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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (弘前市青年団分団の結成)

弘前市青年団分団の結成 四年(一九一五)九月、政府は内務・文部両省の共同訓令を発し、全国の地方自治体,設置が急がれることになったが、弘前市は大正八年(一九一九)九月、各学区ごとに青年団の分団を作ることになり,、分団長には小学校長が任命された。,学区内の勤労青少年たちは早速入団を勧誘された。,市内各学区ごとに設立をみた市青年団分団は学区の小学校長を分団長とし、その小学校の施設を利用して活動を始 / 弘前市青年団分団の結成
通史編5(近・現代2) (音楽団休)

音楽団休 NHK弘前局が昭和十三年(一九三八)に開局になり、昭和十七年九月には『弘前放送子供会』が誕生,この子供会が児童合唱団の先駆けとなった。そのころには小島正雄が率いる弘前コーラス会もあった。  ,『青森県文化芸術団体一覧』(青森県環境生活部、二〇〇三年)によると、「器楽」として弘前市には一三団体があり,、その中で弘前交響楽団(設立昭和六十三年)、弘前バッハアンサンブル(同昭和六十年)、弘前市吹奏楽団(同昭和五十九年,『青森県文化芸術団体一覧』には声楽として一六団体の名がある。 / 音楽団休
通史編5(近・現代2) (少年団の結成)

少年団の結成 十六年四月弘前市内各国民学校に少年団が結成され、この年一月発足した大日本青少年団に加盟,の大日本青少年団に加盟したものである。  ,しかし、大日本青少年団は政府による天下り的な結成で、自治的な活動は許されておらず、政府の御用団体にすぎなかった,さらに、十七年一月三十一日、県学務部長から学校長宛に通牒があって、少年団の集会行事などには、大日本青少年団綱領,左に朝陽少年団の綱領を示す。     / 少年団の結成
通史編4(近・現代1) (師団誘致運動)

師団誘致運動 師団拡張にあたり陸軍当局が最も憂慮したのは、敷地の獲得だった。,第八師団の所在地が弘前市に決定すると、弘前市をはじめ周辺の町村からも師団誘致のための運動が盛んに起こった,写真77 第8師団司令部  師団誘致合戦は、互いに自らの地域の特徴や利点をアピールし、関連当局に,師団設置を要望する町長の上申書を陸軍当局に提出している。,師団の敷地は連隊の敷地も合わせると膨大なものだった。 / 師団誘致運動
通史編5(近・現代2) (青少年団の動向)

青少年団の動向 時局が険しくなっていくにしたがって、全国の青年団、女子青年団、少年団に対し、統合強化,そのため、文部省は指令を与えて、昭和十六年(一九四一)一月十六日、大日本青年団、大日本女子青年団、大日本少年団連盟,これを受けて同年三月十七日、本県青少年団の結団式が県議事堂において行われた。,参加した団体は、県単位の団体一、郡単位の団体八、市単位の団体三、町村単位の団体ほか、青年学校単位の青年団,および女子青年団四四一、国民学校単位の少年団四三〇を数え、統合された団体数は一四六八、団員数は青年団五万人余 / 青少年団の動向
通史編2(近世1) (家臣団構成)

家臣団構成 現在、津軽黒石藩の分限帳としては、明暦二年(一六五六)、享保二年(一七一七)、寛延三年(,文化六年の黒石藩成立以前で最も整ったものといわれる寛延三年の分限帳には、八〇の役職名と家臣団一六九人の,役職名は約三〇と簡略なものとなっており、家臣団の数も一四〇人で、寛延の分限帳と比べると約三〇人減少している,は三五と寛延期の半分以下であるにもかかわらず、家老から名主に至るまで三五九人と二寺の名が記され、家臣団のみでも / 家臣団構成
通史編4(近・現代1) (市青年団の結成)

