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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(自然・原始)
(土器棺墓)
土器
棺墓 東北北部の円筒
土器
の世界では、八戸市蟹沢遺跡などの例のごとく、埋設された
土器
のなかから胎児骨,が発見され(73)、また三内丸山遺跡では中期に入ると数百の埋設
土器
がおもに「北の谷」の西北から出土している,幼くして亡くなった乳児または胎児を、
土器
のなかに入れて埋葬したのであろうか。,直立・倒立をさせた
土器
の底を抜くか、底近くに孔を開けて容器としての実用性を失わせ、丸い石を一~二個抱かせて,
土器
を使ったいわゆる
土器
棺墓は、縄文後期になると数は中期に比べて少なくなるが、遺体を入れた
土器
棺も特別 /
土器
棺墓
通史編1(古代・中世)
(土器の煮炊から鉄鍋へ)
それは鉄器を模倣したと推定されるもので、把手付(とってつき)
土器
(図34-2)・内耳(ないじ)
土器
(図,34-3)・羽釜(はがま)
土器
と呼ばれている器である。,図34 内耳鉄鍋と内耳
土器
・把手付
土器
1 柳之御所堀跡出土内耳鉄鍋(岩手県平泉町) 2 蓬田大館遺跡出土内耳
土器
,(蓬田村) 3 源常平遺跡出土把手付
土器
(浪岡町) 把手付
土器
は、一種のフライパンないしは現在,このように、煮炊の道具が
土器
から鉄製に移行する過程で、北奥を中心とする地域では鉄製品を
土器
で模倣するという /
土器
の煮炊から鉄鍋へ
通史編1(自然・原始)
(三 亀ヶ岡土器文化の発展)
三 亀ヶ岡
土器
文化の発展 縄文時代の最後を飾る晩期は、今を去る三〇〇〇年から二三〇〇年前にかけて栄え,晩期の
土器
を俗に亀ヶ岡式
土器
と称し、その時代に人々が築き上げた品々などを総称して亀ヶ岡文化と呼んでいる,この
土器
文化は、さきの後期に繁栄した十腰内式
土器
を母胎にして生まれ、さらに十腰内式
土器
をしのぐほどに成長発展,い状況は、亀ヶ岡
土器
文化の特色であるとさえ考えられる。,大洞C1式皿形
土器
八戸市・是川中居遺跡 (八戸市博物館提供) / 三 亀ヶ岡
土器
文化の発展
資料編1(考古編)
(1.我が国における土器の出現)
1.我が国における
土器
の出現 我が国における最古の
土器
の初現は、昭和30年(1955)から調査の行われた,山形県日向洞穴遺跡であり、西日本の
土器
の初現は、昭和35年(1960)の夏に長崎県吉井町(佐世保市の北西約,25km)福井洞穴から発見された隆線文
土器
であろう*8。,年後の昭和37年(1962)には、愛媛県上浮名郡美川村の上黒岩岩陰遺跡で、江坂輝彌により同様の隆線文
土器
,を出土する土層のさらに下層から器面に豆粒状の突起を持つ豆粒文
土器
を発掘したといわれる*10。 / 1.我が国における
土器
の出現
資料編1(考古編)
(1.時代区分と弥生土器の編年)
1.時代区分と弥生
土器
の編年 我々は、この時代の変遷を理解しやすくするために、前・中・後期の3期分類,(前期以前に早期を加える考え方もある)のほか、
土器
についてはⅠ期~Ⅴ期に至る分類、畿内については弥生時代前期,)Ⅰ式(福岡市博多区板付遺跡出土の古式
土器
を標式として命名)が出現し、次の板付Ⅱ式
土器
の時期に入ると、,)甕形(広口壺形)
土器
…弘前市・砂沢遺跡 五所式台付浅鉢形
土器
…弘前市・砂沢遺跡,宇鉄Ⅱ式末広口壺形・甕形
土器
… 三厩村・宇鉄Ⅱ遺跡 (青森県立郷土館蔵) 天王山系甕形
土器
/ 1.時代区分と弥生
土器
の編年
通史編1(自然・原始)
(二 祭祀に特色を示す十腰内土器文化)
二 祭祀に特色を示す十腰内
土器
文化 縄文中期もその後半に入って南の大木式
土器
が北部に達し、次の後期には,式(千葉市加曽利貝塚出土
土器
を標式とする)(64)
土器
