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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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資料編1(古代・中世編)
(参考文献(第四章に関連する主要文献・論文-各節の文中で記述したものは除く))
成田彦栄「青森県西海岸の板碑研究」(東奥文化9・10合併号) (10)福田以久生「嘉元鐘について」(
国史研究
,乳井福王寺圏内の板碑と国吉の頓阿銘板碑について」(陸奥史談47集) (12)小舘衷三「津軽の板碑考」(
国史研究
通史編2(近世1)
(宝暦改革の課題)
一九万六三五三石余となっており、年貢収納高が頭打ちになっていた(浅倉有子「津軽藩の郷帳について」『弘前大学
国史研究
,していたことが、一層この傾向を拡大させていくのである(瀧本壽史「宝暦・天明期津軽藩農村の諸問題」『弘前大学
国史研究
通史編3(近世2)
(一代本尊)
組み合わせ、自分の生まれた干支による守本尊を一代様とする(小池淳一「イチダイ様信仰の生成」『弘前大学
国史研究
資料編1(考古編)
(監修のことば-発刊に当たって-)
その為か、この市史二冊の書評を『弘前大学
国史研究
』35号(昭和39年6月)に書くことになりまして、弘前
通史編2(近世1)
(信政の襲封と黒石分知)
に課す役負担も、本藩が従来どおりに負担する形式をとった(浪川健治「黒石津軽領の性格と支配」『弘前大学
国史研究
通史編2(近世1)
(一 明暦検地の意義)
あるので、すべての村の分がそろっているわけではない(七尾美彦「黒石藩明暦二年の検地帳をめぐって」『弘前大学
国史研究
通史編2(近世1)
(二 寛政改革の実施)
長谷川成一編『津軽藩の基礎的研究』一九八四年 国書刊行会刊、瀧本壽史「津軽藩寛政改革意見書の分析」『弘前大学
国史研究
通史編5(近・現代2)
(連合軍の弘前進駐)
相応の準備があったからである(進駐軍に対する民心動向については、中園裕「敗戦前後の世相と民心の動向」『
国史研究
通史編3(近世2)
(博奕の判決例)
博奕致候者鞭三其時之金銀ハ没収可レ致事、但宿致候者可レ為二同罪一事、」(蝦名庸一「弘前藩御刑法牒(寛政律)」『弘前大学
国史研究
通史編2(近世1)
(土着策施行期の廃田開発)
労働価値の増大に伴い、仮子給銀は急上昇していく(瀧本壽史「宝暦・天明期津軽藩農村の諸問題」『弘前大学
国史研究
資料編1(考古編)
(「新編 弘前市史」編纂事業関係者名簿(平成6年4月1日現在辞令交付分))
吉村和男 市立郷土文学館嘱託員 小岩信竹 東京水産大学水産学部教養科教授 山上貢 弘前大学
国史研究
会会員
通史編2(近世1)
(文教政策の展開)
を対象とする毎月六度の講釈の開始が命じられた(『記類』上、羽賀与七郎「津軽信政とその文教」『弘前大学
国史研究
資料編3(近世編2)
(「新編 弘前市史」編纂事業 関係者名簿(平成十一年四月一日現在辞令交付分))
元弘前市立図書館長 〃 小岩信竹 東京水産大学水産学部教授 〃 山上貢 弘前大学
国史研究
会会員
通史編3(近世2)
(情事の発覚)
為二同罪一事、夫有レ之者ハ鞭三十」の両者が適用されている(蝦名庸一「弘前藩御刑法牒(寛政律)」『弘前大学
国史研究
通史編2(近世1)
(地方知行制の復活と借知制の実施)
とする家臣団の不満への妥協ということもいえるであろう(浪川健治「宝永期藩政の位置づけについて」『弘前大学
国史研究
通史編2(近世1)
(寛政律)
「寛政律」は、小項目で九九、合計一七五ヵ条からなる(蝦名庸一「弘前藩御刑法牒(寛政律)」『弘前大学
国史研究
通史編3(近世2)
(信政)
われたことが、死後もそのまま引き継がれてきたようにみえる(瀧本壽史「弘前藩御告御用の基礎的考察」『弘前大学
国史研究
資料編1(考古編)
(5.大森勝山遺跡)
※参考文献 1)村越潔「岩木山麓の大森勝山遺跡で発見した大竪穴住居址」(弘前大学
国史研究
19・20合併号
通史編2(近世1)
(伏見築城と奥羽大名)
