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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(勤務の状況)
城代
(じょうだい)(藩主が軍を出した場合に、留守して国城を守る武官)が出仕および御用あるときは、組頭は,藩主が他出する際の留守は、寺社へ参詣の場合、当番の用人が勤め、一日中他出の場合、午後二時ころまで
城代
が,さらに遠方へ一泊以上の留守の場合、午後二時より翌朝八時まで
城代
が、午前八時より午後二時までは留守居組頭,(番方の武官で、藩主の留守中、
城代
の命を受けて城内を守衛する)が勤める。,これらの場合に、
城代
・留守居組頭は梅ノ間御次ノ間西側で、用人は御用座敷で勤務する。
資料編1(古代・中世編)
((1)立地と遺構の現状)
『津軽一統志』「関家文書」は、館主を関惣右衛門としているが、彼が「十二人屋形城衆」の中の「
城代
」とされることから
通史編3(近世2)
(参勤の準備)
津軽玄蕃(げんば)を
城代
(じょうだい)に命じ、不在中の警備の責任者とする。
通史編3(近世2)
(盛岡藩の参戦)
また十四日には装備の手薄な大館
城代
佐竹大和へ鉄砲一〇〇挺・弾薬一万発の差し入れなども行った(同前)。,大館
城代
佐竹大和は銃砲隊を編成して盛岡藩の来襲に備えたが、こちらも激しい攻防が繰り広げられた。
通史編1(古代・中世)
(為信の離反)
このときは「大光寺之勢以ての外強く、大浦殿漸帰り候」というが、翌年正月には再度大光寺城を攻め、
城代
瀧本重行
通史編1(古代・中世)
(支城の城館跡)
関惣右衛門は「十二人屋形城衆」の中の「
城代
」とされていることから、国吉館跡が大浦城周辺の中世城館跡の中
資料編1(古代・中世編)
((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)
石川・大鰐一帯の地は軍事的緊張が続いたため、為信は、戦略的要地である石川城を重視して、重臣板垣兵部を
城代
,その後、石川城は板垣兵部が
城代
のまま近世を迎えるが、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いに際して、兵部は
資料編1(古代・中世編)
(一 東目屋地区の中世城館と領主の歴史)
このうち、①②は東目屋地区、③④は西目屋地区の大字名を名字としており、⑫の関惣右衛門は「
城代
」として、
通史編3(近世2)
(出発)
家老・用人・
城代
が御目見(おめみえ)し、続いて山水ノ間・梅ノ間・浪ノ間で次々と重臣が御目見する。,玄関より出る時は、玄関下座敷西の方に家老、同東の方に
城代
、その後に用人が控え、さらに白砂東の方に大目付
資料編1(古代・中世編)
(二 乳井茶臼館の歴史)
天正四年以後は大光寺
城代
となって、慶長四年(一五九九)までこの城に駐屯した。
通史編1(古代・中世)
(東目屋地域に見られる城館跡)
関惣右衛門は「
城代
」として、深浦町の関(折曽の関)と東目屋の国吉(くによし)に居館を持っていたと伝えられている
通史編1(古代・中世)
(合戦の方法)
さらに天正四年(一五七六)正月元旦に、大浦為信は大光寺城を攻撃し、
城代
の瀧本重行(たきもとしげゆき)は
通史編2(近世1)
(九戸一揆の始まり)
また、これより先の天正十八年三月、大浦(津軽)為信が南部家からの独立を図り、浪岡(なみおか)城を囲み
城代
楢山帯刀
通史編3(近世2)
(礼服)
藩主の留守中、
城代
(じょうだい)の命を受けて城中を守衛する)、常服半袴(御中小姓(おんちゅうこしょう)
通史編2(近世1)
(津軽領内のアイヌ民族)
積み出される米および酒については、青森
城代
ないし青森町奉行の差紙が搬出の必要条件であった。
資料編1(古代・中世編)
([十六世紀])
●永禄年間末ごろ、このころ、瀧本播磨守重行、大光寺城
城代
となるという。,●天正二年(一五七四)三月、大光寺
城代
瀧本重行、乳井福王寺玄蕃を謀殺するという。,●天正四年(一五七六)正月、大浦為信、大光寺城を攻略し、
城代
瀧本重行は南部へ退去するという。
通史編2(近世1)
(「出頭人」の台頭)
しかし、三人の持つ番方の地位は取り上げられず、また、渡辺は翌年正月十一日には
城代
に新任されている。
通史編2(近世1)
(支配機構の整備)
いわゆる青森
城代
の創設である。
通史編2(近世1)
(寛文蝦夷蜂起と津軽弘前藩)
三隊の指揮者はいずれも家老・
城代
であり、この出兵構想は、領知高四万七〇〇〇石の同藩の総力を挙げた、独自
通史編3(近世2)
(第一次藩政改革と特色)
それと比較すれば、この改革では組織の整理が大胆に進められ、
城代
家老を筆頭とする七四の役職も廃止されて、
通史編2(近世1)
(越後高田領検地の実施)
また、家老津軽政朝・津軽政実・津軽政広三人の連名で国元の
城代
渡辺政敏に宛てた書状(三月晦日付)で、高田
通史編3(近世2)
(二 藩主の日常生活)
その後に家老・
城代
(じょうだい)(戦いの時、留守して国・城を守る任務)より歳暮の礼を受ける。
資料編1(古代・中世編)
(第一章 綱文・史料一覧)
…………………… 種里八幡宮棟礼 308 ●永禄年間末ごろ、このころ、瀧本播磨守重行、大光寺城
城代
となるという,… 聞老遺事・石井三庵政満覚書・祐清私記 314 ●天正二年(一五七四)三月、大光寺
城代
瀧本重行、乳井福王寺玄蕃,……………… 信長公記・公卿補任 318 ●天正四年(一五七六)正月、大浦為信、大光寺城を攻略し、
城代
瀧本重行
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