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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編5(近・現代2)
(和徳村との合併問題)
和徳
村との合併問題 弘前市と
和徳
村の合併問題は、奥羽線弘前・青森間の開通に伴う弘前駅の設置に端を発していた,合併に関する
和徳
村民の意向は賛否両論、実にさまざまな意見が噴出した。,要するに
和徳
村の弘前市への合併を容認するグループといえよう。,だが村長が大字
和徳
・堅田・高崎三区長へ合併に関する住民の意向を調査させたところ、大字
和徳
の住民は弘前市,
和徳
村大字
和徳
の全部と、大字高崎の字岩井、大字堅田の字富田が弘前市に編入されることになった。 /
和徳
村との合併問題
通史編5(近・現代2)
(弘前市立和徳幼稚園の設置)
弘前市立
和徳
幼稚園の設置 三十二年(一九五七)八月一日、弘前市立
和徳
幼稚園が
和徳
小学校に併設された。,
和徳
小学校学区には私立幼稚園が一園も設置されておらず、地域住民から公立幼稚園設置の請願が市議会に提出され,初代園長は
和徳
小学校長成田信が兼任し、職員は教諭が三人。園舎は
和徳
小学校小体育館を改装して使用した。 / 弘前市立
和徳
幼稚園の設置
通史編5(近・現代2)
(進修小学校を和徳小学校に合併)
進修小学校を
和徳
小学校に合併 昭和十一年(一九三六)一月十五日、中津軽郡
和徳
村の堅田、高崎、俵元の三大字,右の三大字は弘前市
和徳
町に隣接し、地域的にも経済的にも弘前と交流が深く、合併運動は大正十四年(一九二五,もともと進修小学校は
和徳
小学校に合併することを希望していたが、
和徳
学区民に反対があって実現せず、その後
和徳
学区民,進修小学校は三月二十八日閉校式を挙行し、翌日から
和徳
小学校に校具を運んだ。,進修小学校の児童は十四年四月
和徳
小学校に編入学し、
和徳
小学校児童数は一三二二人の多数となり、これを二〇 / 進修小学校を
和徳
小学校に合併
通史編5(近・現代2)
(和徳地区小学校統合問題)
和徳
地区小学校統合問題 弘前市に合併前の旧中津軽郡
和徳
村には、明誠(撫牛子)、静修(大久保)、養正(,三校とも老朽危険校舎であるところから、市教委は三校を統合して、旧
和徳
村一校の適正規模とし、教育の向上を,三校統合は市村合併以前の
和徳
村議会で決定済みであり、すでに用地も買収されていたが、用地が明誠地区に片寄,その場所は弘前市へ合併前の旧
和徳
村村議会ですでに決定済みであった。,通学距離の遠近が表面上の争点であったが、その背後には永年にわたる
和徳
村各大字間の利害得失や政治的確執が /
和徳
地区小学校統合問題
通史編3(近世2)
(稲荷宮)
稲荷宮 稲荷宮(現
和徳
稲荷神社)は、「津軽一統志」によれば、創建を不詳とし、元和年間(一六一五~二三,同宮は為信に滅ぼされた小山内讃岐の
和徳
城跡にも比定される。,信政は、明暦三年(一六五七)の江戸大火の時、
和徳
稲荷と名のる老人の道案内で柳原中屋敷へ避難したところから,、これを信仰し、津梁院(現東京都)境内に
和徳
稲荷宮を勧請したらしい(篠村正雄「津軽信政の稲荷信仰について,図227.