が後を追って北上し、東北南部へ入って門前(もんぜん,宮戸島にある里浜(さとはま)貝塚出土
土器
を標式とする)(67)
土器
に影響を与え、さらに北上して青森県に,に上陸し、内浦湾に面する虻田町(あぶたちょう)の入江(いりえ)式
土器
(虻田町入江貝塚出土
土器
を標式とする, 十腰内Ⅴ・Ⅵ群(式)
土器
(21~27 Ⅴ群,28~32 Ⅵ群) 十腰内Ⅰ群(式)
土器
( / 二 祭祀に特色を示す十腰内
土器
文化
資料編1(考古編)
(2.東北地方における土器の出現)
2.東北地方における
土器
の出現 東北地方における最古の
土器
の発見は、前述のように、柏倉亮吉・加藤稔により,当時、最古と考えられていた貝殻文
土器
を越える古い形式の
土器
が次々に発見され、
土器
の最終的な出土は爪形文,と隆線文
土器
に到達した*11。,その後、この種の
土器
は同県下の洞穴並びに岩陰遺跡から続々と発見されるにいたり*12、山形県が東北地方のみならず,、東日本における
土器
発祥地的な観を呈していたのである。 / 2.東北地方における
土器
の出現
資料編1(考古編)
(〈1〉津軽地方の土師器と擦文土器)
〈1〉津軽地方の土師器と擦文
土器
古代の当該地域の土師器と擦文
土器
の内容は、時代性と深くかかわり、地域性,以下では、7世紀から12世紀にかけての
土器
群を古代前期(飛鳥・奈良時代)、同後期(平安時代・中世)に大別,表3 本州の擦文
土器
出土遺跡一覧(左右ページ対応) 番号 遺跡名 所在地 遺跡の種類 出土遺物 伴出遺物, 中別所 防御性集落 〃 10C後~11C 5 小友遺跡 〃 小友字宇田野 〃 〃 把手付
土器
他,〃 11C代 土師籾痕 9 八幡崎遺跡(1) 尾上町八幡崎字宮本 遺構外 〃 把手付
土器
11C / 〈1〉津軽地方の土師器と擦文
土器
通史編1(自然・原始)
(一 北方に広がる円筒土器文化)
一 北方に広がる円筒
土器
文化 縄文時代は今を去る一万二〇〇〇年前に始まり、二三〇〇年前に次の弥生時代 / 一 北方に広がる円筒
土器
文化
資料編1(考古編)
(7.十面沢遺跡)
図16-1壺形
土器
=十腰内Ⅳ群(式)
土器
、2注口
土器
=十腰内Ⅳ群(式)
土器
、3壺形
土器
=十腰内Ⅴ群(式,)
土器
、4細口壺形
土器
=十腰内Ⅴ群(式)
土器
、5注口
土器
=十腰内Ⅴ群(式)
土器
、6壺形
土器
=十腰内Ⅴ群,(式)
土器
図16 十面沢遺跡出土遺物(東北大学蔵) 1、壺形
土器
=十腰内Ⅳ群(式)
土器
,2、注口
土器
=十腰内Ⅳ群(式)
土器
3、壺形
土器
=十腰内Ⅴ群(式)
土器
4、細口壺形
土器
,=十腰内Ⅴ群(式)
土器
5、注口
土器
=十腰内Ⅴ群(式)
土器
6、壺形
土器
=十腰内Ⅴ
資料編1(考古編)
(6.十腰内遺跡)
、5浅鉢形
土器
、6・7鉢形
土器
、8・9深鉢形
土器
、図11-10鉢形
土器
、11~14深鉢形
土器
、以上十腰内,Ⅰ群(式)
土器
、15鉢形
土器
=十腰内Ⅳ群(式)
土器
、16・17壺形
土器
=十腰内Ⅴ群(式)
土器
、図12-,18鉢形
土器
・19台付鉢形
土器
=十腰内Ⅴ群(式)
土器
、20深鉢形
土器
、21注口
土器
、22壺形
土器
=十腰内,4 壺形
土器
5 浅鉢形
土器
6 鉢形
土器
7 鉢形
土器
,深鉢形
土器
15 鉢形
土器
16 壺形
土器
17 壺形
土器
図
資料編1(考古編)
((4)縄文時代中期)
(4)縄文時代中期 前期に続く中期は、前半が円筒上層式
土器
(正確には円筒
土器
上層式
土器
)の盛行した時代,大木系
土器
の様相が濃くなって、大木8b式
土器
の特色を持つ榎林式
土器
の成立を見るに至り、次の最花式・中の,図6 縄文時代中期の
土器
(円筒
土器
) 石神遺跡(1) 円筒上層a式
土器
円筒上層a式
土器
,円筒上層a式
土器
円筒上層b式
土器
円筒上層b式
