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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(領内海防と台場の構築)
領内海防と
台場
の構築 津軽弘前藩は、蝦夷地警衛などに当たった実績と、その影響によって、同様の境遇にあった,同年十一月、領分の「肝要の場所」に
台場
を設置することが命じられた。,この
台場
設置は、先に松前に出張し、その後領内沿岸を巡視した幕府大目付中川忠英(なかがわただてる)の示唆,しかし、これらの
台場
に配置された大筒の数・種別をみると、まだ一貫目木砲が主体であった(原前掲書、表49,表49 文化5年の津軽領大筒
台場
五 貫 目 筒 三 貫 目 筒 二 貫 目 筒 / 領内海防と
台場
の構築
通史編2(近世1)
(海防報告書にみる天保期の海防体制)
1 2 深 浦 10 10 深浦
台場
1 2 金井ヶ沢村
台塲
1 2 鯵ヶ沢,10 25 鯵ヶ沢
台場
3 十 三 10 15 十三
台場
3 小泊浦番所,5 小泊七ツ石崎
台場
4 龍浜崎
台場
1 4 三 厩 5 今 別,10 袰月鷹野崎
台場
4 平舘浦番所 5 蟹 田 10 蟹田
台場
1,表52 津軽領内の大筒
台場
と人員・装備(天保14年3月調べ)
台場
名 大 炮 役 大 炮 役
通史編2(近世1)
(旅行者のみた領内海防)
この砲台は、小泊七ツ石崎
台場
のことかと思われる。,その道中津軽領を通過しており、道々、
台場
などを視察している。 ,竜飛岬の
台場
の見分には三厩から船で赴き、上陸して岬の急坂を上って
台場
に着いている。,こちらでも二発撃たせたが、作業手順は竜飛岬の
台場
より手慣れていたという。,村垣・堀は、直ちに
台場
の見分に移った。
通史編3(近世2)
(箱館の攻防)
の進攻に足並みをそろえ、朝陽と丁卯が七重浜沖へ向い、甲鉄・春日は輸送船箱館攻撃部隊を乗せた豊安・弁天
台場
,(べんてんだいば)攻撃部隊(弘前藩兵を含む)を乗せた飛龍とともに弁天
台場
を目指し、陽春が箱館への攻撃のため,千代田形を座礁させて失い、また五月七日、回天も機関を攻撃され、軍艦としての機能を停止したために単なる
台場
,一時はこれにより旧幕府軍の勢いが盛り返したが、青森から延年も到着し、丁卯とともに蟠龍を追い、同艦を弁天
台場
付近,また甲鉄とともに乗り込んだ奇襲部隊も箱館を占拠し、浮
台場
となって砲撃を続ける回天を陽春とともに攻撃したため
通史編3(近世2)
(矢不来の戦い)
旧幕府軍は土方歳三の指揮のもとで、
台場
山を本陣、天狗岳(てんぐだけ)を前衛として守りについた。,天狗岳から本陣のある
台場
近くまで進んだ政府軍と旧幕府軍の間では激しい銃撃戦となる。,進軍には加わるものの大きな武功を逃していた弘前藩では、この日の戦いで三中隊が出撃をし、矢不来等の
台場
を
通史編2(近世1)
(幕末期の海防体制)
幕末期の海防体制 藩では嘉永年間以降、
台場
(だいば)設置、西洋流砲術の導入と銃砲・武器類の鋳造・購入,弘化四年・嘉永元年と相次いだ異国人上陸事件を契機として、藩では幕府に対し、平舘村に陣屋(じんや)と
台場
一,ヵ所、藤島村に
台場
一ヵ所の取り立てを願い出た。,また、安政五年(一八五八)四月には、三厩の「御仮屋下通り」に新たに
台場
が設置された(『記類』下)。
資料編3(近世編2)
([口絵])
(本文史料四一四号) 東夷茗話 平尾魯仙筆(弘前市立図書館蔵一般郷土資料) 平舘
台場
跡
通史編2(近世1)
(安政期の蝦夷地警備と交通問題)
も強化しなければならず、従来の三厩(みんまや)・竜飛(たっぴ)・小泊(こどまり)・袰月(ほろづき)の
台場
,の他にも平舘(たいらだて)(現東津軽郡平舘村)に西洋流の
台場
と陣屋を、藤島(ふじしま)(現同郡三厩村),にも
台場
と陣屋を築造した。,もちろん、これらの
台場
や陣屋にも相応の人数と武器を配置しなければならず、軍事訓練から兵站(へいたん)までの
通史編3(近世2)
(松前城の恢復)
旧幕府軍は折戸(おりと)の
台場
で必死の防戦を行ったが、長州藩・徳山藩の働きが大きく、ついに松前城を恢復
通史編2(近世1)
(東西蝦夷地直轄下の勤番体制)
なお、文化十二年以降、警衛体制が大幅に縮小され、警衛地も松前一ヵ所と
台場
(だいば)の守衛に限定された。
通史編2(近世1)
(二度の高直り)
さらに、弘前城内外の補強、海岸での
台場
(だいば)の建設、武器の製造、軍事調練などにも、大金が必要であった
通史編2(近世1)
(参勤交代路と街道の状況)
図85.旧松前街道(平舘
台場
跡付近)の松並木 現在、「松原」の地名が各地に点在するが、かつての
通史編3(近世2)
(改革開始以前の状況)
こうした状況に危機感を強めた藩では、沿岸の要地に遠見番屋(とおみばんや)や大砲
台場
を築き、盛んに大砲の
通史編5(近・現代2)
(伊東梅軒)
安政三年(一八五六)から五年まで三厩
台場
の建設にかかわった。
通史編2(近世1)
(負担の増大による民衆の困窮)
このほか、沿岸警備においても、
台場
の築造や陣屋建設に伴う労力負担や陣屋詰めの藩士たちへの賄いの提供が、
通史編2(近世1)
(開国と箱館警備)
幕末外国関係文書』七 補遺之部)では、本格的な警衛体制が確立するまで、当分は松前家に従来どおりの「
台場
御固
通史編2(近世1)
(文化~文政期の藩財政)
なお、その後はしだいに減少し、松前や吉岡
台場
など渡島(おしま)半島部に勤番地が縮小された文化十二年(一八一五
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