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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編4(近・現代1)
(在府町の偉人たち)
在府
町の偉人たち 弘前城下最南端の士族の町
在府
町(ざいふちょう)は丘陵地で、東南に南溜池(鏡ヶ池)が,維新の後、八〇戸の
在府
町から、明治キリスト教の指導者本多庸一、『南島探験』の笹森儀助、大倉喜八郎と組んで /
在府
町の偉人たち
通史編5(近・現代2)
(在府町に生まれる)
在府
町に生まれる 羯南は安政四年(一八五七)に現在の弘前市
在府
町に生まれた。,奇しき縁ではあるが、この
在府
町には、後に親交を結ぶことになる探検家・笹森儀助(ささもりぎすけ)と、東奥義塾時代 /
在府
町に生まれる
通史編3(近世2)
(礼服)
寺社奉行~馬廻番頭……馬廻番頭(うままわりばんがしら)は番方の役職の一つ) 享保二年(一七一七)(藩主
在府
,)――熨斗目半袴(御目見(おめみえ)以上) 宝暦三年(一七五三)(藩主
在府
)――熨斗目半袴(御目見以上,大目付は諸役・諸士の監察と法規・典礼を担当する) 宝暦二年(一七五二)(藩主
在府
)――右とほとんど,正月四日の服装は、藩主の
在府
・在国とも同じと推定される。 ,文政十一年――熨斗目麻裃(家老・用人)常服麻裃(大目付) 藩主在国中の文政十一年より、
在府
中の前二者
資料編1(古代・中世編)
(三 刀剣)
始祖森宗作か 銘(表)奥州津軽波岡之住森宗 (裏)永正十三年八月廿一日 2 短刀 -森宗- 弘前市
在府
町,・大永年間(一五二一)以降か 銘(表)波岡森宗 (裏)奥州津軽 3 刀 -伝、来国光- 弘前市
在府
町
通史編3(近世2)
(金木屋による養蚕と製織)
ほうだいじじつひえん)」(弘図郷)天保元年(一八三〇)五月条によると、武田甚左衛門(当時勘定小頭格)が
在府
町,同じく「封内事実秘苑」天保元年六月条には、
在府
町の金木屋甚左衛門織座の状況について次のように記されている
通史編5(近・現代2)
(柴田幼稚園)
柴田幼稚園 同じく二十九年四月二十日、
在府
町五〇番地の朝陽小学校隣接地に私立柴田幼稚園が設立された。
通史編3(近世2)
((一)勤務)
(一)勤務 全国的にみると、日常の勤務は藩主在国の時と江戸
在府
の場合とでは違いがあり、また番方(ばんかた
通史編3(近世2)
(南溜池の成立)
同三年には新寺町の町割りとともに新たに南溜池に橋が架けられ、万治二年「弘前古絵図」(弘図津)には、
在府
,(ざいふ)町と新寺町を結ぶ通路として西側
在府
町寄りに橋が描かれている。
通史編5(近・現代2)
(青年学校の移転と廃止)
青年学校の移転と廃止 昭和二十二年三月十五口、
在府
町の朝陽小学校校舎は、弘前市に移転した青森医学専門学校
通史編4(近・現代1)
(学区の改変)
鷹匠町、江戸町(現中新町地区)、西大工町、駒越町、馬屋町、茂森町、片堀町(旧古堀町)、茂森派立、新寺町、
在府
町
通史編5(近・現代2)
(朝陽小学校校舎新築落成)
市も早期着工を約束し、建築敷地を
在府
町三六番地の現在地と定め、用地買収に取りかかることにした。
通史編3(近世2)
(寛政期の城下)
なお、同五年の「御家中潰(つぶれ)町之事」(前掲『弘前城下史料』上)によれば、城南では
在府
町後通りと同新割町,その受け入れ先になったのは、元寺町・蔵主町・
在府
町・相良町・馬屋町・百石町・笹森町・長坂町・森町・若党町
