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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (災害と生活)

また国元から修行に来ていた六人の僧侶が、駒込(こまごめ)の吉祥寺(きちじょうじ)で類焼に遭ったので、上屋敷,そのため町貸金一歩(分)二朱が渡され、今年の末に国元の切米(きりまい)(中・下級の家臣に対して支給した,彼らは、途中の橋も流され、道路も寸断されている状態では、これまで支給されていた旅費では国元まで到着するのは,そこで藩から予備費として飛脚三人へ三歩(分)が渡され、もしその予備費を使用せずに済んだならば、国元へ到着後,そして江戸詰の藩士は無事であることを国元へ連絡するよう飛脚を出発させている。
通史編2(近世1) (西廻海運による大坂廻米)

国元と大坂間の蔵米の廻漕を蔵元が担うことにより、藩が主導していた敦賀廻着の段階と異なり、隔地間の価格差,上方で金主と借金(銀)の交渉に当たったのは、藩の役人・国元町人・蔵元であった。,しかし、国元が凶作などでの理由で廻米の中止や不足が生じると、これら交渉担当者は、苦しい立場に置かれた。,金主たちは、国元不作の情報を手にすることもあり、新たな借金(銀)になかなか応じず、その返済を求めた。,また、上方での交渉が思うように進展しない場合、金主や手代が江戸や国元へ出向き、直接交渉に及ぶこともあり
通史編3(近世2) (白石会議)

閏四月七日付の杉山八兵衛が国元へ宛てた書状に、この間の事情が説明されている(『弘前藩記事』一)。  ,国元への白石会議参加要請の廻状は、秋田藩には八日に届いているから、弘前藩にもそのあたりに国元へ届いているはずであり,いずれにしても招請状が国元に到達してから、会議への参加を決定し、十一日の会議に間に合わせることはその意志
資料編3(近世編2) (三 藩士の生活)

三 藩士の生活 (一)江戸屋敷の生活 (二)国元の生活 (三)藩士の住居
通史編2(近世1) (越後高田領検地の実施)

また、家老津軽政朝・津軽政実・津軽政広三人の連名で国元の城代渡辺政敏に宛てた書状(三月晦日付)で、高田,一方国元から派遣される検地役人は同月二十三~二十五日に出立している。,なお四月の派遣人員とは別に、七月二日にも加勢人数として国元から人数が派遣されている。,の家臣を国元で選考して派遣した(同前天和二年七月二日条)。,表15-1 越後高田領検地派遣役人表(国元から派遣) No.
通史編2(近世1) (情報収集活動)

津軽弘前藩では寛文九年(一六六九)七月十五日付で江戸在府の家老北村宗好から国元の家老に対して、青森の町人,に派遣すること、藩御用達の松前町人工藤忠兵衛に状況を報告させること、小身の侍一人を松前に派遣し情報を国元,杉山吉成が、松前に渡海した後は、刻々と戦況が国元に送られ、それらは九月で一三回、十月で一八回、閏十月一四回
通史編2(近世1) (初代為信の動向)

信枚は国元にはあまり帰国をしておらず、国元との関係が希薄である。,第三は、信建は慶長七年八月八日に国元へ帰国するまでは上方におり、居住地は大坂であった。,この動きに対応するためか、為信は二月九日に国元に帰国している。,前述した棟札の存在を考えると、国元にいた可能性が高い。,信枚は図57からわかるように、ほとんど国元には帰国しておらず、前年に帰った可能性が高い。
通史編2(近世1) (御用金の賦課)

御用金の賦課 このころから国元の商人たちからの御用金も恒常化してくる。,このように江戸・大坂の借財の増加に対応する時期に、国元からも御用金・御用米の徴収がみられた。  ,また廻米の不足分は国元に転嫁されることもあった。
通史編3(近世2) (江戸での買い物)

蜜柑・鰹の煮付け・鰻飯(うなぎめし)などが記されているのは、国元ではめったに食べられなかったからであろうか,(6)みやげ――国元に帰るため慶応三年二月十三日に江戸を出発しているが、その五、六日前の二月七日に次のような,これらは江戸から国元へのみやげであったと考えられる。
通史編2(近世1) (津軽信枚の越後転封)

