• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 109件
辞書ファセット
/ 3ページ
通史編5(近・現代2) (スーパーマーケットの登場)

弘前市では主婦の店が、土手町に出店したほか、市内に店舗を展開していった。,土手町45 37.11.1 衣料   〃 代官町店 代官町3 41.11.19   〃  中三弘前店,土手町61 37.11.16   〃  中央百貨店 百石町49 32.7.14 食品 スーパー紅屋,土手町48 38.12.14 衣料 津軽寿屋 馬喰町10 39.8.1 食品 ヤマダイ 土手町125,38.11.3 食品・総合衣料 カナモリ 土手町156 36.7.1 総合衣料 佐藤源フードセンター
通史編5(近・現代2) (大型店舗の出店)

平成元年現在の大型店舗としては、イトーヨーカ堂(弘前駅前、店舗面積、一万五六六四平方メートル)、ダックシティ(土手町,、店舗面積、八五五〇平方メートル)、中三デパート(土手町、店舗面積、九二三六平方メートル)、紅屋弘前店,(土手町、店舗面積、六九三三平方メートル)、ハイローザ(土手町、店舗面積、六八九四平方メートル)があり,また、これらの店舗は変動も激しく、タックシティが土手町から郊外に移り、また、弘前駅前地区再開発ビルにダイエー
通史編5(近・現代2) (商店街振興組合法の成立)

特に中土手町協商会はこの時点で三〇年間の歴史を持っており、下土手町振興会も結成されていた。,このうち、中土手町では法案の成立後、昭和三十九年(一九六四)に組織が変更された。,中土手町商店街の重たった人々がこの組合組織を思いたったのは、勿論商店街振興法が公布されたことによるが、,昭和三十四年一月、中土手町協商会(今回の振興組合の母体となった中土手町商店街振興のための団体で町会とは,写真162 中土手町アーケード開通(昭和39年)
通史編4(近・現代1) (大成小学校創設)

大成小学校創設 十七年(一八八四)五月布達の学区改正により、これまで土手町、松森町、鍛冶町の三学区は,廃され、それらが包含されて新しく「土手町学区(第二学区)」となった。,したがって土手町学区は学区内に蓬莱、知類、敬業の三小学校を有することになった。,新校舎は、在来の三校の中央位置というので土手町一五七番地(旧第一大成小学校敷地、現在は一五四番地一)に
通史編5(近・現代2) (小売業の動向)

①下土手町商店街・・あらゆる客層が広範囲な地域から訪れ、大型店の集積する高度な買回り品、専門店中心商店街,②中土手町商店街・・当商店街は、専門店の集積が顕著で、この専門店を中心とした買回り品中心街である。,⑤上土手町商店街・・来街する客層は、立地上(南、東の周辺農村の入口になっている)の特性から、周辺地区の,⑥代官町商店街・・駅前と土手町とを結ぶ主要街路にありながら、それにふさわしい施設不足のため、現在は単なる,以下駅前の一億四七六万円、中土手町の七、〇九六万円と続いている。
通史編5(近・現代2) ([口絵])

[口絵] †昭和初年の風景† 口絵1 早朝の土手町十文字 口絵2 上土手町角のかぎや,小間物店 口絵3 中井精肉店(一番町) 口絵4 真冬の土手町十文字 口絵,5 竹内醤油店(土手町) 影 口絵6 昭和二年和徳大火(久一呉服店土蔵の前) 口絵,) 口絵8 昭和十年大水害で流れ出した箱づめりんご(新和地区) 光と 口絵9 土手町風景, 駅前を飾るモニュメント古川武治「りんごの風」 口絵59 新駅舎完成(平成16年) 土手町
通史編4(近・現代1) (私設青年団の結成)

この青年団は土手町と和徳町の有志が首唱し、全市の実業家たちに呼びかけて成った団体である。,大正元年(一九一二)十月、下町の鷹城青年会と下土手町の向上青年会は、元長町の養生幼稚園を会場に連合の演説会,一方の下土手町は当時最も開明した純粋の商店街である。
通史編4(近・現代1) (大正新風俗)