通史編5(近・現代2)
(朝陽小学校の移転と新築)
朝陽小学校移転地は本町一丁目突き当たり、
在府
町五番地から九番地に決定、昭和九年(一九三四)二月の市会において
通史編2(近世1)
(土着策と弘前城下)
在府
町の後ろ通り・
在府
町新割町・馬屋(まや)町坤の櫓の下・馬屋町橋東の方の行角・馬屋町の中町・荒町(あらまち,そしてこれと並行して屋敷替えも行われ、
在府
町・相良町・百石町・蔵主(くらぬし)町・笹森町については、これまで,元寺町 三〇〇石以上 蔵主町 二〇〇石以上 元長町 二〇〇石以上
在府
町 三〇〇石より一〇〇石まで
通史編5(近・現代2)
(弘前大学設置認可申請)
写真142 発足当時の弘前大学医学部(
在府
町旧朝陽小学校) こうして、弘前大学は昭和二十四年五月三十一日
通史編4(近・現代1)
(戸長の配置)
本町
在府
町 相良町 宮崎文蔵 元大工町 森町 覚仙町
通史編4(近・現代1)
(織物の商況)
ニシテ、其価格壱千四百参拾六円四拾銭ニ達シタリ、尚ホ将来盛業ヲ計ラハ、漸次多額ノ輸出ヲ見ルニ至ラン、又
在府
町竹内蚕業所
通史編5(近・現代2)
(木村産業研究所)
昭和三十六年〔一九六一〕)などが挙げられるが、昭和七年(一九三二)、その記念すべき処女作として建てられたのが
在府
町
通史編3(近世2)
((三)住居)
おかちまち)・小人町(こびとちょう) 城東――侍町(現百石町(ひゃっこくまち)) 城南――侍町(現
在府
町
通史編3(近世2)
(津軽永孚)
これまで当藩にこうした施設がなかったのは遺憾であったが、先代の遺志を継ぎ明春より学校建設に着手するので、
在府
通史編3(近世2)
(大学の前触れ)
(11)
在府
の者(城下居住者)は通学、在宅の者(土着在村の者)は入寮とする。
通史編2(近世1)
(弘前藩の副藩主)
きのとれない時に依頼するのであり、黒石藩成立後、天保四年(一八三三)十月の名代を除いて、すべて弘前藩主が江戸
在府
中
通史編3(近世2)
(憩いの地としての南溜池)
文化十年二月には、
在府
町・相良町・新寺町・鍛冶町・茂森町の子供や家中の召使が、南溜池の「氷渡(こおりわたり
通史編5(近・現代2)
(一 小学校教育)
一七〇四 三一 30 小学校 第三大成 富田町四七 阿保恂二 一一 三八一 七 31 小学校 朝陽
在府
町六七
通史編4(近・現代1)
(城西小学校創立)
町村名欄内○ハ学校所在ノ地トス 学聯区名 学区名 校数 学区内町村名 学校名 等科 本町学区 一 ○本町、
在府
町
通史編1(自然・原始)
(松原面)
また寺沢川流域の新寺町や
在府
町付近にも小規模ながら分布している。
通史編4(近・現代1)
(陸羯南の手紙)
羯南は笹森の
在府
町の後輩だった。
通史編2(近世1)
(情報収集活動)
津軽弘前藩では寛文九年(一六六九)七月十五日付で江戸
在府
の家老北村宗好から国元の家老に対して、青森の町人
通史編5(近・現代2)
(青森医学専門学校の弘前市移転)
では二月二十二日「医専問題総合委員会」を組織し、医専受け入れ態勢について検討を始めたが、医専校舎として
在府
町
通史編3(近世2)
(景勝の地としての南溜池)
地としての南溜池 景勝の地としての南溜池については、直接的にそのことに触れた史料は見当たらないが、
在府
町
通史編4(近・現代1)
(鍋島知事の対応)
八月三十一日 昨朝
在府
丁下町ノ書生輩数十名松沢書記官ノ宿所ニ至リ、論弁非常ノ異言ヲ以テ迫リ実ニ軽侮罵言極
通史編2(近世1)
(城下高岡の形成)