土器
… 青森市・三内遺跡,円筒上層c式
土器
円筒上層d式
土器
円筒上層d式
土器
円筒上層e式
土器
資料編1(考古編)
((5)縄文時代後期)
(5)縄文時代後期 先の中期後半期に東北地方南部から北上し、円筒
土器
文化を包括した大木系
土器
文化も、,当地方の後期の
土器
は、煮沸専用の粗製
土器
と、貯蔵ないしは特別な行事の際に使われたと思われる精製
土器
に分,粗製
土器
では文様も単純な斜縄文が多く、精製
土器
では
土器
形式の設定を容易にするような、その
土器
のみが持つ,例えば、十腰内第Ⅰ式
土器
は、主体文様が複数の沈線による入組文等であり、関東地方の堀之内式
土器
に共通し、,大型の壺形
土器
の内部から人骨がしばしば発見されているが、
土器
の大きさから見て遺体をそのまま入れることは
通史編1(自然・原始)
(中期)
一般にこの中期の時代は
土器
の器面装飾が華やかになり、北陸地方の馬高(うまだか)式(新潟県長岡市の馬高遺跡出土
土器
,(そり)式
土器
(29)、関東地方の勝坂(かつざか)式(神奈川県相模原市の勝坂遺跡出土
土器
を標式とする),なかでも馬高式火炎
土器
は、新潟国体における聖火台のモデルになり、また曽利式
土器
は昭和四十年代の郵便ハガキ,曽利式
土器
(水焔渦巻文
土器
) (中村龍雄『中部高地縄文
土器
文様』1986年 P53より) 北日本,で縄文中期を代表する円筒上層式
土器
は、さきの下層式
土器
よりも分布範囲は広い。
資料編1(考古編)
((6)縄文時代晩期)
しかし、亀ヶ岡遺跡並びに同式
土器
は、発見が江戸時代にさかのぼるほど古いにもかかわらず、山内清男は、出土
土器
,これら大洞各形式の
土器
は、それぞれの形式の特徴として、山内により当初提示された鉢形
土器
の口頸部と、胴部文様,表3 亀ヶ岡精製
土器
の器形と文様 時代 分期
土器
形式 文様(装飾を含む) 器形 口縁部文様帯 頸部文様帯,現在、亀ヶ岡式
土器
の分布する範囲は、時期(
土器
形式)によって異なる。,我が国の縄文
土器
の中で、たとえ模倣品ではあってもこれほど広範囲に伝播した
土器
はないであろう。
資料編1(考古編)
((2)縄文時代早期)
これらは、江坂輝彌により、貝殻腹縁文(かいがらふくえんもん)
土器
文化、または類似の
土器
を出土する北の北海道函館市,図3 縄文時代早期の
土器
(1) 白浜式尖底深鉢形
土器
… 八戸市・館平遺跡(江坂輝彌氏提供),を発見し、寺ノ沢式
土器
と名付けて編年的位置を白浜・小舟渡平式
土器
に後続するとした*21。,(蛇王洞Ⅱ式)が出土し、最下層の第Ⅶ層では、縄文施文
土器
・無文
土器
に伴って押型文
土器
が発見された。,表2 青森県出土
土器
編年表 時代 型式名 縄文時代 草創期 (無文
土器
) (隆線文系
土器
) (爪形文系
土器
資料編1(考古編)
((3)縄文時代前期)
、六ヶ所村鷹架の表館遺跡出土の表館式
土器
34*、金木町藤枝溜池北岸出土の芦野Ⅰ群
土器
35*、昭和62年,表館Ⅹ・Ⅻ・XIII群)
土器
など*36、前期の円筒下層式
土器
が出現するまでに数形式の
土器
が相前後して発見,円筒下層式
土器
(正確には円筒
土器
下層式
土器
)は、前述した山内清男によるa・b・c・d類(今日ではd類等,図5 縄文時代前期の
土器
(円筒
土器
、大木系
土器
) 円筒下層a式
土器
円筒下層b式
土器
,円筒下層c式
土器
… 青森市・熊沢遺跡 円筒下層d1式
土器
大木6式
土器
…大鰐町
通史編1(自然・原始)
(早期)
した日計式
土器
であり、押型文(おしがたもん)をその標式としている。,この類の
土器
は太平洋側に多く分布し、同種の
土器
は東北南部の福島県にまで広がり、さらに遠く関東地方南部にまで,押型文
土器
に続いて貝殻文(かいがらもん)
土器
が出現する。,白浜式尖底深鉢形
土器
