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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (弘前藩の副藩主)

一六五六)、津軽弘前藩主四代信政の襲封(しゅうほう)に伴い、その後見役として発足した黒石津軽家は、本家名代,名代を命じられた直接的理由は、弘前藩主が病気等の理由で身動きのとれない時に依頼するのであり、黒石藩成立後,、天保四年(一八三三)十月の名代を除いて、すべて弘前藩主が江戸在府中に名代を勤めており、黒石藩主は在国,これは藩主名代としての役割を、明確に位置づけるものであった。,期待できない場合の名代であった。  
通史編2(近世1) (飢饉のその後)

天明卯辰日記  藩は城下の長勝寺・革秀寺等に餓死者供養の施餓鬼(せがき)を命じる一方、九月には藩主の名代,名代らは餓死者の墳墓の前で、藩主自筆の祭文を読み上げ、死者の亡魂を弔うとともに生存者の息災も祈った。
通史編2(近世1) (「分領」と津軽弘前藩)

安政六年九月二十七日、津軽弘前藩主津軽承烈(つぐてる)(後の承昭(つぐあきら)、一八三四~一九一六)の名代,同じ日に、盛岡藩主南部利剛(としひさ)の名代盛岡新田藩主南部信誉(のぶのり)にも津軽家と同内容の達しがあり
通史編3(近世2) ((一)概要)

抱えられた北川正種(きたかわまさたね)は吉川惟足(よしかわこれたり)の門下で、信政の神葬に際し惟足の名代
通史編3(近世2) (居開帳)

国上寺)に参詣する場合でも、開帳は藩庁の指示によって行うようにさせ、元禄八年(一六九五)からは、藩主名代,そのため、安永元年(一七七二)から何度も開帳が行われ、寛政三年(一七九一)には藩主名代の代参があった。
通史編4(近・現代1) (食生活の変化)

弘前名代の羽二重(はぶたえ)餅は、元禄のころの上方菓子であったから、古い移入文化であろう。
通史編3(近世2) (二 藩主の日常生活)

多膳と会い藩政について用談・決裁――来年高岡霊社(たかおかれいしゃ)(現高照(たかてる)神社)へ参詣の名代,げんけいいん)様(五代信寿(のぶひさ))・浄心院(じょうしんいん)様(六代信著(のぶあき)の室)の命日に名代,(かんとう)ノ間で家老添田儀左衛門(そえだぎざえもん)と会い、来年正月の高岡霊社(現高照神社)参詣の名代
通史編2(近世1) (綱吉政権下における大名課役)

登城や役職以外の勤めには大名本人が出ないで済むものも多く、病気等を理由として名代を出す大名もあった(東京都江戸東京博物館
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)

義光は甥に当たる伊達政宗に援軍を求め、これに応じた政宗は叔父の留守(るす)政景を名代として派遣した。
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