また、佐竹義宣が国元の家老梅津憲忠(政景の兄)に宛てた書状も当時の状況をよく伝えている。,図65.佐竹義宣画像  義宣が国元にせっせと情報を送っているのに対し、この間信枚が国元に対してどのような,信枚が国元へもたらした情報は、今のところ服部康成・白取瀬兵衛両名宛てに六月二十一日に出された申渡状による,その前日秋田藩では、信枚の国替につき、馬一五〇匹・舟三艘を貸与することを決定し、政景が国元の憲忠に指示,国元では小禄の者が八三人、転封先へ供奉する旨を表明し、名前を書き上げられている。
通史編2(近世1) (飢饉への対策)

豊作だったものの、慢性的な財政難に悩む北奥諸藩では換金のため米穀が根こそぎ上方市場に送られてしまい、国元,飢饉の際、藩政を主導したのは乳井貢(にゅういみつぎ)であったが、彼は前年閏五月に大坂への廻米を止め、国元,で米を売却し江戸藩邸に直接送金するという、国元仕送の施策を実施中であった。,国元仕送制度自体、藩内での米の買い入れについて豪商・豪農層の負担に依拠していたが、翌宝暦六年に窮民扶助
通史編2(近世1) (西廻海運と領内の整備)

敦賀の蔵屋敷には御蔵が付設され、後の機能から考えて、主に国元からの廻漕物資、上方で購入した物資の国元への
通史編2(近世1) ((一)宝暦の飢饉)

しかし津軽領の場合、「封内事実秘苑」(資料近世2No.六)に「今年の凶作は全国的な飢饉となり、特に国元
通史編2(近世1) (文化~文政期の藩財政)

米方の支出は国元・江戸・上方でそれぞれ計上されているが(表62)、そのうち一二万六五八石、すなわち全体,の半分弱が国元の支出である。,国元の支出の中心を占めるのが人件費たる藩士の知行切米扶持米で、六万五三〇〇石と国元の支出の半分以上に及,表62 子年(文化13年)米払方 (国元) 費  目 米 高 比率 備  考 ⑧ 家中知行切米扶持米,両都に比べると金額は少ないが、国元の商人からの借金もあった。
通史編2(近世1) (海防報告書にみる天保期の海防体制)

天保十四年(一八四三)三月の、「御国元海岸御固御人数書并御武器書」(弘図八)は、天保十三年の海防報告書,「御国元海岸御固御人数書并御武器書」(弘図八)より作成。  ,青森大筒台場 1 3 野内浦奉行所 10 10 計 5 8 140 6 30 注) 「御国元海岸御固御人数書并御武器書,2 1 14 4 1 5 10 狩場沢浦番所 2 3 総 計 55 注) 「御国元海岸御固人数書并御武器書,小湊村代官所 10 10 10 狩場沢村浦番所 10 10 合 計 10 25 28 注) 「御国元海岸御固人数書并御武器書
通史編2(近世1) (正徳から天明にかけての大名課役)

このうち明和三年の際には、国元の大地震で甚大な被害を被ったことにより、幕府から普請役御免を命じられている,費用捻出のため、藩では江戸・上方・国元において金策を実施したが、さらに江戸・大坂・京都三都の蔵元からは,以上みてきたように、この時期の普請役には、以前の家臣が直接普請の現場に赴いたり、国元から領民を人夫として,場合、参勤交代で江戸にいる間門番を命じられるので、変更は原則的に四月・六月・八月の時期に集中する参勤・国元下向
通史編3(近世2) ((一)藩主家の菩提寺)

三代藩主信義は江戸で死去すると津梁院に埋葬されたが、国元では、四代藩主信政が新しく天台宗報恩寺を創建して,この時から国元でも報恩寺を菩提寺とする取り扱いになった。  
通史編2(近世1) (三 弘前藩庁日記)

「江戸日記」は国元や幕府との連絡事項、藩主の交際に関すること等が主な内容で、総冊数は一二一四冊。
通史編3(近世2) (信枚)

国元では慶好院(金勝院)に求聞持の秘法を修することを命じたところ、この秘法は藩主の寿命を縮めることもありうると
通史編2(近世1) (宝暦―天明期の借財)

