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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(自然・原始) (土器棺墓)

土器棺墓 東北北部の円筒土器の世界では、八戸市蟹沢遺跡などの例のごとく、埋設された土器のなかから胎児骨,が発見され(73)、また三内丸山遺跡では中期に入ると数百の埋設土器がおもに「北の谷」の西北から出土している,幼くして亡くなった乳児または胎児を、土器のなかに入れて埋葬したのであろうか。,直立・倒立をさせた土器の底を抜くか、底近くに孔を開けて容器としての実用性を失わせ、丸い石を一~二個抱かせて,土器を使ったいわゆる土器棺墓は、縄文後期になると数は中期に比べて少なくなるが、遺体を入れた土器棺も特別 / 土器棺墓
通史編1(古代・中世) (土器の煮炊から鉄鍋へ)

それは鉄器を模倣したと推定されるもので、把手付(とってつき)土器(図34-2)・内耳(ないじ)土器(図,34-3)・羽釜(はがま)土器と呼ばれている器である。,図34 内耳鉄鍋と内耳土器・把手付土器 1 柳之御所堀跡出土内耳鉄鍋(岩手県平泉町) 2 蓬田大館遺跡出土内耳土器,(蓬田村) 3 源常平遺跡出土把手付土器(浪岡町)  把手付土器は、一種のフライパンないしは現在,このように、煮炊の道具が土器から鉄製に移行する過程で、北奥を中心とする地域では鉄製品を土器で模倣するという / 土器の煮炊から鉄鍋へ
通史編1(自然・原始) (三 亀ヶ岡土器文化の発展)

三 亀ヶ岡土器文化の発展 縄文時代の最後を飾る晩期は、今を去る三〇〇〇年から二三〇〇年前にかけて栄え,晩期の土器を俗に亀ヶ岡式土器と称し、その時代に人々が築き上げた品々などを総称して亀ヶ岡文化と呼んでいる,この土器文化は、さきの後期に繁栄した十腰内式土器を母胎にして生まれ、さらに十腰内式土器をしのぐほどに成長発展,い状況は、亀ヶ岡土器文化の特色であるとさえ考えられる。,大洞C1式皿形土器 八戸市・是川中居遺跡 (八戸市博物館提供) / 三 亀ヶ岡土器文化の発展
資料編1(考古編) (1.我が国における土器の出現)

1.我が国における土器の出現 我が国における最古の土器の初現は、昭和30年(1955)から調査の行われた,山形県日向洞穴遺跡であり、西日本の土器の初現は、昭和35年(1960)の夏に長崎県吉井町(佐世保市の北西約,25km)福井洞穴から発見された隆線文土器であろう*8。,年後の昭和37年(1962)には、愛媛県上浮名郡美川村の上黒岩岩陰遺跡で、江坂輝彌により同様の隆線文土器,を出土する土層のさらに下層から器面に豆粒状の突起を持つ豆粒文土器を発掘したといわれる*10。 / 1.我が国における土器の出現
資料編1(考古編) (1.時代区分と弥生土器の編年)

1.時代区分と弥生土器の編年 我々は、この時代の変遷を理解しやすくするために、前・中・後期の3期分類,(前期以前に早期を加える考え方もある)のほか、土器についてはⅠ期~Ⅴ期に至る分類、畿内については弥生時代前期,)Ⅰ式(福岡市博多区板付遺跡出土の古式土器を標式として命名)が出現し、次の板付Ⅱ式土器の時期に入ると、,)甕形(広口壺形)土器…弘前市・砂沢遺跡 五所式台付浅鉢形土器…弘前市・砂沢遺跡,宇鉄Ⅱ式末広口壺形・甕形土器… 三厩村・宇鉄Ⅱ遺跡 (青森県立郷土館蔵) 天王山系甕形土器 / 1.時代区分と弥生土器の編年
通史編1(自然・原始) (二 祭祀に特色を示す十腰内土器文化)

