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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (堀越城の限界性)

堀越城は、堀・土塁・塀という設備によって防御すると同時に、重臣の城郭内への取り込み、武器・弾薬の所有を,また、町人・百姓による城郭の警備も非常事態の時の防御機能として組み入れられていた。,しかし、一旦ことが起これば容易に城が陥落し、さらに町人・百姓らの城郭立ち入りが行われることからして、その,浅瀬石川・平川に囲まれた地帯へ津軽氏が進出する拠点として、政治的・経済的な側面に重点を置いて設置され、近世城郭,この城郭の軍事面と家臣団統制の強化のため、為信は早くも慶長八年(一六〇三)、高岡(弘前)の地に町屋の屋敷割
資料編3(近世編2) (はじめに)

はじめに 近世になって城郭が形成されていった弘前では、数多くの寺社がいっきに建立され、それがまた、よく,どこの藩でもそうであったように、弘前藩においても、その初期においては、城郭を始め、まことに多くの建造物,特に、二代信枚のころは、弘前城郭の建設とともに城下町の建設が行われ、城下町鎮護のための寺社の整備も急がれたようであった,城郭外の寺社建築の様子を眺めても、慶長十七年(一六一二)の弘前八幡宮、慶長十八年(一六一三)の熊野奥照神社
資料編1(古代・中世編) (一 はじめに)

弘前周辺では南北両党の激戦が繰り広げられ、大光寺楯・石川楯・船水楯・新里楯・堀越楯・小栗山楯など、数多くの城郭,だが、かつての中世城館研究の大部分は、いわば〝城主の歴史〟の研究であって、城郭自体の構造的な特徴や、城館,そうしたなかで、中村良之進や沼舘愛三は、この地域の城郭遺構を実測し、図面化して、城郭の構造を分析する作業,それをもとに城郭の詳細な平面図=「縄張り図」を作成し、この図から城の構造や機能を読み取るという作業が行,そして、この方法によって、城郭の様々なタイプや、領主の権力構造を究明することも、可能になったのである。
資料編1(古代・中世編) (五 堀越城下(都市としての堀越)の構造)

囲まれた曲輪状の地域であり、しかも、それぞれ城の大手虎口や曲輪Ⅰ(本丸)に直接面するという、防衛上、城郭内,これまでの中世都市研究によって、戦国時代の城下町においては、一般に、①城郭、②「町曲輪」「町構」「外構,」「宿城」などと呼ばれる城郭の一部に取り込まれた町並み地域、③その外側の「町」「宿」の地域、の三重構造,なお、城郭に隣接する「町曲輪」地区は、堀h2から西に続く水濠によって、さらにⅠ・Ⅱの二つの地区に分離されていた
通史編1(古代・中世) (城館調査の今後)

その調査結果によると、弘前城移封までの津軽氏本拠として、数時期にわたる城郭の改修、総構(そうがまえ)的,な城郭構造の想定、さらに出土遺物による居住時期の特定など、順次成果が出てきている。  
通史編2(近世1) (城破(わ)り)

とざわみつもり)に対しても城の破却が命じられている(以下の記述は、小林清治『秀吉権力の形成―書札礼・禁制・城郭政策,であるが、「津軽徧覧日記」の「古城・古館之覚」によると、領主が不明なもの・伝説的なものを含め、七六の城郭,大光寺・浪岡・浅瀬石(あせいし)・田舎館(いなかだて)・油川・和徳の八ヵ所であり、譜代の家臣などを含めた城郭,これにより、奥羽両国の城郭は秀吉のものであるという建前を実現させることができたのである。
通史編3(近世2) ((一)治安機構と共同体規制)

そのため城下では多くの武家屋敷に空家を生じ、城郭内の武家屋敷に住んでいた家臣はそちらへ移転した。
資料編1(古代・中世編) (一 堀越城の立地と現状)

城域の規模は東西・南北約三五〇メートルで、これに城下町の一部を「町曲輪」として取り込んだ規模の大きな城郭,この時期、堀越城は大改修され、「政庁」としての機能を果たす大城郭となった。
資料編1(古代・中世編) (一 石川城の立地と現状)

しかし、実は、大仏ケ鼻北西に続く台地上には一三の曲輪(郭)が並び、「石川十三館」と総称されるような巨大な城郭,また13新館は、石川字小山田、JR奥羽本線石川駅南側の台地に位置する1~11の曲輪群とは別個の独立した城郭
通史編1(古代・中世) (三沢安藤四郎の活躍)