それによると、同年の上方の借財は二四万四一三八両余、江戸での借財は三万三九一六両余に及び、さらに国元の,これに対し、藩の公金の出納、江戸や国元などへの送金に当たった商人を掛屋(かけや)というが、両者は兼任していることが
通史編3(近世2) (報恩寺)

国元では同三年、報恩寺を寛永寺宮門跡から寺号を受けて創建した(資料近世2No.四〇四)。
通史編3(近世2) ((三)日常生活)

藩士がどのように国元で生活していたかについては、彼が弘前城下で暮らすこの日から同年六月晦日まで(紙数の
通史編2(近世1) (染織技術の導入政策)

二人は元禄十二年十月三十日に弘前に到着しているが、彼らが携えた御用状には、国元における養蚕や織物の検分,設置の時期は明らかではないが、「国日記」元禄十二年十月十五日条によって、この時期会所がすでに国元と京都二
通史編3(近世2) (薬王院)

信政は父信義が明暦元年(一六五五)死去すると、国元に報恩寺を建立し、長勝寺に替えて菩提寺とした。,信義の遺骨を江戸より国元へ持参した本好を第一世に推したが、本好は薬王院の開基本祐の弟子で常福寺住職であった
通史編3(近世2) (弘前藩の対応)

一方、国元では一月二十四日、家中御目見以上惣与力までを登城させ、一連の報を受けた藩主津軽承昭が諭告を出,翌二月一日には、今度は新政府側からの見解が国元へ届けられた。
通史編3(近世2) (文・武・医の総合教育施設)

入学規定は国元の場合とほぼ同じであった。
通史編3(近世2) (一〇代信順の治世)

また、国元でもこの間城門の大扉(おおとびら)は閉ざされ、くぐり戸から出入りすることとされた。,そこで家老津軽多膳(たぜん)は信順に詰め寄り、天保四年八月に増衛の屋敷の廃棄と彼女の国元送りを承諾させた,同十月九日、国元に下向していた津軽多膳らは笠原を筆頭とする国元家臣団らと財政復旧の会議を持った。
通史編3(近世2) (新政府からの借財と藩札の発行)

渉外活動を行っていた公用人の神東太郎(じんとうたろう)と桜庭太次馬(さくらばたじま)は次のような内情を国元,東北・箱館戦争により国元では米金融通の途が尽き果ててしまった。,しかし承昭は宗家近衛忠房(このえただふさ)の娘尹子(ただこ)との婚約が成立しており、上京してもすぐに国元
通史編3(近世2) (討庄応援兵の派遣)

これに対して国元では、早速家老杉山八兵衛の仙台派遣を決め、応援兵派遣へと準備しはじめることになる。,を出発した杉山八兵衛は、新庄へ到着して滞陣中の沢副総督に会い、その様子を四月二十五日付の書状の中で、国元
通史編3(近世2) (戦線の北上)

同藩の国元では一月十二日恭順の意向を示し、同月末には桑名城は政府の手に渡っていた。,やがて恭順派であった桑名藩家老吉村権左衛門は暗殺され、定敬は恭順を拒否したため、桑名藩は国元にいる恭順派
通史編1(古代・中世) (検断奉行への抜擢)

翌暦応三年(興国元年)十二月、この夏に父親房のよる常陸の小田城を経由して陸奥に入ったばかりの顕信は、南部政長
通史編3(近世2) ((四)瓦)

(四)瓦 「国日記」によると、弘前城内並びに一部城外建造物に使用された屋根瓦は、国元で焼成された国瓦
通史編2(近世1) (天保四年の飢饉)

江戸の飢民約二〇〇人は、翌五年二月に国元に帰されたという(『天保凶荒雑報』)。
通史編4(近・現代1) (洋化風俗の一例)

洋化風俗の一例 江戸定府の藩士渋江成善(抽斎の嗣子)が、国元の弘前に家族とともに引き揚げたのは明治元年
通史編3(近世2) (戦闘の開始)

弘前では、四月末に続々と庄内征討応援のための出兵が繰り返されていたが、こうした国元の状況を踏まえて、閏四月十三日
通史編3(近世2) (改革開始以前の状況)