二 祭祀に特色を示す十腰内土器文化 縄文中期もその後半に入って南の大木式土器が北部に達し、次の後期には,式(千葉市加曽利貝塚出土土器を標式とする)(64)土器が後を追って北上し、東北南部へ入って門前(もんぜん,宮戸島にある里浜(さとはま)貝塚出土土器を標式とする)(67)土器に影響を与え、さらに北上して青森県に,に上陸し、内浦湾に面する虻田町(あぶたちょう)の入江(いりえ)式土器(虻田町入江貝塚出土土器を標式とする, 十腰内Ⅴ・Ⅵ群(式)土器 (21~27 Ⅴ群,28~32 Ⅵ群) 十腰内Ⅰ群(式)土器( / 二 祭祀に特色を示す十腰内土器文化
資料編1(考古編) (2.東北地方における土器の出現)

2.東北地方における土器の出現 東北地方における最古の土器の発見は、前述のように、柏倉亮吉・加藤稔により,当時、最古と考えられていた貝殻文土器を越える古い形式の土器が次々に発見され、土器の最終的な出土は爪形文,と隆線文土器に到達した*11。,その後、この種の土器は同県下の洞穴並びに岩陰遺跡から続々と発見されるにいたり*12、山形県が東北地方のみならず,、東日本における土器発祥地的な観を呈していたのである。 / 2.東北地方における土器の出現
資料編1(考古編) (〈1〉津軽地方の土師器と擦文土器)

〈1〉津軽地方の土師器と擦文土器 古代の当該地域の土師器と擦文土器の内容は、時代性と深くかかわり、地域性,以下では、7世紀から12世紀にかけての土器群を古代前期(飛鳥・奈良時代)、同後期(平安時代・中世)に大別,表3 本州の擦文土器出土遺跡一覧(左右ページ対応) 番号 遺跡名 所在地 遺跡の種類 出土遺物 伴出遺物, 中別所 防御性集落 〃 10C後~11C 5 小友遺跡  〃 小友字宇田野   〃 〃 把手付土器他,〃 11C代 土師籾痕 9 八幡崎遺跡(1) 尾上町八幡崎字宮本 遺構外 〃 把手付土器 11C / 〈1〉津軽地方の土師器と擦文土器
通史編1(自然・原始) (一 北方に広がる円筒土器文化)

一 北方に広がる円筒土器文化 縄文時代は今を去る一万二〇〇〇年前に始まり、二三〇〇年前に次の弥生時代 / 一 北方に広がる円筒土器文化
資料編1(考古編) (7.十面沢遺跡)

図16-1壺形土器=十腰内Ⅳ群(式)土器、2注口土器=十腰内Ⅳ群(式)土器、3壺形土器=十腰内Ⅴ群(式,)土器、4細口壺形土器=十腰内Ⅴ群(式)土器、5注口土器=十腰内Ⅴ群(式)土器、6壺形土器=十腰内Ⅴ群,(式)土器 図16 十面沢遺跡出土遺物(東北大学蔵) 1、壺形土器=十腰内Ⅳ群(式)土器,2、注口土器=十腰内Ⅳ群(式)土器 3、壺形土器=十腰内Ⅴ群(式)土器 4、細口壺形土器,=十腰内Ⅴ群(式)土器 5、注口土器=十腰内Ⅴ群(式)土器 6、壺形土器=十腰内Ⅴ
資料編1(考古編) (6.十腰内遺跡)

、5浅鉢形土器、6・7鉢形土器、8・9深鉢形土器、図11-10鉢形土器、11~14深鉢形土器、以上十腰内,Ⅰ群(式)土器、15鉢形土器=十腰内Ⅳ群(式)土器、16・17壺形土器=十腰内Ⅴ群(式)土器、図12-,18鉢形土器・19台付鉢形土器=十腰内Ⅴ群(式)土器、20深鉢形土器、21注口土器、22壺形土器=十腰内,4 壺形土器 5 浅鉢形土器 6 鉢形土器 7 鉢形土器,深鉢形土器 15 鉢形土器 16 壺形土器 17 壺形土器 図
資料編1(考古編) ((4)縄文時代中期)

(4)縄文時代中期 前期に続く中期は、前半が円筒上層式土器(正確には円筒土器上層式土器)の盛行した時代,大木系土器の様相が濃くなって、大木8b式土器の特色を持つ榎林式土器の成立を見るに至り、次の最花式・中の,図6 縄文時代中期の土器(円筒土器) 石神遺跡(1) 円筒上層a式土器 円筒上層a式土器,円筒上層a式土器 円筒上層b式土器 円筒上層b式土器… 青森市・三内遺跡,円筒上層c式土器 円筒上層d式土器 円筒上層d式土器 円筒上層e式土器
資料編1(考古編) ((5)縄文時代後期)