三沢安藤四郎の活躍 一方、逃げる大将軍国衡のために、出羽道の根無藤(ねなしふじ)あたり(蔵王町)に城郭
通史編2(近世1) (堀越城の構造)

東西・南北約三五〇メートルで、これに城下町の一部を「町曲輪(まちくるわ)」として取り込んだ規模の大きな城郭,にある防御施設、さらに曲輪の平場のように、戦闘の際の防御も十分留意した構えを設けており、発達した近世城郭
資料編1(古代・中世編) (二 本章で取り上げる中世城館跡)

また弘前市教育委員会からも、昭和五十八年三月、「弘前の文化財シリーズ」第十集として『弘前の文化財-古城郭,そこで本章では、弘前市地域の中世史を考察する上で最低限必要な城館と、中世城郭の一つのタイプを示す城館跡,に対する反乱を起こした時の拠点となり、戦国時代には南部高信が入部して、南部氏の津軽支配の本拠となった城郭,「縄張り図」の作成に当たっては、城郭が機能していたときの姿がよく分かるように、過去の記録・地図(分限図
通史編1(古代・中世) (多宇末井の梯)

兼任軍の残党は、北上川を渡って逃げ、「外浜と糠部との間にある多宇末井の梯(とうまいのかけはし)」に城郭
資料編1(古代・中世編) (二 各城館の位置)

沼舘愛三『津軽諸城の研究』・青森県教育委員会『青森県の中世城館』・弘前市教育委員会『弘前の文化財-古城郭,ほぼ方形をした屋敷型居館であるが、これといった防御施設はなく、城郭というより屋敷跡と理解したほうがよさそうである
資料編3(近世編2) (1 弘前城の歴史)

また、材木は近くの山々から伐り出されたものと見られるが、大浦城や大光寺城など、旧城郭の建物を解体したものもあったという
資料編1(古代・中世編) ((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)

ケ鼻は津軽平野の南の入口をなす戦略的要地に位置し、要害の地でもあるから、高信の入部以前にもなんらかの城郭施設,鉢巻山館・鶉長根館などの城塞群が、大鰐から碇ヶ関にかけての平川河谷にも、元長峰館・唐牛(かろうじ)城などの城郭
資料編1(古代・中世編) ((2) 戦国時代の堀越城)

そして、当初「屋敷」といわれる程度の小規模な城郭だった堀越城が、相次ぐ合戦の中で軍事基地として改修、強化
資料編1(古代・中世編) (五 縄張りからの問題点)

第二に、南部高信時代の石川城の中心部、すなわち南部氏の津軽支配の政庁はどこかであるが、城郭の縄張りから
通史編3(近世2) (他領から技術を導入)

その後の城郭を中心にした城下の町割りを描いた慶安二年(一六四九)ころの「弘前古御絵図」(弘図津)には、
資料編1(考古編) (第2節 中世・近世の考古学研究略史)

本格的発掘調査体制に入り、城館という制限はあるものの調査成果を年々積み重ね、全国的な視野でも中世考古学のみならず、城郭研究,特に、青森県においては、城郭の体系化*18や中世城館の分布調査*19が行われ、城館研究と中世考古学研究,考古学上よりみた青森県の中世」と題して講演をしたり、昭和56年1月に北上市で行われた『東北北部の中世城郭発表会
通史編2(近世1) (江戸時代初期の大名課役)

普請役は、城郭普請がその典型であるように、本来戦陣における課役で軍役の一変型とされる。,普請役=城郭工事と考えがちだが、城郭に限らず、普請とは石垣組みや基礎工事のこと、それに対して作事とは建築工事
資料編1(古代・中世編) (一 乳井茶臼館の立地と現状)

城の一部と思われる西の台地の部分を含めても、城郭としてさほど大きくはないが、右のような戦略的要地を占めているだけに
通史編4(近・現代1) (城跡の荒廃)

十一月になって、明治政府は、旧大名の城郭を全国的に取り壊すことにした。
通史編1(古代・中世) (防御性集落の消滅)

一〇世紀後半にまで遡(さかのぼ)ることが明らかになった市浦村の福島城も、やはり堀と土塁をもつ大規模な城郭
通史編3(近世2) (火災)

火災 火災は武家町・町人町では頻繁に発生しており、寺社や城郭内からも起きている。
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

