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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (進修小学校を和徳小学校に合併)

進修小学校を和徳小学校に合併 昭和十一年(一九三六)一月十五日、中津軽郡和徳村の堅田、高崎、俵元の三大字,もともと進修小学校は和徳小学校に合併することを希望していたが、和徳学区民に反対があって実現せず、その後和徳学区民,進修小学校は三月二十八日閉校式を挙行し、翌日から和徳小学校に校具を運んだ。,進修小学校の児童は十四年四月和徳小学校に編入学し、和徳小学校児童数は一三二二人の多数となり、これを二〇 / 進修小学校を和徳小学校に合併
通史編5(近・現代2) (弘前市立和徳幼稚園の設置)

弘前市立和徳幼稚園の設置 三十二年(一九五七)八月一日、弘前市立和徳幼稚園が和徳小学校に併設された。,和徳小学校学区には私立幼稚園が一園も設置されておらず、地域住民から公立幼稚園設置の請願が市議会に提出され,初代園長は和徳小学校長成田信が兼任し、職員は教諭が三人。園舎は和徳小学校小体育館を改装して使用した。
通史編4(近・現代1) (遊廓と小学校)

遊廓と小学校 明治三十年(一八九七)十月二日の和徳小学校日誌に「学校長出校、去月県令ヲ以テ遊廓地ヲ北横町及,アリタキ事ヲ申述べ十一時帰校ス」とあるが、これは弘前市はもちろん、県下に論議を呼んだ遊廓地指定のため、和徳小学校,指定された新遊廓地は北横町、北横町野田、田茂木町山王の一帯で、それが和徳小学校のすぐ隣に位置するところから,和徳小学校長今助次郎は肺疾のため永く病臥中だったが、新遊廓地指定に大いに驚き、病軀(く)をおして市長を,和徳小学校学区会では小学校の移転を策し、これまでの敷地を六〇〇〇円で売却、それを移転費用に充てて当時和徳村俵元
通史編4(近・現代1) (学区の改変)

七年四月亀甲小学の設置によって、これまで大ざっぱに土手町を中心に弘前を南北に分けていた白銀小学と、和徳小学,在府町、相良町、本町、元大工町、塩分町、元長町、森町、覚仙町、鍛冶町、新鍛冶町、南北川端町などとなり、和徳小学学区,もっとも、当時の学区は今日のように画然と分けられておらず、東長町から和徳小学に通学したり、親方町などでは
通史編5(近・現代2) (県下最初の養護学級新設)

県下最初の養護学級新設 昭和二十三年四月、第二大成小学校と和徳小学校に養護学級が新設された。,るために、身体検査を行い、適当な衛生養護の施設を設けなければならない」と規定されていて、第二大成小学校と和徳小学校,和徳小学校養護学級の担任は渡辺邦輔教諭、駒井とよ養護教諭が補助に当たり、福島守男校医が協力した。
通史編4(近・現代1) (小学校のスキー備え付け)

小学校のスキー備え付け 大正二年(一九一三)一月八日、和徳小学校に初めてスキーが備え付けられた。,この和徳小学校備え付けの一組のスキーから、本市の小学校体育に漸次スキーが採り入れられていったのである。
通史編4(近・現代1) (弘前の小学校)

それが六年十月一日創立の一番小学(現弘前市立朝陽小学校)と六年十二月一日創立の二番小学(現弘前市立和徳小学校,)である(なお、和徳小学校は学校創立日を、学年開始に合わせて七年一月八日としたが、『文部年報第一年報』
通史編4(近・現代1) (自他楽(じだらく)会の結成)

自他楽(じだらく)会の結成 明治二十二年(一八八九)二月、和徳小学校教員を中心に「自他楽(じだらく),会員一二人、会費月額五銭で発足した読書グループ「自他楽会」は、和徳小学校を事務所にして、明治二十二年から
通史編4(近・現代1) (「二九会」の結成)

当然和徳小学校の自他楽会との交流があったであろう。
通史編5(近・現代2) (満州事変勃発と小学校)

六年十月二十一日の和徳小学校日誌に「戦死者遺骨出迎ノタメ六学年以上百三十名、二訓導ニ引率サレ弘前駅ニ赴,試みに和徳小学校昭和七年度(八年三月卒業式)卒業生の慰問行事を挙げてみると、六年十月から八年三月までの
通史編4(近・現代1) (市制施行と小学校)

『和徳小学校沿革史』二十二年六月一日の項に「本日ヨリ市町村制実施ニ依リ弘前市制実施、弘前市役所開庁シ従来,写真101 和徳小学校校舎 (明治22年新築の四層楼)  また、従来の学区は、校名を番号に換え
通史編4(近・現代1) (校名改称と一校新設)

)の元西館宇膳の家屋に移っていたため、校名を「白銀小学」と改称、二番小学は和徳町六番地にあったので「和徳小学
通史編5(近・現代2) (音楽教育の先達)

弘前市の小学校で音楽を初めて教えたのが和徳小学校であり(明治二十年五月)、傍島万年に学んだ訓導山中嵯峨之助
通史編4(近・現代1) (幻灯会の開催)

幻灯会の開催 和徳小学校日誌の明治二十年(一八八七)六月三十日に「本日ヨリ三日間講堂ニ於テ幻灯会ヲ開
通史編4(近・現代1) (小学の組織)

和徳小学の発足に当たって、校具はすべて白銀小学から譲り受けたなど、その一例であろう。
通史編5(近・現代2) (東小学校の創立)

