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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編5(近・現代2)
(和徳村との合併問題)
和
徳
村との合併問題 弘前市と
和
徳
村の合併問題は、奥羽線弘前・青森間の開通に伴う弘前駅の設置に端を発していた,写真3 昭
和
初期の弘前駅 写真4 昭
和
初期の土手町
和
徳
村の合併問題が具体的に再開したのは,要するに
和
徳
村の弘前市への合併を容認するグループといえよう。,だが村長が大字
和
徳
・堅田・高崎三区長へ合併に関する住民の意向を調査させたところ、大字
和
徳
の住民は弘前市,
和
徳
村大字
和
徳
の全部と、大字高崎の字岩井、大字堅田の字富田が弘前市に編入されることになった。 /
和
徳
村との合併問題
通史編5(近・現代2)
(弘前市立和徳幼稚園の設置)
弘前市立
和
徳
幼稚園の設置 三十二年(一九五七)八月一日、弘前市立
和
徳
幼稚園が
和
徳
小学校に併設された。,
和
徳
小学校学区には私立幼稚園が一園も設置されておらず、地域住民から公立幼稚園設置の請願が市議会に提出され,初代園長は
和
徳
小学校長成田信が兼任し、職員は教諭が三人。園舎は
和
徳
小学校小体育館を改装して使用した。 / 弘前市立
和
徳
幼稚園の設置
通史編5(近・現代2)
(和徳地区小学校統合問題)
和
徳
地区小学校統合問題 弘前市に合併前の旧中津軽郡
和
徳
村には、明誠(撫牛子)、静修(大久保)、養正(,三校とも老朽危険校舎であるところから、市教委は三校を統合して、旧
和
徳
村一校の適正規模とし、教育の向上を,三校統合は市村合併以前の
和
徳
村議会で決定済みであり、すでに用地も買収されていたが、用地が明誠地区に片寄,その場所は弘前市へ合併前の旧
和
徳
村村議会ですでに決定済みであった。,通学距離の遠近が表面上の争点であったが、その背後には永年にわたる
和
徳
村各大字間の利害得失や政治的確執が /
和
徳
地区小学校統合問題
通史編5(近・現代2)
(進修小学校を和徳小学校に合併)
進修小学校を
和
徳
小学校に合併 昭
和
十一年(一九三六)一月十五日、中津軽郡
和
徳
村の堅田、高崎、俵元の三大字,右の三大字は弘前市
和
徳
町に隣接し、地域的にも経済的にも弘前と交流が深く、合併運動は大正十四年(一九二五,もともと進修小学校は
和
徳
小学校に合併することを希望していたが、
和
徳
学区民に反対があって実現せず、その後
和
徳
学区民,進修小学校は三月二十八日閉校式を挙行し、翌日から
和
徳
小学校に校具を運んだ。,進修小学校の児童は十四年四月
和
徳
小学校に編入学し、
和
徳
小学校児童数は一三二二人の多数となり、これを二〇 / 進修小学校を
和
徳
小学校に合併
通史編2(近世1)
(正徳から天明にかけての大名課役)
河川関係の修築における手伝普請は元禄時代末に行われたのが最初だが、津軽家の場合は、明
和
三年(一七六六),このうち明
和
三年の際には、国元の大地震で甚大な被害を被ったことにより、幕府から普請役御免を命じられている,には幕府の番方、大手門・内桜田門・西丸大手門の大門三門や、西丸への出入りを押さえる外桜田門・馬場先門・
和
田倉門,外様 1万石余 4 2 25 20 51 ㉕ 馬場先 譜代 2~3万石 4 2 25 20 51 ㉖
和
田倉,「所々御門番人数之覚」『
徳
川禁令考』前集四)。 / 正
徳
から天明にかけての大名課役
通史編4(近・現代1)
(道路改修問題と佐和知事)
道路改修問題と佐
和