大正八年の観桜会で、土手町の〓(かねく)野崎商店が出店でパンを売り出してみたところ大好評となった。,中土手町の富田牛肉店では、八年から店の二階に一品洋食と牛鍋の食堂を始めた。,写真203 中土手町富田肉店元旦風景  弘前で初めてのカフェー「オーロラ」は、大正八年、慈善館に,この地域は、土手町・山道町・品川町・住吉町にまたがり、さらに土手町目抜き通りから富田大通りを経て師団通
通史編5(近・現代2) (道路の整備)

昭和六年十二月二十一日可決  県費負担道改築ニ付意見 一、弘前市大字代官町地内弘前停車場線分岐点ヨリ土手町地内弘前市元標,同市大字代官町和徳町地内弘前停車場分岐点ヨリ和徳町中津軽郡界ニ至ル間 一、国道第五号路線延長七百二十間 幅員五間 同市大字土手町松森町地内弘前市元標,ヨリ中津軽郡界ニ至ル間 一、国道第五号(注、現国道七号)路線延長六百二十六間 幅員五間 同市大字土手町一番町地内弘前市元標
通史編5(近・現代2) (地区計画)

8.5ha 第一種住居地域 住宅地   弘前市告示第234号     旅館・ホテル規制 弘前駅前・上土手町地区,21.9ha 商業地域 商店街   弘前市告示第235号     名称、区域等変更(H8.3.31) 下土手町地区,、下土手町地区が商業系、藤代工業団地地区、オフィスアルカディア地区が工業・業務系である。,- 用途の制限 弘前駅前・上土手町地区 土地の高度利用が見込まれるJR弘前駅前地区及び上土手町地区において,- 用途の制限、壁面の位置、広告物、屋根・外壁の色彩 下土手町地区 歩行者空間の創出及び良好な都市環境
通史編3(近世2) (松森町紙漉)

その後継ぎに土手町三國屋勘左衛門(みくにやかんざえもん)・松森町中村屋久左衛門・高島屋半左衛門が任命された,慶応三年(一八六七)、土手町名主が作成した「土手町支配家業帳」(弘図八)には、土手町東端から楮町の入口
通史編4(近・現代1) (日清戦争後の会社、銀行と工業生産)

合資会社弘前両益銀行 同    親方町 銀行業 30,000 10 同 仝 上 立誠銀行 同    土手町,同 弘盛合資会社 同    代官町 曲物其他販売 4,500 8 同 弘前煙草合資会社 同    土手町,同 仝 上 弘前貯金銀行 同    本町 同上 30,000 65 同 弘前農具株式会社 同    土手町,津軽物産株式会社 同    代官町 米縄莚販売 15,000 28 同 弘前倉庫株式会社 同    土手町
通史編4(近・現代1) (洋風建築と蔵造り)

三十三年には百石町の樽沢屋と土手町の仏師本間が、三十六年に和徳町竹清がそれぞれ蔵造りになった。,次に二十六年に角み呉服店が蓬莱橋から下土手町に移転して堂々たる三階建ての洋館を建て、あたりの商店を圧したが,、三十四年には代官町から角は支店が同じく下土手町の角に進出して、これも洋館造り三階建ての偉観を競った。
通史編4(近・現代1) ([口絵])

口絵34 親方町九戸時計店 口絵35 和徳町の久一呉服店 口絵36 藩祖三百年祭の土手町,口絵37 藩祖三百年祭の親方町 口絵38 雪景色の下土手町 口絵39 ,見る芸者と客 口絵62 下乗橋を渡る仮装行列 †祭り/街† 口絵63 ねぷた(土手町,の人々 口絵65 東長町の商店 口絵66 弘前市公会堂 口絵67 冬の土手町
通史編4(近・現代1) (その他の会社)

