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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(自然・原始)
(城西面)
城西
面 谷底平野として、おもに岩木川および平川の流域に帯状に分布する。,
城西
小学校および第二中学校⑳(三三メートル)でのボーリング資料をみると、最上部に薄い細粒砂層を挟む灰白色 /
城西
面
通史編4(近・現代1)
(城西小学校創立)
城西
小学校創立 下町学聯区が袋町に設置した自彊小学は十四年四月十日焼失した。,建築に要する費用の問題も片づき、校名として「
城西
」と「山水」が挙げられた。,「
城西
」は下町地域が旧弘前城の西に位置するところから、また、「山水」は地域を流れる岩木川と、眺められる,岩木山を組み合わせたと思われるが、結局校名は
城西
小学校に決定し、十六年十月一日、五十石町(現市民体育館敷地,下町学区 一 鷹匠町、馬屋町、西大工町、新町、駒越町、平岡町、紺屋町、浜ノ町、袋町、○五十石町
城西
/
城西
小学校創立
通史編4(近・現代1)
(城西小野球部全国大会出場)
城西
小野球部全国大会出場 大正十四年(一九二五)八月、
城西
小学校野球部は弘前で初めて全国大会に出場した,出場チームは市内六小学校で、第一回戦は朝陽対和徳、時敏対二大、一大対
城西
が戦ったが、和徳、二大、
城西
の,、二大と
城西
で争われた。,両校相譲らず息詰まる投手戦を展開したが、
城西
が一対〇で勝利を得た。 ,全国大会出場の
城西
小学校野球部の指導監督は同校訓導成田敏衛。 /
城西
小野球部全国大会出場
通史編5(近・現代2)
(城西小学校情緒障害学級)
城西
小学校情緒障害学級 昭和四十八年(一九七三)四月、
城西
小学校に弘前市最初の情緒障害学級が開設された,
城西
小学校の情緒障害学級は四十七年四月に設置が内定、担任として熊谷公秀教諭が当たり、同教諭は四十七年六月 /
城西
小学校情緒障害学級
通史編4(近・現代1)
(第一回少年野球大会)
名誉会長は石郷岡文吉弘前市長、副会長は外崎日出城
城西
小学校長、事務局長は今泉運動具店の原田健蔵が就任した,翌四日は、朝陽対時敏、
城西
対富田(清水村富田小学校)の二試合が行われたが、少年野球の人気ものすごく、会場,第二試合の
城西
対富田は両軍の技量伯仲、ことに富田校は最終回一点差に追い上げたが、
城西
校よく防いで七対六,のスコアで
城西
校が勝利を得た。 ,試合のスコアを見ると両軍合わせて盗塁二九、
城西
の三振一二、また、
城西
が無安打で四点入れていることなどから
通史編5(近・現代2)
(西小学校の創設)
西小学校の創設 昭和四十年、弘前市は三ヵ年計画で、市内樋の口地区に広さ四一・二ヘクタールの
城西
団地を,団地の戸数一四〇〇戸、その子弟はすべて
城西
小学校に入学した。,初代校長相馬斉、職員は校長ほか一九人、一四学級編成で児童数五六三人、うち五〇〇人は
城西
小学校から転校したもの,しかし、校舎が未完成のため、三学年以上は
城西
小学校校舎を借用し、一、二学年だけを新校舎に収容した。,同時に
城西
小学校を借用の三学年以上を新校舎に移し、ここで全学年が揃うことになった。
通史編5(近・現代2)
(東奥義塾幼稚園)
東奥義塾幼稚園 四十四年(一九六九)四月四日、
城西
四丁目二番地九に私立東奥義塾幼稚園が開園された。,学校法人東奥義塾が、新しく造成された
城西
団地住民のために設立したもので、三学級、教職員四人で発足、初代園長
通史編5(近・現代2)
(盲聾学級の設置)
盲聾学級の設置 昭和二十三年十二月一日、
城西
小学校に盲聾学級が併設された。,市では盲聾教育に経験のある柴田貞次郎教諭を同年九月十四日付で
城西
小学校に迎え、学級開設準備に当たらせた,
城西
