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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(城下の銭湯)
城下
の銭湯 銭湯での男女混浴は風紀が乱れるということで、幕府の寛政改革では禁止されたが、松平定信(まつだいらさだのぶ,藩では文政十二年(一八二九)十二月に、
城下
の銭湯に対し男女を分けた入浴を実施させようとしたが、銭湯側では,同年九月になると、日割りでは町人や遠くから来る者にとって(
城下
周辺の農村か)不便であり、そのため入湯人数,
城下
の銭湯は庶民に利用された社交場の一つでもあったが、混浴を認めざるをえない状態になったのは、風紀が乱 /
城下
の銭湯
通史編3(近世2)
(宝暦期の城下)
宝暦期の
城下
弘前
城下
に大きな変化がみられたのは、慶安二年(一六四九)に横町(現東長町)の算盤(そろばん,その結果、
城下
の武家屋敷に大量の空き屋敷が生じ、城内の家臣たちがこれらの空き屋敷に移住を命じられたのである,ここに、弘前城内は政務機関の所在地となり、
城下
は武家地と町方、寺社地に区分される典型的な
城下
町の景観を,図3.寛永期(17世紀前期)の
城下
の様子 この間の
城下
の変化として取り上げておきたいのは、元禄十一年,図4.宝暦期(18世紀中期)の
城下
の様子 / 宝暦期の
城下
通史編3(近世2)
(城下の隠売女)
城下
の隠売女 弘前
城下
では遊女(公娼)も隠売女(私娼)も禁止であるが、彼女たちは隠売女として後を絶たず,ただし、さほど多くはなかったようで、「国日記」には、その後
城下
において両浜から遊女を呼び出して酒宴を催,
城下
で遊女以外の隠売女が目立ってくるのは、富田町の茶屋が禁止された寛保三年(一七四三)以降からである。,さらに天明期に入ると、藩から
城下
の町や寺社に対し、隠売女を置いていると疑いを持たれないよう、日常の行動,それは天明三・四年の大凶作により、生活困窮に陥って、貧農や下層町人の娘が
城下
の各地で隠売女となり、風紀 /
城下
の隠売女
通史編1(古代・中世)
(堀越城と城下町)
堀越城と
城下
町 堀越城は、文禄三年(一五九四)に大浦為信が大浦城から堀越に本拠地を移し、慶長十六年(,堀越
城下
町では前者の考え方を前面に出した
城下
町づくりが行われたということになる(写真206)。,写真206 堀越城跡航空写真 堀越
城下
町は大きく分けて四つの町屋から構成される。,そしてこの部分は
城下
町建設の当初段階には作られていなかったが、のちに拡幅されたと考えられる。,これはたしかに要因の一つとして考えられるが、それよりも弘前
城下
町の建設が行われた背景には、堀越城と堀越
城下
町 / 堀越城と
城下
町
通史編3(近世2)
(寛政期の城下)
寛政期の
城下
寛政期には
城下
の景観が大きく変化する出来事があった。,一七九五)の「御家中在宅之族(やから)村寄」(同前No.八五)によれば、藤代組・和徳組・高杉組・堀越組など
城下
近郊,なお、同五年の「御家中潰(つぶれ)町之事」(前掲『弘前
城下
史料』上)によれば、城南では在府町後通りと同新割町,結局、この政策は失敗に終わり、在宅者たちは再び弘前
城下
へ戻って来ることになった。,実際に在宅者の弘前
城下
移住が完了したのは三年後の享和元年(一八〇一)十二月のことであった。 / 寛政期の
城下
通史編2(近世1)
(土着策と弘前城下)
土着策と弘前
城下
藩士土着策は農村部への藩士在宅であり、家臣団の
城下
集住という大原則を否定するものである,したがって、これによって
城下
町弘前の性格や景観は大きく変容することとなった。,つまり、
城下
町に残された家臣は上級家臣のごく一部と下級家臣のみとなった。,藩士が農村部に在宅せざるをえない状況を作り出す潰町政策によって、
城下
の景観は大きく変容したのであり、
城下
町,蝦夷地警備の問題は、土着策廃止後も
城下
の在り方に大きな影響を与えていたといえよう。 / 土着策と弘前
