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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (王朝国家論)

つまり中央政府は地方を任せた国司に対して、その政治に口を出さなくなり、国司から中央への貢納物さえ全うされればそれで,中央政府-国司レベルの制度や政策と、国司-農民レベルでの制度や政策との間に大きなギャップが生じるようになっていった,中央政府はとにかく収入さえ得られれば、その収入をどのような手段で国司が農民から搾取し、またその陰でいかに
通史編1(古代・中世) (北の富の搾取)

中央でいえば、国司のあまりの収奪の激しさに抗議した、かの有名な「尾張国郡司百姓等解文(おわりのくにぐんじひゃくせいらげぶみ,)」の世界、いわゆる「国司苛政(かせい)上訴」の世界に通じるものがある。  ,蝦夷の内部でも、その時々の情勢によって、ある蝦夷の村は国司(鎮守府将軍・秋田城介)についたり、また別の,蝦夷の村は国司に逆らったりすることは日常茶飯事である。,こうした世界に変容していったことによって、対国司、あるいは他の蝦夷集団への備えとして、村落を環壕や土塁
通史編1(古代・中世) (浪岡城攻略)

また顕家の弟である顕信(あきむね)の子の親統(ちかむね)が、元中三年(一三八六)八月に浪岡に入り奥州新国司,しかし、北畠親房の子孫が出羽国司となっているといわれ(史料八三八)、また、山科言継(やましなときつぐ),そして、具永・具運といった名前は浪岡北畠氏の当主であり、伊勢国司の北畠氏と同じ「具」を通字とし、伊勢北畠氏
通史編1(古代・中世) (延久蝦夷合戦の実相)

これらに当該合戦の最中に起こった陸奥国在庁官人(散位藤原基通)による国司印鎰(やく)奪取事件を記した『,動員された兵力の規模や編成の詳細は不明だが、前九年合戦など同時代の例から考えれば、①陸奥守頼俊の率いる国司直属軍,その原因は、頼俊の出陣直後、留守中の陸奥国府で突如勃発した在庁官人の叛逆、すなわち散位藤原基通による国司印鎰,事件は、追討使頼俊の出陣直後、陸奥国在庁官人の一人である藤原基通が「国司印鎰」(国司の印と国正倉の鍵),国司は現地における天皇の代理人である。
通史編1(古代・中世) (陸奥・出羽の在庁官人たち)

通常、この時代の在庁官人というと、もっぱら収入を得るためだけに名目的に国司の職に就いて現地には下向しない,「遥任(ようにん)」国司に代わって、在地で実権を握った人々を連想するかもしれないが、陸奥・出羽ではそうではない
通史編1(古代・中世) (藤原保則の登用)

保則は、以前に備中・備後の国司として善政をしき、人々から「父母」と慕われ、任が解けたときには両備の民が
通史編1(古代・中世) (尊氏側につく)

おそらく安藤氏はこうした事態の推移に反発したのであろうが、これは南部氏が陸奥国司の配慮によって津軽に大
通史編1(古代・中世) (乱の勃発)

乱の原因は、前年の不作にもかかわらず、出羽国司・秋田城司たちが農民から収奪を繰り返したことにある。,こうした国司らの苛政(かせい)に抵抗して、多数の俘囚(ふしゅう)(蝦夷のうち律令国家に服属した者)が組織的
通史編1(古代・中世) (青森県下の情勢)

の狄俘(てきふ)の野心は測り難い」ともみえ(史料二九三)、文室綿麻呂による平定以後もなお、当時の陸奥国司
通史編1(古代・中世) (「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏)

これらの官位は比較的高いものであり、任官コースは、「三国司家」と呼ばれた浪岡北畠氏と同族とされる伊勢国司北畠氏,、土佐国司一条家、飛騨国司姉小路家と同じものである。
資料編1(考古編) ((8)馬産と関連遺物)

律令政府が軍用の馬を確保するため、延暦6年(787)・弘仁6年(815)・貞観3年(861)などに、王臣や国司
通史編1(古代・中世) (比羅夫は何回遠征したか)

日本書紀』斉明天皇五年三月条(史料二五)に、東北経営の論功行賞として、比羅夫とならんで、太平洋側の「道奥国司,また道奥国司と越国司にそれぞれ位二階、郡の役人には位一階を授けた。  
通史編1(古代・中世) (延久蝦夷合戦と津軽)

決定的になり、一方で現地の政治勢力のあいだでは、相互の合従連衡、あるいは南の「日本国」の勢力である陸奥国司
資料編1(古代・中世編) ((1)南北朝時代の「石川楯」)

・安達高景を主将とする北条勢は、奥地の持寄(もちよせ)城(中津軽郡相馬村)に立てこもって抵抗を続け、国司北畠顕家
資料編1(古代・中世編) ([十五世紀])

●応永二十四年(一四一七)、南部守行、上杉禅秀の乱に戦功あり、南部家所伝ではこのとき幕府から陸奥国司職,●寛正六年(一四六五)六月十二日、舟橋入道常忠(清原業忠)、相国寺瑞渓周鳳に、北畠親房の子孫が伊勢国司,・出羽国司となっていることを語る。
資料編1(古代・中世編) ([九世紀])

陸奥国司ら援軍を要請。,●元慶二年(八七八)九月四日、出羽国司飛駅奏言。 ●元慶二年(八七八)九月五日、賊気既に衰える。
通史編1(古代・中世) (渡嶋津軽津司)

やはり諸君鞍男は、出羽国司らとともに中央から派遣された人物で、その地位の高さからすると、かなり広範囲の
通史編1(古代・中世) (北奥における建郡)

②延久蝦夷合戦以来、占領軍政を続けていたが、戦後一〇年目に行政改革プランが国司から提出され、そこには、
資料編1(古代・中世編) ([十四世紀])

●元中三年(一三八六・北至徳三)十一月、北畠顕信の子親統、波岡に入り奥州新国司と称すという。
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

伊勢国司北畠具教一族も、同じ時期同様の叙爵任官にあずかる。
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

陸奥国司ら援軍を要請。,………………………… 日本三代実録 80 ●元慶二年(八七八)九月四日、出羽国司飛駅奏言。,…… 新渡戸文書 224 ●元中三年(一三八六・北至徳三)十一月、北畠顕信の子親統、波岡に入り奥州新国司,・出羽国司となっていることを語る。,伊勢国司北畠具教一族も、同じ時期同様の叙爵任官にあずかる。
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