下片原町(現下白銀町東側堀端)、志(し)わく町、親方町、大工町、新かち町、志(し)けもり町通、足軽町(現
在府
町,足軽町(現若党町と
在府
町)、小人町(現小人町、笹森町、長坂町)、歩者(かち)町(現若党町)、侍町(現四
通史編3(近世2)
(塵芥捨て場としての南溜池)
これは
在府
町から新寺町に至る大橋の整備が行われ、その際に南溜池の上と下の双方に塵芥を捨てないようにとの
通史編4(近・現代1)
(騒動の発端)
笹森町ナル北辰堂ノ書生輩二十名余其宿所ニ出、無神経云々ニ付彼是論難ニ及ヒシト云フ、今夜他ノ書生等即下町
在府
辺
通史編5(近・現代2)
(子ども会の動向)
がそれぞれ指導に当たり、第一回の発表は、その年の夏休み(八月十八日)に青森師範学校附属国民学校講堂(
在府
町
通史編3(近世2)
(神事能)
『奥富士物語』によれば、稽古所が本町五丁目にあり、囃方の掛け声が相良町(さがらちょう)・
在府
町(ざいふちょう
通史編4(近・現代1)
(大区小区制の成立)
南川端丁 銅屋町 桶屋町 新寺町 北新寺町 新寺町新割丁 茂森新丁 古堀新割丁 西茂森町 古堀丁 茂森町
在府
丁
通史編4(近・現代1)
(城西小野球部全国大会出場)
市内
在府
町の人、大正五年三月青森県師範学校卒業。
通史編3(近世2)
((三)住居)
(三)住居 藩主の住居は在国の際は弘前城本丸御殿(藩庁および生活の場)であり、参勤交代により
在府
の場合
通史編3(近世2)
(「ねぷた」の運行)
ばくろうちょう)・春日町(かすがちょう)等を含む地域、『弘前の町並』一九七七年 弘前市教育委員会刊)と
在府
町
通史編4(近・現代1)
(町並みの推移)
中でも
在府
町や相良町あたりでは、士官の居宅になった家が二十七、八軒もあって、馬屋からは軍馬のいななきが
通史編5(近・現代2)
(見直したい弘前市の記録)
昭和五十三年に史跡指定されているが、
在府
町にあった武家屋敷の旧梅田家、元寺町にあった藩医の旧伊東家も移築
通史編5(近・現代2)
(相次ぐ水害と商店街)
- 20 3 1 4 5 11 40,430 茂森町 2 1 3 - - - 2 1 11,500
在府
町
通史編2(近世1)
(流民の発生と施行小屋の設置)
当時、藩主津軽信寧は江戸
在府
中で、家老森岡主膳・用人山田彦兵衛らが廻米の強化を中心とする財政再建策を推
通史編2(近世1)
(城破(わ)り)
南部信直が肥前名護屋(なごや)に在陣中の十二月晦日の段階でも、「
在府
」については、自分が国元に帰ってから
通史編2(近世1)
(津軽家の自己認識確立への試み)
津軽弘前藩は、藩主信政名で貞享元年二月七日、津軽家には先祖が徳川家から発給された文書がまったく存在せず、
在府
通史編4(近・現代1)
(戸籍法と戸籍区)
元裏門前 茂森派立 新寺町報恩寺元門前 万能寺元門前 山辺稲荷并白狐寺門前 大矢場 貞昌寺元門前
在府
町相良丁
通史編3(近世2)
(三 八幡宮の祭礼と山車の運行)
一八一七)、一〇代信順が病気で国元へ到着したのが九月四日で、祭礼を同十五日に行っているところから、藩主が
在府
通史編3(近世2)
(金木屋の生活)
十五日、午前八時過ぎ弘前へ出て、
在府
町(ざいふちょう)の川越家、さらに〓・〓を訪ねて午後八時過ぎ帰宅。
通史編2(近世1)
(寛文蝦夷蜂起と津軽弘前藩)
七月二十三日、江戸からの飛脚が弘前に着き、
在府
中の藩主信政の御意として、松前に津軽為節・杉山吉成が大頭
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