小学校盲聾学級はこうして発足したが、最初は教具教材等も不足で、指導教員の苦労は大変だった。,昭和二十五年四月一日、
城西
小学校盲聾学級は一校として独立し、弘前市立盲学校・聾学校となった。
通史編4(近・現代1)
(初めてストーブを使用)
ストーブ使用に関して『東奥日報』は「十二年度現在、高小六、朝陽九、時敏九、第二大成九、和徳六、第一大成六、
城西
六,を備え付け、十三年度に於て更に朝陽、時敏、第二大成は六個宛、高小、和徳、第一大成、
城西
は四個宛、此の予算千三百六十円
通史編1(自然・原始)
(湯口面)
高度は五〇~六〇メートルであり、開析度が小さく岩木川に向かって一〇〇〇分の一〇とやや傾斜しているが、
城西
面
通史編5(近・現代2)
(土地区画整理事業)
土地区画整理事業 (単位:ha,人) 地区名 事業主体 事業年度 施行面積 計画人口 整備済
城西
,個人 S40~S43 41.2 3,900
城西
第2 組合 S44~S46 7.2 650 城東 〃
通史編5(近・現代2)
(統合計画の達成)
第二中学校は藤代中学校と統合のため校舎を五十石町の
城西
小学校舎に移転、新校舎建設促進委員会を発足させ、
通史編4(近・現代1)
(学校看護婦の配置)
一七二 第一大成 一二二 五 五 一一二 六 一一六 第二大成 二四四 二八 四七 四八 三 二四一
城西
尋常,一三 三七 四 六二 『東奥日報』大正六年九月三日付 (備考)所轄外へ移転は弘前高等一、時敏尋常二、
城西
尋常三
通史編5(近・現代2)
(第一回小学校連合体育大会)
参加小学校は朝陽、第一大成、第二大成、和徳、時敏、
城西
、桔梗野、附属の八校で、参加児童は五・六年生男女二,連合体育大会の開催は、市内八校の保健関係教員の集まりで話題となり、熊谷修吾
城西
小学校教諭が中心となって
通史編5(近・現代2)
(青年学校就学の義務制)
青年学校就学の義務制 弘前市は、市内六校(朝陽、一大、二大、和徳、時敏、
城西
)に設置されていた青年訓練所
通史編5(近・現代2)
(市村合併後のPTA)
昭和三十年三月弘前市と中津軽郡一一ヵ村の合併に伴い、市連PTAも中郡連合PTAの大部分と合併し、三十年七月三日
城西
小学校
通史編5(近・現代2)
(学校給食とPTA)
学校給食とPTA 戦後、弘前市で学校給食が実施されたのは昭和二十二年一月からで、一大、二大、和徳、時敏、
城西
通史編5(近・現代2)
(時敏小学校焼失)
尋常科第一・二学年-和徳小学校、第三・四学年-朝陽小学校、第五・六学年-
城西
小学校。
通史編1(自然・原始)
(市街地の地形区分)
にかけて開析扇状地の北縁を大きく湾曲する形で浸食し、比高一五~三〇メートルもある急崖で谷底平野に位置する
城西
地区,して、上位から桔梗野面・松原面・原ヶ平面・城東面(高杉面)・広野面・境関面・湯口面・清野袋面・駒越面・
城西
面
通史編5(近・現代2)
(独立校舎への夢)
最終的には誓願寺北東地域(現
城西
小学校)に絞って交渉に当たった。
通史編5(近・現代2)
(PTAの発足)
二十三年十月二十七日
城西
小学校で開催された「PTAスクール」は、県教育委員会との共催であったためか、参加者
通史編5(近・現代2)
(新学制実施準備協議会)
時敏・和徳部内の生徒を収容、一年七学級、二年五学級、三年一学級 ・第二中学校-商工学校校舎を使用、
城西
部内及
通史編3(近世2)
((三)住居)
弘前市立博物館蔵)と、慶安二年(一六四九)ころの「弘前古御絵図」(弘図津)によれば、弘前城を中心として、
城西
通史編4(近・現代1)
(市制施行と小学校)
弘前市第一学区(朝陽)、弘前市第二学区(大成)、弘前市第三学区(和徳)、弘前市第四学区(時敏)、弘前市第五学区(
城西
通史編4(近・現代1)
(試験法と地方集合試験)
亀甲町にあり、現時敏小前身 白疆 一〇七 八七 二〇 五、三五 八、七〇 八一・三〇 袋町にあり、現
