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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(自然・原始) (城西面)

城西面 谷底平野として、おもに岩木川および平川の流域に帯状に分布する。,城西小学校および第二中学校⑳(三三メートル)でのボーリング資料をみると、最上部に薄い細粒砂層を挟む灰白色 / 城西面
通史編4(近・現代1) (城西小学校創立)

城西小学校創立 下町学聯区が袋町に設置した自彊小学は十四年四月十日焼失した。,建築に要する費用の問題も片づき、校名として「城西」と「山水」が挙げられた。,「城西」は下町地域が旧弘前城の西に位置するところから、また、「山水」は地域を流れる岩木川と、眺められる,岩木山を組み合わせたと思われるが、結局校名は城西小学校に決定し、十六年十月一日、五十石町(現市民体育館敷地,、新町、駒越町、平岡町、紺屋町、浜ノ町、袋町、○五十石町 城西 中初 本町学区 土手町学区 和徳学区  / 城西小学校創立
通史編4(近・現代1) (城西小野球部全国大会出場)

城西小野球部全国大会出場 大正十四年(一九二五)八月、城西小学校野球部は弘前で初めて全国大会に出場した,出場チームは市内六小学校で、第一回戦は朝陽対和徳、時敏対二大、一大対城西が戦ったが、和徳、二大、城西の,、二大と城西で争われた。,城西小学校の三チーム。,盛岡城南が午前に青森莨町を破り、午後は弘前城西と決勝を争うという不利な条件だったが、これはその時の規則 / 城西小野球部全国大会出場
通史編5(近・現代2) (城西小学校情緒障害学級)

城西小学校情緒障害学級 昭和四十八年(一九七三)四月、城西小学校に弘前市最初の情緒障害学級が開設された,城西小学校の情緒障害学級は四十七年四月に設置が内定、担任として熊谷公秀教諭が当たり、同教諭は四十七年六月 / 城西小学校情緒障害学級
通史編1(古代・中世) (枝城・端城の城跡)

枝城・端城の城跡 支城よりも規模が小さく、なおかつ城館跡としての性格を有するものが枝城であり、端城である,枝城と端城の中間地点には「繋ぎの城」「伝えの城」「境目の城」といった用途を別にした城館が整備されていくことになる,当市域内で枝城・端城と考えられる城館跡としては、宮館跡や、小沢(こざわ)館跡、東目屋地域に所在する高野,小沢集落の東方二〇〇メートルほどの南側から延びる舌状台地末端に位置しており、主曲輪は南北一二〇メートル、東西六,館跡の中央部には堀の上幅七メートル、深さ二メートルの空堀が東西方向に設けられ、西側直下に土淵(つちぶち / 枝城・端城の城跡
通史編3(近世2) (西福寺)

西福寺 西福寺(さいふくじ)は、「山崎専称寺並末寺由緒記」によれば、慶長二年(一五九七)の創建、開山,「浄土宗諸寺院縁起」は、堀越城下に創建し、慶長年間(一五九六~一六一四)に弘前城下元寺町の貞昌寺門内に / 西福寺
通史編1(古代・中世) (堀越城と城下町)

堀越城下町の特徴は、堀越城の南側と西側を守るようにその両側に町屋が並ぶという「街村状」の町であったということがまず,この町屋1は羽州街道が直角に折れた部分を中心として、東西に設けられており、短冊形地割は細い短冊形地割も,街道を挟んで東側の堀越城側の地割が整然として奥行きがあるのに対して、西側部分の地割は間口幅もばらばらで,町曲輪部分と想定されるのは羽州街道の西側にみられる短冊形地割五筆がそれにあたる。  ,町屋3は町曲輪1が西側に左折する部分から水濠が流れる部分までが相当する。 / 堀越城と城下町
通史編1(古代・中世) (本城(根城)の城館跡)

