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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (征夷大将軍 坂上田村麻呂)

征夷大将軍 坂上田村麻呂 延暦十五年(七九六)、坂上田村麻呂は陸奥出羽按察使・陸奥守に任ぜられ(史料二三八 / 征夷大将軍 坂上田村麻呂
通史編1(古代・中世) (田村麻呂と青森)

田村麻呂と青森 前項で述べたように、著名な坂上田村麻呂は、史実としては現在の青森の地までは来ていない,しかしながら、現青森県域にも、東北地方一般にそうであるように、少なからず坂上田村麻呂伝説が存在する。
通史編1(古代・中世) (二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)

その上で、古代における当該地域は、坂上田村麻呂を開基と伝える神社が大半を占め、あわせて僧円智に例をみるように,和徳稲荷神社 坂上田村麻呂 延暦年中 倉稲魂命・猿田彦大神・大宮能売神 胸肩神社 坂上田村麻呂 延暦年中,市杵島比売命・田心比売命 鬼神社 坂上田村麻呂 延暦年中 伊邪那岐命・伊邪那美命 巌鬼山神社 坂上田村麻呂,羽黒神社 坂上田村麻呂 大同三年(八〇八) 倉稲魂命 岩木町に所在。,百沢寺 岩木町 施暁 延暦十年(七九一) 真言宗 開基は坂上田村麻呂。
資料編1(古代・中世編) ([九世紀])

[九世紀] ●延暦二十年(八〇一)二月二十四日、征夷大将軍坂上田村麻呂に節刀。,●延暦二十年(八〇一)九月二十七日、坂上田村麻呂、蝦夷征討。,●延暦二十年(八〇一)十月二十八日、坂上田村麻呂、節刀を進める。,●延暦二十一年(八〇二)正月九日、坂上田村麻呂、胆沢城を造営。,●延暦二十二年(八〇三)三月六日、坂上田村麻呂、辞見す。
通史編1(古代・中世) (一 古代における北奥の宗教世界)

の奉祭 (2) 八幡太神宮 不詳 最勝院(真言宗) 鼻和庄八幡村は坂上田村麻呂の陣所 (3) 大聖不動明王,孫九郎 (13) 藤崎毘沙門天 延暦十二年 坂上田村麻呂 (14) 森山毘沙門堂 同右 (,この坂上田村麻呂による神社造立ないしは田村に仮託した神社建立は、年代的にもまったく符合している。  ,つまり、坂上田村麻呂を媒体として、蝦夷平定事業に血道をあげる桓武天皇、官僧かつ天台僧である最澄をこの上,これに隣接する石川(いしかわ)村には坂上田村麻呂将軍が建立したと伝える森山毘沙門堂が存する。
通史編3(近世2) (胸肩宮)

胸肩宮 胸肩宮(むなかたぐう)(現胸肩神社)は、大同二年(八〇七)、坂上田村麻呂が弁天宮を勧請、所持
通史編1(古代・中世) (征夷大将軍大伴弟麻呂)

そしてこのときの副将軍に、「赤面黄髭、勇力人にすぐ」といわれた坂上田村麻呂がいる(史料二一七、写真47,写真47 坂上田村麻呂像  ただこの段階ではまだ阿弖流為を倒すことはかなっていない。
通史編3(近世2) (山王宮)

山王宮(さんのうぐう)(現大杵根(おおきね)神社)は、「社堂縁起」によれば大同年間(八〇六~八〇九)、坂上田村麻呂
通史編1(古代・中世) (安倍高丸)

安日から系譜上、数代後に位置づけられた「高丸」なる人物もそれで、高丸とは悪路王とも呼ばれた坂上田村麻呂
通史編1(古代・中世) (田道伝説)

が、欽明天皇二十八年の洪水に際して白馬に乗って猿賀の地に流れ着いたという伝説が記されているが、これは坂上田村麻呂伝説
通史編1(古代・中世) (分裂した蝦夷沙汰)

古代においては坂上田村麻呂が陸奥出羽按察使・陸奥守・鎮守府将軍・征夷大将軍の四官を兼ねた例があるが、これは
通史編1(古代・中世) (藤原保則の登用)

いまは蝦夷が一致団結して決起しており、この状態では坂上田村麻呂でも平定は難しい。
通史編1(古代・中世) (二 津軽の修験道と神社)

こうした宗派的特性に思いを致し、遠く古代東北の宗教世界が「坂上田村麻呂-伝教大師最澄」の天台宗を中心に,古代の坂上田村麻呂に開基伝承を持つ津軽地域の神社の多くは、その当初、天台系密教(台密)を基調とし、鎌倉時代,岩木山神社が延暦年間(七八二~八〇六)、坂上田村麻呂を開基にして造立され、その別当寺院は百沢寺である。,間口観音深浦聖徳太子妙巧           別当 修験善光院  初開同上(大同二年坂上田村麻呂造立,右の一文に見るように、薬師堂の前身である観音は坂上田村麻呂の造立と伝えられるものである。
通史編3(近世2) (深沙宮)