知事 明治二十四年八月二十一日、府県制実施後の第一回県会議員選挙が行われた。,明治二十四年の第一回臨時県会は、三〇議席のうち三分の二が自由党系で、積極的な佐
和
知事の県政に協力した。,弘前市関係各道路線表 名称 起線 経過市町村 終尾 第41号国道 青森市長島 滝内村、新城村、大杉村、浪岡村、藤崎村、
和
徳
村,弘前市山道町、清水村富田 中津軽郡役所 停車場道 弘前停車場 弘前市元寺町 山下町、坂本町、代官町、
和
徳
村,弘前停車場 黒石道 弘前市土手町 代官町、
和
徳
村、豊田村、猿賀村 尾上村尾上 国幣社道 弘前市元寺町 / 道路改修問題と佐
和
知事
通史編5(近・現代2)
(市街地の交通緩和対策)
市街地の交通緩
和
対策 昭
和
三十八年(一九六三)には、自動車の増加に伴い、旧市内の主要道路に通じる裏通,さらに、弘前市内中心部を貫通する国道七号線の交通量増大は弘前市商店街においても問題視され、昭
和
四十年には,昭
和
三十八年十月十四日弘前市が行なった交通量の調査結果によると、代官町調査地点に於ける自動車類の交通量,この路線は、弘前市においても、
和
徳
町、代官町、土手町、松森町を経て石川を通り秋田に至っているが、代官町,なお、国道七号線バイパス工事は昭
和
五十二年に竣工した。 / 市街地の交通緩
和
対策
通史編4(近・現代1)
(和服と呉服商)
和
服と呉服商 この時代は、上方各地から移入の反物が呉服屋の店頭に並べられ、顧客は時の流行や好みに応じて,殊に松森町・
和
徳
町・浜ノ町・紺屋町では篠巻綿や足袋やカナ糸などぐらいしか売れなかった。,べたとおり二十六年の農村好景気に乗じて下土手町に移り、三階建ての洋館建築で近代的な呉服店の経営を始め、
和
徳
町久一 /
和
服と呉服商
通史編5(近・現代2)
(弘前相互銀行と青和銀行の合併)
の青
和
銀行との合併を模索する。,青
和
銀行は青森貯蓄銀行(大正十年十二月設立)が昭
和
二十三年(一九四八)十二月、普通銀行に転換して発足した,だが青
和
・弘相の場合は、いきなり普通銀行と相互銀行との合併。,にもかかわらず青
和
・弘相の合併話は相互銀行業界には〝寝た子を起こす〟刺激となった。,西日本、幸福、兵庫、名古屋、近畿、福
徳
、平
和
など大手相互銀行は単独で普銀転換の意向を明らかにした。 / 弘前相互銀行と青
和
銀行の合併
通史編5(近・現代2)
(弘前市総合開発計画(昭和五十三年計画)の策定)
弘前市総合開発計画(昭
和
五十三年計画)の策定 昭
和
五十二年(一九七七)に、昭
和
四十五年立案の総合開発計画,我々が迎える昭
和
五十年代後半以降は、世界経済との調
和
の中で、苦悩と努力の連続であろう。,昭
和
六十年における本市の農業純生産額は三四一億円(粗生産額は四八八億円)となり、昭
和
五十年純生産額二二七億円,このうち、基盤整備としては、
和
徳
(現、北
和
徳
)工業団地の環境整備が主要施策とされている。,店数は昭
和
四十一年時点での六三〇(県の二二%)から、昭
和
五十一年の一三六一店(県の三四%)に増加しており / 弘前市総合開発計画(昭
和
五十三年計画)の策定
通史編3(近世2)
(稲荷宮)
稲荷宮 稲荷宮(現
和
徳
稲荷神社)は、「津軽一統志」によれば、創建を不詳とし、元
和
年間(一六一五~二三,同宮は為信に滅ぼされた小山内讃岐の
和
徳
城跡にも比定される。,信政は、明暦三年(一六五七)の江戸大火の時、
和
徳
稲荷と名のる老人の道案内で柳原中屋敷へ避難したところから,、これを信仰し、津梁院(現東京都)境内に
和
徳
稲荷宮を勧請したらしい(篠村正雄「津軽信政の稲荷信仰について,図227.
