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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (国民学校令)

その教育審議会の討議によって生まれたのが国民学校制度である。,、全国の小学校は一斉に国民学校と改称された。  ,国民学校令第一条は「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲナスヲ以テ目的トス」,国民学校の教育は教育全般にわたって皇国の道の修練を目指したといってよい。  ,写真56 国民学校制定第1年記念の和徳国民学校児童 / 国民学校令
通史編5(近・現代2) (終戦直後の国民学校)

終戦直後の国民学校 二十年八月二十日前後、市内各国民学校では、市役所の指示に基づいて校内特設防護団を,九月二十日、県は進駐米軍所在地の女子中学校に休校の指令を出すとともに、国民学校長宛に注意事項があったが,十月十日、市内各国民学校は校門に英字で校名を表示することになった。進駐軍にわかりよくするためである。 / 終戦直後の国民学校
通史編5(近・現代2) (東京からの集団疎開児童)

辞を述べたのは和徳国民学校六学年荘司道夫である。,朝陽国民学校と第一大成国民学校を使用したのは渋谷区富谷国民学校で、新寺町貞昌寺を本部兼宿舎とした。,和徳国民学校を使用したのは渋谷区本町国民学校で本部宿舎は西茂森海蔵寺であった。,集団疎開の国民学校では、世話になったお礼として若干のお金を当該国民学校に贈ったが、船沢国民学校に疎開した,写真60 三省国民学校に疎開中の東京都渋谷区広尾国民学校の学童たち
通史編5(近・現代2) (朝陽・時敏校の貸与)

高等科は蔵主町の弘前国民学校(旧弘前高等小学校)に収容して授業を続けた。  ,また、師範学校の弘前移転に伴い、附属国民学校を必要としたが、弘前市は朝陽国民学校を同校児童とともに、青森師範学校附属国民学校,二十一年四月六日朝陽国民学校は、青森師範学校男子部同女子部附属国民学校として発足したが、ここで由緒ある,譲渡されたため、附属国民学校は本町二丁目の旧校舎(現弘前税務署敷地)に移転した。  ,一方、師範学校は二十一年八月に時敏国民学校を引き払い、弘前公園三の丸の旧兵器庫跡に移転した。
通史編5(近・現代2) (子ども会の動向)

これは音楽、舞踊、演劇活動を中心としたもので、昭和二十一年五月、市内国民学校の教員千葉寿雄(第一大成国民学校,)、小島正雄(第一大成国民学校)、伊藤秀俊(青森師範学校女子部附属国民学校)、佐藤徳男(元国民学校教員,子ども会には演劇、音楽、舞踊の三部門があり、演劇部は島村喜美(和徳国民学校)と千葉が担当し、音楽部は小島正雄,田中舞踊研究所)がそれぞれ指導に当たり、第一回の発表は、その年の夏休み(八月十八日)に青森師範学校附属国民学校講堂,(在府町の旧朝陽国民学校、現弘大医学部敷地)で開催した」と語っている。
通史編5(近・現代2) (青森師範学校の弘前市移転承認)

昭和二十年七月二十八日の米軍機の青森空襲によって、同校校舎、附属国民学校校舎を焼失、授業は青森市、弘前市,男子部は時敏国民学校、女子部は朝陽国民学校を校舎とした。  
通史編5(近・現代2) (児童の船沢村農耕地開墾)

県は中津軽郡船沢村の岩木山麓(現弘前市弥生地区)に農耕地を開墾、一般入植者のほかに国民学校児童による食糧増産,を図り、弘前市内各国民学校に農耕地を割り当て、中津軽地方事務所を通じて次の通牒を発した。  ,第一大成国民学校五・六年生は二十年八月十五日、開墾地に出かけ作業したが、その帰り終戦の詔勅を聞き、落胆
通史編5(近・現代2) (大東亜戦争始まる)

これによって大東亜戦争は開始されたのだが、当時市内国民学校の様子を、和徳国民学校日誌から眺めることにする
通史編5(近・現代2) (新憲法の公布)

同日、市内各国民学校は憲法公布記念式を挙行、校長から新憲法についての訓話があって、児童一同に祝菓が配与,市内国民学校の中には、憲法公布記念と名づけて、記念学芸会を開催するところもあって、新憲法の公布は敗戦直後
通史編5(近・現代2) (青年学校の移転と廃止)

そのため朝陽小学校は本町一丁目の青年学校ならびに弘前国民学校の校舎に移転した。,弘前国民学校は学制改革(新制中学校発足)で廃校になるので問題はなかったが、青年学校は校舎を失い、上白銀町
通史編5(近・現代2) (忠霊塔建設)

市内各国民学校児童は、りんご袋作製の勤労奉仕などで得た謝金を挙げて寄付し、また、年数回に及ぶ労力奉仕をした,各国民学校児童は割当て日程に従って、岩木川原から礎石にする玉石(たまいし)を運んだ。,児童たちは玉石を両手に持って、岩木川と長勝寺を何回も往復するので、中には疲労のため倒れる子があったり、国民学校五
通史編5(近・現代2) (六・三制の実施と校名の改称)

六・三制教育の実施は昭和二十二年(一九四七)四月一日からであるが、このとき、これまでの国民学校を小学校,昭和二十二年四月一日、これまでの国民学校は全国一斉に小学校と改称された。
通史編5(近・現代2) (少年団の結成)