市青年団の結成 市内各小学校を単位とした市青年団の分団づくりが行われ、各分団を一つにまとめた弘前市青年団,その日午前九時数発の花火を合図に、公園東口付近に集合していた各分団は分団長の検閲を受けたあと、その引率,これに対して、青年団総代として朝陽小学校分団の佐藤金蔵が答辞を述べた。,この日参加した青年団員は六八三人、団長には市長、副団長には市助役を戴くというもので、青年たちの自主的な,運営になる後の青年団とは、およそ性格を異にした官製の青年団であった。 / 市青年団の結成
通史編5(近・現代2) (弘前市青少年団)

弘前市青少年団 県青少年団の下に各郡市の青少年団の統合もなされ、団長も任命された。,弘前市青少年団長は市長乳井英夫、副団長は助役木立猛のほか神英造、笹森テサ、事務局長兼総務部長伊藤得治、,このように青少年団は統合されたものの、実際の活動単位としては、小学校ごとに設置した団体であることは従前,統合された青少年団の任務の第一は、時局に即応した勤労奉仕であり、最も緊急とされた食糧増産に重点が置かれた,ちなみに統合時の団員数は八八〇六人(青年団一〇九一、女子青年団一三七三、少年団六三四二)であった。 / 弘前市青少年団
通史編4(近・現代1) (第八師団の実状)

第八師団の実状 全国各師団の実状は時折天皇に上奏されることになっていた。,それを見ると、第八師団長立見尚文の名で、日露戦争を間近に控えた当時の第八師団管下の様子が、概略的ではあるが,立見師団長は、雪国を管下に控える第八師団では積雪のために新兵の訓練が十分でないことを上申している。,防寒対策、とくに雪対策が北方師団である第八師団に課せられた大きな課題となった。,明治三十五年(一九〇二)の一月下旬、立見師団長が明治天皇に師団の実状を上奏したその月に、師団管下の第五 / 第八師団の実状
通史編4(近・現代1) (私設市連合青年団)

私設市連合青年団 明治末期から大正初期にかけて、弘前市の主な町内には青年会や青年団が、続々と結成されるようになった,名称は総会であったが、県青年団の結成式を兼ねたものであり、これによって全県的な青年団組織が形式上成立をみることになった,この総会で益子恵之助は県青年団長に選ばれ、続いて二ヵ年その地位にあって県内の青年団体をまとめるのに貢献,このころの青年団体は、名前を青年に借りながら、その実、町の壮年有志を会員とし、会員相互の団結や親睦を図,したがってこの時点の、青年の名を冠した団体に対して、四十歳前後の年輩者の集まりを「青年団」と呼ぶことができるかという / 私設市連合青年団
通史編5(近・現代2) (金属団地の建設)

集団化事業計画の完成 昭和三十七年六月九日、組合工場等集団化計画について、組合設立発起と同時に諸種検討,集団化用地買売契約 昭和三十七年十月十七日、弘前市長他土地所有者と集団化用地の売買契約を完了した。,助成団地として指定決定 昭和三十八年六月二十五日、通産省中小企業庁より、昭和三十八年度助成団地として指定,集団化地鎮祭 昭和三十八年七月二十日、集団化用地現場に各関係者の参列を得、地鎮祭が行われた。,計画第三年度集団化事業助成決定 昭和四十一年二月九日、計画第三年度、昭和四十年度分の工場集団化事業助成額 / 金属団地の建設
通史編5(近・現代2) (海洋少年団の結成)

海洋少年団の結成 昭和十九年(一九四四)四月、市内各国民学校に海洋少年団が結成された。,すでに大日本青少年団が結成されているのに、さらに海洋少年団が結成されたのは、海軍の少年兵育成の宣伝のためであった,海洋少年団は海洋思想の修得や手旗信号、海軍式初歩調練あるいは海軍への慰問文送付などを行った。,五月、青森県海洋少年団は市内各校海洋少年団に団旗を贈呈した。,しかし、海洋少年団は翌二十年五月二十二日、本土決戦に備え、学校教育を事実上停止することを求めた「戦時教育令 / 海洋少年団の結成
通史編4(近・現代1) (私設青年団の結成)