城下
通史編1(古代・中世)
(大浦城と大浦城下町)
大浦城と大浦
城下
町 大浦為信が津軽地方を掌握するための拠点としたのが、鼻和郡大浦を中心とした地域であり,を過ぎ、賀田(よした)字大浦の地内に入る手前で緩く左に屈曲する地点から
城下
町が始まることになる。,大浦
城下
町の特徴は、街道に沿った形で両側に「短冊形地割」が設けられていることである。,そのようなことから、計画的な
城下
町であったというよりも、時代とともに必要に迫られて
城下
町が膨らんでいったことによる,この部分が
城下
町建設における中心部であった可能性が高い。 / 大浦城と大浦
城下
町
通史編2(近世1)
(城下高岡の形成)
城下
高岡の形成 当時、弘前は「二石(についし)」と呼ばれており、築城後は、「高岡(たかおか)」と呼ばれた,築城当時の
城下
高岡がどのような状況であったのかは、資料がなく不明である。,よって両絵図を参考に
城下
の様子を見ていくことにする。,
城下
の東端を土淵川(つちぶちがわ)が流れ、これも堀の役割をしている。,
城下
は東・南・西を水によって防御する構想の下に形成されたものといえよう。 /
城下
高岡の形成
資料編1(古代・中世編)
(五 大浦城と「城下」の構造)
「賀田旧
城下
町」の姿は、次のようなものである。 ,大浦「
城下
」は西の門前地区にも伸びていたが、賀田地区が「
城下
町」の中心であったことは間違いない。,これもまた
城下
町特有の施設で、この地点が賀田「
城下
町」の北の入口だったと思われる。,以上から判断される大浦
城下
町の特徴は、第一に、大浦
城下
を東西に走る百沢街道に沿って細長く町が形成されていたこと,大浦城跡と旧
城下
の賀田地区(平成元年撮影) / 五 大浦城と「
城下
」の構造
通史編2(近世1)
(城下弘前の変化)
城下
弘前の変化 弘前
城下
は時代とともに変化・拡大をしていくが、以下各時期の
城下
絵図を参考に記述していく,一〇六〇人が
城下
を離れたといわれており、そのため
城下
の侍町などに大量の空屋敷が生じ、城内に屋敷をもらっていた /
城下
弘前の変化
通史編1(古代・中世)
(大浦氏の城下町建設の流れ)
大浦氏の
城下
町建設の流れ 大浦氏が津軽地域を掌握するきっかけは、西海岸の掌握と西浜の南方にある安東氏,そしてここは近世の弘前城と弘前
城下
町が建設されていく慶長十六年(一六一一)まで使われていた。 ,このように、大浦氏は中世の戦国時代から近世初頭にかけて城の普請と
城下
町の建設を実に四回も行っていることになる,大浦氏が近世大名に成長していく段階で、どのような考え方でそれぞれの城と
城下
町建設を進めていったのか。,これらのことを念頭に入れながら各時期の大浦氏の城と
城下
町をみていくことにする。 / 大浦氏の
城下
町建設の流れ
通史編1(古代・中世)
(戦国時代の都市(城下町)発生)
戦国時代の都市(
城下
町)発生 都市とは「ある限定された地域に、数多くの人々が居住して、お互いに密接な,土豪層を給人(きゅうにん)として家臣団に編成し、商工業者を誘致して、彼らを領国支配の拠点として建設した
城下
,このように戦国時代の都市(
城下
町)は、領主の居城である「城」を中心として発展したものが多くみられる。,当市域の中世都市の発生をみると、やはり領主(大浦氏)の政策的な考えの中で意図的に
城下
町(都市)が作られていったということができる,大浦(津軽)氏が津軽領域の掌握に向け、拠点として居城した城跡を中心として、城と町、城と
城下
町ということについてみていくことにする / 戦国時代の都市(
城下
町)発生
資料編1(古代・中世編)
(五 堀越城下(都市としての堀越)の構造)
五 堀越
城下
(都市としての堀越)の構造 堀越城の在り方を考える際、重要な問題として城と町場のかかわりがある,先に紹介した「大道小道之帳」でも、「
城下
西より南へ町屋有」との注目すべき記述があった。 ,では、この堀越
城下
町の範囲はどこからどこまでであったろうか。,この東西二つの木戸に守られた地域こそ、かつての「堀越