和徳
稲荷神社
通史編4(近・現代1)
(学区の改変)
七年四月亀甲小学の設置によって、これまで大ざっぱに土手町を中心に弘前を南北に分けていた白銀小学と、
和徳
小学,在府町、相良町、本町、元大工町、塩分町、元長町、森町、覚仙町、鍛冶町、新鍛冶町、南北川端町などとなり、
和徳
小学学区,は、
和徳
町、代官町、南北中瓦ヶ町、田代町、徒町、西川岸町、坂本町、南北柳町、緑町、徳田町、北横町、徒町川端町,もっとも、当時の学区は今日のように画然と分けられておらず、東長町から
和徳
小学に通学したり、親方町などでは
通史編3(近世2)
(常源寺)
じょうげんじ)は、「長勝寺並寺院開山世代調」によれば、永禄六年(一五六三)、開基を為信の父武田守信とし、
和徳
村,創建には諸説があり、真言宗の寺院で熊野・稲荷宮を司っていたのを曹洞宗に改めたとか、
和徳
讃岐の建立とか、,
和徳
稲荷宮を鎮守としていたとの記載もみられる。
通史編4(近・現代1)
(遊廓と小学校)
遊廓と小学校 明治三十年(一八九七)十月二日の
和徳
小学校日誌に「学校長出校、去月県令ヲ以テ遊廓地ヲ北横町及,アリタキ事ヲ申述べ十一時帰校ス」とあるが、これは弘前市はもちろん、県下に論議を呼んだ遊廓地指定のため、
和徳
小学校,指定された新遊廓地は北横町、北横町野田、田茂木町山王の一帯で、それが
和徳
小学校のすぐ隣に位置するところから,
和徳
小学校長今助次郎は肺疾のため永く病臥中だったが、新遊廓地指定に大いに驚き、病軀(く)をおして市長を,
和徳
小学校学区会では小学校の移転を策し、これまでの敷地を六〇〇〇円で売却、それを移転費用に充てて当時
和徳
村俵元
通史編4(近・現代1)
(小学の組織)
白銀・
和徳
両校とも開設当時生徒の年齢差や学力差に悩んでいた。,八年四月亀甲小学に併置され、白銀・
和徳
両校の年長生を収容した。 ,
和徳
小学の発足に当たって、校具はすべて白銀小学から譲り受けたなど、その一例であろう。
通史編5(近・現代2)
(県下最初の養護学級新設)
県下最初の養護学級新設 昭和二十三年四月、第二大成小学校と
和徳
小学校に養護学級が新設された。,るために、身体検査を行い、適当な衛生養護の施設を設けなければならない」と規定されていて、第二大成小学校と
和徳
小学校,
和徳
小学校養護学級の担任は渡辺邦輔教諭、駒井とよ養護教諭が補助に当たり、福島守男校医が協力した。
通史編4(近・現代1)
(中津軽郡会)
村会議員互選当選者 駒越村 石郷岡文吉 堀越村 葛西穏
和徳
村 川村譲 高杉村,新和村 小山内小三郎 藤代村 不詳 石川村 成田多佐久(南津軽郡) 大地主互選会当選者
和徳
町, 笹森清次郎
和徳
町 加藤 長章 豊田村 小山内雄蔵 高杉村 高杉 金作 藤代村,(憲本) 豊田村 福士健夫(憲政) 千年村 佐藤義雄(憲政) 裾野村 須藤信夫(憲政)
和徳
村
通史編4(近・現代1)
(小学校のスキー備え付け)
小学校のスキー備え付け 大正二年(一九一三)一月八日、
和徳
小学校に初めてスキーが備え付けられた。,この
和徳
小学校備え付けの一組のスキーから、本市の小学校体育に漸次スキーが採り入れられていったのである。
通史編4(近・現代1)
(町村合併と弘前市制施行)
清水村(大字富田)-富田村 紙漉町 坂本村 常盤坂村 悪戸村 下湯口村 小沢村
和徳
村(大字堅田)-,堅田村
和徳
村 高崎村 撫牛子村 大久保村 津賀野村 百田村 向外瀬村 清野袋村 豊田村(大字新里),
和徳
村-大村
和徳
村と古城
和徳
城、旧藩
和徳
組頭村に由来。
通史編5(近・現代2)
(富田大火と第一・第二大成小学校の焼失)
四月十八日午前十一時四十分、市内富田師団通りの民家物置から出火した火事は、折からの南東の強風にあおられて、前年の「
和徳
,は富田大通りの一部、偕行社通りの一部、住吉町、品川町、松森町一部、代官町、土手町一部、上瓦ヶ町一部、
和徳
村一部,そのため、第一大成小学校は四月二十三日から
和徳
小学校に移って、二部授業を行うことになり、午前は
和徳
校児童