私設青年団の結成 明治年間を通して地方自治体や各種の自治的な組織も次第に整備され、市民の自治意識も高,ことに日露戦争が終わると地方改良運動が唱えられ、その一環として地方青年団の設置が奨励された。,明治四十五年(一九一二)五月、弘前で初めて町内の枠を破って、全市的な青年団の結成が見られた。,弘前実業青年団で、新寺町慈雲院を会場に発会式を挙げた。,この青年団は土手町と和徳町の有志が首唱し、全市の実業家たちに呼びかけて成った団体である。 / 私設青年団の結成
通史編2(近世1) (家臣団の成立)

家臣団の成立 弘前藩の家臣団の成立過程を厳密に解明することは、ほとんど不可能といってよい。,それは、江戸時代初期の資料はほとんど存在せず、まして家臣団の詳細を記した分限帳などは存在しないからである,家臣団を形成していたのか不明な点がみられる。,それを、まとめたものが表13である(福井敏隆「元和・寛永期津軽藩の家臣団について」『弘前大学国史研究』,このように、家臣団を部分的にはつかめるが、それ以上の解明は難しい。 / 家臣団の成立
通史編4(近・現代1) (農業団体の発展)

農業団体の発展 小農民の組織化に関する産業組合の役割と並んで、農業振興のために不可欠な農事改良・技術指導,半官半民的性格を有し、地主の主導のもとに全農業者の利益を計ることを目的に、農政運動、農業生産指導、農業団体,さらに、船沢村青年団・高杉村強行青年団が、品評会を開催した(「各村農会開催、農作物品評会一等の受賞者」,同五年には、前記二つの青年団とともに駒越村兼平青年団も独自に品評会を開催している(『中津軽郡農会報』第七号 / 農業団体の発展
通史編5(近・現代2) (報国団の結成へ)

報国団の結成へ 校友会の活動も戦争前の大正時代の延長線上にあったが、スポーツにおいても、県大会や対抗試合,しかし、昭和十六年、校友会は改組されて弘前中学校報国団となった。,報国団は、総務部・体練部・国防訓練部・文化部・生活部に分かれていたが、戦争の生んだものに国防訓練部があった / 報国団の結成へ
通史編5(近・現代2) (宗教団体法の成立)

宗教団体法の成立 昭和十四年(一九三九)三月二十三日、第七四回帝国議会は「宗教団体法」を成立させた。,十六年六月二十四、二十五日の両日にわたって、日本のプロテスタント四十余の教派が解消を遂げて、「日本基督教団」,全市内中等学校生徒の見ている前で神社参拝の礼式と玉串奉奠(たまぐしほうてん)を強要され、知らないと言ったら、師団司令部 / 宗教団体法の成立
通史編4(近・現代1) (第八師団のシベリア派遣)

第八師団のシベリア派遣 シベリア出兵が弘前市民にとって最も身近な問題となったのは、やはり第八師団自体,大正十一年四月十九日、第一一師団と交代するため、第八師団がシベリアに派遣されることになった。,郷土師団の派遣、とくに軍都弘前を象徴する第八師団の出征ということで、弘前市民の関心は一気に高まった。,撤兵が決定するとともに派遣されていた各師団は凱旋を果たした。,第八師団が青森に上陸したのは十月十四日であり、二十八日には師団司令部も弘前に帰還した。 / 第八師団のシベリア派遣
通史編5(近・現代2) (美術団体の躍進)

美術団体の躍進 青森全域を対象とした東奥美術展であったが、県内の各市町村でも、それぞれの美術団体が大正期,画材の配分と統制が行われていくなかで、作家個人の制作はもとより、大正の初期から昭和の初めにかけ多くの団体 / 美術団体の躍進
通史編5(近・現代2) (弘前市にとっての第八師団)