その際、曲輪ⅡBの北側の堀跡h2に近い場所から、堀跡h1~h6とは時期の異なる三つの堀跡を検出、「城郭,しかも、北東側と南側の二か所で「横矢」を射るため「折り」を設けているなど、発達した近世城郭の特徴を持っている,防御施設m、さらに曲輪Ⅴの平場gのように、戦闘の際の防御も十分留意した構えを設けており、発達した近世城郭,の特徴を備えつつも、戦乱の時代の名残をとどめた城郭と言えよう。
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

この土塁は城郭で「蔀(しとみ)」と呼ばれる防御施設(敵の直進を止め、さらに内部の見通しを遮る障壁)であろうか,これを「横矢がかり」といい、弘前城など発達した城郭の虎口にしばしば見られる施設である。,このことは、虎口Dがおそらく第二ブロックの大手であろうということ、内館を中心とした第二ブロックが発達した城郭,南側の二重堀など、防御を意識した丁寧な造りになっていること、また虎口Dの「横矢がかり」など、発達した城郭,これらは、あたかも山城のような造りをしているが、城郭と断定するには遺構の残りが明瞭でない。
資料編1(古代・中世編) ((3)城館の構造)

このように国吉館跡は、中世城館としては比較的単純な造りで、戦争に備えた城郭ではなく、領主が日常居住する
通史編3(近世2) (寛政期の城下)

なお、寛政十二年(一八〇〇)の「弘前大絵図」(弘図岩)では、城郭内から西外の郭がはずされ、御家中(武家地
通史編2(近世1) (堀越城への移転)

この時期堀越城は大改修され、「政庁」としての機能を果たす大城郭となった。
通史編3(近世2) (消防制度)

その鐘によって、二の丸の時太鼓櫓の者が、城郭内の火災の場合は早太鼓を打ち、周辺の寺町(てらまち)・蔵主町
通史編1(古代・中世) (大浦城と大浦城下町)

その中で、本丸と二の丸部分には「桝形虎口(ますがたこぐち)」と呼ばれる近世城郭築城技法による虎口(出入口
通史編1(古代・中世) (安藤の乱の展開)

両軍は外浜の内末部と西浜の折曽関に城郭を構え、その間を二分する洪河(大河=岩木川)をはさんで相対した(
通史編2(近世1) (家中屋敷の郭外移転)

この絵図の城郭内の様子は、これまでと大きく異なっている。
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

土塁bの上は幅が三・九メートルと広く、近世城郭に多用される「折り」が随所に設けられている。
通史編3(近世2) (瓦の利用)

瓦はその後も時々焼いており、嘉永二年(一八四九)には林兵衛焼き出しの瓦で城郭廻り諸番所、塀廻り屋根、蔵等
通史編1(古代・中世) (堀越城と城下町)

2は、曲輪Ⅰの本丸に堀を挾んで隣接するという非常に重要な場所に当たっており、防御的な視点からみると、城郭内
通史編1(古代・中世) (三戸南部氏による領国支配の強化)

聞老遺事』津軽の弓矢  反乱鎮圧後、南部高信は津軽郡代となり、要衝石川の地(市内石川)に、大規模な城郭石川城
通史編3(近世2) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

島根県簸川郡大社町 34 奥民図彙 国立公文書館蔵内閣文庫 35 弘前市立博物館蔵 36 津軽弘前城之絵図「諸国城郭絵図
通史編2(近世1) (林政の展開と漆木の栽培)

なりたそうぜん)が藩に栽培を説き、自費によって一年に一万本、五年間に五万本の漆を植え付けるために弘前城郭内惣構
通史編2(近世1) (津軽信枚の越後転封)

『日記』によれば、政景は義宣とともにまだ江戸にいる四月二十三日の段階で、福島正則が無断で城郭修理をしたためとがめられていることを
資料編1(考古編) (〈注一覧…第4章〉)

北日本中世城館跡を中心として-」(金沢大学文学部論集史学科篇第2号) 1982年 *18 盛田稔編 『日本城郭体系
資料編1(考古編) (〈注及び参考文献一覧…第3章〉)

)東北考古学会編 東出版 寧楽社 1976年 *137 本堂寿一 『研究ノート・蝦夷館雑考』(日本城郭大系,1980年 *191 八戸市教育委員会 『風張(1)遺跡Ⅱ』 1990年 *192 盛田稔他 『日本城郭大系
通史編1(自然・原始) (発掘調査の成果)

種里城跡(一九八九年より継続中、十二世紀=平安時代末期、十五~十六世紀=室町時代)(150)等において城郭
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●慶長十五年(一六一〇)、この年、津軽信枚、幕府検使の検分を得て、高岡に城郭を築く。
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