大正9年3月 茂森町 株式会社角弘銅鉄店 150,000 96,000 銅鉄農具販売 明治3年6月 土手町,大正11年5月 北瓦ケ町 野崎食品株式会社 50,000 17,500 パン及菓子製造 同 9年7月 土手町,菓子製造 大正2年3月 同 株式会社衛生湯 30,000 30,000 浴場経營 同 10年4月 土手町
通史編2(近世1) (刑の執行)

くろいしちょう)(現大浦町(おおうらまち)付近)・東長町(ひがしながまち)・代官町(だいかんちょう)・土手町,(どてまち)を通り、土手町大橋(現蓬来橋)東詰南側の高札(こうさつ)場に一日さらしとなっている。,よこかじまち)(現覚仙町(かくせんちょう))~本町(ほんちょう)通~五丁目(現本町)~親方町(おやかたまち)~土手町,図179.罪人がさらされた土手町大橋脇の高札場の様子 目録を見る 精細画像で見る
通史編4(近・現代1) (道路改修問題と佐和知事)

同親方町、同松森町、堀越村、石川村、大鰐村、蔵館村、碇ケ関村 秋田県界 兵営道 第八師団司令部 弘前市土手町,輜重営 騎兵第八聯隊兵営 第八師団司令部 弘前市富田町、堀越村取上 騎兵営 郡道 中津軽郡役所 弘前市土手町,中津軽郡役所 停車場道 弘前停車場 弘前市元寺町 山下町、坂本町、代官町、和徳村 弘前停車場 黒石道 弘前市土手町
通史編4(近・現代1) (蓬萊館から大和館へ)

蓬萊館から大和館へ 慈善館の出現に刺激されて、中土手町の寄席蓬萊亭は、大正四年秋から活動写真の常設館,土手町の陰に隠れて意気の上がらなかった百石町商店街は、その繁栄策として、市民から館復活の声が盛り上がっていた
通史編5(近・現代2) (スケート大会行わる)

主催は弘前スケート協会で、会場は上土手町の次郎兵衛堤の協会専属リンクである。,次郎兵衛堤は現弘前市立病院裏から上土手町裏に沿って、現大町まで続いた広大な溜池である。
通史編3(近世2) (白道院)

『新撰陸奥国誌』によると、土手町大橋の下に庵を構えていた欣求が、寛文三年(一六六三)に本堂を建立し、貞昌寺世誉
通史編4(近・現代1) (洋服)

四十年ごろの洋服店では、本町の行方長次郎、土手町の野元慶助、親方町の兜森喜代松、一番町の小寺勇太郎などが,三十七年に土手町蓬莱橋そばの内海商店で新発売した経木(きょうぎ)製の夏帽子があった。
通史編3(近世2) (塵芥捨場の設置)

すなわち、御徒町川添(おかちまちかわぞえ)、土手町(どてまち)川添、桶屋町(おけやまち)川添、北横町(,南溜池東側の土居添の下、西川岸川欠けの所、土手町の土田屋小兵衛家の裏通、御徒町川端川欠けの所、馬屋町の
通史編4(近・現代1) (りんご生産の展開と農業振興)

の主な移出業者(屋号、営業場所)は、菊池三郎(菊池林檎店・弘前市蔵主町)、石井常吉(マル常果物店・同土手町,)、皆川藤吉(同富田)、鷲尾栄輔(カネ市・同下土手町)、村田作兵衛(同中土手町)、兵頭茂(井印・同中土手町,同元寺町)、三浦豊五郎(大一組合・同代官町)、白戸商店(弘前市)、佐藤富作(同上)、佐兵合名会社(同土手町,)、相坂商店(同土手町)、加藤松太郎(ヤマ加・中郡和徳町)であった(『青森県りんご発達史』第五巻、青森県
通史編5(近・現代2) (市街地の交通緩和対策)

この路線は、弘前市においても、和徳町、代官町、土手町、松森町を経て石川を通り秋田に至っているが、代官町,と土手町は十字に交差しており、国道を通る車輛は悉くこの個所において左折迂回することになる。
通史編4(近・現代1) (行在所の奉迎ぶり)