本城(根城)の城館跡 当市域内にある城館跡で、領国支配の拠点的性格をもった戦国期の城館跡としては石川城跡,や、堀越城跡、和徳城跡などが挙げられる。,石川城跡は、天文二年(一五三三)か文亀二年(一五〇二)に三戸南部安信が、藤崎城主安東教季・大光寺城主葛西頼清,)という山城と「内館」と呼ばれる曲輪を中心とした平城が合体した形の城跡である。,その他、当市域外ではあるが津軽氏に関係する城館跡としては、鯵ヶ沢町の種里城跡や岩木町の大浦城跡なども挙 / 本城(根城)の城館跡
通史編1(古代・中世) (大浦城と大浦城下町)

二の丸・三の丸・西の丸・西ノ郭・南曲輪というように六つの曲輪から成り立っていることが明らかとなった。,この屈曲の少し西側には堰があり、その堰の先から賀田の集落となる。,また、この町並みの西端近くで北へ分岐する道沿いにも、東側に七筆、西側に六筆の短冊形地割が並んでおり(図,一方、南側に大きく屈曲した街道はおよそ四〇〇メートルで大浦城の南側の堀・土塁と平行する形で西側に延びて,写真205 旧門前地区(岩木町五代)  以上のように、大浦城下町は大浦城を東西に走る百沢街道に沿 / 大浦城と大浦城下町
通史編3(近世2) (西光寺)

西光寺 西光寺(さいこうじ)は、浪岡で死去した法然の弟子金光に始まるという。,弘前城下の形成に伴い、元寺町へ移った跡の草庵は、のちに西光院となる。 / 西光寺
資料編1(古代・中世編) (五 大浦城と「城下」の構造)

また城跡の西南、五代旧門前地区には、長勝寺・海蔵寺・隣松寺・明教寺など、現在は弘前市西茂森禅林街(明教寺,大浦「城下」は西の門前地区にも伸びていたが、賀田地区が「城下町」の中心であったことは間違いない。,この道沿いにも、東側七筆、西側六筆と短冊型地割が並んでおり、ここもまた「旧城下町」の一部と考えられる。,以上から判断される大浦城下町の特徴は、第一に、大浦城下を東西に走る百沢街道に沿って細長く町が形成されていたこと,第二に、町の中心は城の東(賀田)と西側(門前)にあったこと。 / 五 大浦城と「城下」の構造
通史編1(古代・中世) (支城の城館跡)

支城の城館跡 支城は領域支配の拠点的な城館に付随する形で築かれる城館跡で、東目屋地区の国吉館跡(写真,関惣右衛門は「十二人屋形城衆」の中の「城代」とされていることから、国吉館跡が大浦城周辺の中世城館跡の中,さらに国吉城跡の北西側に、堀跡を挟んで「武者溜(むしゃだまり)」と呼ばれる、出撃や防衛のために兵が詰めている,そのようなことから国吉館跡は支城でもかなり重要な本城的な性格を有していた城館跡であった可能性があるといえる,国吉館跡は大浦城の典型的な支城と考えられるものである。   / 支城の城館跡
通史編5(近・現代2) (西小学校の創設)

西小学校の創設 昭和四十年、弘前市は三ヵ年計画で、市内樋の口地区に広さ四一・二ヘクタールの城西団地を,団地の戸数一四〇〇戸、その子弟はすべて城西小学校に入学した。,初代校長相馬斉、職員は校長ほか一九人、一四学級編成で児童数五六三人、うち五〇〇人は城西小学校から転校したもの,しかし、校舎が未完成のため、三学年以上は城西小学校校舎を借用し、一、二学年だけを新校舎に収容した。,同時に城西小学校を借用の三学年以上を新校舎に移し、ここで全学年が揃うことになった。 / 西小学校の創設
通史編2(近世1) (大浦城の構造)

大浦城の構造 大浦城を含む中世の当地城は鼻和郡大浦郷に属し、津軽平野西部の岩木山麓に位置することから,「西根(にしね)」とも称され、大浦城は「西根城」とも称された。  ,大浦城跡は、弘前城の西方約四・三キロメートル、中津軽郡岩木町五代(ごだい)字早稲田(旧門前村)にあり、,同町賀田集落の西端に接する大規模な城館跡である。,大浦城は、段階を経て整備・拡張されたが、最終段階では本丸・二の丸・三の丸・西の丸・西の郭・南郭の六つの / 大浦城の構造
通史編1(古代・中世) (下総葛西氏と津軽葛西氏)

