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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (家中屋敷の郭外移転)

三の丸には侍屋敷は六九軒(うち空き屋敷一四軒)、四の郭には侍屋敷四八軒(うち空き屋九軒)、西外の郭には,三六軒(うち空き屋敷七軒)が置かれ、藩の施設である御蔵(二の丸)や御鷹部屋(三の丸・四の郭)、御馬屋(,西外の郭)、星場(ほしば)(四の郭)、塩硝(えんしょう)小屋(四の郭)、材木場(西外の郭)などと混在していた,また三の丸と四の郭にあった御鷹部屋、四の郭にあった星場は、それぞれ家中の屋敷地に変わった。,四の郭にあった家中屋敷はこの時点までにすべて取り払われている。
通史編4(近・現代1) (招魂祭)

三十九年四月二十一日、公園四の郭(今の護国神社の位置)に祭壇を設け、日露戦争当時の第二軍司令官・奥大将,なお、招魂社が上白銀町から公園四の郭に移転新築したのは明治四十三年十二月である。
通史編2(近世1) (城下高岡の形成)

門は東門(三の丸東門)・南門(三の丸追手門)および三の丸と四の郭(北の郭)の間にある和徳堰の南にあった,四の郭も侍町で四九軒の侍屋敷があり、北門(北の郭北門、亀甲門)があった。,この絵図の通りには町名が書かれており、それにより町名がわかるところは、袰(ほろ)町(現四の郭)、侍町(,足軽町(現若党町と在府町)、小人町(現小人町、笹森町、長坂町)、歩者(かち)町(現若党町)、侍町(現四の,郭、三の丸、馬屋町、五十石町、笹森町、鷹匠町の一部、塩分町の南側)、鷹匠(たかじょう)町等である。
通史編3(近世2) (城門番所の警備)

賀田門)、西の郭の埋門(うずみもん)、内北の郭の東門、三の丸の外東門(現存)、本丸の武者門・南門・北門、四の,郭の外北門(亀甲門、現存)の一二門があった(明治三年「御本城御絵図」弘図津)。  
通史編3(近世2) ((三)住居)

) がみられ、郭内の二の丸・三の丸に重臣の邸宅があり、正門である北門(きたもん)(亀甲門)を入ると四の,郭(袰町(ほろまち)とも呼ばれる)で、そこには軽輩の屋敷があった。  
通史編3(近世2) (他領から技術を導入)

しかし絵図には、四の郭(北の郭)に塗師場、作事場、普請場が描かれているので、この塗師場で岩崎明右衛門、
通史編4(近・現代1) (城跡の荒廃)

そのころ個人に貸し付けた記事が見えて、新谷平太郎は二の丸馬場跡の桑の木四九三株のある土地を拝借、また、四の,郭北側の漆木のある地面は佐藤真雄が拝借したことがあり、明治十七年には種牧場を設けたいと請願をした者もあった
通史編4(近・現代1) (藩祖三百年祭)

九日夜は花火打ち揚げ、十日昼は弘前公園本丸に高岡神社の遙拝所を設け、四の郭には余興や見世物があり、公園内
通史編3(近世2) (宝暦期の城下)

なお、同年の「御本城絵図」によれば、四の郭(くるわ)の岩木川側の一角は柵を巡らされて土場(とば)になり
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