通史編4(近・現代1)
(自他楽(じだらく)会の結成)
自他楽(じだらく)会の結成 明治二十二年(一八八九)二月、
和徳
小学校教員を中心に「自他楽(じだらく),中心は
和徳
校教員だが、他校教員や一般人の中から加入する者もあった。,会員一二人、会費月額五銭で発足した読書グループ「自他楽会」は、
和徳
小学校を事務所にして、明治二十二年から
通史編4(近・現代1)
(城西小学校創立)
、銅屋町、南川端町、○松森町、楮町、新楮町、富田町、富田新町 蓬莱 中初 敬業 中初 知類 中初
和徳
学区,町、中瓦ケ町、徳田町、南柳町、北柳町、坂本町、田代町、西川岸町、徒町、徒町川端町、山下町、南横町、○
和徳
町,、北横町、茶畑町、茶畑新割町
和徳
中初 亀甲学区 二 親方町、百石町、百石町小路、一番町、東長町、,西大工町、新町、駒越町、平岡町、紺屋町、浜ノ町、袋町、○五十石町 城西 中初 本町学区 土手町学区
和徳
学区
通史編4(近・現代1)
(校名改称と一校新設)
上白銀町一番地(現弘前市庁舎敷地)の元西館宇膳の家屋に移っていたため、校名を「白銀小学」と改称、二番小学は
和徳
町六番地,にあったので「
和徳
小学」と改称された。
通史編4(近・現代1)
(弘前の小学校)
それが六年十月一日創立の一番小学(現弘前市立朝陽小学校)と六年十二月一日創立の二番小学(現弘前市立
和徳
小学校,)である(なお、
和徳
小学校は学校創立日を、学年開始に合わせて七年一月八日としたが、『文部年報第一年報』
通史編4(近・現代1)
(市制施行と小学校)
『
和徳
小学校沿革史』二十二年六月一日の項に「本日ヨリ市町村制実施ニ依リ弘前市制実施、弘前市役所開庁シ従来,写真101
和徳
小学校校舎 (明治22年新築の四層楼) また、従来の学区は、校名を番号に換え,、弘前市第一学区(朝陽)、弘前市第二学区(大成)、弘前市第三学区(
和徳
)、弘前市第四学区(時敏)、弘前市第五学区
通史編3(近世2)
(子供を池に投げ殺害)
子供を池に投げ殺害 「国日記」嘉永二年(一八四九)十二月二十三日条によれば、
和徳
(わとく)村(現市内
和徳
町,・東
和徳
町・野田・表町(おもてまち)・大町(おおまち)・駅前町・駅前・城東中央・稲田(いなだ))の長之
通史編4(近・現代1)
(その他の会社)
富士醸造株式会社(払込資本金、一一〇〇〇〇円、酒類製造、清水村)、蛭田製材所(払込資本金、七〇〇〇〇円、製材、
和徳
村,)、丸叶弘前運輸株式会社(払込資本金、五〇〇〇〇円、運送業、
和徳
村)、丸上運送店(払込資本金、五〇〇〇〇,円、運送取扱業、
和徳
村)などがあり、活況を呈していた。
資料編3(近世編2)
([付図])
[付図] 弘前城本丸御殿絵図(寛文十三年) 津軽
和徳
町周辺絵図(文政十三年) 本所御上屋敷惣御絵図
通史編3(近世2)
(天津院)
天津院 天津院(てんしんいん)は、天文十一年(一五四二)、
和徳
村(現市内)に創建された。
通史編4(近・現代1)
(第二大成小学校の焼失)
焼失後、第二大成小学校は第一大成校と
和徳
校を借りて二部授業を行った。,第一大成校とはもともと同一学区であり、学校も近かったので問題はなかったが、
和徳
小学校との二部授業は、距離
通史編4(近・現代1)
(大区小区制の成立)
南柳丁 北柳丁 南横丁 萱丁 植田丁 緑町 北土器(かわらけ)丁 南土器丁 中土器丁 上土器丁 代官丁
和徳
町,二小区(一八ヵ村) 黒滝村 湯口村 下湯口村 悪戸村 常盤坂村 坂本村 小沢村 原ヶ平村 富田村
和徳
村,貞昌寺門前・報恩寺門前・万能寺門前は北新寺町、大矢場は新寺町新割町、足軽町は富田町、普光寺跡門前は住吉町、
和徳
足軽町,・薬王院・薬王院門前町は
和徳
町、座頭町は小人町、神明宮社家は若党町、元穢多町は楮町新町となり、誓願寺々中
通史編4(近・現代1)
(農会の設立と農事改良)
当時の各村ごとの出品点数は、清水三〇八、
和徳
二四三、豊田一一九、堀越一九四、千年一一九、相馬一三八、東目屋一一一,(同)、大豆-清野長二郎(清水村)、株大豆-象潟皓一(高杉村)、馬鈴薯(ばれいしょ)-小田桐豊太郎(