下総葛西氏と津軽葛西氏 葛西氏は、武蔵国豊島郡を本拠とした豊島氏の一族である。,清重の父は、史料には豊島清基とも葛西清基ともあらわれるので、父の代に葛西氏を称したらしい。,清重自身の本領は下総国葛西御厨で、これが葛西氏の名の由来である。  ,弘前藩家臣中にも葛西家がいくつかあるが、津軽の葛西氏についての確実な最古の史料は、永正二・三年(一五〇,その津軽入り当初の拠点は大光寺城あたりといわれているが、時期も含めて史料的には確認できない。 / 下総葛西氏と津軽葛西氏
通史編1(古代・中世) (堀越城・石川城を中心とした城館群)

堀越城・石川城を中心とした城館群 堀越城と石川城を中心とした城館群のネットワークについては、まず南部氏,や沖館城跡・高畑城跡・新館城跡などの城館跡が点在し、南側には森山館跡をはじめとし、大鰐町の蔵館(くらだて,東曲輪は現在の蔵館小学校の建てられているところで、西曲輪はりんご畑と住宅が建てられている。,また西側一キロメートルの地点には宿川原(しゅくがわら)へ通じる狭くて急な登り道がある。  ,この砂沢平館跡は東西六〇〇メートル、南北六〇〇メートルの規模とされる。 / 堀越城・石川城を中心とした城館群
通史編1(古代・中世) (種里城を中心とした城館群)

種里城を中心とした城館群 種里城跡を中心とした城館群は、川崎城をはじめ、赤石川流域を中心とした山の麓,赤石川の水源部分に当たる西側には種里城跡が造られている。,写真213 種里城跡周辺航空写真 図67 種里城と周辺の城館群(50,000分の1),、光信が海岸に抜けようとしたところ館前主に狙撃されるので攻撃したが、堀が深くて攻めきれない、このため西海道金沢目内崎,場所と道路を挟んだ西側には「見張り屋敷跡」と呼ばれる小高い山が作られている。 / 種里城を中心とした城館群
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

、以下「大道小道之帳」と略称)に「八幡古城」として紹介され、本丸・二の丸・三の丸・西の小丸(西の丸)の,近代になり、中村良之進は、二の丸・西の丸の南に二つの曲輪があることを報告し、沼舘愛三は、これを西ノ郭(,西館)・南郭と呼んで大浦城の一部に含めた。,があった可能性もあげているが、ここは現在水田となっている低地で、明瞭な遺構はなく、「大道小道之帳」でも「城之西北之方,図20 大浦城縄張り推定復元図  大浦城の大手虎口は、百沢街道が東から西へと直進し、城に突き当たった / 四 城館の構造
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

このうち大仏ケ鼻城は、東西・南北二〇〇メートルの規模を持つが、公園として整備され遺構の残存はよくない。,まず大仏ケ鼻城の西側は急崖をなし、直下には水堀と空堀h1が南北平行に掘り切られて、容易に入城できないようになっている,ケ鼻城地区)  第一ブロックの西にあるのが、内館・高田館・寺館・茂兵衛殿館・孫兵衛殿館の第二ブロック,この曲輪は月館西側の独立状の丘陵に少し手を加えた程度のもので、周囲に特別な防御施設はなく、自然の沢が西側,ともいう)の空間は、石川城全体の西側にあたり、五つの曲輪から構成されている。 / 四 城館の構造
通史編4(近・現代1) (城跡の荒廃)

城跡の荒廃 旧藩の政庁であった弘前城は、明治四年七月の廃藩とともにその機能を失った。,そして九月に城地は兵部省の管轄に入り、十月には東北鎮台の分営として旧藩士から募集した二〇番隊が城内に駐留,写真120は明治五年に親方町の西谷休之助が撮影したもので、天守閣に続いて石垣の上に土塀が連なり、また、,り受け、番人を気取っていたという記録もあるが(第一章第三節第四項参照)、東西六町・南北八町にわたる広大,桜は、明治十三年に内山覚弥が三の丸へ二〇本、十五年に菊池楯衛が一〇〇〇本を西の郭と二の丸に植えたのが始 / 城跡の荒廃
通史編2(近世1) (城下高岡の形成)