第八師団を抱える弘前市については、とくにそうだった。,第八師団は青森、岩手、秋田、山形を管轄し、仙台に拠点をもつ第二師団とともに、東北師団として巨大な施設を,当然、弘前市民も寒さに強い北の師団である「国宝師団」を誇り高く思っていたのである。  ,日中戦争以降、師団が大増設されるまで、陸軍部内でも師団長は天皇に直隷し陸軍次官や参謀次長より上位とされていた,師団司令部が置かれ、師団長を地元に迎える弘前市民にとって、軍隊との関係は他地域よりも密接であったろうし / 弘前市にとっての第八師団
通史編4(近・現代1) (日露開戦と第八師団の派遣)

日露開戦と第八師団の派遣 明治三十七年(一九〇五)二月十日、日本はロシアに宣戦布告した。,しかし郷土師団たる第八師団が大陸出征したり、津軽海峡にロシア艦隊が出没したり、樺太からロシア人捕虜が弘前,郷土師団たる第八師団が出征せず、留守師団として内地に留まっていたのが最大の理由であろう。  ,その第八師団も六月七日に動員されることになった。当時の日本は全部で一二の師団が常備していた。,郷土師団たる第八師団に動員令が下り、いよいよ大陸に出征してからは、弘前市民の戦争熱も高まった。 / 日露開戦と第八師団の派遣
通史編4(近・現代1) (盗伐問題と師団の設置)

盗伐問題と師団の設置 この年八月十二日、信望厚く、七年間も本県知事を務めた佐和正が免官になった。,は、直前の六月十五日に襲来した三陸大津波への対策、年々四〇〇人余の犯罪を生む官有林盗伐の問題、第八師団の,一方、同じ清水村で、明治三十一年から第八師団建設工事が始まったため大発展した大字富田のケースもある。,富田から小栗山に通ずる道路沿いに、師団司令部(現弘前大学農学生命科学部)、旅団司令部(同)、憲兵隊(同,写真73 弘前師団通りの松原(明治末年)  これによって、沈滞しきっていた弘前の経済も活況を呈し / 盗伐問題と師団の設置
通史編5(近・現代2) (昭和の美術団体)

昭和の美術団体 また、竹森節堂も、この六花会から東奥美術社に至る活動の中で重要な役割を果たした。,古藤正雄(ことうまさお)(明治四〇-昭和六一 一九〇七-一九八六 むつ市)、賢佶らにより立ち上げられた団体 / 昭和の美術団体
通史編5(近・現代2) (東京からの集団疎開児童)

東京からの集団疎開児童 二十年六月、東京からの集団疎開児童が津軽地方にやってきた。,八月十五日の終戦をいちばん喜んだのは、東京から集団疎開の児童たちではないだろうか。,集団疎開の国民学校では、世話になったお礼として若干のお金を当該国民学校に贈ったが、船沢国民学校に疎開した / 東京からの集団疎開児童
通史編4(近・現代1) (保守派との合同団結)

保守派との合同団結 明治十四年十月二日、本多庸一は野呂源太辞任による中津軽郡県会議員に当選した。,まず、保守派の代表で県会議長だった大道寺繁禎に合同団結を申し入れた。,定まったから、青森県も衰頽(すいたい)を挽回して将来の進歩を図らねばならないが、それには弘前の有志が団結 / 保守派との合同団結
通史編4(近・現代1) (ロシア戦への意識と第八師団の設置)

日清戦争当時の師団は全国で第六師団までしかなかった。,第七師団から第一二師団まで六師団を新たに増設し、弘前に第八師団、金沢に第九師団、姫路に第一〇師団、善通寺,に第一一師団、久留米に第一二師団を置いた。,二年後に正規の師団長を発令し、弘前第八師団の初代師団長には、立見尚文が就任した。,写真76 立見尚文師団長  師団拡張の結果、これまで仙台の第二師団に属していた青森・岩手・秋田三県 / ロシア戦への意識と第八師団の設置
通史編5(近・現代2) (美術団体の発足と展開)

美術団体の発足と展開 大正期は、青森県出身、関係者の芸術家たちによる独自の美術団体が発足し、活発な展開,引き続き、照雲は同年三月、在京の美術家たちの美術団体による「六花会」を立ち上げた。 / 美術団体の発足と展開
通史編4(近・現代1) (中央における大同団結運動)