和徳
村,熊嶋蔓細工購買販売組合(大浦村)・古川喜太郎(同)・齊藤三之助(同)、藁細工-長谷川蔵吉(大浦村)・工藤東吉(
和徳
村,当時の各村ごとの出品点数は、清水一七六、
和徳
一二八、豊田一二二、堀越九九、千年八九、相馬九三、東目屋八八
通史編4(近・現代1)
(城西小野球部全国大会出場)
出場チームは市内六小学校で、第一回戦は朝陽対
和徳
、時敏対二大、一大対城西が戦ったが、
和徳
、二大、城西の,三校が準決勝戦に進み、抽選で城西が不戦勝で決勝進出、準決勝は
和徳
と二大が戦い、二大校が快勝、決勝戦は六月十七日,翌十五年朝陽小学校が全国大会に出場、翌昭和二年には朝陽、
和徳
の二校が全国大会に出場、弘前少年野球は黄金時代
通史編3(近世2)
(焼成について)
瓦用粘土は代官町(だいかんちょう)(現市内代官町)東方の土取場や
和徳
(わとく)村(現市内
和徳
)の田から,なお埋蔵量の減少に伴い、
和徳
の別の畑地および南溜池南方(現市内清水富田)の堤や猫右衛門町(ねこえもんまち
通史編3(近世2)
(幕末期の市域)
南北一八丁余、制札場は本町・東長町・土手町・
和徳
町・亀甲町・紺屋町の六ヵ所、町端の桝形は富田町・
和徳
町,・紺屋町・樹木派(はだち)の四ヵ所、米倉は
和徳
町の東御倉、東長町の北御倉、亀甲町の亀御倉の三ヵ所、炭倉
通史編4(近・現代1)
(初めてストーブを使用)
ストーブ使用に関して『東奥日報』は「十二年度現在、高小六、朝陽九、時敏九、第二大成九、
和徳
六、第一大成六,、城西六を備え付け、十三年度に於て更に朝陽、時敏、第二大成は六個宛、高小、
和徳
、第一大成、城西は四個宛
通史編5(近・現代2)
(タクシー事業の進展)
タクシーの営業の始まりについても定かではないが、昭和二年(一九二七)六月十七日には既存の弘前自動車業組合(
和徳
町大塚自動車方,、片道八銭として実施する模様で、乗車賃値下げと共に車の運転系統を従来の駅中心から離れて駅から茂森町、
和徳
町
通史編4(近・現代1)
(「二九会」の結成)
当然
和徳
小学校の自他楽会との交流があったであろう。
通史編3(近世2)
(日雇と松前稼ぎ)
桶屋町支配戸数人別調帳」(進藤忠三郎氏蔵 以下「桶屋町人別帳」と略記)や、幕末期の文久三年(一八六三)八月の「
和徳
町西側四丁目,より坂之上九丁目迄(まで)戸数人別改帳」(資料近世1No.一九七 以下「
和徳
町人別帳」と略記)が参考になる,「
和徳
町人別帳」は
和徳
町全体のデータを記載したものではないが、記載部分によればこの町域には本家が七五軒,一方、「
和徳
町人別帳」では本家の家族で松前稼ぎに出かけている者は全部で七人おり、うち女性が三人である。,「桶屋町人別帳」・「
和徳
町人別帳」の記載で共通しているのは、松前稼ぎに行ったまま帰国していないものが大部分
通史編4(近・現代1)
(戸長の配置)
南柳町 北柳町 坂本町 西川岸町 田代町 徒町 徒町川端町 南横町 山下町 前田周蔵 上
和徳
町, 北横町 薬王院門前 對馬常作 下
和徳
町 茶畑町
通史編4(近・現代1)
(通信関係)
は、弘前市、中津軽郡駒越村駒越、同郡清水村常盤坂・紙漉町・富田、同郡小沢村大原、同郡堀越村取上、同郡
和徳
村堅田,・高崎・
和徳
となっている(いずれも現弘前市)。
通史編5(近・現代2)
(学校統合の推進)
①
和徳
中学校を廃止し、第一中学校に統合する。②草薙中学校を廃止し、新和中学校に統合する。,難色を示したり、その逆の場合もあったりで、実施は難航をきわめたが、昭和三十三年(一九五八)四月一日に
和徳
中学校
通史編5(近・現代2)
(弘前中央高校の環境整備)
そこで、弘前中央高校では、隣接していた
和徳
中学校(三十三年、市村合併により第一中学校へ統合)の敷地を買収,げるとともに、三十三年、第一七代校長として赴任してきた山辺将二郎は一計を案じ、危険校舎となった本校舎を避け、旧
和徳
中学校
通史編5(近・現代2)
(道路の整備)