城下
町」の範囲だったに違いない。,から見た旧羽州街道 図34の堀越
城下
町復元図は、以上の復元作業によって作成した。 / 五 堀越
城下
(都市としての堀越)の構造
通史編3(近世2)
(付図『弘前城下御町絵図』(弘前市立博物館蔵))
付図『弘前
城下
御町絵図』(弘前市立博物館蔵) [付図] 弘前
城下
絵図に、弘前城を象徴的に描いたものは / 付図『弘前
城下
御町絵図』(弘前市立博物館蔵)
通史編3(近世2)
(城下での生活)
城下
での生活 (天和二年)五月二十一日、午前八時前に碇ヶ関を出発し、途中二度休憩をとり正午に弘前城に,今日
城下
の町々へ、各家々で氏神を祭り、八月十五日より八幡祭りを行うようにとの命令が出された。 /
城下
での生活
通史編3(近世2)
((一)治安機構と共同体規制)
そのため
城下
では多くの武家屋敷に空家を生じ、城郭内の武家屋敷に住んでいた家臣はそちらへ移転した。,城内の政庁化が進むと同時に、従来の町人町が武家町に変わり、
城下
の東側に新たに下級藩士を中心とする武家町,
城下
町弘前はその後も拡大はみられるが、藩政期を通じて大きく変貌することはなかったのである。 ,藩では
城下
の形成とともに、犯罪の防止、災害の予防、風紀の乱れの粛正など、治安機構の整備と共同体規制が強化,され、
城下
の秩序の維持が図られた。
通史編2(近世1)
(町役)
町役
城下
に屋敷を持つ町人には、地子銀(じしぎん)・出人足(だしにんそく)(人足役)・時鐘撞茂合(ときかねつきもやい,このうち、屋敷地に賦課された地子銀と出人足は、町役の基幹をなすものであり、弘前
城下
の場合、それらが交互,に実施に移されて町方に賦課された(以下は、長谷川前掲「弘前
城下
について」による)。 ,
城下
建設の時期に、町割りや城普請に人夫が大量に動員されたことが知られるが、成立期の
城下
での町役は、人足役,人足役は、
城下
に屋敷を所持した町人のほか、町方と認定された地域に居住した武家にも賦課された。
通史編2(近世1)
(町方支配)
町方支配
城下
の町方に対する法令が下されたのは、その内容は不明ではあるが、寛文元年(一六六一)閏八月,のことであった(以下は、長谷川成一「弘前
城下
について」同編『弘前
城下
史料』津軽近世史料一 一九八六年 ,そして、その職掌は、主に
城下
の町政を担当し、商業の統制・物価の監督、戸籍調査、犯罪人逮捕の指揮であった,また、他領の
城下
と同じように、町名主と月行事は町役が免除された。,
城下
の治安は、町内ごとに木戸(きど)を設置することで、夜間の出入りの規制・不審者の詮議を行った。
通史編2(近世1)
(町支配の役人)
有力町人)籠(ろう)奉行・籠守・時の鐘撞(かねつ)きで構成されていた(長谷川成一「本州北端における近世
城下
町,万治三年(一六六〇)に召し抱えられたという本城出身の者は細矢といい、この細矢家は、代々出羽国本城(荘)
城下
,弘前の
城下
には、町方支配の任を円滑にこなしうる力量を持った人々が町年寄・町名主などを勤めたと思われる。,日本海沿岸地域の各
城下
町で町支配を担当した人々は、このような支配の技術を持つ集団として、お互いに連絡・つながりがあったと
通史編3(近世2)
(質屋の利用)
質屋の利用 江戸時代を通じて弘前
城下
の質屋の数が、どれくらいあってどのような変遷があったのかはまったく,「文化二年八月改弘前町中人別戸数諸工諸家業総括 全」によれば、
城下
全体で一七軒知られ(前掲『弘前
城下
史料,
城下
の質屋は、生活の苦しさによる藩士の利用が多かったと推定されるが、両者間に問題が多く生じてくるのは天明期
通史編3(近世2)
(幕末期の市域)
これに先立つ文化期では、同四年(一八〇七)に
城下
の町々を一丁目・二丁目に分けることが行われた(前掲『弘前
城下
史料,~四三)の「弘前絵図」(『絵図に見る弘前の町のうつりかわり』一九八四年 弘前市立博物館刊)によれば、
城下
,一方、文久二年の「御
城下
市中大略」によると、幕末の弘前