中央における大同団結運動 明治十七年、民権を代表する自由、改進二大政党は崩壊し、弘前でも民権派の拠点,後藤の大同団結運動は、帝国議会開設を前に反政府諸勢力を結集し、議会の多数を占める政党を結成しようとした / 中央における大同団結運動
通史編2(近世1) (藩政の転換と家臣団統制の動き)

藩政の転換と家臣団統制の動き 宝永期の藩政において、天和・貞享期以来郡・勘定方を掌握し、藩主信政の意向,一方で信寿は、藩士の生活の基本となる主要法令を二度にわたり発布し、家臣団統制に取り組もうとしている。,これらの動きは動揺した家臣団の収拾を図り、藩政の動揺をも止めようとしたものだったのであろう。 / 藩政の転換と家臣団統制の動き
通史編4(近・現代1) (笹森修一、修二兄弟と社会主義研究団体)

笹森修一、修二兄弟と社会主義研究団体 笹森修一は、明治時代の有名な先覚者笹森儀助の子で、明治十九年六月岩木山麓 / 笹森修一、修二兄弟と社会主義研究団体
通史編4(近・現代1) (黒溝台の死闘)

黒溝台の死闘 大陸に出征した第八師団は、第一・第七・第九師団とともに、乃木希典司令官が率いる第三軍に,郷土師団たる第八師団は、この戦闘に一万五七一九人が参加した。,第八師団と後備第八旅団の損耗率は八〇%に近い。,その結果、壊滅的な打撃と被害のために、かえって日露戦争を果敢に戦った北方師団として、第八師団は「国宝師団,師団の地元弘前市民にも「国宝師団」を抱える弘前市という印象が広まった。
通史編4(近・現代1) (県内青年の政治的自覚)

そして、それまでの単位青年団が、助役や学校長を団長とする官制的なものであったのに対し、青年団は青年団自身,大正十一年、黒石町に革新青年団が生まれた。,ロシア革命以後の時代風潮もあって、大正八、九年ごろから黒森山浄仙寺で南郡下の青年団中堅幹部の講習会が開,彼らの「自主化」は一部から青年団の赤化と言われた。大正十二年、黒石革新青年団は郡青年団から脱退した。
通史編4(近・現代1) (日清戦争と郷土部隊の出征)

当時、弘前市出身の兵士たちは仙台にある第二師団に属していた。,しかし義勇団は有志を募った私的な団体であり、政府が制度として定めた徴兵制に基づく軍隊組織と相容れず、支障,それでも義勇団を組織しようとする動きは止まらなかった。,また東奥義塾の学生も義勇団を組織し従軍を願い出た。,当時まだ第八師団はなく、弘前市出身の将兵たちは仙台を拠点とする第二師団に属していた。
通史編5(近・現代2) (郷土部隊の出征)

事変後、各地の師団から部隊が出征し、第八師団管下の各連隊にも出征が命じられた。,混成第四旅団の出征であり、旅団長は鈴木美通少将だった。市民は郷土部隊の出征を盛大に歓送した。,三月十二日、第八師団の主力部隊が出動することになった。このときの師団長は西義一中将である。,師団主力が出征するということで、『東奥日報』をはじめ新聞は大々的にその偉功をたたえ、郷土師団の派遣を盛大,第八師団将兵が常に青森県の師団であることが、ここでも強調されている。
通史編5(近・現代2) (軍事色の払拭)

第八師団を抱えていた弘前市にとって、軍事色の払拭は単に建物施設の解体にとどまらなかった。,第五七師団は日中戦争期に増設された師団である。,日中戦争が泥沼化した結果、全国各地の師団が中国や朝鮮など外地に出たこともあり、戦力増強を意図して師団が,昭和十五年(一九四〇)七月十日、第五一師団から第五七師団まで七つの師団が新設された。,このうち第五七師団が、第八師団を母体として編成されたのである。  
通史編1(自然・原始) (一 従来の研究)