立地を概観すると、城の西には駒越川(こまごしがわ)(岩木川)が流れ、本丸の西下を岩木川(西堀)が流れ、,城下は東・南・西を水によって防御する構想の下に形成されたものといえよう。,なお、城の西坂下(馬屋町)にも三六軒の侍屋敷があった。  ,城外に目を転じると、城の西側を流れる岩木川の西側に五三軒の侍屋敷と家数三四軒からなる鷹匠町があり、東側,城の西は侍町の西側、岩木川沿いに配置されていた。 / 城下高岡の形成
通史編2(近世1) (城破(わ)り)

このときに破却される城は、伊達領国内のものなのか、当時伊達氏が接収に当たっていた葛西・大崎領のものなのかは,葛西・大崎領でも複数の城が残されている。,さて、仕置が一応の終了をみたころ、陸奥国では和賀・稗貫、そして、葛西・大崎旧領、出羽国では仙北・由利・,この第七条には、葛西・大崎旧領はことごとく平定し、城については伊達政宗に従い、多くはならないように普請,実際、葛西・大崎旧領では、柏山・水沢・江刺・気仙などの城が取り立てられて普請を加えられている。 / 城破(わ)り
通史編1(古代・中世) (種里城と町)

種里城と町 明応元年(一四九二)、現在の鰺ヶ沢町種里町に西海岸の掌握と西浜の南方にある安東氏に備えて,種里城跡は現在でも中世城館跡の面影を色濃く残している。,種里城の規模や性格は、今までは不明な部分も多かったが、平成四年(一九九二)から種里城跡の中心部である「,図61 鯵ヶ沢町種里城跡検出掘立柱建物跡の平面図  その北西側に位置するⅡa曲輪は、斜面に何段もの,その南西に位置するⅡb曲輪は家臣の居住空間というよりも、どちらかというと領主(光信)が日常生活を送っていた / 種里城と町
通史編2(近世1) (堀越城の構造)

城域の規模は東西・南北約三五〇メートルで、これに城下町の一部を「町曲輪(まちくるわ)」として取り込んだ,城跡のある堀越集落は、岩木川の支流の一つ平川と大和沢(おおわさわ)川の合流点から南西五〇〇メートルの、,『天和四年堀越村書上絵図』には、羽州街道が堀越の集落に入る東西の入口(石川方面と弘前方面からの入口)に,この東西の二つの木戸に守られた地域こそ、かつての堀越城下町の範囲であった。,また、町曲輪は、一方を堀越城の堀、外周を前川や水濠によって囲まれた曲輪であり、大浦城は「城―町曲輪―町 / 堀越城の構造
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

それによれば、     堀越古城 但平城大道筋 一、本丸之内東之方卅間、南廿壱間、西廿間、北五拾弐間半,さ弐間宛、土手之高さ壱間半宛、東西に口有、 一、惣がわ四方共ニ田地、但浅田、城下より三町東ニ平か川有,、この広さ廿七間深弐尺三寸五寸、但歩渡り、西北之方城より弐町三町外ニ門家川有、但小川南之方城下ニ大道有,、馬かけ四方共ニ自由、但城下西より南へ町屋有、 とあり、本丸・二之丸・三之丸・西の小丸の、四つの曲輪,図28 堀越城縄張り推定復元図  堀越城の大手は、曲輪Ⅲの西、弘前から進んできた羽州街道(旧国道七号 / 四 城館の構造
通史編2(近世1) (信枚の築城)

信枚の築城 弘前城築城が着手されたのは慶長十五年(一六一〇)のことで、一月に領内に人夫の割り当てを行,六月一日から城を築き始めた。,)(受け持ち区域)の割り振りと石垣の築き方は伊東六右衛門・服部孫助が担当した、石垣用の石は長勝寺の南西、,大光寺城や大浦城の門も移築され、外北門(通称亀甲門)、内北門(通称賀田(よした)門、現存しない)になった,が城下に移され、城の内部の二の丸・三の丸・西の郭(くるわ)・袰(ほろ)町に重臣や上級武士の屋敷割りが行 / 信枚の築城
資料編1(古代・中世編) (一 大浦城の立地と現状)

