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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編5(近・現代2)
(和徳村との合併問題)
和徳村
との合併問題 弘前市と
和徳村
の合併問題は、奥羽線弘前・青森間の開通に伴う弘前駅の設置に端を発していた,合併に関する
和徳村
民の意向は賛否両論、実にさまざまな意見が噴出した。,要するに
和徳村
の弘前市への合併を容認するグループといえよう。,
和徳村
自体は古い歴史があり、村民のプライドも相当に高かったのだろう。 ,
和徳村
大字和徳の全部と、大字高崎の字岩井、大字堅田の字富田が弘前市に編入されることになった。 /
和徳村
との合併問題
通史編5(近・現代2)
(和徳地区小学校統合問題)
和徳地区小学校統合問題 弘前市に合併前の旧中津軽郡
和徳村
には、明誠(撫牛子)、静修(大久保)、養正(,三校とも老朽危険校舎であるところから、市教委は三校を統合して、旧
和徳村
一校の適正規模とし、教育の向上を,三校統合は市村合併以前の
和徳村
議会で決定済みであり、すでに用地も買収されていたが、用地が明誠地区に片寄,その場所は弘前市へ合併前の旧
和徳村
村議会ですでに決定済みであった。,通学距離の遠近が表面上の争点であったが、その背後には永年にわたる
和徳村
各大字間の利害得失や政治的確執が
通史編4(近・現代1)
(その他の会社)
富士醸造株式会社(払込資本金、一一〇〇〇〇円、酒類製造、清水村)、蛭田製材所(払込資本金、七〇〇〇〇円、製材、
和徳村
,)、丸叶弘前運輸株式会社(払込資本金、五〇〇〇〇円、運送業、
和徳村
)、丸上運送店(払込資本金、五〇〇〇〇,円、運送取扱業、
和徳村
)などがあり、活況を呈していた。
通史編3(近世2)
(天津院)
天津院 天津院(てんしんいん)は、天文十一年(一五四二)、
和徳村
(現市内)に創建された。
通史編4(近・現代1)
(町村合併と弘前市制施行)
清水村(大字富田)-富田村 紙漉町 坂本村 常盤坂村 悪戸村 下湯口村 小沢村
和徳村
(大字堅田)-,堅田村
和徳村
高崎村 撫牛子村 大久保村 津賀野村 百田村 向外瀬村 清野袋村 豊田村(大字新里),
和徳村
-大村
和徳村
と古城和徳城、旧藩和徳組頭村に由来。
通史編4(近・現代1)
(道路改修問題と佐和知事)
弘前市関係各道路線表 名称 起線 経過市町村 終尾 第41号国道 青森市長島 滝内村、新城村、大杉村、浪岡村、藤崎村、
和徳村
,弘前市山道町、清水村富田 中津軽郡役所 停車場道 弘前停車場 弘前市元寺町 山下町、坂本町、代官町、
和徳村
,弘前停車場 黒石道 弘前市土手町 代官町、
和徳村
、豊田村、猿賀村 尾上村尾上 国幣社道 弘前市元寺町
通史編3(近世2)
(普光寺)
普光寺 普光寺(ふこうじ)は、光海が開山となって
和徳村
(現市内)に創建され、寛永十五年(一六三八)、
通史編4(近・現代1)
(中津軽郡会)
村会議員互選当選者 駒越村 石郷岡文吉 堀越村 葛西穏
和徳村
川村譲 高杉村,(憲本) 豊田村 福士健夫(憲政) 千年村 佐藤義雄(憲政) 裾野村 須藤信夫(憲政)
和徳村
通史編3(近世2)
(常源寺)
じょうげんじ)は、「長勝寺並寺院開山世代調」によれば、永禄六年(一五六三)、開基を為信の父武田守信とし、
和徳村
通史編4(近・現代1)
(郡制の施行)
第一回の中津軽郡会議員(定員一六人) 駒越村 石郷岡文吉 堀越村 葛西穏
和徳村
川村譲,小杉左吉 東目屋村 竹内藤太郎 西目屋村 斎藤弘民(以上一〇人憲政本党) 堀越村 工藤長左衛門
和徳村
通史編5(近・現代2)
(経済更生運動と計画)
経済更生計画は全村ぐるみで行われ、同計画に基づいて、新和村、船沢村、豊田村、
和徳村
