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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (奥羽大名の名護屋参陣)

奥羽大名の名護屋参陣 天正十五年(一五八七)五月、九州平定を終えた秀吉は、対馬の領主宗義調(そうよししげ,図13.肥前名護屋城跡全景 図14.肥前名護屋城復元模型  この朝鮮出兵に際し伊達政宗,そして、それから一ヵ月経った四月十六日に名護屋に着陣している(『引証記』十七)。,なお、津軽為信の名護屋参陣を記した史料は津軽家側では皆無に近い。,へ参陣しており、為信が兵一五〇人を名護屋に在陣させていたことが記されている。 / 奥羽大名の名護屋参陣
通史編2(近世1) (秋田安東実季の名護屋参陣)

秋田安東実季の名護屋参陣 天正十九年から朝鮮出兵へ向けて準備が本格化していたが、翌文禄元年、奥羽・「,日の本」に至る諸大名は名護屋参陣を下命され、続々名護屋へ参集した。,秋田(安東)氏がいつころに秋田を出立し名護屋に到着したのか不明であるが、文禄元年十二月晦日付の楢山剱帯,(ならやまたてわき)宛ての南部信直書状によれば、信直と秋田実季が名護屋の陣所において和睦し「入魂成衆(,この名護屋参陣の際、実季は家臣へ「名護屋御陣用意(なごやおんじんようい)」のため軍役に当たる金子の上納 / 秋田安東実季の名護屋参陣
通史編2(近世1) (二 肥前名護屋での「日本之つき合」)

二 肥前名護屋での「日本之つき合」 北奥の糠部郡において九戸一揆が鎮圧された直後の天正十九年(一五九一,)十月、豊臣秀吉は奥羽再仕置を終えてすでに奥羽から帰っていた浅野長吉を総奉行に任命し、肥前名護屋(ひぜんなごや,この名護屋城を拠点として明(みん)征服の準備が始められた。 / 二 肥前名護屋での「日本之つき合」
通史編2(近世1) (名護屋における「日本之つき合」)

名護屋における「日本之つき合」 文禄元年四月ころに名護屋参陣を果たし、それから約一ヵ月過ぎた五月二十五日,さらにそれから半年を過ぎた十二月晦日、南部信直は、国元の重臣楢山帯刀(ならやまたてわき)へ宛てた書状で名護屋,津軽氏は、名護屋における諸大名との円滑な関係作りに困難をきたしていた。  ,為信の陣屋は、名護屋城から南西に延びる丘陵上の平坦部に築かれている。,「名護屋の大名陣屋配置図」によると、為信の陣屋は、名護屋城のすぐ隣(弾正丸の隣)に位置している(現在、 / 名護屋における「日本之つき合」
通史編2(近世1) (伏見滞在と派閥抗争)

図38.徳川家康画像  すでに名護屋在陣において、南部信直は天正十五年以来一貫して取次として接点,この名護屋在陣において、結局奥羽の大名は朝鮮渡海を免除され、文禄二年の末には帰国することになるが、これ,しかし、為信も信直も、すでに名護屋在陣で極めて近距離の場所に陣屋を構えて「少之けんくわ(けんか)」も許,南部氏も津軽氏も「日本之つき合」を名護屋から今度は伏見城下に移して行わねばならなくなった。  ,この伏見における「日本之つき合」は、名護屋とはまた質の違う「つき合」であった。
通史編2(近世1) (協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))

巖鬼山神社(青森県弘前市) 国文学研究資料館史料館 国立公文書館内閣文庫 国立国会図書館 佐賀県立名護屋城博物館
通史編2(近世1) (伏見築城と奥羽大名)

と奥羽大名 豊臣秀吉は、文禄二年(一五九三)九月二十三日、奥羽の大名らが朝鮮半島に渡海することなく名護屋,図28.安宅船復元模型  秋田氏は、すでに伏見城普請の材木を廻漕する以前の名護屋参陣中に材木の献上
通史編2(近世1) (鷹献上システムの成立)

これは文禄元年(一五九二)の朝鮮侵略に際して、本州北端から九州の肥前名護屋へ、当該地域の大名が出陣するのを
通史編2(近世1) (九戸一揆の意義)

秀吉は奥羽・「日の本」までに至る仕置を現実化することができ、これを土台としてこの直後の朝鮮出兵のための名護屋
通史編2(近世1) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

国文学研究資料館史料館蔵津軽家文書 11 東京大学史料編纂所蔵 12 仙台市博物館蔵 13 佐賀県立名護屋城博物館蔵,能代市史編さん室写真提供 19 佐賀県教育委員会文化課『佐賀県文化財調査報告書第105集 特別史跡 名護屋城跡並,びに陣跡 6』 20 佐賀県立名護屋城博物館蔵 21 同上 22 撮影 23 『新編弘前市史 資料編1,弘前市教育委員会図版提供 26 弘前市教育委員会蔵 27 洛中洛外図屏風池田本 林原美術館蔵 28 佐賀県立名護屋城博物館蔵
通史編2(近世1) (浅利騒動と津軽氏)

すでに信直は秋田氏と名護屋参陣中に盟約を交わし、祝言の約束を取り交わしており、この為信の対応は、南部氏
通史編2(近世1) (人質徴収)

豊臣政権は、全国規模での軍事動員が可能となり、最終的には、文禄元年(一五九二)の肥前名護屋への出陣、慶長元年
通史編2(近世1) (伏見木幡山城の築城)

秀吉は、天正十九年(一五九一)の九戸一揆と、それに続く文禄元年(一五九二)からの名護屋参陣において、奥羽
通史編2(近世1) (刀狩り)

一五九二)十二月、南部領では一戸(いちのへ)での「刀かり」が課題の一つとなっていたようであり、当時肥前名護屋
通史編2(近世1) (新編弘前市史 通史編2(近世1) 目次)

 25   三 鷹献上と鷹保護 ………………………………………………  31 第三節 九戸一揆と肥前名護屋,…………  41   一 九戸一揆と動員大名 …………………………………………  41   二 肥前名護屋
通史編2(近世1) (城破(わ)り)

南部信直が肥前名護屋(なごや)に在陣中の十二月晦日の段階でも、「在府」については、自分が国元に帰ってから
通史編2(近世1) (知行安堵)

津軽・南部両氏は「肥前名護屋在陣衆」の一員として動員されているので、両氏の知行石高は、少なくとも天正十九年十月
通史編2(近世1) (北奥羽の領知確定)

夷島の蠣崎(松前)氏も、文禄二年(一五九三)一月五日、名護屋に参陣し、夷島の支配権を公認する秀吉朱印状
資料編2(近世編1) (【解説】)

にかけての奥羽日の本(ひのもと)仕置から始めて、同政権下における津軽氏の九戸一揆(くのへいっき)出陣、肥前名護屋
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●文禄元年(一五九二)正月、関白豊臣秀次、条書を下し、唐入りにつき大名の名護屋参陣を命じる。,●文禄元年(一五九二)十二月晦日、津軽為信、肥前名護屋において、南部氏、秋田氏との和解を望み、徳川家康,●文禄二年(一五九三)五月二十五日、関白豊臣秀次、津軽為信へ朱印状を下し、名護屋在陣の労をねぎらう。,●文禄二年(一五九三)五月二十七日、南部信直、八戸直栄へ書状を遣わし、名護屋の陣にて津軽為信が前田利家
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