一 大浦城の立地と現状 大浦城跡は、弘前城の西方およそ四・三キロメートル、中津軽郡岩木町五代字早稲田,(旧門前村)にあり、同町賀田(よした)集落の西端に接する大規模な城館跡である。,中世の当地域は、津軽鼻和郡大浦郷に属し、津軽平野西部の岩木山麓に位置することから「西根」とも称された。,この城の名を「大浦城」、別名「西根の城」(『奥羽永慶軍記』)というのはそのためである。,一つであることから、種里城・堀越城とともに重視され、藩政期を通じて旧西の丸に「賀田塩硝御蔵」が設けられて / 一 大浦城の立地と現状
通史編1(古代・中世) (胆沢築城)

胆沢築城 こうした戦果を踏まえて、翌延暦二十一年(八〇二)正月、ついに賊地の拠点の真っただ中に、胆沢城,北上川とその支流胆沢川が合流するあたりの南西に、古くから「方六(ほうろく)町」といわれた痕跡を残している,場所があり(水沢市佐倉(さくら)河)、そこが胆沢城の故地(写真48)である。,といった一〇ヵ国から、四〇〇〇人もの浮浪人が胆沢城へ送り込まれている(史料二五七)。  ,写真49 胆沢城跡出土漆紙文書 延暦21年6月玉造軍団より胆沢城にあてられたもの。   / 胆沢築城
通史編2(近世1) (堀越城への移転)

中世において津軽平賀(ひらか)郡に属していたが、この地は津軽平野南部を南北に縦断して流れる平川のすぐ西岸,位置し、平賀・石川・大鰐(おおわに)を中心とする「東根(ひがしね)」地方と、鼻和・大浦を中心とする「西根,大浦の地は戦略的要地ではあるが津軽平野の西に偏り、津軽全域を支配する本拠地としては不十分であり、これに,対して堀越の地は、津軽の西根と東根の接点にあり、かつ石川城にも近く、津軽の政治的中心として地理的条件を,為信の堀越城進出を可能にした背景には、戦国以来、南部氏が勢力を置いた「西根」地方の大光寺城・石川城の自力 / 堀越城への移転
通史編3(近世2) (西坂下御紙漉所)

西坂下御紙漉所 「国日記」の紙漉に関する最初の記事は、寛文四年(一六六四)六月十日、国吉(くによし),(一六七三)の「惣屋敷絵図」(弘図津)に相当面積の紙漉所敷地が記されているが、延宝四年(一六七六)の城絵図,西坂下御紙漉所では、七右衛門が仕事を続けることになる。,天和二年(一六八一)十月、城中で催された御能見物を許された諸職人の中に、御紙漉屋喜兵衛と御紙漉白川七右衛門,図131.七右衛門の西坂下紙漉所 / 西坂下御紙漉所
通史編1(古代・中世) (福村城跡)

この福村城跡から和徳城跡までは約二・五キロメートル、大光寺城跡、堀越城跡へは約三・五キロメートルの距離,福村城跡は後世に書かれた『本藩通観録』や『津軽歴代記類』などの史料によると、築城年代は天正二年(一五七四,そしてこの福村城は、大浦氏が元亀二年(一五七一)に大浦城を築いた時に、その支城のひとつとして造られたと,図79 福村城跡の地籍図  発掘調査は、平成九年(一九九七)十月から行われた。,橋脚は発掘調査区域東側半分に位置し、規模は、東西に二間、南北に二間の計七本の橋脚跡が検出された。 / 福村城跡
資料編1(古代・中世編) (一 石川城の立地と現状)