、堀越村、大浦村、高杉村,b / a 戸 戸 円 円 清水村 655 605 461,017 762
和徳村
,』昭和7年より作成 経済更生計画は全村ぐるみで行われ、同計画に基づいて、新和村、船沢村、豊田村、
和徳村
通史編5(近・現代2)
(市域の整備と町村合併)
爾来(じらい)、郡市合併問題は弘前駅周辺の
和徳村
合併と併せ、歴代市長の課題となっていた。,昭和戦前期の合併問題でもっとも重要であり紛糾したのは、
和徳村
の合併であろう。
通史編5(近・現代2)
(農業会の解体と農協の乱立)
特に、農協が多数設立された自治体は千年村が八、清水村が五である一方、船沢村、
和徳村
など一ヵ所のところもあった,昭和23年4月2日 同右 一野渡 昭和23年4月16日 弘前市 弘前市城北 昭和23年5月28日
和徳村
,
和徳村
昭和23年4月6日 岩木村 岩木村百沢 昭和23年4月22日 相馬村 湯口 昭和23年6月8
通史編5(近・現代2)
(総選挙での戦い)
黒石町 鳴海文四郎 △幹事長 青森市 梅村大 △顧問(中弘関係)高杉村 高杉金作
和徳村
,黒石町 竹内清明 弘前市 石郷岡文吉 同 宮川久一郎 高杉村 高杉金作 東京 工藤十三雄
和徳村
,評議員 清水村 成田勇作 大浦村 齋藤晋作 東目屋村 長谷川毅 清水村 成田清太郎
和徳村
,顧問 東京市 兼田秀雄 神奈川県片瀬 菊池良一 大杉村 工藤善太郎 △相談役
和徳村
通史編5(近・現代2)
(進修小学校を和徳小学校に合併)
進修小学校を和徳小学校に合併 昭和十一年(一九三六)一月十五日、中津軽郡
和徳村
の堅田、高崎、俵元の三大字
通史編4(近・現代1)
(大成小学校創設)
十七年十一月学区町村聯合会(「学区町村聯合会」とは学聯区ではあるが、三校とも隣接村落〔清水村、豊田村、
和徳村
通史編4(近・現代1)
(農会の設立と農事改良)
(同)、大豆-清野長二郎(清水村)、株大豆-象潟皓一(高杉村)、馬鈴薯(ばれいしょ)-小田桐豊太郎(
和徳村
,熊嶋蔓細工購買販売組合(大浦村)・古川喜太郎(同)・齊藤三之助(同)、藁細工-長谷川蔵吉(大浦村)・工藤東吉(
和徳村
通史編4(近・現代1)
(貴族院議員選挙の概況)
大正十四年の互選人一〇〇人の中に、弘前関係では、弘前市-藤田謙一・宮川久一郎・中谷熊吉・関清六・宮川忠助、
和徳村
通史編4(近・現代1)
(通信関係)
は、弘前市、中津軽郡駒越村駒越、同郡清水村常盤坂・紙漉町・富田、同郡小沢村大原、同郡堀越村取上、同郡
和徳村
堅田
通史編5(近・現代2)
(中弘地区の合併推移)
昭和戦前期に一部合併となった
和徳村
でさえ、市に財源をとられ苦労した経験があった。,中弘地区は①弘前市、清水村、
和徳村
、豊田村、堀越村、千年村、②大浦村、岩木村、駒越村、③藤代村、高杉村
通史編4(近・現代1)
(「農事調査」と中津軽郡)
211 352 0 306 堀越村 357 438 0 390 豊田村 338 415 1 452
和徳村
,、弘前市街-林檎・養蚕・葡萄、清水村-米・小麦・蕎麦・大根、千年村-米・粟、堀越村-米、豊田村-米、
和徳村
通史編4(近・現代1)
(市会と市役所開庁)
清水村 中田平次郎
和徳村
小野貞助 豊田村 一戸久之亟 堀越村 樋口徳太郎 千年村
通史編4(近・現代1)
(大正二年大凶作と小学校)
中津軽郡
和徳村
(現和徳小学校学区一部、城東小学校学区、時敏小学校学区一部にわたる地域)では、大凶作の実態
通史編5(近・現代2)
(失業の増加と消費組合)
住所 組合長 弘前消費組合 弘前市大町 古木名眞太郎 和徳消費組合 中郡
和徳村
百田
通史編5(近・現代2)
(都市計画の開始)
周辺八村とは、清水村、藤代村、
和徳村
、豊田村、堀越村、千年村、駒越村、大浦村である。
通史編4(近・現代1)
(玉成高等小学校の創立)
高杉村、大浦村(現岩木町)、藤代村、相馬村、岩木村・駒越村(ともに現岩木町)、千年村、堀越村、豊田村、