和
徳
稲荷神社
通史編4(近・現代1)
(学区の改変)
七年四月亀甲小学の設置によって、これまで大ざっぱに土手町を中心に弘前を南北に分けていた白銀小学と、
和
徳
小学,在府町、相良町、本町、元大工町、塩分町、元長町、森町、覚仙町、鍛冶町、新鍛冶町、南北川端町などとなり、
和
徳
小学学区,は、
和
徳
町、代官町、南北中瓦ヶ町、田代町、徒町、西川岸町、坂本町、南北柳町、緑町、
徳
田町、北横町、徒町川端町,もっとも、当時の学区は今日のように画然と分けられておらず、東長町から
和
徳
小学に通学したり、親方町などでは
通史編3(近世2)
(常源寺)
じょうげんじ)は、「長勝寺並寺院開山世代調」によれば、永禄六年(一五六三)、開基を為信の父武田守信とし、
和
徳
村,創建には諸説があり、真言宗の寺院で熊野・稲荷宮を司っていたのを曹洞宗に改めたとか、
和
徳
讃岐の建立とか、,
和
徳
稲荷宮を鎮守としていたとの記載もみられる。
通史編4(近・現代1)
(遊廓と小学校)
遊廓と小学校 明治三十年(一八九七)十月二日の
和
徳
小学校日誌に「学校長出校、去月県令ヲ以テ遊廓地ヲ北横町及,アリタキ事ヲ申述べ十一時帰校ス」とあるが、これは弘前市はもちろん、県下に論議を呼んだ遊廓地指定のため、
和
徳
小学校,指定された新遊廓地は北横町、北横町野田、田茂木町山王の一帯で、それが
和
徳
小学校のすぐ隣に位置するところから,
和
徳
小学校長今助次郎は肺疾のため永く病臥中だったが、新遊廓地指定に大いに驚き、病軀(く)をおして市長を,
和
徳
小学校学区会では小学校の移転を策し、これまでの敷地を六〇〇〇円で売却、それを移転費用に充てて当時
和
徳
村俵元
通史編4(近・現代1)
(戸長の配置)
萱町 笹権之助 上瓦ヶ町 中瓦ヶ町 南瓦ヶ町 北瓦ヶ町
徳
田町,南柳町 北柳町 坂本町 西川岸町 田代町 徒町 徒町川端町 南横町 山下町 前田周蔵 上
和
徳
町, 北横町 薬王院門前 對馬常作 下
和
徳
町 茶畑町 , 斎藤三彌 袋町 五十石町 相馬
徳
三郎, 鼻
和
藤十郎
通史編4(近・現代1)
(町村合併と弘前市制施行)
清水村(大字富田)-富田村 紙漉町 坂本村 常盤坂村 悪戸村 下湯口村 小沢村
和
徳
村(大字堅田)-,堅田村
和
徳
村 高崎村 撫牛子村 大久保村 津賀野村 百田村 向外瀬村 清野袋村 豊田村(大字新里),(大字種市)-種市村 青女子村 小友村 三
和
村 笹舘村 船沢村(大字富栄)-富栄村 細越村 折笠村 ,
和
徳
村-大村
和
徳
村と古城
和
徳
城、旧藩
和
徳
組頭村に由来。,新
和
(にいな)村-町村制施行令により新しく成立した村なので皆で
和
していこう。
通史編5(近・現代2)
(富田大火と第一・第二大成小学校の焼失)
富田大火と第一・第二大成小学校の焼失 昭
和
三年(一九二八)四月十八日午前十一時四十分、市内富田師団通,りの民家物置から出火した火事は、折からの南東の強風にあおられて、前年の「
和
徳
の大火」に引き続いて、二年続,は富田大通りの一部、偕行社通りの一部、住吉町、品川町、松森町一部、代官町、土手町一部、上瓦ヶ町一部、
和
徳
村一部,そのため、第一大成小学校は四月二十三日から
和
徳
小学校に移って、二部授業を行うことになり、午前は
和
徳
校児童,写真50 県下初の鉄筋コンクリート造であった第二大成小学校(昭
和
5年)
通史編4(近・現代1)
(中津軽郡会)
村会議員互選当選者 駒越村 石郷岡文吉 堀越村 葛西穏
和
徳
村 川村譲 高杉村,千年村 相馬豊五郎 東目屋村 今井一徹 船沢村 成谷亀之助 清水村 三浦大吉 新