(5)縄文時代後期 先の中期後半期に東北地方南部から北上し、円筒土器文化を包括した大木系土器文化も、,当地方の後期の土器は、煮沸専用の粗製土器と、貯蔵ないしは特別な行事の際に使われたと思われる精製土器に分,粗製土器では文様も単純な斜縄文が多く、精製土器では土器形式の設定を容易にするような、その土器のみが持つ,例えば、十腰内第Ⅰ式土器は、主体文様が複数の沈線による入組文等であり、関東地方の堀之内式土器に共通し、,大型の壺形土器の内部から人骨がしばしば発見されているが、土器の大きさから見て遺体をそのまま入れることは
通史編1(自然・原始) (中期)

一般にこの中期の時代は土器の器面装飾が華やかになり、北陸地方の馬高(うまだか)式(新潟県長岡市の馬高遺跡出土土器,(そり)式土器(29)、関東地方の勝坂(かつざか)式(神奈川県相模原市の勝坂遺跡出土土器を標式とする),なかでも馬高式火炎土器は、新潟国体における聖火台のモデルになり、また曽利式土器は昭和四十年代の郵便ハガキ,曽利式土器(水焔渦巻文土器) (中村龍雄『中部高地縄文土器文様』1986年 P53より)  北日本,で縄文中期を代表する円筒上層式土器は、さきの下層式土器よりも分布範囲は広い。
資料編1(考古編) ((6)縄文時代晩期)

しかし、亀ヶ岡遺跡並びに同式土器は、発見が江戸時代にさかのぼるほど古いにもかかわらず、山内清男は、出土土器,これら大洞各形式の土器は、それぞれの形式の特徴として、山内により当初提示された鉢形土器の口頸部と、胴部文様,表3 亀ヶ岡精製土器の器形と文様 時代 分期 土器形式 文様(装飾を含む) 器形 口縁部文様帯 頸部文様帯,現在、亀ヶ岡式土器の分布する範囲は、時期(土器形式)によって異なる。,我が国の縄文土器の中で、たとえ模倣品ではあってもこれほど広範囲に伝播した土器はないであろう。
資料編1(考古編) ((2)縄文時代早期)

これらは、江坂輝彌により、貝殻腹縁文(かいがらふくえんもん)土器文化、または類似の土器を出土する北の北海道函館市,図3 縄文時代早期の土器(1) 白浜式尖底深鉢形土器… 八戸市・館平遺跡(江坂輝彌氏提供),を発見し、寺ノ沢式土器と名付けて編年的位置を白浜・小舟渡平式土器に後続するとした*21。,(蛇王洞Ⅱ式)が出土し、最下層の第Ⅶ層では、縄文施文土器・無文土器に伴って押型文土器が発見された。,表2 青森県出土土器編年表 時代 型式名 縄文時代 草創期 (無文土器) (隆線文系土器) (爪形文系土器
資料編1(考古編) ((3)縄文時代前期)

、六ヶ所村鷹架の表館遺跡出土の表館式土器34*、金木町藤枝溜池北岸出土の芦野Ⅰ群土器35*、昭和62年,表館Ⅹ・Ⅻ・XIII群)土器など*36、前期の円筒下層式土器が出現するまでに数形式の土器が相前後して発見,円筒下層式土器(正確には円筒土器下層式土器)は、前述した山内清男によるa・b・c・d類(今日ではd類等,図5 縄文時代前期の土器(円筒土器、大木系土器) 円筒下層a式土器 円筒下層b式土器,円筒下層c式土器… 青森市・熊沢遺跡 円筒下層d1式土器 大木6式土器…大鰐町
通史編1(自然・原始) (早期)

