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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (城下での生活)

昼飯後唐牛与右衛門を訪ね、午後八時まで懇談して帰る。  ,・甚右衛門・源右衛門・唐牛弥太左衛門などを訪ねる。,昼ころ、唐牛甚右衛門より手紙が来た。,唐牛与右衛門・木立新左衛門・弥兵衛も来ていた。,今日、唐牛八三郎の前髪取りのお祝いに行く。
通史編5(近・現代2) (弘前無尽会社の相互銀行への転換)

)、「東奥」(一四票)、「奥羽」(一三票)、「北日本」(一一票)、「東北」(一〇票)などがあったが、唐牛社長,取締役社長 唐牛敏世   専務取締役 葛西弥六   常務取締役 斎藤友七   取締役   伊藤金蔵,(非常勤)、竹内俊吉、唐牛 貞、舘山徳太郎、山口七郎、平野富蔵、正井清造(非常勤) (前掲『弘前相互銀行五十年志
通史編3(近世2) (江戸勤番と生活)

神田小川町(かんだおがわちょう)(現東京都千代田区)にあったが、下野那須家烏山藩の御家騒動に連座して、貞享四年,まもなく小川貞右衛門が訪ねてきたので一緒に外出する。  三日、出番であったが上屋敷は別条なし。,昨日の夕方、唐牛甚右衛門・九戸十右衛門より手紙が来た。,二十二日、木村杢之介・唐牛長右衛門・久保田一郎左衛門とともに田村藤太夫を訪ねる。  
通史編2(近世1) (参勤交代路と街道の状況)

元禄十年(一六九七)には小栗山(こぐりやま)・石川・宿川原(しゅくがわら)・唐牛(かろうじ)村に松守が,これに対して、弘前~油川間では、貞享四年(一六八七)の「道付」(国史津)に、藤崎の北、飯詰(いいづめ)
通史編2(近世1) (支配機構の整備)

」(藩の軍事機構)が徐々に確立していった時期である(福井敏隆「津軽藩における支配機構の一考察―天和・貞享,一方、翌寛文七年十月二十九日には、唐牛三左衛門・溝江半右衛門が、二〇〇石以上の藩士で、「御手廻」の「御本参,次いで、十二月には間宮勝守・堀利盛・木村明矩が、翌年四月には唐牛甚右衛門嘉治が任じられている。
通史編2(近世1) (鉱山の開発)

延宝三年(一六七五)二月、唐牛与右衛門を「金銀銅惣御山奉行」に命じ、鉱山開発の総責任者とした。,しかし貞享年間に入ると、銀の生産量は減少傾向に転じていった。
通史編2(近世1) (林政の展開と漆木の栽培)

貞享元(1684) 松の育成方などについて定める。,貞享2(1685) 松・はん・檜の種を国元に下す。はんの種は広須新田に植林。,貞享3(1686) 石川村(現石川)長者森から桔梗長根までの地域ほか数ヵ所に松山を仕立てる。,元禄13(1700).3~8 唐牛村(現大鰐町唐牛)大野に小松3万本を植林,その後にわたり植え継ぎを命,貞享検地の検地水帳に記載された漆の本数の総計は三二万七一五八本に達し、漆林の総計は五六町五反七畝二七歩
資料編1(古代・中世編) ([付図])

弘前市中別所字葛野 荼毘館跡 108~110 弘前市高杉字山下 八重山(八重の森) 111 弘前市高杉字山下 南貞院境内,62 藤沢館〔メノコ館〕 128 熊野平館 63 竜気平館 129 砂沢平館 64 箆九枚館 130 唐牛城
通史編2(近世1) (知行宛行状の発給)

貞享四年(一六八七)の「陸奥国津軽郡御検地水帳」(同前No.一一六一)では、同村の高は八四二・六二七石,この村山を唐牛吉太夫が討ち取ったため、二月晦日に唐牛に一〇ヵ村の内で高一〇〇石の加増が行われた(同前No
資料編1(考古編) (〈注一覧…第4章〉)

ノ沢館跡等発見の陶磁器資料」(弘前大学考古学研究第3号) 1986年 45) 大鰐町教育委員会 『唐牛城,後藤守一 『日本歴史考古学』 1937(昭和12)年 *5 昭和11年に『ミネルヴァ』誌上で、喜田貞吉,切田前谷地遺跡発掘調査報告書』(十和田市埋蔵文化財調査報告書第4集) 1985年 *27 葛西励・高橋潤 『唐牛城
通史編3(近世2) (金木屋の生活)

〓の貞(八月二十六日に男子出産)、明日枕下げにつき、お祝いと産着(うぶぎ)を差し上げる。,三日、この総人数は、津軽黒石藩家老唐牛夫妻、その他芸者も含めて約三〇人であった。
通史編2(近世1) (津軽信枚の越後転封)

七、最勝院・長勝寺・百沢寺・貞昌寺に国替の通知を行い、末寺までも一緒に越後まで上るという寺は召し連れること,図67.天海画像  なお、この転封騒ぎの時、国元に信枚の国替情報を知らせたのは、竹森六之助と唐牛九右衛門
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●元和六年(一六二〇)十一月晦日、これより先、津軽信枚、出羽亀田城主岩城貞隆の死を弔する使者を、久保田,唐牛吉太夫、村山を討ち取り、その功を賞して加増される。
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