城下
は次のとおりであった。,千本杉と石森の間、矢場は南溜池沿い新寺町の白狐寺のわき、刑場は富田町の町端取上領にあった(前掲『弘前
城下
史料
資料編2(近世編1)
(【解説】)
【解説】 近世社会では、武士の
城下
集住策の中で、
城下
から農民を排除した行政区画を設定して町方とし、農村,第一節では町方の様子を
城下
の生活と町方支配に分けて構成した。,
城下
の生活では、
城下
弘前を含めた町方全体を統制する藩の法令を掲げた。,次いで、弘前町年寄の松井四郎兵衛の留書の中から、主に
城下
住民の編成の仕方や生活規制、あるいは町方の構成,
城下
の町年寄は松井・松山の両家が勤め、廃藩置県までその職を世襲している。
通史編3(近世2)
((三)住居)
によってまとめられ、さらに軽輩である足軽・小者(こもの)などは武家町から離し、町人町の外側の周辺部分や、
城下
,屋根は避遠の地の
城下
町では、幕末まで茅葺・板葺・藁葺が多かったと思われる。,このような景観は程度の差こそあれ、どこの
城下
でもほぼ共通していた(『生活史』Ⅱ 一九六五年 山川出版社刊,弘前
城下
に配置された武家町は、寛永(一六二四~四四)末年ころの「津軽弘前城之絵図」(弘前市立博物館蔵),その後、
城下
の武家町は、寺社街の移転、町人町の形成、藩政の動向などとの関連で、発展と変遷をたどることになる
通史編3(近世2)
((二)犯罪と刑罰)
(二)犯罪と刑罰 江戸時代の弘前
城下
では、どのような犯罪が起き、それに対していかなる刑罰が科せられていたのか,、次に挙げる判決例(
城下
外の津軽領の判決例をも含む)はその一部分ではあるが、これによって世相の一端を知
通史編2(近世1)
(諸役と運上)
諸役と運上 慶安二年(一六四九)の「弘前古御絵図」によると、
城下
の家業は、鍛冶九一、銅屋二一、大工三九,そして、屋敷持には町役が、町方の商工を営む者には定められた役銀が賦課された(以下は、長谷川前掲「弘前
城下
,このとき、
城下
の麹役についても厳しい統制下にあったことがうかがわれる(同前第三条)。,役高は、造酒役は七両二歩、室屋役は三〇匁、桶屋・染屋は五匁、豆腐屋は
城下
が一五匁で両浜が七匁五歩、質屋,は弘前が一五匁で青森が四二匁、在浦が三〇匁、などであり、
城下
と領内とでは上納高に違いのある職種もあった
通史編3(近世2)
((一)凶作・飢饉とその対策)
この時には
城下
周辺の民が、飢えをしのぐために乞食や非人となって
城下
に入りこんできたのである。 ,このような凶作・飢饉による下層民の
城下
への滞留の状況について、天明期を中心にその様子をみると次のようになる
通史編3(近世2)
(戸口と住民構成)
戸口と住民構成 江戸時代前期における弘前
城下
の人口や住民構成は、武家人口についての記録がなくはっきりしたことはわからない,正保城絵図の下図と思われる寛永末年の「津軽弘前城之絵図」(弘前市立博物館蔵)によれば、
城下
の武家屋敷(,江戸時代後期における弘前
城下
の人口と住民構成は、明和年間(一七六四~一七七一)ころに作成されたと思われる,この時期、弘前
城下
には三万人以上の人々が住んでいたことは間違いない。,では、町方の人数は一万五五六三人となっており、武家人口は不明であるが、天保期から幕末期にかけての弘前
城下
通史編3(近世2)
(盗賊の横行)
「国日記」によれば、小屋から出た一六人は
城下
の町々で悪事を働いたので(具体的な行為は不明。,
城下
・周辺の農村での犯罪は、本節一(二)参照)、縄で縛られ小屋へ引き戻されてきた。,また釈放されて小屋から出た大勢の者が、
城下
の商人の店に立ち寄り、商売物を奪ったり、土手町(どてまち)付近,翌年になっても農村や港町では放火が多く、
城下
では藩士・町人および寺社の蔵へ盗賊が侵入するのが目立ち、飢饉
通史編3(近世2)
(道路の整備)
道路の整備 道路は多少の風雨によっても荒れ、人馬の往来を妨げがちになるために、藩では
城下
のすべての町,以上のことから、
城下