八戸市・館平遺跡 (江坂輝彌氏提供) 一方、この貝殻文
土器
と相接して,これらの
土器
の編年について、六ヶ所村倉内の唐貝地(からかいち)貝塚出土
土器
を標式とする唐貝地下層式(18
資料編1(考古編)
((2)弥生時代の甕棺墓)
その中の沈線間を刺突文で埋めた大型の壺形
土器
は、発見当時に甕形
土器
が逆さになって蓋の役目をしていたという,壺型
土器
は、器形と施文文様の特徴から遠賀川系
土器
に含まれるものであり、共伴した
土器
には砂沢式
土器
が多く,
土器
は、縄文時代晩期の大洞A’式壺形
土器
で、同形式の鉢形
土器
が逆に蓋になっており、内部には推定34~35,いずれも、遠賀川系
土器
の影響を色濃く有するもので、第1号棺は口縁部が失われた大型の壺形
土器
であり、現存,図27 甕棺(
土器
棺)墓 甕棺(
土器
棺)3基…倉石村・薬師前遺跡(後期) 3号棺内の人骨発見状態
通史編1(自然・原始)
(前期)
貝塚における調査で関東地方の花積(はなづみ)下層式に類似する
土器
(長七谷地第Ⅲ群
土器
)の発見を契機に進展,、一応の
土器
編年は確立した(22)。 ,一方南下した当該
土器
は、太平洋側においては岩手県の中部で南から北上して来た大木(だいぎ)式
土器
と接触し,とくに南では、大木式
土器
と混血して両
土器
文化の要素をもつ
土器
(山形県遊佐(ゆざ)町吹浦(ふくら)遺跡出土,円筒下層a式
土器
森田村・石神遺跡 (森田村歴史民俗資料館蔵) 円筒下層d1式
土器
森田村
資料編1(考古編)
((1)縄文時代草創期)
これらの
土器
片を並べて完形
土器
を想定すると、平縁で平底の無文鉢形
土器
(浅鉢形か)になるのであろうか。,図2 縄文時代草創期の
土器
隆起線文
土器
… 六ヶ所村・表館(1)遺跡 (県埋蔵文化財調査センター,蔵) 隆線文
土器
に次いでは、八戸市是川の鴨平(2)遺跡より発見された爪形文
土器
がある。,
土器
には金色を呈する雲母が多く含有されている。,の
土器
は、現在上記の3形式である。
資料編1(考古編)
((5)塩業)
(5)塩業 現在まで判明している青森県における古代の製塩法は、海水による
土器
製塩である。,この時期の製塩
土器
は、口縁部までの内径がほぼ等しいバケツ型の平底深鉢形である。,また、製塩
土器
に伴う遺物に土製支脚がある。,図80 古代の製塩
土器
出土分布図 表6 青森県の製塩
土器
出土遺跡一覧表 No.,大浦貝塚 〃 野内字浦島 製塩
土器
,土製支脚 〃 14 沢田A遺跡 〃 造道字沢田 製塩
土器
〃
資料編1(考古編)
([付図])
丘陵東南斜面 包含地 縄文(前・中・晩期) 縄文
土器
(円筒下層a・b,上層b式) 16 02016,,土師器 42 02053 天池遺跡 弘前市大字乳井 丘陵西斜面 包含地 縄文(後期) 縄文
土器
,石鏃,45 02059 三ッ森(1)遺跡 弘前市大字富栄字鳥羽 台地南斜面 包含地 縄文(中期) 縄文
土器
,包含地 縄文(後・晩期) 弥生 平安 縄文
土器
(後期十腰内Ⅲ・Ⅳ群,晩期大洞BC式),弥生
土器
(,,続縄文
土器
,擦文
土器
,土偶,土玉,石器 157 02205 野脇遺跡 弘前市大字中崎字野脇76-2,
通史編1(古代・中世)
(古墳文化と続縄文文化の交流)
古墳文化と続縄文文化の交流 石狩低地帯での東北地方弥生時代最終末の天王山系
土器
と江別C2・D式
土器
の,共伴例、古墳時代中期の南小泉式
土器
と北大Ⅰ式
土器
の共伴例などからも、江別A式~C2式は弥生後期
土器
と、,江別C2・D式は弥生後期
土器
~古墳時代前期の塩釜式
土器
と、さらに北大Ⅰ式は古墳時代中期
土器
と同時代のものと,考えられ、青森県内でも弥生時代の在地系
土器
と続縄文
土器
の併行関係が遺跡の立地や分布状況から示唆されている,図8 津軽地方の続縄文
土器
および併存する弥生
土器
江別式に後続する北大式
