機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
年表一覧
キーワード一覧
弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
年表
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 29件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 1ページ
通史編5(近・現代2)
(「日本一の不潔な町」(新聞の投書から))
これは市内を流れる
土淵川
の汚さについての投書記事である。,それほど長くもない
土淵川
が、市内に入ってからは、どの街路の橋から見ても汚物と塵芥にまみれていた。,写真239 昭和30年ごろの
土淵川
町の中心部も塵芥と下水や汚物で汚れ、悪臭を放つなど、今日では,ただ、
土淵川
自体も、清涼な上流域は言うに及ばず、その全部が全部投書に寄せられるような汚染された川ではなかった
通史編5(近・現代2)
(相次ぐ水害と商店街)
相次ぐ水害と商店街 昭和五十年(一九七五)八月には
土淵川
が氾濫し、市内の中心商店街が被害を受けた。,この水害は、台風五号くずれの低気圧によるもので、青森県内では
土淵川
のほか、平川、浅瀬石川が氾濫し、弘前市,
土淵川
に関しては、七ヵ所の橋梁が流失し、カネ長デパートほか下土手町商店街が特に大きな被害を受けた。,写真178 50年8月20日水害(
土淵川
境橋付近) 昭和五十二年(一九七七)八月にも水害が弘前市,津軽地方を襲つた集中豪雨いわゆる八・五水害は、総額百九十億円をこえる被害をもたらし、弘前市のみでも寺沢川、
土淵川
沿岸
通史編5(近・現代2)
(度重なる大水害)
昭和五十年(一九七五)八月二十日、台風五号が襲来し、浅瀬石川、
土淵川
を含む岩木川周辺の河川が氾濫している,このときはとくに
土淵川
が大氾濫し、桔梗野、寒沢町、吉野町、桜林町、南北川端町など、沿岸一帯が水浸しになっている,この水害により
土淵川
の氾濫対策として、 放水路を建設することになった。,図15
土淵川
放水路経路図・断面図 二年後の昭和五十二年八月にも岩木川は氾濫し、付近の町村に水害
通史編1(自然・原始)
(境関面)
浅瀬石川流域に分布する常盤面に相当するが、平川以西ではその分布が小さく、部分的に
土淵川
流域内に認められる,
土淵川
流域の百石町・徒町川端町・徳田町・南横町・北横町・野田などがこの面上に位置し、また田代町・坂本町
通史編1(自然・原始)
(城西面)
大和沢、
土淵川
、そして後長根川など岩木火山体を浸食する小谷沿いにも小規模ながら認められる。
通史編1(自然・原始)
(市街地の地形区分)
市街地を流れる小河川として、大和沢(おおわさわ)川、腰巻川、
土淵川
、寺沢川などがあり、いずれも北東方に,
土淵川
および寺沢川流域では等高線が上流側へ大きく入り組んだ深い谷地形をなしていて、特に
土淵川
流域の城南
通史編5(近・現代2)
([口絵])
棟方志功ねぷた出陣(昭和46年) 口絵66 弘西林道開通(昭和47年) 口絵67
土淵川
大氾濫,55年) 口絵72 56年開館の文化センター緞帳:工藤甲人画「春帰来」 口絵73
土淵川
放水路完成
通史編2(近世1)
(城下高岡の形成)
城下の東端を
土淵川
(つちぶちがわ)が流れ、これも堀の役割をしている。,に目を転じると、城の西側を流れる岩木川の西側に五三軒の侍屋敷と家数三四軒からなる鷹匠町があり、東側の
土淵川
沿,例外として、現在の上・中土手町と代官町のところが町屋として
土淵川
を越えて伸びていた。
通史編5(近・現代2)
(本県初の鉄道電化)
ところで、この開通に先立って、市議会では、黄昏橋から現在の中央弘前駅に至る境橋までの
土淵川
沿いの市道を
通史編4(近・現代1)
(遊郭の移転)
流し木陸揚げの土場(とば)があっただけに、