の道路整備は、江戸時代を通じて、平常の年であっても容易に徹底されなかったことがわかる,要するに、
城下
では塵芥捨場を指定して、そこに集めようとしたが必ずしも人々の協力が得られず、塵芥は捨場の,近くか
城下
の各所に捨てられていた。,塵芥の散乱と道路の整備の悪さは、弘前
城下
における公害の一つであったといえよう。
通史編3(近世2)
(西福寺)
「浄土宗諸寺院縁起」は、堀越
城下
に創建し、慶長年間(一五九六~一六一四)に弘前
城下
元寺町の貞昌寺門内に
通史編3(近世2)
(塵芥捨ての実態)
城下
の南にある南溜池(みなみためいけ)には塵芥を捨てないよう、宝永三年(一七〇六)以来再三にわたって触書,天明八年(一七八八)十月には、
城下
の北に位置する神明宮(現市内東城北二丁目)への通りを西から東へ横断して,このような触はたびたび出されており、
城下
に指定された塵芥捨場に正しく捨てることが守られていなかったのである,塵芥捨場の位置が知られる記録は少ないが、塵芥捨場は
城下
を流れる岩木(いわき)川・土淵(つちぶち)川のほとりか,、近くの道路わきに多く設置され、
城下
全体から考えると、地域的なバランスがとれているとはいえないようである
通史編2(近世1)
(天保期の人返し)
天保期の人返し 飢饉で荒廃した農村を立ち直らせるためには、
城下
に流入した飢民を農村に帰らせ、荒廃田の,天明の飢饉の際には天明五年(一七八五)の四月に弘前
城下
の施行小屋が解散され、収容されている飢民約三〇〇,「国日記」天保八年九月七日条(資料近世2No.一三七)によると、弘前
城下
には施行小屋が三ヵ所あり、それぞれに,しかし、冬が来てもまだ袖乞(そでごい)の者は
城下
に多くいたようで、十二月二十七日条(同前No.一三八)
通史編3(近世2)
(飢餓の状況)
飢餓の状況 天明三年の大凶作による飢饉の様子を概観すると、
城下
では毎日七、八人ないし一〇人の餓死者がたちまち,津軽領内における飢餓の実態については、天明三年十月の「国日記」に、
城下
および農村での倒死が最も多く記されている,「国日記」によれば、特に
城下
では飢えた農民や町民が、こみせ(現代のアーケードのような屋根つきの歩道)や
通史編3(近世2)
(諸役と仲間)
諸役と仲間 慶安二年(一六四九)の「弘前古御絵図」(弘図津)によれば、弘前
城下
の町方には多くの家業があったことが,居鯖五一・大工三九・鷹師二九・煙草作り二三・銅屋二一・馬屋と博労一八・鞘師一一である(長谷川成一「弘前
城下
,について」同編『弘前
城下
史料』上 一九八六年 北方新社刊 以下、執筆にあたり多くを同書によった)。,弘前
城下
には居鯖横目(魚屋の商売を監視する役)が四人、両浜(青森と鰺ヶ沢)に四人、十三(現北津軽郡市浦村,
城下
のみならず領内でも有数の有力商人である。
通史編3(近世2)
(町役負担と御用金)
町役負担と御用金 それでは、
城下
の町方そのものが持つ経済力はどうだったのであろうか。,江戸時代前期には表4からわかるように、家持ち町人には
城下
の道普請などに使役される町人足の負担が税として,は町人にとって過重であったらしく、延宝七年(一六七九)「大組頭支配七組分御町役人足出帳」(前掲『弘前
城下
史料,百人小遣になった者は領内村々の出身者が多く、
城下
出身者には町はずれの者が多かった。,この時、
城下
の町方への御用金割当は一三〇〇両であった(同前安永四年六月十七日条)。
通史編3(近世2)
(天徳寺)
「浄土宗諸寺院縁起」は、弘前
城下
形成により、大浦
城下
から元寺町へ移ったとする。
通史編2(近世1)
(大浦城の構造)
図23.大浦城縄張り推定復元図 大浦城の
城下
町は、大浦城の東側(現在の賀田地区)が旧
城下
町であり,ちょうしょうじ)・海蔵寺(かいぞうじ)・隣松寺(りんしょうじ)・明教寺(みんきょうじ)など、後に弘前
城下
,町内を見通せないようにしており、侵入者が城に至る前に町の入口でいったん食い止め、容易に
城下
へ侵入できないような,図24.大浦城・
城下
町跡の航空写真 大浦の地は、津軽氏が戦国期以来南部氏との抗争の過程で、その