また、鈴木(一九七二)、松山・岩木山団研(一九八〇)、塩原・岩木山団研(一九八〇)、黒木(一九九五)などは,ほか(一九九六)は岩石学的研究とK-Ar法による年代測定(1)を実施し、山口(一九九八)も松山・岩木山団研,(一九八〇)および塩原・岩木山団研(一九八〇)の研究成果を踏まえて、指標火山灰の特定とK-Ar法による
通史編2(近世1) (寛文蝦夷蜂起の経過)

事件の原因は、日高のシブチャリ川やニイカップ川の漁獲をめぐるシプチャリ近辺の集団(メナシクルという大集団,の一部)とハエクルと呼ばれる集団(サルンクルまたはシュムクルという大集団の一部)の争いである。,両者の争いが表面化するのは、慶安元年(一六四八)、シプチャリ近辺の集団の「脇大将」シャクシャインがハエクル,松前藩は、両者の争いが蝦夷地中のアイヌを巻き込んで大きなものに発展することを恐れ、両集団に戦闘の中止を,やがて松前藩と蜂起アイヌ側の兵力の差が歴然となり、さらに松前藩側がアイヌ側を策によって分断し、アイヌの団結
通史編5(近・現代2) (北辰堂規則)

有志が禍(わざわ)いを未然に防ぐために「学術研究ノ目的ヲ以テ我が四部内、即チ若党町ヲ中心トシテ一ノ学生団ヲ,組織シ、之ヲ螢雪社卜号セル一団体アリシカバ、遂ニ之ヲ総括シテ当市笹森町二十九番地ニ新タニ、一ノ文武講習場,そして、文武の講習に参加したのは小野派一刀流、梶派一刀流、卜伝流の三団体で、総員数は一二〇人であった。
通史編1(古代・中世) (得宗領・安藤氏との関わり)

こうしたことからすると、おそらくは得宗領を中心に渡り歩いた、幕府と密接にかかわる禅僧集団、あるいは後述,の安藤氏と密接にかかわる時衆集団、ないしは修験の集団、またはさまざまな芸能集団が、まず津軽に唐糸の名を
通史編1(自然・原始) (三 地形分類)

表1に層序を示したが、地形分類にあたっては松山・岩木山団研(一九八〇)および塩原・岩木山団研(一九八〇,図9 岩木火山および周辺の地形分類 表1 岩木火山周辺の層序表(松山・岩木山団研,1980に,された後に、その境界部からの水蒸気爆発によって発生した爆裂火口跡が存在するからと考えられる(塩原・岩木山団研
通史編4(近・現代1) (弘前市処女会の設立)

それは「処女会」と呼ばれたが、実質的には女子青年団というべきものであった。,結成の方式は青年団の場合と同じく、市内各小学校に分会を置き、その小学校長を分会長とし、女子教員を幹事として,弘前市処女会の設立に当たって、市長松下賢之進が会長となったのは市青年団の場合と同様であった。,弘前市処女会発会式の主催者は市当局であったが、来賓として市会議員や学校教育関係者のほか第八師団から蒲少将
通史編5(近・現代2) (敗戦時の郷土部隊)

第八師団自体は太平洋方面の戦局が絶望的となった昭和十九年(一九四四)七月、フィリピンへの転出を命じられている,他の師団と同様、第八師団管下の各部隊も中国や南方方面に派遣され、悲惨な状況下で敗戦を迎えている。,むろん第八師団管下の各部隊も同様である。,師団・連隊も解散させられ、天皇の軍隊は驚くほどあっけなく解体したのである。
通史編5(近・現代2) (第二回社会教育大会)

第一日目 図書館・公民館・民主団体・青年団・婦人会・PTA  第二日目 放送教育と視聴覚教育・新学制実施,行政担当者をはじめPTA、青年団体、婦人団体など、これらの集会を通じて新しい社会教育に対する認識を深めていったのである
通史編4(近・現代1) (歩兵第三一連隊の移転問題)