城西
小前身,博習 二〇四 一三八 七〇 一〇、二〇 一三、四〇 六七・六四 鷹匠町にあり、現
城西
小前身 木別 二三
通史編5(近・現代2)
(新制中学校の開校式)
時敏小学校に設置 和徳小 3 五〇 第二中学校 工藤秀俊 一三 1 一六三 七 弘前市蔵主町四
城西
小
通史編4(近・現代1)
(弘前市学区会の廃止)
各学区とも区会を開いて協議したが、第一区(朝陽)、第三区(和徳)、第五区(
城西
)は廃止賛成、第二区(大成
通史編4(近・現代1)
(細民救済対策事業)
第二大成尋常小学校 一八三名 和徳尋常小学校 一六八名 時敏尋常小学校 一一五名
城西
尋常小学校
通史編5(近・現代2)
(一 小学校教育)
三〇 一四一五 二六 26 小学校 時敏 元寺町八三 竹谷良吉 二八 一二七二 二四 27 小学校
城西
通史編5(近・現代2)
(学校建築・公共的建築)
のころは民家の借り上げによって設置され、その後明治十一年(一八七八)に朝陽小学校、明治十六年(一八八三)に
城西
小学校
通史編5(近・現代2)
(生活道路の計画)
が進んだ昭和五十八年度には、新たに市の西部方面から市街地中心部に向かう際の交通渋滞の緩和を図るため、
城西
団地,⑥都市計画街路三・四・六号は、茂森町から
城西
団地中央幹線道路交差点までの一〇八〇メートルを事業区間とし
通史編3(近世2)
(館神)
その後、弘前
城西
の郭に移り、昭和五十一年(一九七六)、弘前八幡宮境内へ移転した(篠村正雄「弘前城の館神
通史編1(自然・原始)
(清野袋面)
等高線は下流側へやや凸状の配置をなし、後背湿地とは多少の高度差が認められる程度であるが、現氾濫原である
城西
面
通史編3(近世2)
((三)住居)
城西
―荒町(あらまち)(後に新町)・本紺屋町(もとこんやまち)・紺屋町(両紺屋町は後に新町・袋町(ふくろまち
通史編3(近世2)
(寛政期の城下)
同五年の「御家中潰(つぶれ)町之事」(前掲『弘前城下史料』上)によれば、城南では在府町後通りと同新割町、
城西
通史編5(近・現代2)
([口絵])
62 昭和40年代 口絵63 昭和50年代 †昭和後期グラフィティ† 口絵64
城西
団地完成
通史編5(近・現代2)
(藤森市政の財政)
そのため四十一年度から
城西
団地の造成が、四十五年度からは小沢団地(現桜ヶ丘団地)の造成が、青森県住宅供給公社,図4
城西
団地完成イメージ図 ③弘前駅舎の新築 弘前駅舎の新築は四十三年度から検討されるが
通史編5(近・現代2)
(空襲を受けなかった弘前市)
その内訳は、時敏校が一〇個、朝陽校が一五個、
城西
校が一〇個、第二大成校が一七個、第一大成校が一八個、和徳校
通史編1(自然・原始)
(三 津軽平野南部の地形発達)
そして、谷底平野としての
城西
面が岩木川流域などに形成されていった。
通史編5(近・現代2)
(小売業の動向)
後背地に
城西
団地を抱えているにもかかわらず、商店街利用ははかばかしくない。
通史編2(近世1)
(城下弘前の変化)
駒越町や西大工町・平岡町などの
城西
地区の町割りが拡大した。
年表・索引編
([弘前市の人口の推移])
の一部が分市 40年(1965) 151,624人 41年(1966) 153,221人
城西
団地竣工
通史編5(近・現代2)
(金属団地の建設)
2 6 5 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
城西
熔接工業所
通史編2(近世1)
(関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)
五大老の一人であった家康は、慶長五年六月六日に諸大名を大坂
城西
丸に集めて、諸大名の会津攻めを命じた。
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