通史編2(近世1)
(堀越城の構造)
城域の規模は東西・南北約三五〇メートルで、これに
城下
町の一部を「町曲輪(まちくるわ)」として取り込んだ,図25.堀越城縄張り推定復元図 堀越
城下
町の形態は、羽州街道に沿って両側に町屋が並び、しかもその,この土塁は、
城下
町の入口に設けられた防御施設の名残であり、そこには本来、町の入口として木戸(きど)が置,この東西の二つの木戸に守られた地域こそ、かつての堀越
城下
町の範囲であった。,一方を堀越城の堀、外周を前川や水濠によって囲まれた曲輪であり、大浦城は「城―町曲輪―町」という戦国期
城下
町
通史編3(近世2)
(施行小屋の設置と犯罪防止)
さらに衣服が薄着のため凍死しないようにと、布子(ぬのこ)(木綿の綿入れ)などを藩の御蔵および
城下
・農村,このように、
城下
のみならず、農村などでも袖乞いの者が流浪して盗みなどの行為を働き、社会不安を増大させることのないよう,大飢饉では、農村の下層民(水呑百姓など)はなんとか生き延びるために、他藩領に逃げ出した者以外は、領内の
城下
,彼らは出身地の村の親類・縁者やその村による救済がなければ、
城下
に流入して救済を求めるか、盗みや強盗などの,
城下
に住む下層民(日雇など)も同様に、飢えをしのぐために犯罪を犯さざるをえなかった。
通史編2(近世1)
(寛文十年の情報収集)
寛文九年に得た情報は、いずれも松前
城下
で獲得した、いわば伝聞情報であったが、それに対し、寛文十年に蝦夷地,牧がアイヌから情報を得て帰国したのと前後して、則田安右衛門と唐牛甚右衛門が使者として松前
城下
に派遣された,彼らが得た情報は、上・下蝦夷地への密偵船に関する松前
城下
での風評と松前藩の対応、償いと交易再開をめぐる,・下蝦夷地のアイヌの対応、石狩の地形と石狩アイヌ・ハウカセの動向、交易がとだえて火の消えたような松前
城下
通史編2(近世1)
(近世の十三湊)
近世の十三湊 近世の十三湊(とさみなと)は、弘前
城下
の町年寄を務めた松井家の由緒書などから、安藤氏の,しつつあり、十七世紀の初めには、新たに十三町、十三湊の再建もしくは再興が、領主権力が上方から連れてきた
城下
特権商人
資料編2(近世編1)
(第一節 町方の様子)
第一節 町方の様子 一
城下
の生活 二 町方支配
通史編3(近世2)
(総督軍の集結)
総督軍の集結 さて、奥羽越列藩同盟の力が強まっていた仙台
城下
を脱出した九条道孝ら奥羽鎮撫総督一行は、,秋田
城下
明徳館(めいとくかん)に陣を置いた総督府の中では、会津・庄内討伐に加え、仙台・米沢藩ら新たに朝敵,さらにこの時、仙台藩使者等も秋田
城下
へ訪れており、秋田藩の動向が注目されていた。 ,この秋田藩の藩論決定により、秋田
城下
に滞在していた仙台藩士のうち六人が斬首され、五丁目橋のたもとに並べられた
通史編3(近世2)
(農民と藩士の出会い)
農民と藩士の出会い 弘前
城下
と周辺農村とは在方へ通じる道で結ばれ、農民が
城下
と農村を往復する時には、,○農民が弘前
城下
で藩士と出会った場合 ①農民が重臣はもちろん、一般の藩士に出会った時には、かぶっているものを,②
城下
は人の往来が多いので、馬方一人で数頭の馬を引く時は、藩士に無礼にならないよう充分注意すること。
通史編3(近世2)
(金木屋日記にみえる衣服)
金木屋日記にみえる衣服 この日記の筆録者、武田又三郎敬之(たけだまたさぶろうたかゆき)は、弘前
城下
の,本町(ほんちょう)で質屋・酒屋を経営し、山一金木屋の店名を持ち、
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のみならず領内でも有数の有力商人として,日記を記録し始めたのは、家業の不振から弘前
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の西方賀田(よした)村(現中津軽郡岩木町)へ転居した後のようである,それより以前六月七日には、弘前