全国的な分担関係によって成り立っていたのである(中川和明「豊臣政権の城普請・城作事について」『弘前大学
国史研究
通史編2(近世1)
(掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)
関ヶ原合戦図屏風 大阪歴史博物館蔵 46 諸将旌旗図屏風 静岡市立芹沢銈介美術館蔵 47 弘前大学
国史研究
会,論」『日本史研究』237 日本史研究会刊 表20 浪川健治「宝永期藩政の位置づけについて」『弘前大学
国史研究
,』88 弘前大学
国史研究
会刊 表21 『目で見る津軽の歴史』77頁 昭和55年 弘前市立博物館刊 表22
通史編2(近世1)
(家臣団の成立)
それを、まとめたものが表13である(福井敏隆「元和・寛永期津軽藩の家臣団について」『弘前大学
国史研究
』
通史編2(近世1)
(宝暦五年の米切手と標符(通帳))
(詳しくは、瀧本壽史「弘前藩宝暦改革における『標符(通帳)』の形態について」『弘前大学
国史研究
』一一一
通史編3(近世2)
((三)キリシタンの流罪とキリシタン改め)
けるかどうかの話があり、農業に従事することになった(同前No.三一二、松森永祐「津軽切支丹の一考察」『弘前大学
国史研究
通史編5(近・現代2)
(軍国主義・国家主義の払拭)
する考え方は大きく変わってしまったといえよう(詳細は、中園裕「敗戦前後の世相と民心の動向」『弘前大学
国史研究
通史編2(近世1)
(関東・奥惣無事令)
これをさらにさかのぼらせて天正十四年とすべきといわれるようになった(立花京子「片倉小十郎充て秀吉直書の年次比定」『戦
国史研究
通史編2(近世1)
(烏帽子山紛争)
が秋田に封じられた慶長年間以降発生している(福井敏隆「元和・寛永期津軽藩の家臣団について」『弘前大学
国史研究
通史編2(近世1)
(高照神社「御告書付」の開始)
」はきわめて意図的な政策であったとみなされよう(瀧本壽史「弘前藩『御告御用』の基礎的考察」『弘前大学
国史研究
通史編1(古代・中世)
(掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)
伝承文学研究』45号 1996年 三弥井書店刊 図40 小口雅史「津軽曽我氏の基礎的研究」『弘前大学
国史研究
,』89号 1990年 弘前大学
国史研究
会刊 図41 長谷川成一他『図説 青森県の歴史』1991年 河出書房新社刊
通史編2(近世1)
(二代信枚の動向)
福井敏隆「元和・寛永期の津軽藩の家臣団について―『大日本古記録 梅津政景日記』の分析を通して―」『弘前大学
国史研究
通史編3(近世2)
(掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)
104 笹開良彦『資料日本歴史図録』30頁 1992年 柏書房刊 105 個人蔵 106 弘前大学
国史研究
会
通史編1(自然・原始)
(昭和時代)
一九〇二~一九七九)が、孤軍奮闘しながら調査に励み、その成果を県師範学校附属小学校初等教育研究会の『
国史研究
通史編2(近世1)
(津軽信枚の越後転封)
福井敏隆「元和・寛永期津軽藩の家臣団について―『大日本古記録 梅津政景日記』の分析を通して―」『弘前大学
国史研究
資料編2(近世編1)
(【解説】)
なお、安永律の条文は『法学論集』(大阪経法大)第六号に掲載のものを、寛政律は『弘前大学
國史研究
』第十五
資料編1(考古編)
(〈注及び参考文献一覧…第3章〉)
青森県市浦村赤坂遺跡」(日本考古学年報7) 1958年 *29 井上久 「津軽地方における石器時代の蝦夷」(弘前大学
国史研究
,史想9) 1958年 *35 江坂輝弥 「奥羽地方北部の縄文文化の終末とそれ以降の文化」(弘前大学
国史研究
通史編1(自然・原始)
(第一節 注および引用・参考文献)
(60)中島全二 「田名部町附近の先住民族遺跡遺物の分布」『青森県師範学校附属小学校初等教育研究会
国史研究
二
資料編3(近世編2)
(【解説】)
昭和五十九年)、高照神社「御告書付」については瀧本壽史「弘前藩『御告御用』の基礎的考察」(弘前大学『
國史研究
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