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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (銀遣いへの変更と商人の活用)

銀遣いへの変更と商人の活用 藩は上方商人から大きな借金を抱えていたが、それが累積していく大きな要因として,既に、宝暦三年八月の御調方役所の設置に伴って、藩内の有力商人である足羽(あすわ)次郎三郎と竹内半左衛門,の組織化を図り、商人を統制下に置いた(同前No.九一五・九一六)。,銀遣いへの変更は、このような商人統制のもとになされたのである。  ,そして、宝暦五年の大凶作に直面するに及んで、この通貨統制・商人統制はさらに、領内の金銭・物資およびその / 銀遣いへの変更と商人の活用
通史編2(近世1) (対蝦夷地政策と青森商人の商業活動)

対蝦夷地政策と青森商人の商業活動 商業や貿易の面からみると、通商条約締結による外国貿易開始は、津軽地方,の人々にとって幕府・諸藩、そして外国商人を取引の相手にできることになり、商売上大きな好機が到来したといってよい,また、分領諸藩は物資の集積地である青森に着目し、その商人たちを御用達として、物資の購入と輸送を担わせた,しかし、この政策は農民と独占から排除された商人の反発を買い、翌年末に中止された。  ,青森商人の大村屋庄蔵・西沢善兵衛らは、箱館の外国商人との間に材木の売買契約を結んだ。 / 対蝦夷地政策と青森商人の商業活動
通史編2(近世1) (上層農民・在方商人の伸長と藩政の動向)

上層農民・在方商人の伸長と藩政の動向 十八世紀半ば以降は、上層農民・在方商人が発展した時期であった。,飯詰村(いいづめむら)(現五所川原市飯詰)の飯塚家(いいづかけ)は、北屋の屋号を持つ在郷の商人である。,これは、町場としての発達を背景に、商品経済が地域社会に浸透していったことにより、上層農民や在郷商人らが,さらに延享期に入ると、北屋は上方の商人との取引を積極的に行い、木綿や砂糖などを仕入れている(同前)。,さらに、北屋と提携した上方商人長浜屋源左衛門は、弘前藩の蔵米の売却にもかかわっていた(『五所川原市史』 / 上層農民・在方商人の伸長と藩政の動向
通史編3(近世2) (青森商社の終末と意義)

それは商社に参加した青森側商人と弘前側商人の立場の違いから生まれた。,ところが、青森商社が設立されて弘前商人が加担商人として参加するようになると、彼らはそうした青森の市場を,、弘前商人によって利益を横取りされたのではたまったものではない。,そのうえ、弘前の商人には目に余る行動をとる人物もいた。,分裂の火種は常に商人の間でくすぶっていた。  
通史編2(近世1) (預手形の性格)

宝暦の標符と異なり、預手形の発行に当たっては、「御元方御用達」として任じられた城下の主要な御用達商人,この違いについては、標符失敗の教訓から藩が前面に立たず、富裕な御用達商人の保証する預手形という体裁をとって,預手形の作成も、東長町の商人片谷清次郎本店で行っていたが、その後、御用達商人から藩庁が責任を持って発行,もっとも、最後まで御用達商人の発行であるという建前を崩すことはなかった。  
通史編4(近・現代1) (市制施行直前の商業)

卸売商人については、弘前には菓子、酒類などの食品関係の商人が多いことがわかる。,次に、仲買商人数は表33(三二九頁)のとおりである。,この時期に弘前に特に多い仲買商人は荒物の取扱商人で、県内の半数以上を占めている。,小売商人は表34(三三〇頁)のとおりである。,弘前に多い小売商人は、荒物、酒類、菓子、穀物、小間物、呉服太物の取扱商人である。
通史編2(近世1) (由緒書から)

持船商人の例としては、彼の持船が為信の上方上りに徴用されたことを記しており、そこに初期豪商的な性格も認,は、越前三国湊との交流があったこともさることながら、文化・宗教の移入者として、多くの情報をもたらした商人,また、兵庫屋佐兵衛の由緒書には兵庫の浦、笠島太平太の由緒書には越後出身の商人が認められ、特に、笠島氏の
通史編2(近世1) (対外交易の実態)