同校は城東地区の市街化に伴い、これまでの学区を変更して和徳小学校、豊田小学校、第一大成小学校からの四三二人
通史編5(近・現代2) (軍歌)

軍歌 軍歌は軍人のための音楽であったが、一般市民も歌い、また学校教育の中でも軍歌が扱われたのが「和徳小学校資料
通史編4(近・現代1) (日露戦争と小学校)

日露戦争と小学校 明治三十七年(一九〇四)二月六日の和徳小学校日誌に「日露ノ風雲愈々急ヲ告ゲ昨夜後備兵,和徳小学校で、校舎を工兵隊及び輜重(しちょう)輸卒隊の炊事場に貸していたとき、炊事場ではときどき食糧用
通史編5(近・現代2) (紀元二千六百年奉祝)

紀元二千六百年を祝って記念事業を行うものが多く、朝陽小学校は理科教育設備拡充に児童保護者会が千数百円を投じ、和徳小学校
通史編4(近・現代1) (第二大成小学校の焼失)

第一大成校とはもともと同一学区であり、学校も近かったので問題はなかったが、和徳小学校との二部授業は、距離
通史編5(近・現代2) (日華事変勃発)

同日夜、予備兵・補充兵に動員令が発せられ、それら応召兵を収容するため、軍は和徳小学校や第一大成小学校に
通史編5(近・現代2) (時敏小学校焼失)

尋常科第一・二学年-和徳小学校、第三・四学年-朝陽小学校、第五・六学年-城西小学校。
通史編4(近・現代1) (御真影奉置所の設置)

市内小学校で二番目に御真影奉置所を設置したのは和徳小学校で、大正十三年七月のことである。
通史編5(近・現代2) (PTAの発足)

この日午後七時、和徳小学校に各校PTA関係者五十余人が参集、会則決定、役員の選任を行った。
通史編4(近・現代1) (特別大演習と天皇の弘前行幸)

天皇鹵簿(ろぼ)を、弘前および中郡、南郡の各小学校児童は御順路沿道で奉迎したが、和徳小学校は「午後五時二十分天皇御着三年以上
通史編4(近・現代1) (裁縫科と女子就学)

和徳小学校はそれより二年後れて二十三年四月から裁縫を正科としているが、各校がそろって正科にしたのは二十三年以後
通史編5(近・現代2) (平家琵琶)

明治期の学校行事に参加出演したのは雅楽と同じであり、和徳小学校が明治二十三年に購入した風琴(オルガン)
通史編4(近・現代1) (大正二年大凶作と小学校)

中津軽郡和徳村(現和徳小学校学区一部、城東小学校学区、時敏小学校学区一部にわたる地域)では、大凶作の実態
通史編4(近・現代1) (含英女小学創設)

生 徒 男 女 男 女 白銀小学 陸奥国津軽郡白銀町 明治六年 旧官舎 公有 一〇 - 三三五 - 和徳小学
通史編5(近・現代2) (富田大火と第一・第二大成小学校の焼失)

そのため、第一大成小学校は四月二十三日から和徳小学校に移って、二部授業を行うことになり、午前は和徳校児童
通史編5(近・現代2) (わらべ歌)

わらべ歌 明治二十年代の和徳小学校の「日誌」には「女生徒遊戯歌に『何処へ盃やりましょう』等を用いる不可
通史編4(近・現代1) (試験法と地方集合試験)

このような厳重な試験法では、雰囲気に押されて実力が出せず、落第する者が多く、和徳小学では三五・四%が落第,写真56 和徳小学定期試験点検調 (明治15年6月)  地方集合試験は明治十年ごろに始められ、
通史編5(近・現代2) (建築近代化への立ち後れ)

一八七四)から九年(一八七六)にかけて、公立七校、私立二五校の設置を見たが、このとき小学校舎としたのは、和徳小学
通史編4(近・現代1) (義務教育の延長)

和徳小学校の場合、六〇人の四年生のうち、五年生に入学を申し込んだのは九割の五四人もあって、説得の校長を
通史編5(近・現代2) ([付図])

籠城〈昭和6年〉 6 満州事変~凱旋の第八師団を歓迎する弘前市民〈昭和6年〉 7 和徳小学校
通史編5(近・現代2) (学校建築・公共的建築)

その後、明治二十二年(一八八九)には和徳小学校の改築、弘前高等小学校の新築、明治二十四年(一八九一)には
通史編1(自然・原始) (原ヶ平面)

ボーリング資料によると、第一大成小学校⑬(三八メートル)・和徳小学校(三三メートル)では、地表下五メートル
通史編4(近・現代1) (学校看護婦の配置)

大正六年四月、石郷岡医師が和徳小学校児童・職員七一二人を検診したが、「トラホーム患者、重三、中六八、軽二二
通史編4(近・現代1) ([口絵])

口絵67 冬の土手町 †学びの風景Ⅱ† 口絵68 小学生の遊戯 口絵69 和徳小学校
通史編4(近・現代1) (明治天皇崩御)

その後の小学校の動きを和徳小学校日誌から抜粋する。
通史編5(近・現代2) (学校における音楽)

一八七二)に東奥義塾が設置され、続いて、明治六年(一八七三)に一番小学(現朝陽小学校)、二番小学(現和徳小学校
通史編5(近・現代2) (藤森市政の財政)

四十三年度には第一大成小学校の通学路に横断歩道橋、和徳小学校の通学路の一部に歩道が設置された。,四十五年度には和徳小学校横に歩道橋、茂森町・和徳町・東和徳町・中央通りに歩道が設置された。
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