この日の経路は前日と逆に本町から親方町、土手町を経て松森町、富田町から枡形に抜け、そこから松原通り、千年村,この経路に当たった本町五丁目、一番町、下土手町の界隈(かいわい)一帯は、前年の大火災で焼け野原と化したにかかわらず
通史編4(近・現代1) (城西小学校創立)

西茂森町、茂森新町、古堀町、古堀新割町、新寺町、北新寺町、新寺町新割町 朝陽 中初 土手学区 三 ○土手町,鷹匠町、馬屋町、西大工町、新町、駒越町、平岡町、紺屋町、浜ノ町、袋町、○五十石町 城西 中初 本町学区 土手町学区
通史編5(近・現代2) ([付図])

大垂幕〈昭和13年〉 13 NHK弘前放送局開局〈昭和13年〉 14 戦時下の下土手町風景,市民会館落成〈昭和39年〉 34 全国高校総体で皇太子・同妃御来弘〈昭和41年〉 35 土手町
通史編5(近・現代2) (都市計画と道路建設)

3.3.4 弘前駅下白銀町線 22 1,520 〃 昭和54年11月13日 1,520 3.3.5 弘前駅土手町線,3.4.10 清野袋撫牛子線 16 1,730 〃 昭和59年7月3日 1,730 3.4.11 土手町向外瀬線,撫牛子停車場線 14 630 昭和43年8月14日 昭和51年4月15日 340 3.5.44 駅前町土手町線
通史編4(近・現代1) (新事物)

三十年代に下土手町に自転車業を始めた村山兎烏(めんう)堂は、美人で評判の細君に自転車を飛ばさせ、昔気質,蓄音機は、三十三年に東京から下土手町の金九(かねく)本店と、村山兎烏堂に入ったのが初めであった。,時計は、旧藩の御時計師九戸忠兵衛の店のほかに、三十年代には仙台の三原時計店の支店ができ、その後下土手町
通史編3(近世2) (町役負担と御用金)

なお、表4の七組で上役を負担していたのは、親方町の計四六軒(実際には三八軒と四分の三を負担)、土手町の,77人 中 役 84人 67人 下 役 72人 50人 下之下役 66人 35人 備 考  親方町・土手町,表4と表5を関連付けてみると、表5の上役には親方町と土手町が入っており、表4の横町とは東長町であろう。,上中下役 役 町    名 上 役 親方町(但松井四郎兵衛前より土手坂の上まで,当時は本町といった) 土手町,(土手町大橋より同新土手鍛冶町境まで) 東長町(笹森町へ入口東角より和徳町坂の下まで) 亀甲町,紺屋町
通史編1(自然・原始) (原ヶ平面)

面上には南から原ヶ平・中野・三岳・豊原・富田・大富町・土手町・大町・駅前などが位置し、特に中野地区から,北側の土手町・大町・駅前付近は扇端部に位置している。
通史編4(近・現代1) (町並みの推移)

商業の中心地域が従来の本町から、土手町・元寺町・百石町にその繁華を移したのもこのころであったが、三十七年,やっと土手町に入れば、両側の廂自由に通られる様に造られてあるので頗る便利である。,地目抜の箇所だけに、料理店・旅人宿・銀行・警察署・郵便局・芝居座などあり、夜行に杖の必要も覚えぬが、土手町
通史編4(近・現代1) (学区の改変)

学区の改変 七年四月亀甲小学の設置によって、これまで大ざっぱに土手町を中心に弘前を南北に分けていた白銀小学
通史編4(近・現代1) (寄席・見世物)

寄席・見世物 土手町に菱田といって、庭も広くてよく芸人を呼んで催しをした家があったが、これが蓬莱亭という
通史編3(近世2) ((三)住居)

ひがしながまち))・上(かみ)長町(後に元長町(もとながまち))・下長町・寺町(後に元寺町(もとてらまち))・土手町,次いで亀甲町(西浜方面へ)・和徳町(わとくまち)(青森方面へ)・土手町(秋田藩領方面へ)であった。
通史編4(近・現代1) (髪型・化粧品)