また、金木屋のほか、箱館と地理的に近接する青森でも異国を商売相手と考える商人がいた。,また、慶応元年(一八六五)年には、青森の商人大村屋庄蔵・西沢善兵衛らが木材の売買契約を外国商人と結んだ,、品質に難を示した外国商人により一方的に契約が破棄され、弘前藩箱館留守居野呂謙吾が引責辞任に追い込まれている,このように、旺盛な交易意欲を持つ多数の商人が活発な商業活動を展開しようとし、藩としても積極的に貿易の主体,明治二年(一八六九)三月に、弘前藩は二〇万両を越える巨額の資本金を出して青森・弘前の大商人たちを結集させ
通史編3(近世2) (商業の農村進出)

一方、商人が農村へ進出し、木綿・小間物の店を出すことは禁止され(木綿は弘前城下の本町(ほんちょう)以外,その後になると、農民の贅沢が目立ち、村内に商家も増え、農民の次、三男の中で商人になる者が多くなった。,このように商人になる者が多くなったのは、貨幣経済・商業資本が農村へ侵入し、農村の階層分化を促したからであろう,、藩士が農村から城下へ再び戻ったにもかかわらず、一定数の店を認めたことがもとになり、在方(ざいかた)商人,が村へ触売りの品物、弘前の商人が村から買い受ける品物が記載されている)、近ごろは絹布・木綿・小間物など
通史編3(近世2) (青森商社の設立)

それは、新政府は交易政策に積極的であり、蝦夷地に日本各地の商船が来航して利益をあげているのに、領内の商人,その際、建て前は商人たちによる出資金に応じた利益の配当があるとはいいながらも、内実は藩による手厚い保護,長谷川与兵衛・大木屋円太郎・近江屋文蔵・豊田太左衛門・滝屋兼蔵・西沢伊兵衛・久保久七・柿崎忠兵衛ら一一人の有力商人,また、弘前では今村九左衛門・鳴海久兵衛・近藤慶次郎・武田熊七・野村常三郎ら六人が加担商人とされ、商社の,六月二十八日に柱立てが行われ、八月十二日に落成したが、それまでの諸会合には滝屋の屋敷が使われ、弘前側の商人
通史編3(近世2) (商社の活動内容)

これらは滝屋・金沢屋・河内屋の蔵にいったん収められ、弘前側加担商人の到着を待って売りさばかれることとなった,当時、青森の商人たちは戊辰戦争の軍費負担により著しく衰微しており、町内の商業活動は資金が不足して、とても,明治二年九月に松前藩が従来の場所請負制(うけおいせい)を廃止すると、同二十三日に青森側商人の長谷川与兵衛,これを受けて、青森側商人は同年十月に大木屋円太郎・近江屋弥兵衛と三厩の商人安保(あんぽ)正兵衛を松前・,御用達商人に任命された。
通史編2(近世1) (中世の北国海運)

一方、出羽酒田は、北国海運の諸船の寄港地としてばかりでなく、ここに根拠を置いた舟持商人が、北陸などの舟持商人,北国海運での酒田の舟持商人の活躍は、こうした町の在り方を反映したものであった。  ,また、酒田の舟持商人は、特に最上氏家臣などの蔵元的機能を持っており、上方商人に中継して蔵米の売却を行っていて,したがって、酒田の商人は、米の売買によっての商業利潤を得ることはできなかったのである。  ,しかも、近世初期の城下商人や町方は、北国海運の拠点と何らかのかかわりがあったと伝えられる。
通史編2(近世1) (他領者の入領規制と流通統制)

荷物は大問屋が一括して買い受け、九浦のルートと同様、口銭を徴収し、扱問屋を通じて商人に渡された。,たとえば、弘前で商売が成立せず両浜や黒石を経由して帰国する商人や、弘前以外の在・浦に用事のあった旅人を,従来は着岸しだい、荷物の到着を弘前商人仲間に報告するものとされ、商人仲間は相談のうえ当番を派遣し、現地,両浜における城下商人の統制を明らかにしているのである。,実質的に城下商人の値段が無視されていたのである。  
通史編2(近世1) (宝暦―天明期の借財)

蔵元とは蔵屋敷の管理に当たり、大名から廻米を中心とする「蔵物」の売却・出納をつかさどった商人のことで、,これに対し、藩の公金の出納、江戸や国元などへの送金に当たった商人を掛屋(かけや)というが、両者は兼任していることが,鴻池は代表的な蔵元商人で、金沢・広島・徳島・岡山・柳川など大大名の掛屋を務め、さらに尾張・紀伊両藩の御用達,蔵元は大名から手数料である口銭(こうせん)を与えられるなど利益も多く、大商人は競って蔵元・掛屋になりたがり
通史編2(近世1) (幕末期の蝦夷地交易)