和
村, 小山内小三郎 藤代村 不詳 石川村 成田多佐久(南津軽郡) 大地主互選会当選者
和
徳
町, 笹森清次郎
和
徳
町 加藤 長章 豊田村 小山内雄蔵 高杉村 高杉 金作 藤代村,(憲本) 豊田村 福士健夫(憲政) 千年村 佐藤義雄(憲政) 裾野村 須藤信夫(憲政)
和
徳
村
通史編5(近・現代2)
(県下最初の養護学級新設)
県下最初の養護学級新設 昭
和
二十三年四月、第二大成小学校と
和
徳
小学校に養護学級が新設された。,るために、身体検査を行い、適当な衛生養護の施設を設けなければならない」と規定されていて、第二大成小学校と
和
徳
小学校,
和
徳
小学校養護学級の担任は渡辺邦輔教諭、駒井とよ養護教諭が補助に当たり、福島守男校医が協力した。
通史編4(近・現代1)
(小学の組織)
白銀・
和
徳
両校とも開設当時生徒の年齢差や学力差に悩んでいた。,八年四月亀甲小学に併置され、白銀・
和
徳
両校の年長生を収容した。 ,
和
徳
小学の発足に当たって、校具はすべて白銀小学から譲り受けたなど、その一例であろう。
通史編4(近・現代1)
(城西小学校創立)
、銅屋町、南川端町、○松森町、楮町、新楮町、富田町、富田新町 蓬莱 中初 敬業 中初 知類 中初
和
徳
学区,一 代官町、緑町、植田町、萱町、南瓦ケ町、北瓦ケ町、上瓦ケ町、中瓦ケ町、
徳
田町、南柳町、北柳町、坂本町,、田代町、西川岸町、徒町、徒町川端町、山下町、南横町、○
和
徳
町、北横町、茶畑町、茶畑新割町
和
徳
中初,西大工町、新町、駒越町、平岡町、紺屋町、浜ノ町、袋町、○五十石町 城西 中初 本町学区 土手町学区
和
徳
学区
通史編5(近・現代2)
(国民学校令)
国民学校令 昭
和
十二年七月、日華事変が勃発すると、政府は教育審議会を設置して、当面する情勢に応ずる教育,国民学校令は昭
和
十六年(一九四一)三月一日公布、四月一日から実施され、その日から本市の小学校はもちろん,これまでの小学校教育は「児童身体ノ発達ニ留意シテ道
徳
教育及国民教育ノ基礎並ニ其ノ生活ニ必須ナル知識技能,皇国の道という道
徳
を中核にして教科を統合しようとしたのである。 ,写真56 国民学校制定第1年記念の
和
徳
国民学校児童
通史編4(近・現代1)
(小学校のスキー備え付け)
小学校のスキー備え付け 大正二年(一九一三)一月八日、
和
徳
小学校に初めてスキーが備え付けられた。,この
和
徳
小学校備え付けの一組のスキーから、本市の小学校体育に漸次スキーが採り入れられていったのである。
通史編4(近・現代1)
(自他楽(じだらく)会の結成)
自他楽(じだらく)会の結成 明治二十二年(一八八九)二月、
和
徳
小学校教員を中心に「自他楽(じだらく),中心は
和
徳
校教員だが、他校教員や一般人の中から加入する者もあった。,会員一二人、会費月額五銭で発足した読書グループ「自他楽会」は、
和
徳
小学校を事務所にして、明治二十二年から
通史編2(近世1)
(津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)
給付の実際的な形として、将軍から諸大名に対して、領知宛行(りょうちあてがい)・安堵の「保証書」(笠谷
和
比古,津軽信明 天明八年(一七八八)三月五日 内分分知記載内容以外、No.八八七と同内容 津軽
和
三郎(寧親,
徳
川政権下に入っても、
徳
川家康は大名に対して集中的な領知判物の発給を行わず、元
和
三年(一六一七)、
徳
川秀忠,この役高を踏まえたうえで、津軽家の領知高が確定したのはこの時点から元
和
五年(一六一九)七月に至るまでの,元
