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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (堀越城と城下町)

堀越城と城下町 堀越城は、文禄三年(一五九四)に大浦為信が大浦城から堀越に本拠地を移し、慶長十六年(,堀越城下町では前者の考え方を前面に出した城下町づくりが行われたということになる(写真206)。,写真206 堀越城跡航空写真  堀越城下町は大きく分けて四つの町屋から構成される。,そしてこの部分は城下町建設の当初段階には作られていなかったが、のちに拡幅されたと考えられる。,これはたしかに要因の一つとして考えられるが、それよりも弘前城下町の建設が行われた背景には、堀越城と堀越城下町 / 堀越城と城下町
通史編1(古代・中世) (大浦城と大浦城下町)

大浦城と大浦城下町 大浦為信が津軽地方を掌握するための拠点としたのが、鼻和郡大浦を中心とした地域であり,を過ぎ、賀田(よした)字大浦の地内に入る手前で緩く左に屈曲する地点から城下町が始まることになる。,大浦城下町の特徴は、街道に沿った形で両側に「短冊形地割」が設けられていることである。,そのようなことから、計画的な城下町であったというよりも、時代とともに必要に迫られて城下町が膨らんでいったことによる,この部分が城下町建設における中心部であった可能性が高い。 / 大浦城と大浦城下町
通史編1(古代・中世) (大浦氏の城下町建設の流れ)

大浦氏の城下町建設の流れ 大浦氏が津軽地域を掌握するきっかけは、西海岸の掌握と西浜の南方にある安東氏,そしてここは近世の弘前城と弘前城下町が建設されていく慶長十六年(一六一一)まで使われていた。  ,このように、大浦氏は中世の戦国時代から近世初頭にかけて城の普請と城下町の建設を実に四回も行っていることになる,大浦氏が近世大名に成長していく段階で、どのような考え方でそれぞれの城と城下町建設を進めていったのか。,これらのことを念頭に入れながら各時期の大浦氏の城と城下町をみていくことにする。 / 大浦氏の城下町建設の流れ
通史編1(古代・中世) (戦国時代の都市(城下町)発生)

戦国時代の都市(城下町)発生 都市とは「ある限定された地域に、数多くの人々が居住して、お互いに密接な,このように戦国時代の都市(城下町)は、領主の居城である「城」を中心として発展したものが多くみられる。,当市域の中世都市の発生をみると、やはり領主(大浦氏)の政策的な考えの中で意図的に城下町(都市)が作られていったということができる,大浦(津軽)氏が津軽領域の掌握に向け、拠点として居城した城跡を中心として、城と町、城と城下町ということについてみていくことにする / 戦国時代の都市(城下町)発生
資料編1(古代・中世編) (五 堀越城下(都市としての堀越)の構造)

そして、以上のことから、堀越城下町の形態は、羽州街道に沿って両側に町屋が並び、しかもその町並が細長く連,では、この堀越城下町の範囲はどこからどこまでであったろうか。,おそらく、この土塁は、城下町の入口に設けられた防御施設の名残であり、そこには本来、町の入口として木戸が,この東西二つの木戸に守られた地域こそ、かつての「堀越城下町」の範囲だったに違いない。,堀越城下町の内部をさらに二つに区分し、それぞれ「町曲輪」「町」と表現したのは、こうした理由による。
資料編1(古代・中世編) (五 大浦城と「城下」の構造)

したがって、そこには当然、なんらかの都市=「城下町」の発達が見られたに違いない。,これについては、昔から大浦城の東側=賀田地区が旧城下町とされ、明治初年編纂の『新撰陸奥国誌』にも「当時城市全盛,それならば、大浦城の旧城下町とされる賀田地区において、かつての町の姿を復元することは可能であろうか。,これもまた城下町特有の施設で、この地点が賀田「城下町」の北の入口だったと思われる。,、もう一段の飛躍を必要としたことが、復元された「城下町」の姿から分かるのである。
通史編2(近世1) (堀越城の構造)

城域の規模は東西・南北約三五〇メートルで、これに城下町の一部を「町曲輪(まちくるわ)」として取り込んだ,図25.堀越城縄張り推定復元図  堀越城下町の形態は、羽州街道に沿って両側に町屋が並び、しかもその,この土塁は、城下町の入口に設けられた防御施設の名残であり、そこには本来、町の入口として木戸(きど)が置,この東西の二つの木戸に守られた地域こそ、かつての堀越城下町の範囲であった。,一方を堀越城の堀、外周を前川や水濠によって囲まれた曲輪であり、大浦城は「城―町曲輪―町」という戦国期城下町
通史編2(近世1) (町支配の役人)

有力町人)籠(ろう)奉行・籠守・時の鐘撞(かねつ)きで構成されていた(長谷川成一「本州北端における近世城下町,日本海沿岸地域の各城下町で町支配を担当した人々は、このような支配の技術を持つ集団として、お互いに連絡・つながりがあったと
通史編2(近世1) (大浦城の構造)

