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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (城西小学校創立)

城西小学校創立 下町学聯区が袋町に設置した自彊小学は十四年四月十日焼失した。,するところから、また、「山水」は地域を流れる岩木川と、眺められる岩木山を組み合わせたと思われるが、結局校名は城西小学校 / 城西小学校創立
通史編5(近・現代2) (城西小学校情緒障害学級)

城西小学校情緒障害学級 昭和四十八年(一九七三)四月、城西小学校に弘前市最初の情緒障害学級が開設された,城西小学校の情緒障害学級は四十七年四月に設置が内定、担任として熊谷公秀教諭が当たり、同教諭は四十七年六月 / 城西小学校情緒障害学級
通史編5(近・現代2) (西小学校の創設)

団地の戸数一四〇〇戸、その子弟はすべて城西小学校に入学した。,初代校長相馬斉、職員は校長ほか一九人、一四学級編成で児童数五六三人、うち五〇〇人は城西小学校から転校したもの,しかし、校舎が未完成のため、三学年以上は城西小学校校舎を借用し、一、二学年だけを新校舎に収容した。,同時に城西小学校を借用の三学年以上を新校舎に移し、ここで全学年が揃うことになった。
通史編4(近・現代1) (城西小野球部全国大会出場)

城西小野球部全国大会出場 大正十四年(一九二五)八月、城西小学校野球部は弘前で初めて全国大会に出場した,十四年七月十二日北奥羽予選は弘前市南塘球場で開催され、出場チームは盛岡市城南小学校、青森市莨町小学校、城西小学校,この城西小学校の勝利は、本市小学校の野球チームが他県チームを破った最初の出来事として、まさに記念すべき,全国大会出場の城西小学校野球部の指導監督は同校訓導成田敏衛。,同年四月城西小学校訓導に就任して、昭和十三年まで二二年間勤続、その年退職して満州に渡り、教育行政に当たった
通史編5(近・現代2) (盲聾学級の設置)

盲聾学級の設置 昭和二十三年十二月一日、城西小学校に盲聾学級が併設された。,市では盲聾教育に経験のある柴田貞次郎教諭を同年九月十四日付で城西小学校に迎え、学級開設準備に当たらせた,城西小学校盲聾学級はこうして発足したが、最初は教具教材等も不足で、指導教員の苦労は大変だった。,昭和二十五年四月一日、城西小学校盲聾学級は一校として独立し、弘前市立盲学校・聾学校となった。
通史編1(自然・原始) (城西面)

城西小学校および第二中学校⑳(三三メートル)でのボーリング資料をみると、最上部に薄い細粒砂層を挟む灰白色
通史編5(近・現代2) (統合計画の達成)

第二中学校は藤代中学校と統合のため校舎を五十石町の城西小学校舎に移転、新校舎建設促進委員会を発足させ、
通史編4(近・現代1) (第一回少年野球大会)

名誉会長は石郷岡文吉弘前市長、副会長は外崎日出城城西小学校長、事務局長は今泉運動具店の原田健蔵が就任した,決勝戦は、十三日午後二時半から第二大成小学校校庭において、第一大成小学校と城西小学校によって争われた。
通史編5(近・現代2) (市村合併後のPTA)

昭和三十年三月弘前市と中津軽郡一一ヵ村の合併に伴い、市連PTAも中郡連合PTAの大部分と合併し、三十年七月三日城西小学校
通史編5(近・現代2) (時敏小学校焼失)

尋常科第一・二学年-和徳小学校、第三・四学年-朝陽小学校、第五・六学年-城西小学校。
通史編5(近・現代2) (独立校舎への夢)

最終的には誓願寺北東地域(現城西小学校)に絞って交渉に当たった。
通史編5(近・現代2) (PTAの発足)

二十三年十月二十七日城西小学校で開催された「PTAスクール」は、県教育委員会との共催であったためか、参加者
通史編5(近・現代2) (学校建築・公共的建築)

のころは民家の借り上げによって設置され、その後明治十一年(一八七八)に朝陽小学校、明治十六年(一八八三)に城西小学校
通史編5(近・現代2) (第一回小学校連合体育大会)

連合体育大会の開催は、市内八校の保健関係教員の集まりで話題となり、熊谷修吾城西小学校教諭が中心となって
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