した日計式土器であり、押型文(おしがたもん)をその標式としている。,この類の土器は太平洋側に多く分布し、同種の土器は東北南部の福島県にまで広がり、さらに遠く関東地方南部にまで,押型文土器に続いて貝殻文(かいがらもん)土器が出現する。,白浜式尖底深鉢形土器 八戸市・館平遺跡 (江坂輝彌氏提供)  一方、この貝殻文土器と相接して,これらの土器の編年について、六ヶ所村倉内の唐貝地(からかいち)貝塚出土土器を標式とする唐貝地下層式(18
資料編1(考古編) ((2)弥生時代の甕棺墓)

その中の沈線間を刺突文で埋めた大型の壺形土器は、発見当時に甕形土器が逆さになって蓋の役目をしていたという,壺型土器は、器形と施文文様の特徴から遠賀川系土器に含まれるものであり、共伴した土器には砂沢式土器が多く,土器は、縄文時代晩期の大洞A’式壺形土器で、同形式の鉢形土器が逆に蓋になっており、内部には推定34~35,いずれも、遠賀川系土器の影響を色濃く有するもので、第1号棺は口縁部が失われた大型の壺形土器であり、現存,図27 甕棺(土器棺)墓 甕棺(土器棺)3基…倉石村・薬師前遺跡(後期) 3号棺内の人骨発見状態
通史編1(自然・原始) (前期)

貝塚における調査で関東地方の花積(はなづみ)下層式に類似する土器(長七谷地第Ⅲ群土器)の発見を契機に進展,、一応の土器編年は確立した(22)。  ,一方南下した当該土器は、太平洋側においては岩手県の中部で南から北上して来た大木(だいぎ)式土器と接触し,とくに南では、大木式土器と混血して両土器文化の要素をもつ土器(山形県遊佐(ゆざ)町吹浦(ふくら)遺跡出土,円筒下層a式土器 森田村・石神遺跡 (森田村歴史民俗資料館蔵) 円筒下層d1式土器 森田村
資料編1(考古編) ((1)縄文時代草創期)

これらの土器片を並べて完形土器を想定すると、平縁で平底の無文鉢形土器(浅鉢形か)になるのであろうか。,図2 縄文時代草創期の土器 隆起線文土器… 六ヶ所村・表館(1)遺跡 (県埋蔵文化財調査センター,蔵)  隆線文土器に次いでは、八戸市是川の鴨平(2)遺跡より発見された爪形文土器がある。,土器には金色を呈する雲母が多く含有されている。,の土器は、現在上記の3形式である。
資料編1(考古編) ((5)塩業)

(5)塩業 現在まで判明している青森県における古代の製塩法は、海水による土器製塩である。,この時期の製塩土器は、口縁部までの内径がほぼ等しいバケツ型の平底深鉢形である。,また、製塩土器に伴う遺物に土製支脚がある。,図80 古代の製塩土器出土分布図 表6 青森県の製塩土器出土遺跡一覧表 No.,大浦貝塚  〃 野内字浦島 製塩土器,土製支脚 〃 14 沢田A遺跡  〃 造道字沢田 製塩土器 〃
資料編1(考古編) ([付図])

丘陵東南斜面 包含地 縄文(前・中・晩期) 縄文土器(円筒下層a・b,上層b式) 16 02016,,土師器 42 02053 天池遺跡 弘前市大字乳井 丘陵西斜面 包含地 縄文(後期) 縄文土器,石鏃,45 02059 三ッ森(1)遺跡 弘前市大字富栄字鳥羽 台地南斜面 包含地 縄文(中期) 縄文土器,包含地 縄文(後・晩期) 弥生 平安 縄文土器(後期十腰内Ⅲ・Ⅳ群,晩期大洞BC式),弥生土器(,,続縄文土器,擦文土器,土偶,土玉,石器 157 02205 野脇遺跡 弘前市大字中崎字野脇76-2,
通史編1(古代・中世) (古墳文化と続縄文文化の交流)

古墳文化と続縄文文化の交流 石狩低地帯での東北地方弥生時代最終末の天王山系土器と江別C2・D式土器の,共伴例、古墳時代中期の南小泉式土器と北大Ⅰ式土器の共伴例などからも、江別A式~C2式は弥生後期土器と、,江別C2・D式は弥生後期土器~古墳時代前期の塩釜式土器と、さらに北大Ⅰ式は古墳時代中期土器と同時代のものと,考えられ、青森県内でも弥生時代の在地系土器と続縄文土器の併行関係が遺跡の立地や分布状況から示唆されている,図8 津軽地方の続縄文土器および併存する弥生土器  江別式に後続する北大式土器は、現在のところ津軽地方
資料編1(考古編) (15.尾上山(3)遺跡)