とその北西に続く台地上にある。,北西に続く台地は標高六〇メートルほどの平坦地だが、ここでも低地との比高差は一〇メートル近くに達する。,城域全体の規模は東西約八五〇メートル、南北約五五〇メートルの、大規模な城跡である。,」と呼ばれ、地蔵川原の北西には「中川原」「川原田」の地名もある。,現在、石川城跡は、南東端の大仏ケ鼻丘陵の部分が大仏公園として整備され、その西の丘陵の一部が墓地となっているほかは / 一 石川城の立地と現状
通史編1(古代・中世) (石川城跡)

石川城跡 当市域の南側に位置する石川地区にある石川城跡の開発に伴う発掘調査が平成七年度(一九九五)に,内(うち)館(八幡(はちまん)館跡とか次五兵衛殿館とも呼ばれる)という石川城跡の中心部に当たる曲輪と、,写真215 石川城跡内曲輪から検出された巨大な堀跡  さらに出土した遺物は、中世のものは中国青磁,中心部分の曲輪をさらに堅固にするように内館の南西側からは、堀が設けられたほか、堆積土中の底面からおよそ,図78 石川城跡検出の堀跡断面図 写真216 石川城跡発掘状況 / 石川城跡
通史編1(古代・中世) (大光寺新城跡)

大光寺新城跡 大光寺新城跡(写真217)は南津軽郡平賀町字三村井に所在する。,平賀町の中心街から北西におよそ一キロメートルのところに位置している。,平地の微高地に築城され、六羽川を西方の守りとしている。,写真217 大光寺城跡空撮  大光寺新城跡の発掘調査は昭和六十三年(一九八八)から土地開発に伴い,図80 大光寺新城跡出土の遺物 / 大光寺新城跡
通史編4(近・現代1) (荒城の桜)

荒城の桜 藩政時代、弘前城内に桜の木は数少なかった。,明治十五年(一八八二)、城内に一〇〇〇本もの桜苗木を植樹したのは、青森県に初めてりんごの苗木を試植したことで,城跡は、明治四年七月の廃藩後、主(あるじ)なき荒城という状況で、手入れがされることもなく荒廃していた。,菊池の試みが頓座したのを見て、内山は再び城内全域に桜を植えることを決意するに至った。,さらに、外堀一帯や本丸下西濠へも数百本の桜の若木が植えられ、城内および外濠の桜は二〇〇〇本を数えるほどになっていった / 荒城の桜
通史編3(近世2) (寛政期の城下)

寛政期の城下 寛政期には城下の景観が大きく変化する出来事があった。,なお、同五年の「御家中潰(つぶれ)町之事」(前掲『弘前城下史料』上)によれば、城南では在府町後通りと同新割町,、城西では馬屋町・新町・鷹匠町・五十石町、城北では若党町・小人町・春日町、城東では長坂町など一七町、また,このほか、亀甲町角に御蔵、足軽町和徳町口に桝形、南袋川岸町(現西大工町)、古堀町、茶畑町、川端町などが,なお、寛政十二年(一八〇〇)の「弘前大絵図」(弘図岩)では、城郭内から西外の郭がはずされ、御家中(武家地 / 寛政期の城下
資料編1(古代・中世編) (一 堀越城の立地と現状)

城域の規模は東西・南北約三五〇メートルで、これに城下町の一部を「町曲輪」として取り込んだ規模の大きな城郭,城跡のある堀越集落は、岩木川の支流の一つ平川と大和沢川の合流点から南西五〇〇メートルの、津軽平野南部の,していたが、この地は津軽平野南部を南北に縦断して流れる平川(中世には平賀川・堀越川などと呼ばれた)のすぐ西岸,に位置し、平賀・石川・大鰐を中心とする「東根」地方と、鼻和・大浦を中心とする「西根」地方との、いわば境界地帯,堀越城跡航空写真 (南西側より撮影・平成4年) 南方より曲輪I(本丸)を望む 曲輪 / 一 堀越城の立地と現状
通史編3(近世2) (城門番所の警備)

