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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(上層農民・在方商人の伸長と藩政の動向)
上層農民・
在方
商人の伸長と藩政の動向 十八世紀半ば以降は、上層農民・
在方
商人が発展した時期であった。,いに不足し、皆無作の村々への種籾や御救米の支給で財政面で困難をきたしたとして、城下町人ばかりではなく、
在方
/ 上層農民・
在方
商人の伸長と藩政の動向
通史編3(近世2)
(村の変容)
村の変容 前項でみた嘉永六年(一八五三)十二月の生活規制は、実は
在方
・農村に対する条項の方がはるかに,文久二年(一八六二)七月五日、藩は旅人と
在方
の取り締まりに関する布令を発したが、その中でそのころ
在方
で,
在方
の小者たちは先祖から所持してきた田畑を村の重立(おもだち)によって買収されており、生活は困難を極めている,町方・
在方
を問わず、一瞬にして生命・財産を奪いかねない放火の陰には時代の矛盾が深く根ざしていた。
通史編2(近世1)
(領内戸数・人数・諸家業調べおよび諸家業・諸職の統制)
ただしこれは、城下や九浦をはじめとする町方のみが対象ではないことから、
在方
を含め領内全体の中で適正な措置,図156.家業鑑札 一方、
在方
においても、田畑の耕作をしながら商いをしている小商人を農事に専念,そして領内の諸工・諸家業を定めたうえで、それ以外の小商人を禁止し、
在方
から町方に移住した者を残らず帰村,
在方
においても、大村の指定場所に造酒・木綿店を許可し、交通の要所には小売り酒と旅用品の小商売を許可するが,ただし不足している諸職人については願いにより新たに借家札を交付したり、その業種によっては、
在方
から弘前
通史編2(近世1)
(面改めの結果)
総人口の内訳は弘前三万七二二三人、
在方
一九万三六五八人、九浦が二万一五八七人である。,各村の人別帳をみると、
在方
商業に従事している者は農地の所持・不所持にかかわらず別の家業に分類されており,「荒物店」なども
在方
に相当数いるものと思われ、農村でも何らかの商売にかかわっている者が多いことを推測させる,実際には、出稼ぎや
在方
商売によって経済的利益を得ようとする領民の動きを食い止めることは不可能であった。
通史編2(近世1)
(御用金の賦課)
時節柄難儀であろうと、気の毒に思っている」と断りながらも、弘前・青森・鰺ヶ沢の分限者五三人に計五四〇〇両、
在方
二七人,さらに寛延二年(一七四九)の飢饉の後には、弘前・両浜・
在方
の一〇五人に御用金合計八三二〇両と米三〇〇〇,宝暦四年(一七五四)にも弘前・青森・
在方
の分限者計三九人から、銀一四六貫金三〇〇両(金二四三三両に相当,また、安永八年には弘前に一二〇〇両、青森に五〇〇両、鰺ヶ沢に三〇〇両のほか
在方
を含めて都合三〇〇〇両の
通史編2(近世1)
(一五 御定法古格(ごじょうほうこかく))
信政時代から文化のころまでの藩の法令を、「
在方
之部」・「町方之部」など、大項目別に集めている。
通史編2(近世1)
(飢饉への対応)
飢饉への対応 藩庁では天明三年九月十日に評定所に
在方
の有力者約六〇名と、弘前や両湊の御用達(ごようたし,購入代金は
在方
・町方の御用金によって賄われた。,十一月十六日に藩は弘前御用達商人や
在方
の有力者六四人を評定所に呼び、御用金一万二〇〇〇両の調達を命じ、,同十九日にも
在方
の四六人に計一万七九八〇両の調達を命じている。
通史編2(近世1)
((二)藩士土着政策の展開)
改革意見書にみられるように、藩士土着策は、端的には、藩士の城下集住策と蔵米知行制を見直し、藩士を
在方
,土着策準備期(Ⅱ期)、寛政四年~同十年の土着策展開期(Ⅲ期)、寛政十年~享和元年(一八〇一)の政策廃止・
在方
引,多くの反対を押し切り、寛政五年「永久在宅」を打ち出し、二年後には
在方
住居が一応完成している。