大同二年(八〇七)、坂上田村麻呂が蝦夷征圧の途中、田道の霊に導かれたところから、社殿を建立し深沙宮とした
通史編3(近世2) (神宮寺)

「天台宗縁起」(同前No.四〇七)によれば、延暦十四年(七九五)、坂上田村麻呂が蝦夷と交戦中、深沙大権現
通史編3(近世2) (熊野宮)

また坂上田村麻呂・重明親王・源頼義・藤原秀衡・源義経・平時頼・源頼家・安陪師季・源行定・藤原家貞が寄進
資料編1(古代・中世編) ([八世紀])

●延暦十二年(七九三)二月二十一日、征夷副使坂上田村麻呂辞見。,●延暦十三年(七九四)六月十三日、坂上田村麻呂ら夷を征する。,●延暦十五年(七九六)十月二十七日、坂上田村麻呂、鎮守将軍兼任。,●延暦十六年(七九七)十一月五日、坂上田村麻呂、征夷大将軍。,●延暦十九年(八〇〇)十一月六日、坂上田村麻呂、諸国の夷俘を検校。
通史編3(近世2) (下居宮)

神体として祀ることは古くから行われてきており、安寿と厨子王、田光沼(たっぴぬま)の竜女、赤倉の鬼神、坂上田村麻呂
通史編1(古代・中世) (安倍氏の柵)

岩手県金ヶ崎(かねがさき)町の鳥海(とのみ)柵(写真62)は安倍氏の重要拠点の一つであるが、その場所は、坂上田村麻呂
通史編1(古代・中世) (乳井福王寺の伝承)

写真73 乳井神社(弘前市)  それによれば、福王寺は坂上田村麻呂の創建になるが、いったん荒廃したものを
通史編1(古代・中世) (陸奥・出羽の在庁官人たち)

坂上田村麻呂の時代までは、中央政府の政策として、「柵戸(さくこ)」という形で積極的に和人を蝦夷の住む地域
通史編1(古代・中世) (泰衡の死)

陣岡とは、かつて坂上田村麻呂・八幡太郎義家が陣を構えたところと言い伝えられ、地名もそれに由来するのであろう
通史編1(古代・中世) (阿弖流為の投降)

写真50 坂上田村麻呂墓地(京都市山科区)
通史編1(古代・中世) (四 中世津軽の宗教世界の特色)

一つは、古代の坂上田村麻呂とセットに考えられる神社の創建と天台宗寺院の造立と通底する、かの執権時頼による,国界は、第一に恵美朝猲が「桃生郡ノ辺ヨリ南ヲ日本ノ地トシ北ヲ蝦夷ト定メタ」=「古ノ蝦夷国界」、第二に、坂上田村麻呂
通史編3(近世2) (ねぷた)

「ねぶた」は、坂上田村麻呂が蝦夷を征伐した時の記念だと伝えられている。
通史編3(近世2) (ねぷたの起源と変遷)

また、「ねぶた」は、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が蝦夷(えぞ)を征伐した時の記念だと伝えられている
通史編1(古代・中世) (三 中世寺社の存在形態)

光貞は坂上田村麻呂の造立と伝える熊野堂を再興し、「大般若会」と転読を退転なく行い、祈禱の忠節を務めていた
通史編3(近世2) (居開帳)

 広船村(現南津軽郡平賀町)の修験広福院は、文久元年(一八六一)に千手観音像(現広船神社)が坂上田村麻呂
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

……………………………… 日本紀略 51 ●延暦十二年(七九三)二月二十一日、征夷副使坂上田村麻呂辞見,……………………………… 日本紀略 52 ●延暦十三年(七九四)六月十三日、坂上田村麻呂ら夷を征する。,……………………………… 日本後紀 54 ●延暦十六年(七九七)十一月五日、坂上田村麻呂、征夷大将軍。,……………………………… 日本紀略 58 ●延暦二十二年(八〇三)三月六日、坂上田村麻呂、辞見す。,……………………………… 日本後紀 60 ●弘仁二年(八一一)五月二十三日、坂上田村麻呂薨ずる。
通史編1(古代・中世) (四 執権時頼の東国廻国をめぐって)

古代において、桓武天皇-坂上田村麻呂-最澄の三者によって彩られてきた北奥の天台宗的仏教世界は、ここに装,古代の北奥仏教界が桓武天皇-坂上田村麻呂-最澄を中心軸に天台宗系色に染め抜かれたのを、いま中世のそれは
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