土器
は、現在のところ津軽地方
資料編1(考古編)
(15.尾上山(3)遺跡)
によって縄文時代前期の円筒下層b式から同c式を経て、円筒下層d2式
土器
期に該当する。,出土遺物は、
土器
及び石器である。
土器
は縄文
土器
が多く、中でも円筒
土器
が主体を占めている。,図31 尾上山(3)遺跡発見遺構 5号・6号・9号土壙内発見
土器
完掘後の全景 第6号土壙, 内部に
土器
が見える 第5号土壙内
土器
出土状態 第6号土壙内
土器
出土状態,第9号土壙内
土器
出土状態 第9号土壙内
土器
出土状態
土器
編年に合わせて形式ごとに記述
通史編1(自然・原始)
(亀ヶ岡文化の広がり)
亀ヶ岡文化の広がり 現在みられる当該
土器
の分布範囲は、日本の先史
土器
文化のなかでも他の追従を許さぬほど,ただしこの
土器
の広がりをみると、北においては、亀ヶ岡の古い形式の
土器
(大洞B・BC式)は、札幌から苫小牧市,また南は、古い
土器
形式(大洞B・BC式)の段階で一挙に近畿地方まで広がり、その後順次縮少するようであるが,十腰内第Ⅵ群(式)
土器
(大洞B式) 木造町・亀ヶ岡遺跡 (個人蔵) 大洞BC式注口
土器
,弘前市・十腰内遺跡(旧カメコ山) (東北大学文学部考古学研究室蔵) 大洞C1式壺形
土器
通史編1(自然・原始)
(草創期)
草創期 縄文最古の時代とされる草創期は、旧石器時代において述べたごとく、大平山元Ⅰ遺跡で発掘された無文
土器
,を有する丸底風の尖底深鉢形(せんていふかばちがた)
土器
となった。,ただしこの
土器
は器面を飾る隆線は、表館(1)遺跡のものに比べて太形である(5)。,爪形文
土器
は、一〇〇点を超える破片で出土し、
土器
の器体を構成する粘土(胎土(たいど)と称する)のなかに,それに続く多縄文
土器
も薄手に作られ、器面に羽状を呈する縄文が施されている。
資料編1(考古編)
(2.縄文時代の住居跡)
から早稲田5類
土器
期まで存続する。,前期に入ると、関東地方の花積下層式
土器
に類似する長七谷地Ⅲ群
土器
の時期には楕円形、表館式
土器
期は隅丸長方形,この時期の炉は、地床炉が多数を占めるが、円筒上層d式
土器
期から
土器
埋設炉、次の円筒上層e式
土器
期から石囲炉,炉跡は、地床炉が多数を占めるが石囲炉も次いで多く、さらに
土器
埋設炉、
土器
埋設プラス石囲炉となっている。,共伴した
土器
から見ると、晩期初頭の大洞B式
土器
期のものが多く、次いで大洞C1、C2式
土器
などの順となっていた
資料編1(考古編)
((1)縄文時代の甕棺墓)
ただし、遺骨の入った
土器
は甕形
土器
ではなく、多くの場合は壺形
土器
ないしは深鉢形
土器
である。 ,なお、両遺跡の時期は、後期の十腰内Ⅰ群(式)
土器
期である。 ,いずれも後期の十腰内Ⅰ群(式)
土器
期に属する*240。,深鉢形
土器
1個は倒立)が発見され、特に3号棺と称する深鉢形
土器
を被せていたその内部から、老年の女性骨1,この合口甕棺は、晩期中葉の大洞C2式
土器
のようである*242。
資料編1(考古編)
(8.砂沢遺跡)
、そのほか天王山系
土器
も発見されている。, 2b住居跡 十腰内Ⅴ式注口
土器
2b住居跡 十腰内Ⅴ式注口
土器
2b住居跡,砂沢式深鉢形
土器
砂沢式鉢形
土器
(二枚橋系) 砂沢式台付浅鉢形
土器
,図20 砂沢遺跡出土遺物(2) 砂沢式台付浅鉢形
土器
砂沢式注口
土器
砂沢式浅鉢形
土器
,五所式台付浅鉢形
土器
(台部復元)
土器
蓋 遠賀川系
土器
破片
資料編1(考古編)
(-中世Ⅰ期(12世紀代)-)
前者が「在地系」、後者が「京都系」と称される土師質の
土器
である。,図50 12世紀の土師器(かわらけ) 図51 津軽地方の擦文
土器
(1) 図52 津軽地方,の擦文
土器
(2) 図53 津軽地方の擦文
土器
(3) 図54 津軽地方の擦文
土器
(4,) 図55 津軽地方の擦文
土器
(5) 図56 本州の擦文
土器
分布図
資料編1(考古編)
(資料編1「考古編」掲載図・表・写真一覧)
図3 縄文時代早期の
土器
(1) 図4 縄文時代早期の
土器
(2) 図5 縄文時代前期の
土器
(円筒
土器
,,大木系
土器
) 図6 縄文時代中期の
土器
(円筒
土器
)石神遺跡(1) 図7 縄文時代中期の
土器
(円筒
土器
,)石神遺跡(2) 図8 縄文時代中期の
土器
(主に大木系
土器
)(3) 図9 縄文時代後期の
土器
(1),図10 縄文時代後期の
土器
(2) 図11 縄文時代晩期の
土器
(1) 図12 縄文時代晩期の
土器
,図112 刻書
土器
(1) 図113 刻書
土器
(2) 図114 墨書
土器
(1) 図115 墨書
土器
資料編1(考古編)
((3)弥生時代の土壙墓)
第1次から第3次にかけての調査で544m2が発掘され、弥生時代中期前半または弥生3期の宇鉄Ⅱ式
土器
期の,の恵山AB式
土器
期5基等であり、そのほか土壙相互の切り合いによって、明確に時期判定のできない土壙を加えて,土壙墓内からは、副葬品の
土器
・管玉・勾玉・丸玉・石鏃・靴形石箆等が出土した。,そのほか3号・5号・22号土壙墓(恵山AB式
土器
期)からカップ形
土器
、12号(宇鉄Ⅱ式と恵山A式
土器
期,)では壺形
土器
4個・鉢形
土器
5個(この中に台付きとボール形が各2個ある)などがセットになって発見されている
資料編1(考古編)
((1)石棺墓)
時期は、晩期初頭の大洞B式
土器
期であるという*222。,なお、当該遺構の時期は、伴出した甕棺により十腰内Ⅰ群(式)
土器
期とされている。,人骨・石鏃・
土器
・木炭片 1972年 (昭和47) 堀合Ⅲ号 南津軽郡 平賀町唐竹堀合 1基 長方形,1.60×0.90 〔後期〕十腰内Ⅰ群(式)
土器
期 人骨・副葬品なし 1978年 (昭和,#215;1.30 〔後期〕十腰内Ⅰ群(式)
土器
期 甕棺形
土器
・石皿片・人骨なし
通史編1(古代・中世)
(擦文文化の特徴)
擦文文化の特徴 北海道地方を主要な文化圏とする擦文文化の指標である擦文
土器
の分布は、北は南サハリン、,そして南は青森県を中心とし、七世紀代と推定される初現期の擦文
土器
については、岩手県および宮城県の北上川流域,一〇~一一世紀代と推定される盛期の擦文
土器
の分布は、本県においては県西側の陸奥湾沿岸地域、岩木川流域を,擦文
土器
を出土する遺跡は現在のところ一〇〇遺跡を超える。,に施された刻文の系譜は北海道地方を中心とする北方系の
土器
に求められる。
資料編1(考古編)
((1)3世紀末~4世紀前半代)
(1)3世紀末~4世紀前半代 この時期には、二つの
土器
文化が併行する形で認められる。,の系譜の中で把握されるもので、鳥海山式から九艘泊式にかけての天王山式系、及び撚糸文系
土器
文化である。,もう一つは、北海道弥生時代併行期の続縄文式
土器
文化を母体として発生した後北式
土器
文化である。,(後北式)出土遺跡分布図 図2 3世紀~4世紀前半代の
土器
(1)(後北式・天王山式系
土器
),図3 3世紀~4世紀前半代の
土器
(2)(後北式・天王山式系
土器
)
通史編1(古代・中世)
(弥生文化と続縄文文化)
日本列島の北に位置する津軽地方における稲作農耕の導入は、
土器
に施された文様の特徴などからもわかるように,それまで地方色の濃かった続縄文
土器
は、江別C2・D式
土器
の時期に至って斉一性(せいいつせい)を強め、全道的,ところで、続縄文文化の指標のひとつである後北(こうほく)式
土器
とは、「後期北海道式薄手縄文
土器
」を略した,この時期の
土器
は、近年「十勝茂寄(とかちもよろ)式」と呼ばれている。,北大式
土器
と称されてきた
土器
は、本来、続縄文文化から擦文文化へ推移する過渡的な時期に位置づけられる特徴
資料編1(考古編)