幕末期の蝦夷地交易 先に述べた滝屋・藤林ら青森商人は、何も外国交易にだけ熱心だったのではない。,このように青森商人の活動に諸藩や幕府役人は大きく依存していたのである。  ,この活動に商人たちが深く関与するのは明らかであり、商売の機会はますます拡大するはずであった。
通史編4(近・現代1) (菜種・水油の商況)

管内津軽地方ニテ裁植シタルモノ)、尤此種ハ札幌菜種、近江菜種ニ比スレハ、油液僅少、品質遙ニ劣等ナレトモ、仕向先商人,間ハ、緩漫沈静ノ景況ナリ、其他秋田鉱山ヘ向ケ輸出ノ数量ハ、八石九斗、代価弐百四拾四円七拾五銭、又青森商人,取引シタル数量ハ、六石七斗、代価百八拾四円弐拾五銭ナリ、種粕ハ(当市産)、本年一月ヨリ四月ノ間、東京商人
通史編2(近世1) (厄介視される預手形)

やはり、預手形の信用は薄く、一般の商人たちは受け取りを嫌がったのである。,同じ品物を預手形の場合には高値で販売した商人を処分した例、さらに些細なことでは、預手形の客には「御定」,の大きさよりも小さい豆腐を売って処分された豆腐商人の例などが「国日記」に載っている。,この商人は正金銭の客には逆に大振りの豆腐を渡していた。
通史編2(近世1) (一 青森開港と初期海運)

七三)、上方に至る西廻り航路が成立するまでは、主として北陸地方の敦賀(つるが)や小浜(おばま)の廻船商人,近世初期の段階では、敦賀の廻船商人で徳川家康との関係が深かった田中清六(せいろく)正長らが新たに日本海海運
通史編2(近世1) (大問屋制の導入)

一方、上方への商品注文も当初は各地域の御用達の商人がまとめて行う方針だったが、実態に合わせた取引の必要性,ごとに二歩とされたが、大問屋は一歩を受け取り配下の「下問屋」に分配し、下問屋でもさらに一歩を受け取り、商人,このようにして大問屋―御用達―一般商人という統括機構ができあがったのである。
通史編2(近世1) (青森騒動の経過)

騒動勢は町奉行が訴願を受け入れない場合は弘前城下へ強訴に出るつもりだったが、彼らが返答を待つ間に、寺町の商人嶋屋長兵衛,の辻甚左衛門家が打ちこわされ、市街中心部の大町・浜町・米町を中心に周辺部の寺町・博労町・安方町の有力商人一,米穀を蓄えていた商人のほかにも、町名主や両替商としての不正・不評を理由に、懲罰的に打ちこわしを受けた者,このようにして、騒動勢は商人一〇四軒が蓄積していた米穀約五二〇〇俵、大豆約六〇〇〇俵の存在を明らかにし,打ちこわしに当たって騒動勢は、大工・商人の家から鉈(なた)や手斧(ちょうな)を持ち出し、質入れした刃物
通史編3(近世2) (商社の収支実態)

もちろん、この資本金の中には西洋型商社の形態にのっとり、商人たちの拠出金も含まれてはいた。,たとえば青森側商人は明治三年段階で合計六〇〇〇両を出しているが(「家内年表」明治三年八月四日条)、これに,弘前側商人からの積金を合わせたとしても到底二一万両余には及ばない。,がどのようにこのような巨費を調達できたのかは今のところ謎であるが、おそらくは④収入金で得られた一四万三五一三両に商人
資料編3(近世編2) (第二節 藩政改革の実施と黒石藩の成立)

天保の飢饉とその後の藩政  (一)天保の飢饉  (二)財政の窮乏  (三)漆の増殖  (四)商人統制
通史編4(近・現代1) (大正期のりんご流通)

こうしたことから消費地の問屋や小商人がこぞってりんごに目をつけ、産地に買い付けにきたが、悪徳商人による,大戦景気の中で生産者が得た教訓は、悪徳商人からの自衛と、中間マージンの取り戻しであった。
通史編2(近世1) (人返し令)

、天明元年(一七八一)以降に町方に引っ越してきた者すべてであるが、そのほか弘前・九浦および在方の「小商人遊食之類,天明飢饉による混乱と、百姓が在方を引き払って商人となったり、店商売や触売(ふれう)りを兼業する百姓が年々増加,、兼業の場合、通常の百姓と違って華美となる傾向にあることや、天明飢饉で多数の死者が出たにもかかわらず商人
通史編4(近・現代1) (主要銀行の景況)

大正期には以上のほかに、弘前商業銀行、津軽銀行、弘前宮川銀行があり、それぞれ、有力商人中心の銀行、周辺地域,の有力地主が設立した銀行、有力商人の同族銀行として活動していた。
通史編1(古代・中世) (五 城館の発掘成果)

五 城館の発掘成果 城館のなかでは、城館主や一族郎党そして家臣団および従属する下人・職人・工人・商人
通史編3(近世2) (瀬戸師五郎七)

瀬戸師五郎七 五郎七は天保三年(一八三二)、筑前の瀬戸座から、当時毎年のように鰺ヶ沢や青森に着岸していた瀬戸商人
通史編2(近世1) (騒動の背景)

山本四郎左衛門が藩の買米を担当し、家中の知行米や津出米の管理・販売なども行うなど特権的立場を持つ御用商人,藩は翌三年一月に、一匁につき米一升四合(一俵当たり二八匁強)の公定価格を定めていたが、御用商人の米の買,この差の原因を一部商人の買い占めとみた町方の不満が爆発し、ついに飢渇に及ぶとして、打ちこわしが起こったのである
通史編2(近世1) (「標符(通帳)」通用の実態)

した収奪であり、収奪したそれらの配分と流通、そして販売と購入は、領内外を問わず、藩と実務を執る運送役の商人,そして、商人たちへの配給商品の不足は、領民への物資供給を滞らせ、また正金銀の入手のための売り渋りを助長,さらに、上納すべき金銀米銭を持たない「小商人ならひニ職人」には標符が与えられず、標符の流通範囲から除外,、正銭での手取りはなかったのであるが、このことは標符発行の見返りとしての財産没収が、領内の有力百姓・商人
通史編2(近世1) (青森町の成立と青森開港)

また右の町づくりの下命のほかに、外浜中の商人船を青森へ集中させ、高岡(たかおか)(当時の弘前の地名)の,その理由は、旧来の特権を有していた有力な商人層を排除して太平洋海運の発展に対応可能な近世的商人を育成し,ヵ条の定書を発給して、木綿(もめん)・小間物(こまもの)の青森での売買の促進、青森への商船の集中と、商人,嘉兵衛なる人物は、弘前藩が青森町を建設するに当たって、越前から呼び寄せた有力商人か、来航した商船の船主若,寛永二十一年(正保元年、一六四四)条に、青森での越前町成立の記事がみえ、同町は安方町に隣接し越前出身の商人
通史編3(近世2) ((二)食事)

ただし、有力商人の金木屋に残された、幕末期の「金木屋日記」によって、富裕な町人の食事を垣間(かいま)見
通史編2(近世1) (近世初期海運)

庄司太郎左衛門・茂右衛門の二人は、おそらく敦賀の有力な廻船商人であったと思われる。,相応の財力を持った商人であったのであろう。
通史編2(近世1) (飢饉への対応)

への対応 藩庁では天明三年九月十日に評定所に在方の有力者約六〇名と、弘前や両湊の御用達(ごようたし)商人,十一月十六日に藩は弘前御用達商人や在方の有力者六四人を評定所に呼び、御用金一万二〇〇〇両の調達を命じ、,しかし、困窮しているのは彼らも同様で、調達できなかった御用達商人三人が蔵を封印された。
通史編2(近世1) (鉱山の開発)

この鉱山の存在は、元禄時代には全国的にみて有名なものであり、元禄十六年(一七〇三)、銅を扱う商人から幕府,山を預けられた弘前の商人竹内勘六は、大坂の商人に銀主を依頼して山の経営を継続させ、享保十一年(一七二六
通史編2(近世1) (近世の十三湊)

、十七世紀の初めには、新たに十三町、十三湊の再建もしくは再興が、領主権力が上方から連れてきた城下特権商人
通史編3(近世2) (紫)

江戸商人らの買い入れもあったが件数は少ない。  
通史編4(近・現代1) (弘前商業会の活動)

同会は、会長が宮本甚兵衛、副会長が菊池定次郎で、岩井彦太郎、白井武造らが発起人に名を連ね、市内の有力商人
通史編2(近世1) (慶安二年の「弘前古御絵図」)

慶安二年(一六四九)五月の寺町大火直後の弘前城下を描写したものであるという「弘前古御絵図」から、城下の商人,弘前古御絵図にみえる屋号のある商家(網かけ部分) 図122.慶安期の町割りと町名  屋号と商人,加賀など、西廻り海運に関係する地名の屋号が、東北地方を地名を冠する屋号よりも圧倒的に多かったのは、上方商人
通史編4(近・現代1) (弘前の小学校)