土淵川
は今と違って水量も多く、近くでよく投身自殺者があった。
通史編5(近・現代2)
(福士市政の財政)
それが実を結び、五十三年度には
土淵川
・寺沢川とともに岩木川の改修事業に国家予算が計上されることになった,五十六年度には
土淵川
・寺沢川の河川管理道を中心にした緑道・緑地構想のため用地買収などに着手した。,五十七年度には一〇〇億円を投じた
土淵川
放水路も竣工し、市街地の「あばれ川」の治水整備は完了した。
通史編5(近・現代2)
(下水道の整備の方向)
市街地内の浸水防除のための雨水渠の整備により、
土淵川
及び寺沢川水系の浸水常習地帯の解消が図られたが、城東地区
通史編5(近・現代2)
(進駐軍の衛生対策)
当時は下水道設備もなく、台所や洗濯で出る排水はどぶや溝に垂れ流され、市中心部を流れる
土淵川
に集まった。
通史編1(自然・原始)
(城東面)
大和沢川から
土淵川
にかけては、面上に小比内(さんぴない)・豊田(とよだ)・城東・松ヶ枝(まつがえ)・堅田
通史編4(近・現代1)
(遊廓と小学校)
もともと弘前の遊廓は北川端町にあったが、二十九年七月に
土淵川
が大氾濫して、その移転が問題となっていた。
通史編2(近世1)
(災害の続発とその影響)
4月13日 火災 深浦 165軒焼失 7月12日 水害 弘前城下 岩木川・
土淵川
高水,新田地方)死者数千人 寛延3(1750) 3月 7・16日 水害 岩木川・平川・
土淵川
流域,深浦 40軒焼失 宝暦2(1752) 6月 7~16日 水害 岩木川・平川・
土淵川
流域
資料編1(考古編)
(10.弘前城内遺跡)
弘前市大字下白銀町1番地 (2)遺跡の立地 弘前市内の中心部を占める台地(西は岩木川・南は寺沢川・東は
土淵川
等
通史編5(近・現代2)
([付図])
皇太子・同妃御来弘〈昭和41年〉 35 土手町〈昭和40年代〉 36 集中豪雨で
土淵川
氾濫
通史編1(自然・原始)
(松原面)
松原面は、腰巻川流域では松原地区から取上地区にかけて、また
土淵川
流域では山崎から城南一丁目にかけては頂部
通史編3(近世2)
(塵芥捨ての実態)
「国日記」によれば、江戸時代を通じて、大雨により岩木川・
土淵川
などがしばしば氾濫しているのであるから、
通史編1(自然・原始)
(原ヶ平面)
土淵川
流域の桜ヶ丘団地(七二メートル)では、地表下四メートル地点に厚さ一二メートル以上の軽石質砂層が堆積
通史編4(近・現代1)
(市制の施行)
見渡セハ林檎畑ヤ五升芋畑許リニテ火災アルモ近隣ニ移ラヌ有様ニ至ランカ 「ポンプ」ノ使用ハ鍛冶町土手町ハ
土淵川
,ヤ富田泉、弁天様、下町ニハ岩木川ヤ堀ナドアリテ間ニ合フベキモ不便ナルトコロモ沢山アルアリ 併シ
土淵川
トテ
通史編1(自然・原始)
(清野袋面)
自然堤防帯の中には、大石川との合流付近にあたる三和、平川との合流付近に位置する岩賀(いわか)、そして
土淵川
通史編4(近・現代1)
([口絵])
の親方町 口絵38 雪景色の下土手町 口絵39 蓬莱橋通り 口絵40
土淵川
通史編5(近・現代2)
(清掃事業の促進)
土淵川
の一斉清掃、ゴミの不法投棄防止運動の実施、清掃の日の設定、予防接種など、今日までも続けられている
通史編1(自然・原始)
(桔梗野面)
写真38 鳥井野から望む桔梗野面 桔梗野面を流れるおもな河川として大和沢川、腰巻川、
土淵川
、寺沢川
通史編5(近・現代2)
(空襲を受けなかった弘前市)
土淵川
両岸の民家を除去して水利をよくし、市街地の各要所に五〇-七〇メートル幅の避難通路を設定、重要建造物
通史編1(自然・原始)
(三 津軽平野南部の地形発達)
土淵川
流域では逆流した火砕流堆積物により台地が、また岩木川以北では砂沢溜池まで火砕流が流下して高杉面が
通史編3(近世2)
(出発)
同二丁目~五丁目(現弘前大学付属病院前の通り)・親方町(おやかたまち)・土手町(どてまち)へ出ると
土淵川
/ 1ページ