((4)土製品)
弥生時代では、前期の砂沢式
土器
期に多く、中期後半の田舎館式
土器
期を最後に製作は停止したらしい。 ,などもあり、弥生時代前期(砂沢式
土器
期)には、ムササビを表した壺形
土器
(三戸郡階上町道仏字大蛇)も見られる,このような土製品とは異なるが、
土器
の器面に粘土の紐を張り付けて一種の絵画を表したような
土器
が、八戸市田面木,
土器
は、高さ26cm、口径19cm、底径8.3cmほどの深鉢形
土器
で、中期後半の円筒上層e式と榎林式の,この
土器
は狩猟文
土器
という名が付され、現在県重宝の指定を受けている*89。
資料編1(考古編)
(3.砂沢遺跡)
するというかなり高度な農地造成の技術を有しており、在地の人々による模倣の技術と考えるよりは、遠賀川系の
土器
,水田に給排水する用水路跡を覆う状態で砂沢式
土器
を包含した土層があり、その土層から遠賀川系
土器
も混じって,発見され、砂沢式
土器
と西日本の
土器
との対比関係が明白となった。
資料編1(考古編)
(9.高長根山遺跡)
はA・Bの2地点を設定して行われ、A地点では遺構の検出は見られず、縄文時代中期の円筒上層b・c・d式
土器
,と大木8b式
土器
の破片を発見したにすぎない。,出土遺物は縄文時代中期の円筒上層b・c・d式
土器
、同後期の十腰内Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅴ群(式)
土器
(図22)、,高長根山遺跡の復元住居 図22 高長根山遺跡(縄文後期)出土
土器
台付浅鉢形
土器
,深鉢形
土器
浅鉢形
土器
図23 高長根山遺跡出土石器 図24 高長根山遺跡出土
資料編1(考古編)
(4.黄金山遺跡)
発見された遺物はすべて
土器
であり、Ⅰ号遺跡から縄文時代後期初頭の深鉢形
土器
並びに破片が、Ⅱ号遺跡からは,縄文時代前期の円筒下層b式及び同d1式
土器
破片が出土している。,なお、Ⅰ号遺跡出土の深鉢形
土器
に対し、調査を担当した渡辺兼庸は黄金山式なる形式名を設定し、関東地方の堀之内,Ⅰ式
土器
と並行する考えを示している。,岩木山-岩木山麓古代遺跡発掘調査報告書)弘前市教育委員会 1966年3月 図4 黄金山遺跡出土
土器
資料編1(考古編)
((1)石器と石製品の種類)
前期の円筒下層a並びにb式
土器
に伴う凝灰質泥岩を利用した円形を呈する岩版も、特殊なものといえるかもしれない,表4
土器
編年別石器・石製品出土表 時代 型式名 石鏃 石槍 石錘 浮子 石皿 磨石 敲石 凹石 打製石斧, ○ ○ ○ ○ ○ (隆線文系
土器
,に出現して、前期末の同下層d2式
土器
期まで存続し、その後しばらく絶えて晩期になると再出現する。,この石器は、中期終末に近い最花・中の平Ⅲ式
土器
期に出現し、晩期の大洞BC式
土器
期にかけて認められるが、
資料編1(考古編)
(13.神原遺跡)
遺物は、採集された約120片の
土器
破片と石鏃(有茎1点)・石片のみである。,
土器
は甕形・台付浅鉢形・壺形などの破片であり、
土器
編年上は当地方の弥生時代前期後半に位置づけられる五所式
土器
,図29 神原遺跡発見の
土器
拓影図と石器実測図(北奥古代文化3 P.45・46より) ※参考文献
資料編1(考古編)
(5.青森県における弥生時代の終局)
さらにその後の天王山式(鳥海山式)期に入ると、北海道を中心とする続縄文式
土器
を出土する遺跡が目立って多,これらの続縄文式
土器
(後北式
土器
=江別式
土器
ともいう)は、本県を越えてさらに南下し、太平洋側における南限,そのような状況のなかで起こった北海道の後北式
土器
の到来について、中村五郎は「東北地方の過疎化-集落の激減,また、石附喜三男は樺太の
土器
文化について「(鈴谷式
土器
)を伴なう文化の流れ-そこには当然のことながらそうした,文化を担う人々の移動が伴なったはずである-が、北海道において江別式