当時、弘前は県内最大の都市で、人口三万三八八四人(明治四年調査)と最も多く、士族や商人が居住して、文化的
通史編3(近世2) ((一)衣服)

が多いが、「金木屋日記」の嘉永六年(一八五三)の一ヵ年間(資料近世2No.一九四)にみえる、城下有力商人
通史編1(古代・中世) (得宗被官の入部)

北条氏にも近侍しなければならないから、現地でさらに所務代官を登用することも多く、所領の経営を請け負う商人
通史編4(近・現代1) (米作振興と米騒動)

えていたために農業発展が遅れ、米需要に追いつかなかったこと、加えて、大正七年のシベリア出兵を見越して米商人,米騒動は、全国において米商人や高利貸しが放火、打ち壊しに襲われるなど、当時の社会状況に不満を持つ民衆が,米の半数は地主米によって占められ、しかも北海道への移出と流通は米穀商人によって担われていたことから、品質
通史編3(近世2) (諸役と仲間)

その際の記述から、弘前商人仲間という組織もあったことがわかる。  ,前述した商人仲間については、「国日記」文化二年(一八〇五)十月十八日条には、弘前商人仲間へ対し、津軽郡内,での商家の米・金銭貸借について、その取引定を商人仲間より詳しく申し出るようにとの藩からの下命がみえる。,同じく「国日記」文久二年(一八六二)十一月十一日条では、商人仲間が町定飛脚用に、従来は六匹だったが一〇,商人仲間の実態は不明であるが、金融や運輸関係の業務を行っていた組織であった可能性が高い。  
通史編2(近世1) (家臣団構成)

ったものといわれる寛延三年の分限帳には、八〇の役職名と家臣団一六九人の名前が記され、さらに職人頭・庄屋・町年寄・用達商人
通史編2(近世1) (経済政策の前提)

さて、以上のような財政状況の把握と整理の上で経済政策が推進されていくことになるが、その政策は、商人の活用,いずれも貨幣経済の進展によって台頭してきた商人を政策の中に取り込んだ経済統制策であるが、藩の介入度および
通史編4(近・現代1) (料理店)

商家の旦那・成金の商人・田舎紳士・軍人などと浮名を流し、「嫖郎の懐中を悩ますもの、大小老幼合して三十九匹
通史編2(近世1) (領内戸数・人数・諸家業調べおよび諸家業・諸職の統制)

図156.家業鑑札  一方、在方においても、田畑の耕作をしながら商いをしている小商人を農事に専念,そして領内の諸工・諸家業を定めたうえで、それ以外の小商人を禁止し、在方から町方に移住した者を残らず帰村
通史編2(近世1) (隠津出・抜け米の取り締まり)

隠津出・抜け米の取り締まり 一方、米穀に関しては組織はやや異なるが、やはり城下の主要な御用達の商人が,これらの米穀の購入状況を御元方勘定奉行に報告し、支払いの仲介に当たったのが御用達元方の商人であり、一般
通史編2(近世1) (宝暦~天明期の弘前藩の財政状況)

ほかに江戸廻 米が二万四五〇〇石(一一・六五パーセント)、先納金を供出した加賀・上方の商人五人への廻米,11.65 要用払米 28,747 13.67 三ヶ所一番値段払米 1,200 0.57 先納金拠出商人,支出は二六〇七貫三〇四匁(金四万三四五五両余相当)で、うち借財返済関係は青森・弘前および在方の用達商人
通史編4(近・現代1) (弘前市経済改善への提言)

弘前市経済改善への提言 明治十三年(一八八〇)一月十七日付で、弘前の商人である今村要太郎、藤田半左衛門,この文書により、この時期の都市住民である商人の意見を見、町の経済状態とその改善策を見てゆきたい。,ナレトモ、金拾円以上収ムルモノハ、当県下市街平民ニ於テハ僅少ニシテ、啻ニ農家其ノ被撰人ニ帰スルカ如ク、商人,被選挙人の資格である地租金一〇円以上納入は、市街地の商人には容易に達しえないものなので、地租金の五分の,煙草印紙ハ壱厘、五厘、壱銭、五銭、拾銭ノ数種ナレハ、該御規則ヲ遵守スルハ論ヲ俟タスト雖、小商人ニ於テハ
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