和
五年は安芸(あき)広島城主福島正則(ふくしままさのり)の改易の命が下り、次いで津軽への転封を幕府から
通史編4(近・現代1)
(大区小区制の成立)
新品川町 品川町 富田町 松森町 富田新丁 楮町 新楮町 徒町 川端丁 西川岸丁 坂本丁 田代丁 山下丁
徳
田丁,南柳丁 北柳丁 南横丁 萱丁 植田丁 緑町 北土器(かわらけ)丁 南土器丁 中土器丁 上土器丁 代官丁
和
徳
町,二小区(一八ヵ村) 黒滝村 湯口村 下湯口村 悪戸村 常盤坂村 坂本村 小沢村 原ヶ平村 富田村
和
徳
村,貞昌寺門前・報恩寺門前・万能寺門前は北新寺町、大矢場は新寺町新割町、足軽町は富田町、普光寺跡門前は住吉町、
和
徳
足軽町,・薬王院・薬王院門前町は
和
徳
町、座頭町は小人町、神明宮社家は若党町、元穢多町は楮町新町となり、誓願寺々中
通史編4(近・現代1)
(城西小野球部全国大会出場)
出場チームは市内六小学校で、第一回戦は朝陽対
和
徳
、時敏対二大、一大対城西が戦ったが、
和
徳
、二大、城西の,三校が準決勝戦に進み、抽選で城西が不戦勝で決勝進出、準決勝は
和
徳
と二大が戦い、二大校が快勝、決勝戦は六月十七日,同年四月城西小学校訓導に就任して、昭
和
十三年まで二二年間勤続、その年退職して満州に渡り、教育行政に当たった,三塁 館田義憲、遊撃 山口勇造、左翼 小嶋正夫、中堅 秋田重蔵、右翼 飯塚直、補欠 成田俊太郎、大川
徳
太郎,翌十五年朝陽小学校が全国大会に出場、翌昭
和
二年には朝陽、
和
徳
の二校が全国大会に出場、弘前少年野球は黄金時代
通史編3(近世2)
(最勝院)
しかし、正
徳
元年(一七一一)の「寺社領分限帳」(弘図津)には「本寺高野山心南院」とあり、享
和
三年(一八,塔頭は一二院あり、大善院に三〇石、宝成院・普門院・
徳
恩寺・吉祥院・龍蔵院・歓喜院・西善院・東覚院・正覚院,・教応院・神
徳
院に各一五石の寄進があった。 ,享
和
三年の「寺社領分限帳」によれば、本堂には八幡宮本地仏として、信枚寄進の阿弥陀仏、信重寄進の勢至・観音,正
徳
四年(一七一四)の火災の際、阿弥陀仏・閻浮檀金弥陀尊は焼けずに残った。
通史編3(近世2)
(信政)
これにより、吉田の一字をとって吉川を姓とし、吉川神道の創始者となって、遂に幕府の神道方になり、
徳
川頼宣,信政は子信寿・資
徳
のほか、希望する藩士にも学ぶことを許したため、岩田半次郎・桜庭浜之丞、後藤利卜が門人,享
和
元年(一八〇一)から慶応四年(一八六八)の明治改元までが一九五通、明治元年(一八六八)から大正八年,明暦三年(一六五七)の江戸大火の時、信政は神田上屋敷から柳原中屋敷へ避難する際、
和
徳
稲荷と名のる老人に,信政はすぐに国元の
和
徳
稲荷宮へ代参を遣わし、津梁院境内に
和
徳
稲荷を祀らせた。
通史編4(近・現代1)
(校名改称と一校新設)
上白銀町一番地(現弘前市庁舎敷地)の元西館宇膳の家屋に移っていたため、校名を「白銀小学」と改称、二番小学は
和
徳
町六番地,にあったので「
和
徳
小学」と改称された。
通史編5(近・現代2)
(二 中学校教育)
二 中学校教育 昭
和
三十年(一九五五)三月一日の市町村合併の結果、これまで市立中学校四校の弘前市が、,表52 市立中学校一覧表(昭
和
三十年五月一日現在) 番号 種別 学校名 所在地 校長名 教員数 児童生徒数,四 一〇一 三 3 中学校 自得 鬼沢字菖蒲沢一二二の二 加藤屹郎 九 一九〇 六 4 中学校 新
和
,前山定雄 一三 三五一 九 7 中学校 藤代 船水字筒井五の二 大瀬新輔 一五 四三六 一一 8 中学校
和
徳
,千年 原ヶ平字中野一五 成田信 一七 五〇八 一二 12 中学校 清水 清水富田字桔梗野二三 斉藤尚
徳
通史編5(近・現代2)
(子ども会の動向)
)、小島正雄(第一大成国民学校)、伊藤秀俊(青森師範学校女子部附属国民学校)、佐藤
徳
男(元国民学校教員,子ども会には演劇、音楽、舞踊の三部門があり、演劇部は島村喜美(
和
徳
国民学校)と千葉が担当し、音楽部は小島正雄,と伊藤秀俊、舞踊部は佐藤
徳
男と田中志摩子(田中舞踊研究所)がそれぞれ指導に当たり、第一回の発表は、その,に子ども会を設置させたもので、昭
和
二十五年現在で市内に一八の児童福祉協力会がある。,紺屋町 桶屋町 下土手町 南横町 笹森町 浜の町
和
徳
町 馬屋町 鍛冶町 新鍛冶町 銅屋町 南川端町
通史編5(近・現代2)
(学校統合の推進)
学校統合の推進 学校統合の問題は昭
和
三十年三月の市村合併と同時に表面化し、教育的見地から具体的に話が,昭
和
三十二年七月、市教育委員会は学校統合計画案を策定した。 ,以上の三点に重点を置きつつ、昭
和
三十三年度から次の統合計画を推進していくことにした。,①
和
徳
中学校を廃止し、第一中学校に統合する。②草薙中学校を廃止し、新
和
中学校に統合する。,(一九五八)四月一日に
和
徳
中学校と第一中学校との統合は成功し、実施された。
通史編5(近・現代2)
(スケート大会行わる)
スケート大会行わる 昭
和
五年(一九三〇)二月十一日、第一回弘前少年スケート大会が開催された。,昭
和
三十年ごろから埋め立てられ、現在は大町三丁目に属し住宅街となっていて、昔の溜池の面影はない。,しかし、昭
和
初年にはボートを浮かべ、夏は納涼大会、花火大会が開かれ、冬はスケート場として人々に親しまれた,参加校は
和
徳
、時敏、一大、二大の四校で、生徒の競技出場者は約一〇〇人に達し、接戦の結果、
和
徳
校が優勝旗,しかし、少年スケート大会は昭
和
七年の第三回まで開かれて中止された。
通史編5(近・現代2)
(道路の整備)
次の資料は、昭
和
六年(一九三一)に起こった冷害凶作に対する救済事業の一つとしての道路改修工事に関するものである,昭
和
六年十二月二十一日可決 県費負担道改築ニ付意見 一、弘前市大字代官町地内弘前停車場線分岐点ヨリ,土手町地内弘前市元標ニ至ル間 一、国道第五号路線延長百九十間 幅員五間 同市大字代官町
和
徳
町地内弘前停車場分岐点,ヨリ
和
徳
町中津軽郡界ニ至ル間 一、国道第五号路線延長七百二十間 幅員五間 同市大字土手町松森町地内弘前市元標,ルモ県下最高位ニ属シ枢要ナル路線ニ有之候処数年来之ガ路面著シク破壊シ交通上支障甚シキ実情ニ在リ曩キニ昭
和
五年十一月詳細具陳請願
通史編5(近・現代2)
(タクシー事業の進展)
タクシー事業の進展 弘前市におけるタクシーの営業の始まりについても定かではないが、昭
和
二年(一九二七,)六月十七日には既存の弘前自動車業組合(
和
徳
町大塚自動車方)という同業組合が改組され、中弘自動車営業組合,当時の弘前市における旅客運輸の状況を昭
和
六年七月十九日付の『東奥日報』では次のように報じている。,、片道八銭として実施する模様で、乗車賃値下げと共に車の運転系統を従来の駅中心から離れて駅から茂森町、
和
徳
町
通史編4(近・現代1)
(弘前の小学校)
それが六年十月一日創立の一番小学(現弘前市立朝陽小学校)と六年十二月一日創立の二番小学(現弘前市立
和
徳
小学校,)である(なお、
和
徳
小学校は学校創立日を、学年開始に合わせて七年一月八日としたが、『文部年報第一年報』
通史編4(近・現代1)
(農会の設立と農事改良)
当時の各村ごとの出品点数は、清水三〇八、
和
徳
二四三、豊田一一九、堀越一九四、千年一一九、相馬一三八、東目屋一一一,(同)、大豆-清野長二郎(清水村)、株大豆-象潟皓一(高杉村)、馬鈴薯(ばれいしょ)-小田桐豊太郎(
和
徳
村,熊嶋蔓細工購買販売組合(大浦村)・古川喜太郎(同)・齊藤三之助(同)、藁細工-長谷川蔵吉(大浦村)・工藤東吉(
和
徳
村,当時の各村ごとの出品点数は、清水一七六、
和
徳
一二八、豊田一二二、堀越九九、千年八九、相馬九三、東目屋八八,、西目屋一四七、岩木一一六、大浦二三六、船沢一一三、駒越一一三、高杉九六、藤代一六五、新
和
一五八、裾野七五
通史編5(近・現代2)
(総選挙での戦い)
第二区)昭三・二・二〇 ◇中津軽郡町村別得票 町村名 清水
和
徳
, 黒石町 鳴海文四郎 △幹事長 青森市 梅村大 △顧問(中弘関係)高杉村 高杉金作
和
徳
村,黒石町 竹内清明 弘前市 石郷岡文吉 同 宮川久一郎 高杉村 高杉金作 東京 工藤十三雄
和
徳
村,評議員 清水村 成田勇作 大浦村 齋藤晋作 東目屋村 長谷川毅 清水村 成田清太郎
和
徳
村,顧問 東京市 兼田秀雄 神奈川県片瀬 菊池良一 大杉村 工藤善太郎 △相談役
和
徳
村
通史編5(近・現代2)
([付図])
〈昭
和
6年〉 7
和
徳
小学校における欠食児童救済のための学校給食〈昭
和
7年〉 8 ,〈昭
和
19年〉 19 終戦〈昭
和
20年〉 20 弘前市への進駐軍(代官町)〈昭
和
20,〈昭
和
31年〉 29 岩木川氾濫による水害〈昭
和
33年〉 30 目屋ダム完成〈昭
和
,〈昭
和
41年〉 35 土手町〈昭
和
40年代〉 36 集中豪雨で土淵川氾濫〈昭
和
50,と友好都市の盟約を締結〈昭
和
58年〉 41
和
徳
地区土地区画整理事業完成〈昭
和
58年〉
通史編3(近世2)
(子供を池に投げ殺害)
子供を池に投げ殺害 「国日記」嘉永二年(一八四九)十二月二十三日条によれば、
和
徳
(わとく)村(現市内
和
徳
町,・東
和
徳
町・野田・表町(おもてまち)・大町(おおまち)・駅前町・駅前・城東中央・稲田(いなだ))の長之
通史編4(近・現代1)
(市制施行と小学校)
『
和
徳
小学校沿革史』二十二年六月一日の項に「本日ヨリ市町村制実施ニ依リ弘前市制実施、弘前市役所開庁シ従来,写真101
和
徳
小学校校舎 (明治22年新築の四層楼) また、従来の学区は、校名を番号に換え,、弘前市第一学区(朝陽)、弘前市第二学区(大成)、弘前市第三学区(
和
徳
)、弘前市第四学区(時敏)、弘前市第五学区
通史編4(近・現代1)
(農業団体の発展)
大正期に、中津軽郡では、各村ごとに農作物品評会を開催するようになり、同三年(一九一四)には独自に清水・
和
徳
,した人物として、清水村の外崎嘉七、楠美冬次郎、工藤銀次郎、阿部亀吉、三上喜太郎、川村喜代吉、石岡一斎、
和
徳
村,人目が外崎嘉七、4列目4人目が楠美冬次郎、右端が皆川藤吉) なかでも、楠美冬次郎(文久三-昭
和
九,大正十三年(一九二四)、満州に渡り、りんご栽培を指導し、昭
和
九年(一九三四)に中国大連で逝去した。,写真178 中国大連に建立された楠美冬次郎の頌
徳
碑
通史編3(近世2)
(信政の教養)
弟の政朝と二人の子信寿(五代藩主 一六六九~一七四六)・資
徳
も素行に入門させている。,素行の長女亀の娘婿である岡八郎左衛門(素行の甥)は、延宝七年(一六七九)、津軽家の家臣となり、天
和
元年,さらに素行の二女鶴は、延宝六年(一六七八)、藩士北村源八(後に喜多村政広と改む)に嫁し、源八も天
和
元年,惟足は吉川神道を唱道し、紀伊
和
歌山藩主
徳
川頼宣(よりのぶ)、会津藩主保科正之(ほしなまさゆき)などからの,信頼も厚く、天
和
二年(一六六七)には
徳
川綱吉から幕府神道方を命じられた。
通史編3(近世2)
(寛政期の城下)
寛政七年(一七九五)の「御家中在宅之族(やから)村寄」(同前No.八五)によれば、藤代組・
和
徳
組・高杉組,この年には、
和
徳
町北端に足軽町を設置し、桝形が設けられている。 ,になったのは、元寺町・蔵主町・在府町・相良町・馬屋町・百石町・笹森町・長坂町・森町・若党町・鷹匠町・
徳
田町,武道についても弓術・馬術・剣術・長刀術・槍術・砲術・
和
術が教授された。,このほか、亀甲町角に御蔵、足軽町
和
徳
町口に桝形、南袋川岸町(現西大工町)、古堀町、茶畑町、川端町などが
通史編5(近・現代2)
(失業の増加と消費組合)
失業の増加と消費組合 昭
和
十二年七月、弘前市役所は、十二年度失業応急事業施行認可の申請書を政府に提出,それによると、昭
和
七年以来の失業応急事業によってこれまで労働者は救われてきたが、事業の完成によって再び,この三年前の昭
和
九年三月末日、弘前市と周辺のサラリーマンの数は一五三五人で、そのうち二四四人が失業、失業率,組合名 住所 組合長 弘前消費組合 弘前市大町 古木名眞太郎
和
徳
消費組合, 中郡
和
徳
村百田 佐藤多三郎 黒石消費組合 南郡黒石町 柴田久次郎 藤崎消費組合 南郡藤崎町
通史編4(近・現代1)
(その他の会社)
富士醸造株式会社(払込資本金、一一〇〇〇〇円、酒類製造、清水村)、蛭田製材所(払込資本金、七〇〇〇〇円、製材、
和
徳
村,)、丸叶弘前運輸株式会社(払込資本金、五〇〇〇〇円、運送業、
和
徳
村)、丸上運送店(払込資本金、五〇〇〇〇,円、運送取扱業、
和
徳
村)などがあり、活況を呈していた。
通史編5(近・現代2)
(弘前相互銀行の躍進)
表24 昭
和
29年1月実績の全国ベストテン(相互銀行協会) 資金量純増 金額 契約高純増 金額 ,弘前相互銀行 186,747 ①西日本相互銀行 546,110 ②西日本相互銀行 174,955 ②福
徳
相互銀行,488,640 ③愛媛相互銀行 140,419 ③旭相互銀行 433,850 ④福
徳
相互銀行 138,791,三十三年三月末には五倍以上の一〇〇億円を突破し(表25)、東北管内の相互銀行では、盛岡市の興産相互銀行、仙台市の
徳
陽相互銀行,表25 資金量の推移(昭
和
27年3月31日~昭
和
33年3月31日) (単位:千円、%) 科目 預金 掛金
通史編2(近世1)
(殖産政策の前提)
幕府でいえば、五代将軍
徳
川綱吉の時代にとられた大老堀田正俊(ほったまさとし)の主導による「天
和
の治(てんなのち,)」の年貢増徴策や、元禄期の勘定奉行荻原重秀(おぎわらしげひで)による貨幣改鋳策、次の将軍
徳
川家宣(とくがわいえのぶ,)のもと側用人間部詮房(そばようにんまなべあきふさ)・新井白石(あらいはくせき)が主導した「正
徳
の治(
通史編5(近・現代2)
(東京からの集団疎開児童)
、疎開児童第一陣が弘前駅に着いたとき、市内各国民学校から出迎えが出たが、代表して歓迎の辞を述べたのは
和
徳
国民学校六学年荘司道夫,
和
徳
国民学校を使用したのは渋谷区本町国民学校で本部宿舎は西茂森海蔵寺であった。,児童たちは慣れないりんご袋貼りを行ったり、臨時休校して野草を採取したりと、不自由な食生活の緩
和
に努めている
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