二十八年に神戸の中井商会売り出しの「日本魂」という衛生歯磨きが、市内特約店の中土手町野崎唐物店、土手町玉田平二郎
通史編5(近・現代2) (弘電の反攻)

会社は、一月十九日から断線を土手町・和徳町・代官町の一七〇戸に行ったが、暗黒になるはずの町並みに相変わらぬ
通史編3(近世2) (質屋の利用)

元禄三年(一六九〇)の「松井四郎兵衛留書」では、本町・亀甲町(かめのこまち)・茂森町(しげもりまち)・土手町
通史編4(近・現代1) (県下銀行の発展と金融都市弘前)

. 2 同  土手町 20,000 20,000 3 株式会社 木造両盛銀行 26.12 西郡木造町,立誠銀行   明治二十八年、弘前市大字土手町三四に設立。,初代頭取は南津軽郡蔵館村の地主である水木惣左衛門、取締役は弘前市大字土手町で洋品店を営む野崎惣助、支配人,弘前市大字東長町で酒造業を営む菊池定次郎、取締役は弘前市大字松森町で呉服商を営む宮川久一郎、弘前市大字土手町
通史編4(近・現代1) (和服と呉服商)

また、明治以前には本町の店が絹布や木綿の新品を売り、下土手町では古着木綿を、そして他の町ではノシツギ(,であったが、これらに伍して「角み」は着実に基礎を固め、既に述べたとおり二十六年の農村好景気に乗じて下土手町,洋館建築で近代的な呉服店の経営を始め、和徳町久一こと鳴海伝次郎、松森町「角は」(のち代官町、さらに下土手町
通史編5(近・現代2) (和徳村との合併問題)

弘前市は城下町だったため、城下を中心に街が形成されており、その中心は弘前城周辺、とくに土手町界隈だった,写真3 昭和初期の弘前駅 写真4 昭和初期の土手町  和徳村の合併問題が具体的に再開したのは
通史編4(近・現代1) (料理店)

百数十軒と言われた当時の料理店の多くは、いわゆる小料理店で、土手町・松森町・品川町あたりには白首(しらくび
通史編4(近・現代1) (第二大成小学校の焼失)

大火は富田本村から品川町、新品川町、土手町、松森町、楮町、新楮町、豊田村外崎に延焼、全焼家屋は五三三戸
通史編4(近・現代1) (芝居小屋と寄席)

中土手町に蓬萊亭、鍛冶町に川留亭、和徳大通りに米山亭があった。  
通史編5(近・現代2) (弘前駅前地区整備事業)

駅前広場と駅前通りがわずかに整備されているだけで、無秩序に発展した市街地なので、弘前市の表玄関として、また土手町
通史編5(近・現代2) (タクシー事業の進展)

弘前自動車業組合(和徳町大塚自動車方)という同業組合が改組され、中弘自動車営業組合(組合長富田孫七、事務所中土手町富田方
通史編5(近・現代2) (松原小学校の創立)

学区は弘前市の南側に位置し、南北に走る県道石川・土手町線と石川・百田線に挟まれた地域で、県道に沿って松原東一丁目
通史編5(近・現代2) (盆踊り)

明治七、八年ころには下土手町の橋のたもとで踊ったが、十年以後は大円寺、土場(どば)の町遊廓、新楮町、住吉神社
通史編3(近世2) (消防制度)

どうやまち)・建詰町(けんづめちょう)・土場町(どばまち))、親方町(親方町・大工町・長町(ながまち))、土手町,(土手町・松森町(まつもりまち))、富田町(とみたまち)(富田町・品川町(しながわまち))、楮町(こうじまち
通史編2(近世1) (城下弘前の変化)

第三に土手町南西側(現山道町)と北東側(現瓦ヶ町)に新たな侍町ができたこと。,第四に新土手町の延長がみられ、南西・北東の両側に足軽町の取り立てがなされたこと。,しかし、万治の絵図にみえていた新土手町の南西・北東側にあった足軽町はこの絵図にはみえない。
/ 3ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました