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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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資料編1(古代・中世編)
(四 城館の構造)
また曲輪Ⅲと西の曲輪Ⅱの間には、堀h1と
土塁
aが設けられていた(現在は消滅)。,しかし
土塁
bは、北側は中学校の校舎を造る際に破壊され、西側と南側にわずかに
土塁
があった痕跡をとどめるにすぎない,
土塁
bに平行した形で、外側には堀h2が設けられている。,この曲輪Ⅳも曲輪I(本丸)と同じく、
土塁
C、水堀h4が巡っている。,h4の中
土塁
上に設けられた通路を通って遺構eの地点に出る。
資料編1(古代・中世編)
(四 城館の構造)
曲輪Ⅱに入る虎口の部分は、南北の
土塁
d1が喰違いとなっていて、南側の
土塁
が張り出す形となっている。,d1と
土塁
d2によって、みごとな「枡形」が作り出されている。,曲輪ⅡA・Bの外周には
土塁
が巡らされている。,しかも、この中
土塁
cと曲輪ⅡA・Bが接続する地点には、中
土塁
を通った者がいきなり曲輪ⅡA・Bの内部に入,、
土塁
頂部の幅もまた一・九メートルに達する堂々とした造りである。
通史編1(古代・中世)
(防御性集落の消滅)
発掘調査で、古代の一〇世紀後半にまで遡(さかのぼ)ることが明らかになった市浦村の福島城も、やはり堀と
土塁
,たとえば
土塁
と濠の配置が防御性集落とは逆で、
土塁
の外側に濠がある。,大陸沿海州からサハリンにかけては、方形の
土塁
によって区画された土城と呼ばれる都城的な町、ないし施設が多数存在,立派な
土塁
に囲まれてはいるが、しかし入口の門は極めて解放的で、防御のための食い違いもなく、直線的に内部
通史編1(古代・中世)
(環壕集落の構造と年代)
ここでは、集落に壕や
土塁
をめぐらすこの種の施設に対して、視覚的にも機能的にも幅広い解釈のゆとりをもたせる,さて、この環壕集落は、主要とみられる数軒の竪穴を空堀・
土塁
・柵列などの施設で区画して、その後背地に集落,の主体部分を配置する構造のものと、空堀・
土塁
などの施設で集落全体を囲む構造のものと、二つのタイプがあり,また、一〇世紀末葉から一二世紀前半まで環壕集落として機能していたと考えられる高屋敷館遺跡の
土塁
は堀の外側,に築かれているという点が非常に特徴的であるが、一〇世紀後半の所産である市浦村福島城も同様の堀と
土塁
をもつ
通史編1(古代・中世)
(種里城と町)
沢町種里城跡検出掘立柱建物跡の平面図 その北西側に位置するⅡa曲輪は、斜面に何段もの腰曲輪が設けられ、縦
土塁
状,さらにこの宗教空間の南側山頂部には巨大な
土塁
と横堀(写真202)が作られている。,この
土塁
と横堀は沢に対して作られたもので、非常に軍事的なものであると同時に、種里城の城域を明確にしている,写真202 種里城の外郭
土塁
と堀跡 次に城と町とのかかわりでは近世の絵図面(写真203)や、明治期
通史編2(近世1)
(堀越城の構造)
しかも、中
土塁
やそれと曲輪との接点にある防御施設、さらに曲輪の平場のように、戦闘の際の防御も十分留意した,集落に入る東西の入口(石川方面と弘前方面からの入口)に、「村隠」として高さ七尺(二・一メートルほど)の
土塁
,この
土塁
は、城下町の入口に設けられた防御施設の名残であり、そこには本来、町の入口として木戸(きど)が置
通史編1(古代・中世)
(環壕集落の性格)
との区切りを施した聖域から、のちに軍事的色彩を強めた砦としての機能を備えていったとする見解があり、壕や
土塁
通史編1(古代・中世)
(防御性集落登場の背景)
しかしそれとはうらはらに、そのさらに北に広がる世界である青森県域から北海道道南部にかけて、集落を環壕(かんごう)や
土塁
資料編1(古代・中世編)
(三 大浦城「縄張り」の復元)
地図・地元住民からの聞き取り 基本となる資料は(1)ア及び(2)アで、現状では失われ確認できない
土塁
通史編1(古代・中世)
(藤崎城と中世都市)
これが藤崎城の中心部で、そしてその東南の広い地域を巨大な
土塁
と堀で取り囲んで作られた「外構(三ノ丸)」,一族・家臣などが居住する城館の中心部とはある程度区別された場所で、本来は城の外側だったところを、堀・
土塁
,しかしながら「城」の外に外構を
土塁
で囲い込むという手法が、県内ではほとんどみられない独特な中世都市を作
通史編1(古代・中世)
(湊の最盛期)
図44 十三湊の図 現在までの調査結果からすると、十三湊遺跡は、南北に区分する
土塁
の北側と南側,からすれば、掘立柱建物跡・竪穴建物跡・井戸跡は生活空間を構成する主要な要素であって、竪穴建物跡の欠如は、
土塁
資料編1(古代・中世編)
([口絵])
豊臣秀吉判物(本文史料一一〇〇号) 堀越城跡全景(上空南東から) 堀越城 曲輪Ⅰ(本丸)
土塁
通史編1(古代・中世)
(大浦城築城以前の城館跡)
それは図69のように平地に幅四~五メートルの堀を巡らした方形の居館で、その脇には中
土塁
を設けるなどの工夫,上新岡館跡は尾根続きの台地の中央部に位置し、
土塁