通史編2(近世1)
(人返し令)
その対象は、天明元年(一七八一)以降に町方に引っ越してきた者すべてであるが、そのほか弘前・九浦および
在方
,天明飢饉による混乱と、百姓が
在方
を引き払って商人となったり、店商売や触売(ふれう)りを兼業する百姓が年々増加,このほか、引っ越し者の
在方
での受け入れ方法や、手当金等の諸援助についても種々講じられ、また荒田開発における
通史編2(近世1)
(賃銭・物価の統制)
もちろん無家業・日雇家業・借宅などの小者については、この二、三ヵ月のうちに手寄(てより)のある
在方
に引,日雇頭は弘前では日雇い一〇〇人に一人を置き、
在方
では庄屋がその任を果たすよう命じられた(同前No.六七,
在方
では、仮子給銭の高騰で百姓潰れの状況が起こっていたのであり、家中においては仲間・小者(こもの)・召使
通史編3(近世2)
(キリシタン改め)
津軽領では寛文元年(一六六一)、藩主自ら馬場において切支丹改衆が
在方
へ繰り出す馬揃を高覧した。,
在方
では代官所に寺の判鑑(はんかん)を備えて置き、庄屋・五人組が立ち会って寺請証文を寺の判鑑と照合し、,延宝三年(一六七五)、新寺町西光寺は、
在方
に二〇〇軒の檀家があるが、降雪の際に寺請証文を受け取りに弘前
通史編2(近世1)
(天保期の人返し)
一七八五)の四月に弘前城下の施行小屋が解散され、収容されている飢民約三〇〇人が在所に帰されたが、一方で
在方
,者はそれぞれ在所に帰らせて手仕事等をさせ、「老幼之者共」は田畑の刈り取りの時期に合わせ残らず帰らせて
在方
通史編2(近世1)
(他領者の入領規制と流通統制)
また、
在方
や町方では、身元が確かでない他領者を奉公人として雇うことは禁止、田植えや稲刈り時などの短期間,
在方
はそれぞれの「居鯖家業之者」を経由する。,しかし、実際は日市を通さず、水揚げされた各湊で「直買」されたり、
在方
の者と城下町人との間で直接取引をする,また、
在方
の生活力の向上により、本来、弘前城下の一部の町でしか認められていなかった絹・木綿の販売も
在方
商人
通史編2(近世1)
(飢饉のその後)
翌天明四年は閏一月二十九日に、田植えの時期を前に、疲弊した農民を教導させるべく、
在方
の有力者一四人を「,病人一七人は馬に乗せて出生の村へ丁寧に送り届け、身寄りのない者は町方の者は町名主のもとで奉公させ、
在方
,同書では同年秋になって秋田や仙北・本荘・亀田・庄内の周辺から帰国する者が多く、「
在方
もかなりにぎわしくなってきた
通史編2(近世1)
(隠津出・抜け米の取り締まり)
詳しくは次項で述べるが、弘前では一町ごと、
在方
では一村ごとに米穀商売を扱う者を設定し、それ以外の者には,
在方
では、五軒組合の相互監視のもと、隠商売をする者がないよう厳重に見張ることを申し付けている。,しかしその後、藩の買米制が破綻したうえに、取り締まり場所に比して人数が多く、
在方
では負担が重くかえって
通史編3(近世2)
(三代信義)
しかし、寛永十一年の「禅宗法度之条々」(資料近世1No.五五八)は僧侶の酒乱、外泊、
在方
へ住居することを
通史編3(近世2)
(青森商社と帰田法)
その三八人の一覧が表30であるが、一人が居所を特定できないものの、他は全員が
在方
の豪農である。,では、なぜ彼ら豪農は家業新設を求めたかというと、従来、
在方
にあっては寛政四年(一七九二)の布令により、,当時、新規家業が認められていたのは弘前・青森・鰺ヶ沢の町場にすぎず、土地を強制的に取り上げられる
在方
の,蝦夷地に酒を売るためには、結局は藩が経営を操作する青森商社の販路に乗らねばならず、その意味では
在方
地主
通史編2(近世1)
(騒動のその後)
青森・弘前はそれでも藩からの多少の払米はあったが、
在方
はなきに等しく、木造新田の農民たちは、今度は飢民,
在方
や弘前の施行小屋の惨状は前節にみたとおりであるが、青森でも天明四年一月から閏二月までの三ヵ月間に二
通史編2(近世1)
(飢饉への対策)