和徳村
通史編5(近・現代2)
(富田大火と第一・第二大成小学校の焼失)
は富田大通りの一部、偕行社通りの一部、住吉町、品川町、松森町一部、代官町、土手町一部、上瓦ヶ町一部、
和徳村
一部
通史編4(近・現代1)
(遊廓と小学校)
和徳小学校学区会では小学校の移転を策し、これまでの敷地を六〇〇〇円で売却、それを移転費用に充てて当時
和徳村
俵元
通史編5(近・現代2)
(津軽の基幹作物-米とりんご)
作付面積(10a) 単収(kg) 弘前市 2,300 415.8 清水村 2,620 373.8
和徳村
通史編4(近・現代1)
(地主制の確立と在村地主の役割)
、高谷貞助(船沢村、中津軽郡議会議長)、高杉金作(高杉村、衆議院議員、弘前商業会議所会頭)、笹森栄(
和徳村
,(和徳町)・菊池定次郎(東長町)、清水村-成田有作・楠美冬次郎・石岡粕太郎・中田平次郎(清水村長)、
和徳村
通史編5(近・現代2)
(赤十字の活動)
清水村や
和徳村
、藤代村などは割当を完了していただけでなく超過人員を出している。
通史編4(近・現代1)
(シベリア出兵と反戦デモ)
一年志願兵の入営に際し社会主義者として注目されて居る中郡
和徳村
野呂衛(二八)は歩兵第五十二連隊に入営すべく
通史編4(近・現代1)
(北部無産社)
北部無産社 野呂衛は、
和徳村
の地主の子で、弘前中学、法政大学を卒業、幸徳秋水や大杉栄の無政府主義を信
通史編4(近・現代1)
(農業団体の発展)
した人物として、清水村の外崎嘉七、楠美冬次郎、工藤銀次郎、阿部亀吉、三上喜太郎、川村喜代吉、石岡一斎、
和徳村
通史編3(近世2)
(施行小屋の設置と犯罪防止)
一合五勺の粥を炊き出し、秋田領の出身地・一族の名前・本人名などを記した人別帳を作成し、死亡した場合には
和徳村
通史編4(近・現代1)
(大区小区制の成立)
二小区(一八ヵ村) 黒滝村 湯口村 下湯口村 悪戸村 常盤坂村 坂本村 小沢村 原ヶ平村 富田村
和徳村
通史編2(近世1)
(陸上交通網の整備)
黒石津軽家が成立する以前の史料であるためか、弘前から黒石に向かう場合は直通道路が記載されておらず、羽州街道の
和徳村
大道
通史編5(近・現代2)
(軍国主義・国家主義の払拭)
なお、弘前市が実施要領を市内関係機関へ通知する前の一月三日、
和徳村
ではすでに役場の神棚の廃止を決定している
通史編4(近・現代1)
(巡幸の日誌と弘前)
和徳村
を過ぐ。弘前に駐蹕す。人烟稠密。百貨輻輳。官署学校神祠仏宇甍を連ね鱗次(りんじ)す。
年表・索引編
([弘前市の人口の推移])
45,523人 10年(1935) 46,014人 11年(1936) 47,058人
和徳村
通史編4(近・現代1)
(市制の施行)
このときに、紙漉町は学区の関係上弘前から割いて中津軽郡清水村に編入し、また、中津軽郡
和徳村
飛地字野田及
通史編2(近世1)
(本村と新田)
460.21 4 蒔苗村 382.05 5 撫牛子村 298.83 5 外野瀬村 138.52 6
和徳村
通史編5(近・現代2)
(掲載写真の典拠・所蔵一覧)
記録-次代への証言 特別号』青森空襲を記録する会 1995年 写真100 同 上 写真101 「
和徳村
役場
通史編4(近・現代1)
(運輸事業)
十七、八年ごろになると小野貞助(初代
和徳村
村長。
通史編1(古代・中世)
(二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)
天津院 同右 天正年中 (一五七三~九二) 大浦政信 津梁
和徳村
(弘前市) 同右 同右 誓願寺
通史編2(近世1)
(知行宛行状の発給)
の内で高一〇〇石が与えられており(同前No.六六二)、このうち現在の弘前市内に該当する村名としては上
和徳村
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