図23.大浦城縄張り推定復元図  大浦城の城下町は、大浦城の東側(現在の賀田地区)が旧城下町であり,図24.大浦城・城下町跡の航空写真  大浦の地は、津軽氏が戦国期以来南部氏との抗争の過程で、その
資料編1(古代・中世編) (はじめに)

もっとも、城下町弘前が営まれたのは近世初頭のことであり、弘前城築城以前の金石資料の数は少ない。,たとえ残されていたとしても、城下町形成後に他から移されたものがほとんどである。
通史編5(近・現代2) (見直したい弘前市の記録)

見直したい弘前市の記録 みちのくの小京都と呼ばれる城下町であることから、弘前市には古い和風建築が立ち,弘前市が城下町であることは、町名が弘前藩時代の伝統を残し、現在も市民に親しまれていることでわかる。,鍛冶町をはじめ、代官町、桶屋町、百石町、親方町、紙漉町、紺屋町、若党町、五十石町、元大工町、元寺町など、城下町,した標柱を市内該所に設置し、市民の意識向上を促すとともに、観光客の便宜にも供しているが、その標柱自体が城下町
通史編1(古代・中世) (藤崎城と中世都市)

藤崎城と中世都市 戦国期の城下町ということでみるならば、藤崎町の城下町も津軽地域における特異な手法によって,このような作りの街路は、戦国期城下町に特徴的に見られる「カギ型街路」の形態を示している。,このことは藤崎城を管轄していた権力者が、種里や大浦・堀越といった大浦氏の城下町建設の発想とは異なった、
資料編3(近世編2) (はじめに)

特に、二代信枚のころは、弘前城郭の建設とともに城下町の建設が行われ、城下町鎮護のための寺社の整備も急がれたようであった
通史編2(近世1) (天明三年に頻発した騒動)

直前、天明三年(一七八三)七月、津軽領では、藩最大の湊町であった青森をはじめとして弘前・鰺ヶ沢などの城下町
通史編5(近・現代2) (一 津軽地域の中核都市弘前の財政)

一 津軽地域の中核都市弘前の財政 藩政期より弘前は城下町であり、近代になっても津軽地域の中核都市と位置
通史編3(近世2) ((一)治安機構と共同体規制)

城下町弘前はその後も拡大はみられるが、藩政期を通じて大きく変貌することはなかったのである。  
通史編4(近・現代1) (軍都以前の弘前市)

もちろん藩政がしかれていた時代に、弘前は弘前藩の城下町として栄え、多くの武士が存在していた。,けれども元来が城下町だった弘前には多数の士族が集まっており、明治政府の諸政策に対する不平・不満が集中していた
資料編1(古代・中世編) (一 堀越城の立地と現状)

城域の規模は東西・南北約三五〇メートルで、これに城下町の一部を「町曲輪」として取り込んだ規模の大きな城郭,それゆえ、堀越城及び堀越城下町の実像の解明は、近世大名津軽氏の権力の形成と、津軽地方における中世から近世
資料編1(古代・中世編) (三 堀越城「縄張り」の復元)

堀越城の旧状復元に当たっては、地表からの表面観察に加えて、次の諸資料を用い、縄張り図の作成及び「城下町
通史編2(近世1) (土着策と弘前城下)

したがって、これによって城下町弘前の性格や景観は大きく変容することとなった。,つまり、城下町に残された家臣は上級家臣のごく一部と下級家臣のみとなった。,出され(資料近世2No.六六)、一定の商家戸数以外の小商人を「潰家業(つぶれかぎょう)」とするなど、城下町弘前,藩士が農村部に在宅せざるをえない状況を作り出す潰町政策によって、城下の景観は大きく変容したのであり、城下町,母屋三〇坪 一〇〇石  母屋二五坪 五〇石 母屋二〇坪 右以下一統 以上の一三町を「禄定町」として城下町再編
資料編1(古代・中世編) (三 大浦城「縄張り」の復元)

資料(1)イは、大浦城の東、賀田地区にあったという「城下町」を復元する手がかりとなる。
通史編3(近世2) (近世漆工芸の発展)

城下町弘前の漆工芸もこのような時代背景をもとにして展開された。
資料編1(古代・中世編) (一 はじめに)

文禄三年(一五九四)、津軽為信は、それまでの本拠・大浦城から堀越城に移り、ここを津軽領国支配の拠点として城下町,城下町弘前の歴史はここに始まる。,さらには、地域内の城館相互の関係をとらえ、戦国大名の領国支配の在り方を究明する仕事や、「戦国城下町」復元
通史編5(近・現代2) (明治時代の柔術)

明治維新後、明治四年(一八七一年)七月、廃藩置県により弘前に置かれた県庁は、青森に移ったものの、城下町
通史編2(近世1) (由緒書から)

十三湊へ商船乗廻を行い、天文十三年(一五四四)に津軽に移住したという(長谷川成一「本州北端における近世城下町
通史編4(近・現代1) (藩祖の銅像)

この銅像は旧城跡たる弘前公園を飾り、城下町弘前の象徴ともなって永く市民に親しまれ、この地を訪れた人々の
通史編3(近世2) (二代信枚)