城門番所の警備 弘前城中は城下の中核であり、藩主の住居でもあるから、城中の諸門の警備には特に注意が払,廃藩当時には、追手門(現存)・西坂門、二の丸の内南門(現存)・内東門(現存)・内北門(賀田門)、西の郭,○城門は暮六ツ(午後六時)に閉じるべきである。,○町々に火事や地震などがあった時、藩士が登城する場合には武者屯(むしゃたむろ)に留めておき、番所で登城者,もちろん、城の近くに火災が発生した時は別である。 / 城門番所の警備
通史編3(近世2) (宝暦期の城下)

宝暦期の城下 弘前城下に大きな変化がみられたのは、慶安二年(一六四九)に横町(現東長町)の算盤(そろばん,築城当初から本丸には藩主家、二の丸には家老などの上級家臣、三の丸には中級家臣が住んでおり、城内町を形成,ここに、弘前城内は政務機関の所在地となり、城下は武家地と町方、寺社地に区分される典型的な城下町の景観を,これは現在の市内品川町の南西部に当たる。,また、町方と思われる町に武士の居住がみられ、たとえば、土器(かわらけ)町に八四軒、西大工町に六軒、大工町 / 宝暦期の城下
資料編1(古代・中世編) ((3)城館の構造)

(3)城館の構造 国吉館は曲輪が一つだけの、いわゆる「単郭」の城館であるが、虎口の位置や地割の在り方,から、図38に示した平場⑦の西側寄りの場所に中心施設(館主の屋敷)が置かれていたと考えられる。,そこはもう曲輪の内部であり、あとは平坦地を西に進んで、中心部に達している。,西側にある平場⑧と⑨は、防御と通路を兼ねた腰曲輪である。,、背後の丘陵に戦闘時に立てこもる山城(詰の城)があり、その山城との連絡通路を兼ねた遺構とも考えられる。 / (3)城館の構造
資料編1(古代・中世編) (二 大浦城の歴史)

二 大浦城の歴史 すでに述べたように、大浦の地は、津軽平野西部の戦略的要地を占めており、十六世紀半ば,海からの安東勢力の侵入口である西浜の種里に拠って(「前代歴譜」)、南部氏の前衛の役割を担うことになった,さらに文亀二年(一五〇二)、南部大浦光信は「花輪郡賀田郷」の地に築城、「大浦ノ城」と名付け、嫡子盛信を,本城であった。,その後も大浦城は、堀越・高岡(弘前)城の支城として存続したが、元和元年(一六一五)の「一国一城令」によって / 二 大浦城の歴史
通史編1(古代・中世) (その他の城館跡)

その他の城館跡 当市域内には、これらの城館跡に属さない城館も存在している。,西北域の船沢(ふなざわ)地域にも、城館跡の築城年代はもとより、館跡の由来・沿革がまったく不明なものなどがそれに,なかべっしょ)の七ッ館」と呼称される、玄蕃(げんば)館跡・二ッ館(ふたつだて)跡・隈館(くまだて)跡・城(,の板碑群が五一基(公卿塚(くぎょうづか)六基・石仏(せきぶつ)四十五基)あることなどから、中世前期の城館跡,中崎館遺跡)や、一五世紀から一六世紀にかけて使われた境関(さかいぜき)館跡(境関館遺跡)など、戦国時代以前の城館跡 / その他の城館跡
通史編2(近世1) (城下弘前の変化)

城下弘前の変化 弘前城下は時代とともに変化・拡大をしていくが、以下各時期の城下絵図を参考に記述していく,西日本の国名が多いのが目立つ。,第二は新派町(現平岡町)と派町(現西大工町)ができたこと。,駒越町や西大工町・平岡町などの城西地区の町割りが拡大した。,一〇六〇人が城下を離れたといわれており、そのため城下の侍町などに大量の空屋敷が生じ、城内に屋敷をもらっていた / 城下弘前の変化
資料編3(近世編2) (1 弘前城の歴史)

1 弘前城の歴史 津軽為信が、その居城を大浦城から堀越城へ移したのが文禄二年(一五九三)であった。,江戸幕府成立後、外様大名の一人として、四万七〇〇〇石を領したが、堀越城では近世的な城下を形成するうえで,そこで新たに「高岡」の地へ新城築城を計画し、幕府にその許可を求めるとともに、町割りに着手したのが慶長八年,築城は大いに急がれた様子で、大工職などは領内の大工たちでは間に合わずに、江戸や関西・北陸などから数百人,また、材木は近くの山々から伐り出されたものと見られるが、大浦城や大光寺城など、旧城郭の建物を解体したものもあったという / 1 弘前城の歴史
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