嘉永三年(一八五〇)、弘前藩が海岸警備に関して幕府に提出した報告書には、「三月四日より七月四日迄御国元海岸,の要地に遠見番屋(とおみばんや)や大砲台場を築き、盛んに大砲の鋳造を江戸や上州(現群馬県)で行わせて国元
通史編3(近世2) (幕末の政情と近衛警備)

要請を受けて文久三年(一八六三)六月、隊長五十嵐所吉・小山庄五郎ほか九人の藩士が親兵として選抜され、国元,しかし、近衛家をめぐる情勢が切迫していたため、彼らの滞在は継続され、戊辰戦争で国元に引き揚げ命令が出される,以後、警備兵は数次にわたって増員されていったが、国元とは異なり、警備兵は京都で相当の緊張を強いられた。
通史編2(近世1) (元禄の大飢饉と家臣召し放ち)

消費都市である江戸詰めの家臣たちは、国元より優遇されているものの、知行、俸禄は減額して支給された(「国日記,十月十日には早くも暇を出される者が現れ、以後国元・江戸を問わず不作を理由に暇を出される者が続出した(資料近世,藩が勘定奉行に命じてまとめさせた「減少人数」の総計は一〇六〇人で、そのうち国元の者が一〇一二人、江戸での
通史編2(近世1) (越後加増説)

それは、信枚が六月二十一日付けで国元の服部長門・白取瀬兵衛宛てに出した申渡状(同前No.三七二)に記載
通史編2(近世1) (幕末期の蝦夷地交易)

さらに、仙台藩や会津藩では津軽弘前藩に申し入れ、蝦夷地警備の入用米をわざわざ国元から送ったのでは輸送費
通史編2(近世1) (領内海防と台場の構築)

「御国元海岸御固御人数書并御武器書」(弘図八)より作成。,300目筒 1 500目筒 1 1貫目筒 1 石火矢 2 棒火矢 1 乱矢 1 計 16 注) 「御国元海岸御固御人数書并御武器書
通史編2(近世1) (幕末期の藩財政)

支出は多岐にわたっているが、一〇〇〇両を越えるものは「御手山仕込金」「御土場駄賃銭并小廻運賃」など、国元
通史編3(近世2) (京都詰藩士による視察報告)

京都詰藩士による視察報告 さて、津軽弘前藩の国元では政情に不安を感じつつも、ほぼ例年のとおりに年頭行事
通史編3(近世2) (討庄応援部隊の解兵)

この間の動向はやがて国元にも広まったが、弘前八幡宮神主小野若狭(おのわかさ)は社務日記(弘前八幡宮神社文書
通史編2(近世1) (信義の襲封)

信義が藩主として初めて国元にやって来るのは、二年後の寛永十年(一六三三)十月三日であり(同前No.五四七,国元津軽とはつながりの薄い状態で藩主となったわけである。
通史編2(近世1) (舟橋騒動)

国元では、白取平兵衛・彦九郎(苗字不明)・郡縫殿之助(ぬいのすけ)・兼平丹後・同源左衛門・同監物(けんもつ,この他にも、美作・伊豆派の武士が江戸でも国元でも多数、弘前藩から暇をとっており(同前No.五八九)、信義
通史編2(近世1) (宝暦~天明期の弘前藩の財政状況)

ただし、これらは国元の返済分だけで、江戸や上方の返済分は不明である。,そもそも金銀方は、収支とも国元の費目に限った数値で計上されており、膨大な廻米の売却費、江戸藩邸費・参勤交代費
資料編2(近世編1) (―例言―)

また、弘前市立図書館津軽家文書の「弘前藩庁日記」については、国元の日記を「国日記」、江戸藩邸のものを「
通史編2(近世1) (宝暦改革の課題)

大凶作によって、藩財政は困窮の極みに達し、宝暦四年(一七五四)時点での藩の累積借財高は、江戸・上方・国元
通史編3(近世2) (学風の変化)

朱子学に改めることを進言しており、文化六年(一八〇九)には、聖堂に留学して朱子学を修めた葛西善太が江戸で国元
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