二代信枚 信枚は、慶長十五年(一六一〇)に高岡(たかおか)(現弘前市)に築城を開始すると、城下町形成,信枚は、由緒ある寺社を取り立てて保護を加える一方、城下町形成に当たって寺社を移動させ、それまで寺社が持
通史編2(近世1) (伏見滞在と派閥抗争)

図39は、慶長元年の大地震後に築城された伏見木幡(こはた)山城とその城下町絵図である。,部分には「津軽越中守(えっちゅうのかみ)」、図40Cの部分には「津軽右京亮」の文字がみえ、津軽氏が伏見城下町,のことであり、「津軽越中守」は為信の三男信枚(のぶひら)のことであるとされており、津軽氏は親子で伏見城下町,図39.伏見城および城下町図 図40A.津軽右京亮の屋敷 図40B.津軽越中守の屋敷,」「南部中務少輔」は南部氏のだれか不明であるが、「南部大膳大夫」は南部信直のことであり、南部氏も伏見城下町
資料編1(考古編) (刊行のことば)

以来、津軽弘前藩の城下町・津軽地方の中核都市として、麗峰岩木山を仰ぎ、清流岩木川とともに三百八十余年の
通史編4(近・現代1) (女学生の風俗)

とにかくこうして「エビ茶式部」が旧城下町の古来の女子風俗を変える第一歩ともなったのである。  
通史編5(近・現代2) (書の伝統)

書の伝統 弘前は、津軽十万石の城下町ゆえ、書の伝統のある町である。
通史編2(近世1) (青森以外の町の騒動)

えた八戸でも「大南(部脱)野辺地一揆、津軽、青森一揆の書付参候而大に驚、風説まち/\なり」と、動揺する城下町人
資料編1(古代・中世編) (五 縄張りからの問題点)

このほかにも、戦国時代の石川「城下町」の復元などが残された問題は多いが、今後の研究課題としたい。
通史編3(近世2) ((三)住居)

屋根は避遠の地の城下町では、幕末まで茅葺・板葺・藁葺が多かったと思われる。
資料編1(古代・中世編) (一 大浦城の立地と現状)

大浦城の周辺(旧城下町地区) 百沢街道と大浦城の大手 大浦城の城下,賀田地区 図
通史編4(近・現代1) (呑気(のんき)倶楽部)

呑気(のんき)倶楽部 明治の末ごろの弘前は、まだ封建的で堅苦しい城下町であり、花見で騒ぐということは
通史編5(近・現代2) (前川設計建築群)

また、市立博物館からは外壁を煉瓦様タイルで飾るという手法がとられ、ここに用いられた深みのある煉瓦色が城下町
通史編5(近・現代2) (弘前市の合併と農業)

昭和三十年の国勢調査では、第一次産業従事者は五二・五%と過半数を占めるようになり、弘前市は城下町の商業都市
通史編3(近世2) (弘前藩の出兵)

彼らは七月二十八日に秋田の城下町へ到着(同前)。
通史編2(近世1) (津軽地域の確保と蝦夷荒)

蝦夷荒(えぞあれ)」(アイヌとの対立・抗争)の危機に直面していたという(長谷川成一「本州北端における近世城下町
通史編4(近・現代1) (理髪床・銭湯)

することは、当時としてはなかなかの決心が要るはずで、江戸で暮らしただけに身についた彼女の進歩主義も、この城下町
通史編3(近世2) (藩政前期為信)

文禄三年(一五九四)居城を大浦(おおうら)より堀越(ほりこし)へ移し、城下町の形成に着手し、寺社をその
通史編2(近世1) (上層農民・在方商人の伸長と藩政の動向)

不作によって御蔵納米が大いに不足し、皆無作の村々への種籾や御救米の支給で財政面で困難をきたしたとして、城下町人
通史編3(近世2) (宝暦期の城下)

ここに、弘前城内は政務機関の所在地となり、城下は武家地と町方、寺社地に区分される典型的な城下町の景観を
通史編5(近・現代2) (和徳村との合併問題)

弘前市は城下町だったため、城下を中心に街が形成されており、その中心は弘前城周辺、とくに土手町界隈だった
通史編4(近・現代1) (弘前高等女学校の開校)

封建的な城下町である弘前市民がこれを黙っているはずがありません。
通史編1(古代・中世) (種里城と町)

さらにその短冊形地割の北側にも不正形ながら短冊形地割がみられることから、さほど大きくはないが戦国城下町
通史編3(近世2) (弘前市内寺院所蔵の彫刻・絵画)

城下町として生まれた弘前としては自然なことかも知れないが、寺々の弘前移転以前からの仏像と確認できるものは
通史編4(近・現代1) (開化思潮の影響)

珍しい新風俗に好奇心を寄せながらも、世の開化に伴う新風の流行を快く思わぬ保守的な傾向も城下町だけに相当
通史編2(近世1) (青森町の成立と青森開港)

また右の町づくりの下命のほかに、外浜中の商人船を青森へ集中させ、高岡(たかおか)(当時の弘前の地名)の城下町,このように青森の都市形成は藩主導でなされ、城下町高岡と同様の特権を町人へ認めることで、町方の建設をさらに
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