第八師団のある弘前市に一連隊を置き、岩手県にも同県出身者で構成される一連隊を配置することは、合理的な軍縮路線,第八師団設置の際もそうだったように、陸軍部隊の設置や移転は地元経済に甚大な影響を与える。,多数の将兵とその家族が地元にもたらす経済的効果は、師団と二つの連隊をもつ軍都弘前市の場合、尋常ではなかった,移転阻止の決議案には、市の財産をなげうってでも師団を誘致した弘前市民の努力を強烈に訴える内容が盛り込まれていた,師団司令部のある地元弘前市周辺に連隊がなくなる事態だけは、陸軍省も避けたのである。
通史編4(近・現代1) (青年訓練所の設置)

青年訓練所も青年団分団と同じように市内の各小学校に併設の形で開所され、小学校長は青年訓練所の主事を命ぜられた,訓練所の生徒は青年団員を兼ねるのが普通であり、したがって、青年訓練所は青年団の軍事化の性格を持つものとなった
通史編5(近・現代2) (戦後の世相と観光政策)

戦争の終結により、弘前市は軍都の象徴として、政治・産業の基盤だった第八師団を失った。,戦後は第八師団に代わる弘前市の象徴と産業基盤を見出すために、弘前大学を新設し、学都弘前をめざした。,だが学都弘前だけでは戦前・戦中の第八師団と比べ、産業的基盤に欠けるのは否めなかった。  ,しかし大学を設立し、大学生を集めるだけでは戦前・戦中期の弘前市の経済を支えた第八師団の威力に遙かに及ばない
通史編5(近・現代2) (混乱・混迷の合併交渉)

反対派の町議は南津軽郡選出議員団にはたらきかけ、県議団が知事に合併議案の撤回を申し入れる事態となった。,南郡議員団は、また、自民党議員にも訴えかけるなど、その動きは執拗を極めた。,三月二十三日に県議会へ提出された合併編入案は、事前に開かれた自民党の議員総会で、南郡議員団の要望を取り,石川町内の反対運動が熾烈を極め、南郡議員団の結束と要請が強硬だったことから、自民党議員も同調し、未曾有,南郡議員団の行動に対しても、反対運動の本心が石川町の合併問題よりも、同町の得票によって左右される南郡議員
通史編4(近・現代1) (軍縮と歩兵第五二連隊の廃止)

大正十一年八月、加藤友三郎内閣の山梨半造陸軍大臣は、約五個師団分に相当する施設と人員・軍馬の縮小を行った,加藤高明内閣の宇垣一成陸軍大臣は、四個師団を廃止する思い切った軍縮を実行した。,宇垣軍縮による実質的な軍備の近代化は、第八師団管下にも確実に反映した。,大正十四年(一九二五)の第八師団連合演習では飛行機や戦車、軍用犬、携帯無線電話など、新しい武器、兵器が,市の財政をなげうち、市民総出で第八師団を誘致した弘前市民にとって、第五二連隊の廃止はたいへんな痛手だった
通史編5(近・現代2) (歩兵第三一連隊移転問題)

だが師団司令部管下には歩兵二個連隊を附属する必要があるとの原則論があった。,第八師団管下には青森市に五連隊、弘前市に三一連隊と、二つの連隊があったが、師団司令部の地元弘前市には、,結局、弘前市には師団司令部がありながら、連隊は三一連隊だけしかなかったのである。,その三一連隊を盛岡に移転させられることは、師団司令部のある弘前市に連隊が存在しないことを意味した。,五二連隊の廃止で甚大な影響を受けた市にとって、三一連隊まで失うことは「師団設置以来数十年間一日ノ如ク捧
通史編5(近・現代2) (観桜会運営の打合会議)

方針全体は前年とほぼ同様であり、全国的に暴力団の取締りを実施するなど、暴力行為の取締りを全面的に実施しているのが,市当局も観桜会に暴力団や他の私的団体が利益を貪る傾向を取り締まり、観桜会を市の観光の目玉にしようとしていたのである,そのため市当局や協会は公園内の整備、暴力団体の排除などの対策に追われた。  ,まず団体客の誘致が検討されている。,団体客誘致の宣伝向上のために、市当局関係者と市議会議員数名が、打合せに参加している。
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