藩は飢饉への対策として、十月に布達を発し、町方では諸役、
在方
では年貢をいっさい免除し、残らず百姓に収穫,宝暦の飢饉対策を特徴づける施策として、
在方
で備蓄されている穀物の強制的な買い上げが挙げられる。,(一〇〇文につき一升二~三合)と、倍以上の値段で売れたので、隠売買をする者も多く、配下の手代・手付が
在方
通史編2(近世1)
(飢饉の惨状)
しかし、まだ弘前は藩主の膝下としてわずかながらも米穀が集積され、扶助もあったのに対し、
在方
はもっと悲惨,
在方
においての惨状の跡は菅江真澄(すがえますみ)や橘南谿(たちばななんけい)の紀行文も記録している。
通史編2(近世1)
(穀物の流通統制)
御買〆所から払い下げを受け、町方・村方に販売するのが、弘前と
在方
各町村に置かれた「米穀商売之者」であり,米穀商人は九月下旬の時点で、弘前で二九人、
在方
で約一五〇人の者が任命され、その後も買い上げの進行に伴い,藩庁は領内全体で一〇万俵の買い上げを目標にし(『永宝日記』)、さらに「御備籾」として、弘前に四万俵、
在方
通史編2(近世1)
(天保四年における藩の対応)
天明期にも、
在方
への貯米は命じられていたが、実際は藩の廻米や借財返済に充当されたりして、有名無実となっていた,米一俵一両の計算で、
在方
は一万両、弘前は三〇〇〇両、九浦・黒石はそれぞれ一〇〇〇両と負担額が決められた,藩の姿勢は
在方
の窮状は察しつつも、可能な限り取り立てようとする意向であり、領内各組ごとに御用金の割り付
通史編2(近世1)
(文久の面改め)
調査に当たっては、
在方
は代官所手代や庄屋など村役人、町は町役人、寺社は門前(もんぜん)庄屋が取りまとめることになっていた,
在方
に住んでいる武士はそのまま村役人が報告した。,また家中・
在方
・町方を問わず、他領からの奉公人の実態、出稼ぎや他領への移住の実態の把握も重要な要件であり
通史編3(近世2)
(実施までの規則改訂)
⑥分与地を自分で耕作しても、小作人や大作人に任せてもいいが、理由なく小作人を排除したり、
在方
の農村慣行,⑥で小作権の保護と農村慣行の遵守(じゅんしゅ)を挙げているのは、
在方
に移住した後、士族らが農民と円滑な
通史編2(近世1)
(大庄屋制の成立)
宝暦五年(一七五五)三月二十一日、代官を削減して、
在方
の「重立(おもだち)之者」二四人が大庄屋に任命された,宝暦十一年に大庄屋は廃止されるが、郷士はそのまま差し置かれ、その後も「
在方
重立之者」を郷士に任命し、安永三年
通史編2(近世1)
(寛延の飢饉)
(きにん)小屋を設置し、三十歳以上の者に御救米を支給するなどの処置を取ったが、翌春になっても弘前では
在方
通史編2(近世1)
(在宅制度廃止以前の廃田・新田開発)
廃田の復興は飢饉の直後から進められ、天明五年二月二十八日に藩は「当仕込世話役」として、
在方
七六名、城下五五名
通史編3(近世2)
(歌舞伎)
同十年五月には四奉行・用人の奥方・藩士・町人・
在方
からの見物もあって繁昌したという(「秘苑」)。
通史編2(近世1)
(天保四年の飢饉)
救小屋(すくいごや)は十一月の時点で
在方
にも一一ヵ所設置された、飢民は秋田領のみならず、松前・越後、さらには
通史編3(近世2)
(信明)
天明の餓死者については、側近の者を
在方
へ遣わして死体を片付けさせ、最寄りの寺で供養するように指示している
通史編3(近世2)
(金木屋による養蚕と製織)
在方
から蚕を買い込み、女子共(おなごども)糸取り約二〇〇人を雇い入れ、また家中の次、三男も来て種々の絹布
通史編2(近世1)
(土着対象地と在宅分布)
つまり、藩士土着策は、当時の
在方
が活況を呈するようになっていたにもかかわらず、ただ藩士のみが困窮している,状況(『平山日記』天明七年条)と、
在方
からの収取が思うにまかせないという状況を反映していたのである。
通史編3(近世2)
(「概略手続」の発表と変更)
ところが、藩は布告段階で
在方
に混乱を招かないように、これまでの小作人はそうした疑念を抱くことなく耕作に,当時、