少年団の結成 十六年四月弘前市内各国民学校に少年団が結成され、この年一月発足した大日本青少年団に加盟,これまで市内国民学校の中には少年赤十字団や校外自治会が結成されていて、校外における良習慣を自治的に作り
通史編5(近・現代2) (弘前青年学校の発足)

公立弘前青年学校校舎は、本町一丁目の弘前国民学校(元弘前高等小学校、現弘前税務署敷地)の一棟が充てられ,、校長事務取扱いとして弘前国民学校教頭の鎌田饒が任ぜられた。
通史編5(近・現代2) (青森医学専門学校の弘前市移転)

一方、八戸市は吹上国民学校、赤十字病院の使用が可能であることを理由に、医専誘致の意思を表明したが、弘前市,二月二十二日「医専問題総合委員会」を組織し、医専受け入れ態勢について検討を始めたが、医専校舎として在府町の朝陽国民学校,(当時は青森師範学校に附属国民学校として貸与)を充て、市立弘前病院を医専附属病院とすることにし、内部機構
通史編5(近・現代2) (終戦直後の教育)

削除箇所が明らかになったのは一月二十五日で、各国民学校では不適切な箇所を教師の指示により、児童が教科書,写真62 戦後の墨塗り教科書  二十一年一月九日、各国民学校は天皇皇后両陛下の御真影の奉還を命ぜられ
通史編5(近・現代2) (海洋少年団の結成)

海洋少年団の結成 昭和十九年(一九四四)四月、市内各国民学校に海洋少年団が結成された。
通史編5(近・現代2) (戦時中の弘高女)

戦局がいよいよ苛烈となった昭和十九年には、青森県指定看護婦養成所と臨時青森県国民学校教員養成会が置かれ
通史編5(近・現代2) (青少年団の動向)

団体一、郡単位の団体八、市単位の団体三、町村単位の団体ほか、青年学校単位の青年団および女子青年団四四一、国民学校単位
通史編5(近・現代2) (終戦直後の食料事情)

昭和十九年には日中戦争開始の昭和十二年の七・四%で、戦災に遭った青森市の浪打、莨町(たばこまち)、橋本、浦町国民学校生徒二四
通史編5(近・現代2) (大和沢小学校の復校)

旧大和沢村から遠かったため、大和沢、一野渡両部落の一、二年児童を編成して分教場が設置され、昭和十六年には千年国民学校大和沢分校
通史編5(近・現代2) (官立青森医学専門学校の開学)

校舎は野脇国民学校を使用、附属病院には県立病院が充てられたが、二十年七月の米軍空襲で附属病院、寄宿舎を
通史編5(近・現代2) (学校給食とPTA)

弘前市で学校給食が実施されたのは昭和二十二年一月からで、一大、二大、和徳、時敏、城西、朝陽、桔梗野の各国民学校
通史編5(近・現代2) (終戦の詔勅降る)

同日の和徳国民学校日誌は「八月十五日 水曜日 晴 正午ヨリ 聖上陛下親シクマイクヨリ全国民ニ戦争終結ノ
通史編5(近・現代2) (学校給食の開始)

学校給食の開始 二十二年(一九四七)一月二十九日、市内各国民学校に学校給食が開始された。
通史編5(近・現代2) (弥生小学校の創設)

が下ろされたが、その当時の同地区児童は四、五キロメートルの山道を歩いて、富栄尋常高等小学校(のち船沢国民学校
通史編5(近・現代2) ([口絵])

津軽為信公銅像出陣(昭和19年) †戦争と子どもたち† 口絵22 武道訓練(なぎなた)に励む第一大成国民学校女子児童,口絵23 校庭菜園で食糧増産に励む和徳国民学校児童 口絵24 軍の袴下制作に従事
通史編5(近・現代2) (戦争を挟んで)

昭和二十二年三月をもって国民学校は廃止、四月から小学校となり、中学校が三ヵ年の義務制となったが、敗戦の
通史編5(近・現代2) (新教科書の採用)

新教科書の採用 文部省は昭和十六年から十八年にかけて国民学校初等科の教科書を全面的に書き直したが、この
通史編5(近・現代2) (空襲を受けなかった弘前市)

一一〇ヵ所、市役所用の二〇人用防空壕が二ヵ所、図書館用の八人用防空壕が一ヵ所、もっとも多く作られたのが国民学校用,弘前駅周辺や土手町、親方町など市の中心部にも防空壕は多数作られたが、国民学校に数多くの防空壕が作られたのは
通史編5(近・現代2) (仮用附属と第四中学校)

昭和二十三年一月二十六日、青森師範学校長から岩淵勉市長に差し出された「貴市朝陽国民学校返還について」という
通史編5(近・現代2) (供出と配給)

沿道では国民学校の児童や多くの市民が見送り、金属回収とはとても思えない儀式が展開されたのである。
通史編5(近・現代2) (戦時生活の諸側面)

昭和十九年四月十日、市長室で公園委員、国民学校長の連合協議会が開催され、公園内の畑化か決定した。
通史編5(近・現代2) (新編 弘前市史 通史編5(近・現代2) 目次)

…………  154   一 昭和初期の初等教育 …………………………………………  154   二 国民学校令下
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