四 城館の構造 推定復元される乳井茶臼館の縄張りを示したのが図47である。,しかし今回の調査の結果、曲輪Ⅰの西側台地にも城館に伴う遺構らしいものがあることが分かり、この部分(曲輪,Ⅱ)を含めて城館の構造を考えることにした。,現在は、直接この腰曲輪mを登って頂上に達する道路が造られているが、中世城館の通路としては不自然であり、,この段は、戦闘時に重い甲冑を着た敵兵の前進を妨害するためのもので、中世城館特有の工夫である。 / 四 城館の構造
資料編1(古代・中世編) ((3)城館の構造)

(3)城館の構造 坂本館は、東の「古館」、西の「新館」の二つで構成されていたと言われるが、古館の規模,は、東西約七五メートル、南北約二九〇メートル。,また曲輪Ⅰの西側中間部にはくびれた場所があり、東続きにはくぼんだ溝状遺構gが見られる。,また、古館の西に「新館」があるが、縄張り図からも明らかなように、城館に伴うと思われる遺構は三か所(図40,城館として利用しようとした可能性はあるが、仮にそうであったとしても「未完の城館」に終わったものと理解すべきであろう / (3)城館の構造
通史編3(近世2) (城下での生活)

二十三日、今朝、隣松寺(りんしょうじ)(現市内西茂森二丁目)・耕春院(こうしゅんいん)(現宗徳寺、市内西茂森一丁目,二十九日、午前九時すぎ藤先寺(とうせんじ)(現市内西茂森一丁目)の僧侶が掛物を持ってきてくれる。,昼ころ長勝寺(ちょうしょうじ)(現市内西茂森一丁目)・耕春院(こうしゅんいん)の僧侶が参り、しばらく話,今朝親の祥月命日につき、隣松寺の小僧一人と蘭庭院(らんていいん)(現市内西茂森二丁目)の僧侶が来たので,帰りに西福院(さいふくいん)(現西福寺のことで貞昌寺塔頭(たっちゅう)、市内新寺町)に立ち寄ると、大変 / 城下での生活
資料編3(近世編2) (●普門院 本堂 西茂森二丁目)

●普門院 本堂 西茂森二丁目 観音山普門院の創立年代などは不明である。,古くは観音寺あるいは単に観音堂などと呼ばれて茂森山にあったが、弘前城築城の際の茂森山削平に伴って現在地 / ●普門院 本堂 西茂森二丁目
通史編2(近世1) (堀越城の限界性)

「尾崎ら三人が深浦から堀越城へ帰り、それぞれ城内の自分の屋敷へ引き籠もった。,」とし、その後「本城に籠城した尾崎ら三人が、金(こん)小三郎がいる西ノ丸の屋敷へ鉄砲をおびただしく打ち,堀越城は、堀・土塁・塀という設備によって防御すると同時に、重臣の城郭内への取り込み、武器・弾薬の所有を,重点を置いて設置され、近世城郭の特徴が随所にみられる「政庁」型城館であった。,慶長十六年の高岡城(弘前城)への居城移転の準備が始まったのである。 / 堀越城の限界性
通史編1(古代・中世) (藤崎城と中世都市)

藤崎城と中世都市 戦国期の城下町ということでみるならば、藤崎町の城下町も津軽地域における特異な手法によって,さらに、近世の津軽藩時代には藤崎城が廃城となっていることから、こうしたカギ型街路が作られることは、近世,写真207 藤崎城周辺の天和の絵図面  その絵図でみると、藤崎城は一辺一〇〇メートル×,二〇〇メートルの主曲輪があり(天和四年の藤崎村絵図では「御本丸」と記される)、その北西には「副曲輪(西館,「外構」とは、「外の構え」というように、城の中でも、城主や一族・家臣などが居住する城館の中心部とはある / 藤崎城と中世都市
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