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の他家を訪問した際に、絹羽織を着ており、金木屋は家老大道寺や藩の重臣
通史編3(近世2)
(本町の繁栄)
宝暦六年(一七五六)の「本町支配屋鋪改大帳」によると家数は一〇〇数えられ(長谷川成一編『弘前
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史料』,この町呉服店多し、酒肆(しゅし)(酒を売る店)・茶店・洋貨舗等あり」と記されており、本町は
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の代表的商家街,右の二点から、
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第一の商家街である本町が、衰微の状態から活気をとり戻すための藩の対策が知られる。
通史編3(近世2)
(武士に不相応な行為と食料奪取)
)の神源太夫から阿房払(あほうばらい)を申し渡され、ざんばら髪にして刀を取り上げられ、裸足のまま弘前
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,餓死者が増え、毎日七、八人ないし一〇人がたちまち数百人となり、
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に約三メートル四方の穴を七ヵ所掘って,
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および周辺地域でも、このようなことは起こりうる世相であった。
通史編3(近世2)
(博奕の判決例)
そこで、
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で博奕を行った者たちに対する判決例の中で、比較的細かく記されているものを示し、藩の博徒に対,前科一犯の和徳町(わとくまち)の与八(町人と思われるが職業は不明)は、博奕仲間の一人であり、鞭刑三鞭・弘前
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,三里四方追放、鍛冶町(かじまち)の長右衛門(町人と思われるが職業不明)も与八と同じ仲間で、鞭刑三鞭・弘前
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資料編3(近世編2)
(二 人々の生活)
二 人々の生活 (一)絵に見る人々の生活 (二)
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・農村の通行 (三)町・村と商業 (四)防火
通史編2(近世1)
(災害の続発とその影響)
八月に入ると逃散する百姓・町人が相次ぎ、乞食となって領内をさまよい、青森近辺や弘前
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にも姿をみせた。,翌年、
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の大圓寺が亡骸を引き取って寺内に埋め、盆中にその供養を行ったが、その卒塔婆にはおよそ八九〇人,4(1714) 4月13日 火災 深浦 165軒焼失 7月12日 水害 弘前
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,24日 風害 領内沿岸地域 家屋破損,難船多数 享保13(1728) 7月末 水害 弘前
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,大火,焼失家屋409軒など,
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の三分の一が被災 6月29日 水害 岩木川水系流域・外浜
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