と堀で方形プランを基調とした居住部分を作り出しており、
通史編1(古代・中世)
(建物の変化)
城館の場合は、明確な防御的施設である堀や、
土塁
が存在するから「城館」という概念で調査できるが、もしそのような
通史編1(古代・中世)
(複雑化する城館)
そのような時には外側に堀を掘り、内側には
土塁
を設けるという手法も出現してくることになる。
通史編1(古代・中世)
(福村城跡)
また地籍図をみても橋脚が検出された部分には
土塁
によって「桝形虎口」が造り出されており、非常に発達した築城技術
資料編1(古代・中世編)
(五 堀越城下(都市としての堀越)の構造)
入口(石川方面と弘前方面からの入口)に、「村隠(むらかくし)」として高さ七尺(二・一メートルほど)の
土塁
,おそらく、この
土塁
は、城下町の入口に設けられた防御施設の名残であり、そこには本来、町の入口として木戸が
通史編1(古代・中世)
(安倍氏の柵)
の重要拠点の一つであるが、その場所は、坂上田村麻呂によって鎮守府の置かれた胆沢城と目と鼻の先にあり、
土塁
資料編3(近世編2)
(3 現存する天守・城門等の考察)
現存の隅櫓は、すべて
土塁
の上に建ち、一階は土間床で、柱間は六尺五寸である。, 櫓門 銅瓦葺 北の郭北門 脇戸付き櫓門 銅瓦葺 弘前城の城門は、枡形の
土塁
資料編1(古代・中世編)
(一 はじめに)
そこでは、地表からの丹念な表面観察に過去の記録・地図・写真も加えて、堀・
土塁
・虎口(こぐち)(城の出入口,堀・
土塁
・切岸などによって仕切られた一区画)など城の防御遺構を把握。
資料編1(古代・中世編)
(一 大浦城の立地と現状)
そのため、近年まで保存がよく、比較的明瞭に堀や
土塁
跡を残していたが、岩木町立津軽中学校(旧本丸・二の丸跡
資料編1(考古編)
((3)10世紀後半~11世紀)
だけを空堀や
土塁
で囲み、その後背地の平場に十軒~数十軒の竪穴住居を配置する「上北型防御性集落」がある。
通史編1(古代・中世)
(北の富の搾取)
こうした世界に変容していったことによって、対国司、あるいは他の蝦夷集団への備えとして、村落を環壕や
土塁
通史編2(近世1)
(大浦城の構造)
西の郭・南郭の六つの曲輪(くるわ)によって構成され、それぞれの曲輪には虎口(こぐち)(入口)・水堀・
土塁
通史編2(近世1)
(堀越城の限界性)
堀越城は、堀・
土塁
・塀という設備によって防御すると同時に、重臣の城郭内への取り込み、武器・弾薬の所有を
資料編1(古代・中世編)
(四 城館の構造)
さらに、この通路を登りきったところには段差五〇センチほどの
土塁
状の高まりpがある。,この
土塁
は城郭で「蔀(しとみ)」と呼ばれる防御施設(敵の直進を止め、さらに内部の見通しを遮る障壁)であろうか,なぜなら、このルートの途中の平場⑫と⑬の間には、通路を兼用したように設けられた縦
土塁
状の遺構aや、それによって,さらにその先に進むと、高田館・寺館と内館の間に平行して横たわっている空堀h3・中
土塁
状の曲輪・空堀h4,この二重堀と中
土塁
状の曲輪があることで、第二ブロックの主曲輪=内館は南から直接侵入できない構造となっており
通史編1(古代・中世)
(堀越城と城下町)
堀越城は「本丸」を中心として、六つの曲輪から構成されており、築城技法でみると、堀と
土塁
の組合わせによる,天和の絵図面にそれぞれこの二つの地点に街道を挟むように「村隠」という七尺(二・一メートルほど)の
土塁
が
通史編1(古代・中世)
(湊の始まり)
瀬戸四耳壺 近年の発掘調査によると、これまで一五世紀の陶磁器が主体を占めていた十三湊遺跡の北側(
土塁
資料編1(古代・中世編)
(四 城館の構造)
大きな特徴は、曲輪Ⅰの全体を南の山地から切り離している堀切n以外には(この堀切も小規模である)、堀や
土塁
,茶臼館のある丘陵は、遺構qの部分で大きく西に張り出して、見通しを遮っている上に、街道を挟んだ西側には
土塁
状
通史編4(近・現代1)
(公園の払い下げ)
同年七月には裁判所向かいの外堀を埋め立て、
土塁
を切り開いて兵器支廠への道路を設け、兵器運搬の便利に充てた
通史編1(古代・中世)
(城館タイプの分類)
柴崎城跡は切岸(きりぎし)部分に積石を施した技法がみられ、さらに北側からみた時には縦
土塁
や縦堀が目立つ
資料編1(古代・中世編)
((3)城館の構造)
平場⑤には現在
土塁
状の遺構hが見られるが、城館に伴う遺構かどうか判断が難しい。
通史編4(近・現代1)
(公園開設)
に陸軍軍吏が実地取調べに出張し、翌二十七年九月五日に指令があって、城跡総面積一四万四八三九坪(池濠・
土塁
通史編1(古代・中世)
(大浦城と大浦城下町)
一方、南側に大きく屈曲した街道はおよそ四〇〇メートルで大浦城の南側の堀・
土塁
と平行する形で西側に延びて
通史編2(近世1)
(城下高岡の形成)
この寺院街の入り口は北から南にかけて
土塁
が築かれ、空堀が掘られ、東側への防御対策がとられており、長勝寺構
資料編1(考古編)
(4.中崎館遺跡)
徴高地が2本の河川に挟まれているとはいえ、下の水田面との比高差が1m前後しかないこと、あるいは館の周囲に
土塁
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