在方
でも理由なしに小作人を追放することはまずなかったといってよく、そうした農村慣行を無視すれば全藩一揆
通史編3(近世2)
(帰田法の発令)
する耕地を、購入田地二八七四町六反九畝余・同畑地五〇町二反六畝余と、組備官田(くみそなえかんでん)(
在方
通史編2(近世1)
(幕末期の藩財政)
勘定奉行は、家中や
在方
からの買い上げ米の復活などを中心とした赤字の縮小計画を立てたが、借財が多い中で江戸
通史編2(近世1)
(有史以来最大級の大量死)
藩の公式記録の「国日記」によると、天明三年九月から翌四年六月にかけての餓死者は八万一七〇二人、うち
在方
通史編3(近世2)
(廃藩置県と帰田法の終焉)
同年七月十二日に藩は規則を再び改定し、分与地の士族・卒同士、農民所有地との交換を認め、家禄に応じて
在方
通史編2(近世1)
(宝暦~天明期の弘前藩の財政状況)
所一番値段払米 1,200 0.57 先納金拠出商人の(木谷藤右衛門 他5名)買受米他 16,911 8.04
在方
,支出は二六〇七貫三〇四匁(金四万三四五五両余相当)で、うち借財返済関係は青森・弘前および
在方
の用達商人
通史編2(近世1)
(宝暦改革と蔵米)
宝暦五年(一七五五)、藩は飢饉のため
在方
の借金・借米を免除、同年九月に知行取から切米取(きりまいとり)
通史編2(近世1)
(土着策実施への布石(Ⅱ期))
記類』寛政三年条によれば、寛政三年(一七九一)の春から人別戸数改めを行うとともに、商売の株を定め、また
在方
通史編3(近世2)
(農民と藩士の出会い)
農民と藩士の出会い 弘前城下と周辺農村とは
在方
へ通じる道で結ばれ、農民が城下と農村を往復する時には、
通史編2(近世1)
(蝦夷地への人口流出)
町方は町名主、
在方
は庄屋が発行する印形(いんぎょう)を湊口の問屋を経由して湊目付に提出し、改めを受けた
通史編2(近世1)
(赤石安右衛門・菊池寛司の「覚」)
赤石・菊池が意見書をまとめる段階で牧野・大道寺と相談したときに、菊池が、まず最初は
在方
の有力な者に、開発分,特に注目されるのは、
在方
役人・庄屋・五人組等の関係において、彼らを指揮監督することができ、「好悪・依怙贔屓,これと同時に、御目見以下の一六九五人ほどを、やむをえない者を除いてことごとく「半知」にして勤務を解き、
在方
,さらに、村に「手引・近付」もなくそれができない場合は、土着藩士の家来や
在方
の「仮子・若勢(わかぜ)」となって
通史編2(近世1)
(飢餓対策における殖産政策)
在方
には慣れない新作物導入に対する不満が根底にあったと思われる。
通史編2(近世1)
(預手形とは)
破れたり、剥がれてくる手形は、弘前や
在方
の御用達が一枚に付き額面にかかわらず銭三文の手数料で交換した(
通史編2(近世1)
(「人寄せ」と人口流出の禁制)
に廃田開発で他領からも人を呼び寄せている状態であり、他領に人が出ていくことは農事の妨げになるとして、
在方
通史編3(近世2)
(伊勢参り)
翌年、町方よりは町年寄松井助右衛門、
在方
よりは榊村庄屋杢右衛門が伊勢へ代参に出かけ、太々神楽料五〇両と
通史編2(近世1)
(綱紀粛正・倹約奨励)
宝暦四年一月、
在方
における衣食住の華美と質屋・酒屋以外の商売を禁止し(同前No.九〇二)、同年十二月十八日
通史編3(近世2)
(農民意識の変化)
町方でも
在方
でも藩体制のほころびは目にみえ、耳に聞こえる形で明らかになっていた。
通史編2(近世1)
(毛内宜応の「秘書 全」)
その後、正徳二年(一七一二)、再び
在方
に給地を与えることとしたが、その時の地方割り直しが、給地を極めて,この傾向は城下居住のために生ずるものであり、土着によって
在方
に移り住み、日々耕作に従事すれば「万事素朴,これは、土着藩士が
在方
においては代官の統制に入ることを意図しており、土着による藩政機構改変の必要性を説
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