土器
を製作使用する人々-江別文化人-
通史編1(自然・原始)
(栽培の問題)
さきに三内丸山遺跡の記述で触れたが、縄文時代にはそのほかに八戸市是川の風張遺跡で、後期の十腰内Ⅳ群(式)
土器
期,の土層からキビが、同じく十腰内Ⅴ群(式)
土器
の層ではアワの実(種子)が出土しているといわれている(84,さらに亀ヶ岡では、晩期終末に近い大洞A式
土器
の土層から炭化米や籾も発見され(85)、視野を広げると八戸市風張,(かざはり)(1)遺跡でも後期終末の十腰内Ⅴ群(式)
土器
とともに炭化米が検出されるなど、寒冷な東北北部,の胎土に稲の花粉が混入し、後期の
土器
に籾(もみ)の圧痕を有するものが発見される(89)など、新しい発見
資料編1(考古編)
(-古代後期Ⅳ期(10世紀末~11世紀末)-)
世紀末~11世紀末)- 高館遺跡・古館遺跡・砂沢平遺跡の主体的な遺構群、蓬田大館遺跡の一部遺構群出土
土器
,煮沸具としての土師器甕がほとんどで、ほかに少量の坏と把手付
土器
・羽釜・内耳
土器
がある。,把手付
土器
の調整も同様である。坏は硬質で、底部から直線的に立ち上がり、口縁部が薄くなるものが多い。,この時期には、擦文
土器
を伴う遺跡が飛躍的に増加する。,この擦文
土器
も、多くの土師器とともに11世紀末の段階では終焉を迎える。
資料編1(考古編)
(3.尾上山遺跡)
住居跡等の遺構は見られず、小ピットとわずかな焼土・炭化物(クルミ・ナラ等)のほか、多量の縄文時代晩期の
土器
,
土器
は大洞B式・大洞BC式・大洞C1式・大洞C2式・大洞A式・大洞A’式であり、いわゆる亀ヶ岡式に属する,精粗の
土器
である。,なお粗製の深鉢形・壺型など数点の
土器
を除くとすべて破片であった。,個体分類を試みると、注口
土器
をはじめ同時期の
土器
形態がすべて存在するようである。
資料編1(考古編)
((2)石器)
現在のところ、早期の白浜・小舟渡式
土器
期に出現し、早期後半のムシリⅠ式
土器
期まで使われた刃器らしい。,前期の円筒下層a式
土器
期から、後期の十腰内Ⅱ群(式)
土器
期まで存続し、前期の円筒下層式
土器
期に多い遺物,なお、当該石器は、無茎が縄文時代でも古い形式の
土器
に、有茎と柳葉形は新しい形式の
土器
に多いというとらえ,青森県では、大平山元Ⅰ遺跡で草創期の無文
土器
などに共伴している*71。,)式
土器
をはじめ、東釧路Ⅲ式や春日町式などの
土器
が出土し73*、上北郡六ヶ所村の表館(1)遺跡では、中茶路式
通史編1(古代・中世)
(七・八世紀代の津軽地方)
う大規模調査が行われる以前には、市浦村十三中島遺跡の土師器甕・球胴甕・坏・高坏・小型手捏(てづく)ね
土器
,がまとまって出土しており、これらは、七・八世紀代の標識
土器
として知られていた。,耕作中に発見された資料であるが、弘前市中野遺跡では土師器甕一二点、坏六点、片口
土器
一点の総数一九点が一括,ただ、これらの年代観については、東北地方南部あるいは関東以西の
土器
との対比から七世紀前半~中葉の
土器
を,図7 中野遺跡出土の土師器
土器
の時代を決める物差しである編年は、あくまで新旧の相対関係を決定
通史編1(自然・原始)
(亀ヶ岡文化の特色)
亀ヶ岡文化の特色 今日亀ヶ岡式
土器
といわれるものは、さきの後期で述べたごとく、粗製
土器
と精製
土器
に分,けられ、粗製
土器
はわれわれの日常生活における鍋・釜類と同様の煮炊き専用の容器で、器面に単純な縄文が施されている,これに対し精製
土器
は、『新編弘前市史資料編1(考古編)』一〇一頁に示したように器形の種類も多く、器面を,、
土器
製作技術の極致ともいえるであろう。,
土器
とならんでこの時期の土偶も粗製と精製があり、粗製は粘土で人の形に作り上げたもので、手足はもとより眼
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