によって縄文時代前期の円筒下層b式から同c式を経て、円筒下層d2式土器期に該当する。,出土遺物は、土器及び石器である。土器は縄文土器が多く、中でも円筒土器が主体を占めている。,図31 尾上山(3)遺跡発見遺構 5号・6号・9号土壙内発見土器 完掘後の全景 第6号土壙, 内部に土器が見える 第5号土壙内土器出土状態 第6号土壙内土器出土状態,第9号土壙内土器出土状態 第9号土壙内土器出土状態  土器編年に合わせて形式ごとに記述
通史編1(自然・原始) (草創期)

草創期 縄文最古の時代とされる草創期は、旧石器時代において述べたごとく、大平山元Ⅰ遺跡で発掘された無文土器,を有する丸底風の尖底深鉢形(せんていふかばちがた)土器となった。,ただしこの土器は器面を飾る隆線は、表館(1)遺跡のものに比べて太形である(5)。,爪形文土器は、一〇〇点を超える破片で出土し、土器の器体を構成する粘土(胎土(たいど)と称する)のなかに,それに続く多縄文土器も薄手に作られ、器面に羽状を呈する縄文が施されている。
通史編1(自然・原始) (亀ヶ岡文化の広がり)

亀ヶ岡文化の広がり 現在みられる当該土器の分布範囲は、日本の先史土器文化のなかでも他の追従を許さぬほど,ただしこの土器の広がりをみると、北においては、亀ヶ岡の古い形式の土器(大洞B・BC式)は、札幌から苫小牧市,また南は、古い土器形式(大洞B・BC式)の段階で一挙に近畿地方まで広がり、その後順次縮少するようであるが,十腰内第Ⅵ群(式)土器(大洞B式) 木造町・亀ヶ岡遺跡 (個人蔵) 大洞BC式注口土器,弘前市・十腰内遺跡(旧カメコ山) (東北大学文学部考古学研究室蔵) 大洞C1式壺形土器
資料編1(考古編) (2.縄文時代の住居跡)

から早稲田5類土器期まで存続する。,前期に入ると、関東地方の花積下層式土器に類似する長七谷地Ⅲ群土器の時期には楕円形、表館式土器期は隅丸長方形,この時期の炉は、地床炉が多数を占めるが、円筒上層d式土器期から土器埋設炉、次の円筒上層e式土器期から石囲炉,炉跡は、地床炉が多数を占めるが石囲炉も次いで多く、さらに土器埋設炉、土器埋設プラス石囲炉となっている。,共伴した土器から見ると、晩期初頭の大洞B式土器期のものが多く、次いで大洞C1、C2式土器などの順となっていた
資料編1(考古編) (8.砂沢遺跡)

、そのほか天王山系土器も発見されている。, 2b住居跡 十腰内Ⅴ式注口土器 2b住居跡 十腰内Ⅴ式注口土器 2b住居跡,砂沢式深鉢形土器 砂沢式鉢形土器(二枚橋系) 砂沢式台付浅鉢形土器,図20 砂沢遺跡出土遺物(2) 砂沢式台付浅鉢形土器 砂沢式注口土器 砂沢式浅鉢形土器,五所式台付浅鉢形土器(台部復元) 土器蓋 遠賀川系土器破片
資料編1(考古編) ((1)縄文時代の甕棺墓)

ただし、遺骨の入った土器は甕形土器ではなく、多くの場合は壺形土器ないしは深鉢形土器である。  ,なお、両遺跡の時期は、後期の十腰内Ⅰ群(式)土器期である。  ,いずれも後期の十腰内Ⅰ群(式)土器期に属する*240。,深鉢形土器1個は倒立)が発見され、特に3号棺と称する深鉢形土器を被せていたその内部から、老年の女性骨1,この合口甕棺は、晩期中葉の大洞C2式土器のようである*242。
資料編1(考古編) (-中世Ⅰ期(12世紀代)-)

前者が「在地系」、後者が「京都系」と称される土師質の土器である。,図50 12世紀の土師器(かわらけ) 図51 津軽地方の擦文土器(1) 図52 津軽地方,の擦文土器(2) 図53 津軽地方の擦文土器(3) 図54 津軽地方の擦文土器(4,) 図55 津軽地方の擦文土器(5) 図56 本州の擦文土器分布図
資料編1(考古編) (資料編1「考古編」掲載図・表・写真一覧)

図3 縄文時代早期の土器(1) 図4 縄文時代早期の土器(2) 図5 縄文時代前期の土器(円筒土器,,大木系土器) 図6 縄文時代中期の土器(円筒土器)石神遺跡(1) 図7 縄文時代中期の土器(円筒土器,)石神遺跡(2) 図8 縄文時代中期の土器(主に大木系土器)(3) 図9 縄文時代後期の土器(1),図10 縄文時代後期の土器(2) 図11 縄文時代晩期の土器(1) 図12 縄文時代晩期の土器,図112 刻書土器(1) 図113 刻書土器(2) 図114 墨書土器(1) 図115 墨書土器
資料編1(考古編) ((3)弥生時代の土壙墓)

第1次から第3次にかけての調査で544m2が発掘され、弥生時代中期前半または弥生3期の宇鉄Ⅱ式土器期の,の恵山AB式土器期5基等であり、そのほか土壙相互の切り合いによって、明確に時期判定のできない土壙を加えて,土壙墓内からは、副葬品の土器・管玉・勾玉・丸玉・石鏃・靴形石箆等が出土した。,そのほか3号・5号・22号土壙墓(恵山AB式土器期)からカップ形土器、12号(宇鉄Ⅱ式と恵山A式土器期,)では壺形土器4個・鉢形土器5個(この中に台付きとボール形が各2個ある)などがセットになって発見されている
資料編1(考古編) ((1)石棺墓)

時期は、晩期初頭の大洞B式土器期であるという*222。,なお、当該遺構の時期は、伴出した甕棺により十腰内Ⅰ群(式)土器期とされている。,人骨・石鏃・土器・木炭片 1972年 (昭和47) 堀合Ⅲ号 南津軽郡 平賀町唐竹堀合 1基 長方形,1.60×0.90 〔後期〕十腰内Ⅰ群(式)土器期 人骨・副葬品なし 1978年 (昭和,#215;1.30 〔後期〕十腰内Ⅰ群(式)土器期 甕棺形土器・石皿片・人骨なし
通史編1(古代・中世) (擦文文化の特徴)

擦文文化の特徴 北海道地方を主要な文化圏とする擦文文化の指標である擦文土器の分布は、北は南サハリン、,そして南は青森県を中心とし、七世紀代と推定される初現期の擦文土器については、岩手県および宮城県の北上川流域,一〇~一一世紀代と推定される盛期の擦文土器の分布は、本県においては県西側の陸奥湾沿岸地域、岩木川流域を,擦文土器を出土する遺跡は現在のところ一〇〇遺跡を超える。,に施された刻文の系譜は北海道地方を中心とする北方系の土器に求められる。
資料編1(考古編) ((1)3世紀末~4世紀前半代)

(1)3世紀末~4世紀前半代 この時期には、二つの土器文化が併行する形で認められる。,の系譜の中で把握されるもので、鳥海山式から九艘泊式にかけての天王山式系、及び撚糸文系土器文化である。,もう一つは、北海道弥生時代併行期の続縄文式土器文化を母体として発生した後北式土器文化である。,(後北式)出土遺跡分布図 図2 3世紀~4世紀前半代の土器(1)(後北式・天王山式系土器),図3 3世紀~4世紀前半代の土器(2)(後北式・天王山式系土器)
通史編1(古代・中世) (弥生文化と続縄文文化)

日本列島の北に位置する津軽地方における稲作農耕の導入は、土器に施された文様の特徴などからもわかるように,それまで地方色の濃かった続縄文土器は、江別C2・D式土器の時期に至って斉一性(せいいつせい)を強め、全道的,ところで、続縄文文化の指標のひとつである後北(こうほく)式土器とは、「後期北海道式薄手縄文土器」を略した,この時期の土器は、近年「十勝茂寄(とかちもよろ)式」と呼ばれている。,北大式土器と称されてきた土器は、本来、続縄文文化から擦文文化へ推移する過渡的な時期に位置づけられる特徴
資料編1(考古編) ((4)土製品)

弥生時代では、前期の砂沢式土器期に多く、中期後半の田舎館式土器期を最後に製作は停止したらしい。  ,などもあり、弥生時代前期(砂沢式土器期)には、ムササビを表した壺形土器(三戸郡階上町道仏字大蛇)も見られる,このような土製品とは異なるが、土器の器面に粘土の紐を張り付けて一種の絵画を表したような土器が、八戸市田面木,土器は、高さ26cm、口径19cm、底径8.3cmほどの深鉢形土器で、中期後半の円筒上層e式と榎林式の,この土器は狩猟文土器という名が付され、現在県重宝の指定を受けている*89。
資料編1(考古編) (9.高長根山遺跡)

はA・Bの2地点を設定して行われ、A地点では遺構の検出は見られず、縄文時代中期の円筒上層b・c・d式土器,と大木8b式土器の破片を発見したにすぎない。,出土遺物は縄文時代中期の円筒上層b・c・d式土器、同後期の十腰内Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅴ群(式)土器(図22)、,高長根山遺跡の復元住居 図22 高長根山遺跡(縄文後期)出土土器 台付浅鉢形土器,深鉢形土器 浅鉢形土器 図23 高長根山遺跡出土石器 図24 高長根山遺跡出土
資料編1(考古編) (3.砂沢遺跡)

するというかなり高度な農地造成の技術を有しており、在地の人々による模倣の技術と考えるよりは、遠賀川系の土器,水田に給排水する用水路跡を覆う状態で砂沢式土器を包含した土層があり、その土層から遠賀川系土器も混じって,発見され、砂沢式土器と西日本の土器との対比関係が明白となった。
資料編1(考古編) ((1)石器と石製品の種類)

前期の円筒下層a並びにb式土器に伴う凝灰質泥岩を利用した円形を呈する岩版も、特殊なものといえるかもしれない,表4 土器編年別石器・石製品出土表 時代 型式名 石鏃 石槍 石錘 浮子 石皿 磨石 敲石 凹石 打製石斧,      ○         ○   ○   ○             ○       (隆線文系土器,に出現して、前期末の同下層d2式土器期まで存続し、その後しばらく絶えて晩期になると再出現する。,この石器は、中期終末に近い最花・中の平Ⅲ式土器期に出現し、晩期の大洞BC式土器期にかけて認められるが、
資料編1(考古編) (4.黄金山遺跡)

発見された遺物はすべて土器であり、Ⅰ号遺跡から縄文時代後期初頭の深鉢形土器並びに破片が、Ⅱ号遺跡からは,縄文時代前期の円筒下層b式及び同d1式土器破片が出土している。,なお、Ⅰ号遺跡出土の深鉢形土器に対し、調査を担当した渡辺兼庸は黄金山式なる形式名を設定し、関東地方の堀之内,Ⅰ式土器と並行する考えを示している。,岩木山-岩木山麓古代遺跡発掘調査報告書)弘前市教育委員会 1966年3月 図4 黄金山遺跡出土土器
資料編1(考古編) (5.青森県における弥生時代の終局)

さらにその後の天王山式(鳥海山式)期に入ると、北海道を中心とする続縄文式土器を出土する遺跡が目立って多,これらの続縄文式土器(後北式土器=江別式土器ともいう)は、本県を越えてさらに南下し、太平洋側における南限,そのような状況のなかで起こった北海道の後北式土器の到来について、中村五郎は「東北地方の過疎化-集落の激減,また、石附喜三男は樺太の土器文化について「(鈴谷式土器)を伴なう文化の流れ-そこには当然のことながらそうした,文化を担う人々の移動が伴なったはずである-が、北海道において江別式土器を製作使用する人々-江別文化人-
資料編1(考古編) (13.神原遺跡)

遺物は、採集された約120片の土器破片と石鏃(有茎1点)・石片のみである。,土器は甕形・台付浅鉢形・壺形などの破片であり、土器編年上は当地方の弥生時代前期後半に位置づけられる五所式土器,図29 神原遺跡発見の土器拓影図と石器実測図(北奥古代文化3 P.45・46より) ※参考文献 
通史編1(自然・原始) (栽培の問題)

さきに三内丸山遺跡の記述で触れたが、縄文時代にはそのほかに八戸市是川の風張遺跡で、後期の十腰内Ⅳ群(式)土器期,の土層からキビが、同じく十腰内Ⅴ群(式)土器の層ではアワの実(種子)が出土しているといわれている(84,さらに亀ヶ岡では、晩期終末に近い大洞A式土器の土層から炭化米や籾も発見され(85)、視野を広げると八戸市風張,(かざはり)(1)遺跡でも後期終末の十腰内Ⅴ群(式)土器とともに炭化米が検出されるなど、寒冷な東北北部,の胎土に稲の花粉が混入し、後期の土器に籾(もみ)の圧痕を有するものが発見される(89)など、新しい発見
資料編1(考古編) (-古代後期Ⅳ期(10世紀末~11世紀末)-)

世紀末~11世紀末)- 高館遺跡・古館遺跡・砂沢平遺跡の主体的な遺構群、蓬田大館遺跡の一部遺構群出土土器,煮沸具としての土師器甕がほとんどで、ほかに少量の坏と把手付土器・羽釜・内耳土器がある。,把手付土器の調整も同様である。坏は硬質で、底部から直線的に立ち上がり、口縁部が薄くなるものが多い。,この時期には、擦文土器を伴う遺跡が飛躍的に増加する。,この擦文土器も、多くの土師器とともに11世紀末の段階では終焉を迎える。
資料編1(考古編) (3.尾上山遺跡)

住居跡等の遺構は見られず、小ピットとわずかな焼土・炭化物(クルミ・ナラ等)のほか、多量の縄文時代晩期の土器,土器は大洞B式・大洞BC式・大洞C1式・大洞C2式・大洞A式・大洞A’式であり、いわゆる亀ヶ岡式に属する,精粗の土器である。,なお粗製の深鉢形・壺型など数点の土器を除くとすべて破片であった。,個体分類を試みると、注口土器をはじめ同時期の土器形態がすべて存在するようである。
資料編1(考古編) ((2)石器)

現在のところ、早期の白浜・小舟渡式土器期に出現し、早期後半のムシリⅠ式土器期まで使われた刃器らしい。,前期の円筒下層a式土器期から、後期の十腰内Ⅱ群(式)土器期まで存続し、前期の円筒下層式土器期に多い遺物,なお、当該石器は、無茎が縄文時代でも古い形式の土器に、有茎と柳葉形は新しい形式の土器に多いというとらえ,青森県では、大平山元Ⅰ遺跡で草創期の無文土器などに共伴している*71。,)式土器をはじめ、東釧路Ⅲ式や春日町式などの土器が出土し73*、上北郡六ヶ所村の表館(1)遺跡では、中茶路式
通史編1(古代・中世) (七・八世紀代の津軽地方)

う大規模調査が行われる以前には、市浦村十三中島遺跡の土師器甕・球胴甕・坏・高坏・小型手捏(てづく)ね土器,がまとまって出土しており、これらは、七・八世紀代の標識土器として知られていた。,耕作中に発見された資料であるが、弘前市中野遺跡では土師器甕一二点、坏六点、片口土器一点の総数一九点が一括,ただ、これらの年代観については、東北地方南部あるいは関東以西の土器との対比から七世紀前半~中葉の土器を,図7 中野遺跡出土の土師器  土器の時代を決める物差しである編年は、あくまで新旧の相対関係を決定
通史編1(自然・原始) (亀ヶ岡文化の特色)

亀ヶ岡文化の特色 今日亀ヶ岡式土器といわれるものは、さきの後期で述べたごとく、粗製土器と精製土器に分,けられ、粗製土器はわれわれの日常生活における鍋・釜類と同様の煮炊き専用の容器で、器面に単純な縄文が施されている,これに対し精製土器は、『新編弘前市史資料編1(考古編)』一〇一頁に示したように器形の種類も多く、器面を,、土器製作技術の極致ともいえるであろう。,土器とならんでこの時期の土偶も粗製と精製があり、粗製は粘土で人の形に作り上げたもので、手足はもとより眼
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