臣層にまで到達した,しかし、信政時代の家老はこれまで藩主家の血統につながる一門衆からは登用されず、藩の成立以降召し抱えられてきた,翌延宝九年一月十一日、国元において興信は召し抱えのうえ、家老に任じられ、知行一〇〇〇石を与えられた。
通史編3(近世2) (桐山正哲)

桐山家は初代が信政時代に儒官として召し抱えられ、二代目から藩医として仕えた。
通史編3(近世2) (信寿・信著・信寧時代)

図162.建部綾足像  六代信著の治世には、五井蘭洲(ごいらんしゅう)が召し抱えられた以外に文教面,を務めていた蘭洲は、享保十二年(一七二七)に江戸に出て、同十七年江戸屋敷において御手廻格三〇人扶持で召し,抱えられた。,また儒者戸沢半左衛門惟顕を一五〇石で召し抱え講釈をさせた。
通史編3(近世2) (信政)

素行の娘婿岡八郎左衛門を家臣として召し抱えたが、子孫は津軽山鹿家を形成した。,惟足の内弟子北川新次郎(金右衛門正種、また武左衛門)を二〇〇石で召し抱え、六代信寿の嫡男信興(のぶおき
通史編2(近世1) (越後高田領検地の実施)

○印は高田検地につき,新規召し抱えられた者。△印は高田検地下命前の召し抱え。  ,さらに、派遣役人の一部は、この検地役が命じられてから津軽家に新たに召し抱えられた。,財津・田口とも当藩における検地・財政の巧者として知られるが、彼らが召し抱えられたのは、田口が三月二十六日,江戸から派遣された算者五人全員、竿奉行は九人のうち三人、江戸から派遣された物書一〇人のうち七人が新規に召し,このような召し抱えは大名課役負担のために駆け込みで有能な実務型の人員を揃えたという見方もできるが、一方
通史編3(近世2) (織)

されているほか、茶道役としての誓詞を差し出しており(元禄七年六月六日条)、これらの記述から茶道指南のために召し,抱えられたことは明らかである。,両人の召し抱えは、野本道玄のかねてからの上申によるもので、織座を取り立て、領内における養蚕と絹織の指導
通史編2(近世1) (町年寄の由緒)

表29 弘前における町支配担当者の由緒 町支配の職 出身 召し抱え時点 高 扶 持 拝 領 時 町年寄
通史編3(近世2) (他領から技術を導入)

は、江戸で陣笠作りを学び、さらに有名な具足師岩井与兵衛のところで修業を終え、寛永十二年(一六三五)に召し,抱えられた。  
通史編3(近世2) (喜多村校尉政方)

喜多村校尉政方 津軽信政が山鹿素行に師事し、素行の弟子を多く召し抱えたことから、素行の学問・思想が藩内
通史編3(近世2) ((一)概要)

四代信政(のぶまさ)に召し抱えられた北川正種(きたかわまさたね)は吉川惟足(よしかわこれたり)の門下で
通史編3(近世2) (キリシタン改め)

また、藩士が召し抱える又者(またもの)(陪臣(ばいしん))のキリシタン改めを命じている。
通史編3(近世2) (神事能)

『奥富士物語』には多くの能役者・地謡・囃方の名前が挙げられており、信政が能太夫に日吉権太夫を召し抱える
通史編3(近世2) (城下の隠売女)

幕末の嘉永五年(一八五二)閏二月と翌年十二月には、近ごろ有力な町人が妾などを召し抱えて風紀を乱し、また
通史編2(近世1) (乳井貢と先行思想)

加えて素行の門人磯谷十助が延宝五年に本藩に取り立てられたのをはじめ、素行門人が少なからず藩に召し抱えられた
通史編3(近世2) (信政の文治)

瀬戸物、屋根葺、車牛遣、庭師、鷹匠、具足師、鍛冶師、弓師、矢師等々、生活全般の領域に及んで技能者が多数召し,抱えられた。
通史編3(近世2) (江戸勤番と生活)

という中間(ちゅうげん)(下男・草履取・奴(やっこ)などと呼ばれた下級従者)を、このたびは津軽左衛門が召し,抱えてお供に連れて歩いていると、小倉作左衛門へ話した。,そこで彼が、その間の事情を溝口兵左衛門を通して津軽左衛門へ話すと、左衛門はまったく知らずに召し抱えたもので
通史編3(近世2) (信政の教養)

加えて素行の門人磯谷十助が延宝五年に藩士にとりたてられたのをはじめ、素行門人が少なからず藩に召し抱えられた
通史編2(近世1) (幕末期の海防体制)

また嘉永四年(一八五一)には家中に剣術師範がいないために本藩藩士対馬覚蔵の弟忠蔵を召し抱えるなど、海防
通史編2(近世1) (浅利騒動の停戦命令)

(1)実季は浅利頼平を再度家臣として召し抱えること。
通史編2(近世1) (野本道玄の招聘)

図99.野本道玄召し抱えの江戸日記記事 目録を見る 精細画像で見る  道玄招聘の主な目的が彼の
通史編2(近世1) (慶安二年の「弘前古御絵図」)

しかも、多くは為信の代に召し抱えられたという。
通史編2(近世1) (浅利頼平の比内帰還)

知行は安東氏で支配していたが、その後、津軽氏からの度重なる申し出により浅利氏の旧領を頼平に返付し家臣に召し,抱えた。
通史編3(近世2) (稽古館の儒学者たち)

慶助の弟勘助は江戸留学中優れたるをもって支藩黒石侯に召し抱えられ、家老に昇進した。  
通史編2(近世1) (舟橋騒動)

慶長十七年(一六一二)高坂蔵人(くらんど)の乱(同前No.三〇二)後に、江戸で召し抱えられた家臣であった
通史編3(近世2) (信明の学校構想)

戸沢維顕は祖州と号し、また嚮館と称し、寛延三年(一七五〇)六月藩に儒臣として召し抱えられた。
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