弘前市大字代官町地内弘前停車場線分岐点ヨリ土手町地内弘前市元標ニ至ル間 一、国道第五号路線延長百九十間 幅員五間 同市大字代官町
和徳
町地内弘前停車場分岐点,ヨリ
和徳
町中津軽郡界ニ至ル間 一、国道第五号路線延長七百二十間 幅員五間 同市大字土手町松森町地内弘前市元標
通史編5(近・現代2)
(スケート大会行わる)
参加校は
和徳
、時敏、一大、二大の四校で、生徒の競技出場者は約一〇〇人に達し、接戦の結果、
和徳
校が優勝旗
通史編5(近・現代2)
(東京からの集団疎開児童)
、疎開児童第一陣が弘前駅に着いたとき、市内各国民学校から出迎えが出たが、代表して歓迎の辞を述べたのは
和徳
国民学校六学年荘司道夫,
和徳
国民学校を使用したのは渋谷区本町国民学校で本部宿舎は西茂森海蔵寺であった。
通史編4(近・現代1)
(道路改修問題と佐和知事)
弘前市関係各道路線表 名称 起線 経過市町村 終尾 第41号国道 青森市長島 滝内村、新城村、大杉村、浪岡村、藤崎村、
和徳
村,弘前市山道町、清水村富田 中津軽郡役所 停車場道 弘前停車場 弘前市元寺町 山下町、坂本町、代官町、
和徳
村,弘前停車場 黒石道 弘前市土手町 代官町、
和徳
村、豊田村、猿賀村 尾上村尾上 国幣社道 弘前市元寺町
通史編4(近・現代1)
(学校看護婦の配置)
大正六年四月、石郷岡医師が
和徳
小学校児童・職員七一二人を検診したが、「トラホーム患者、重三、中六八、軽二二,一一六 第二大成 二四四 二八 四七 四八 三 二四一 城西尋常 二四一 三四 二二 一八 三 二三五
和徳
尋常,四 六二 『東奥日報』大正六年九月三日付 (備考)所轄外へ移転は弘前高等一、時敏尋常二、城西尋常三、
和徳
尋常二
通史編4(近・現代1)
(特別大演習と天皇の弘前行幸)
天皇鹵簿(ろぼ)を、弘前および中郡、南郡の各小学校児童は御順路沿道で奉迎したが、
和徳
小学校は「午後五時二十分天皇御着三年以上,
和徳
、第一大成、第二大成小学校は兵士宿舎用に使用され、軍隊に使用されなかった小学校は、大演習見学にやって
通史編5(近・現代2)
(PTAの発足)
この日午後七時、
和徳
小学校に各校PTA関係者五十余人が参集、会則決定、役員の選任を行った。,会長は竹内文作(
和徳
小PTA会長)、副会長島口重次郎(第一大成小PTA会長)、神英造(時敏小校長)、監事竹内助之進
通史編3(近世2)
(施行小屋)
施行小屋 そこで藩では飢えに苦しむ者たちを救済するための緊急の対応策として、城下では
和徳
町の町外れに,このように、食物を求める人々が殺到してくると、藩では収拾がつかなくなると考え、
和徳
町の施行小屋を閉鎖し
通史編3(近世2)
(普光寺)
普光寺 普光寺(ふこうじ)は、光海が開山となって
和徳
村(現市内)に創建され、寛永十五年(一六三八)、
通史編3(近世2)
(信政)
明暦三年(一六五七)の江戸大火の時、信政は神田上屋敷から柳原中屋敷へ避難する際、
和徳
稲荷と名のる老人に,信政はすぐに国元の
和徳
稲荷宮へ代参を遣わし、津梁院境内に
和徳
稲荷を祀らせた。
通史編4(近・現代1)
(日露戦争と小学校)
日露戦争と小学校 明治三十七年(一九〇四)二月六日の
和徳
小学校日誌に「日露ノ風雲愈々急ヲ告ゲ昨夜後備兵,ノ召集アリ、代官町
和徳
町東側ハ工兵ノ宿舎ト定メラレタルニ付、本校ニ炊事場設置ノ儀問合セアリ」とあるのが,
和徳
小学校で、校舎を工兵隊及び輜重(しちょう)輸卒隊の炊事場に貸していたとき、炊事場ではときどき食糧用
通史編4(近・現代1)
(大正二年大凶作と小学校)
中津軽郡
和徳
村(現
和徳
小学校学区一部、城東小学校学区、時敏小学校学区一部にわたる地域)では、大凶作の実態
通史編5(近・現代2)
(失業の増加と消費組合)
組合名 住所 組合長 弘前消費組合 弘前市大町 古木名眞太郎
和徳
消費組合, 中郡
和徳
村百田 佐藤多三郎 黒石消費組合 南郡黒石町 柴田久次郎 藤崎消費組合 南郡藤崎町
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