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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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資料編1(古代・中世編)
(二 各城館の位置)
二 各
城館
の位置 しかしながら、これら東目屋の中世
城館
跡については、沼舘愛三『津軽諸城の研究』・青森県教育委員会,、
城館
跡とされていなかったりで、所在地自体が明確でない状況にある。,③古屋敷 『青森県の中世
城館
』だけが紹介している。,⑤黒土館跡 この
城館
については、どの研究でも触れられているが、『津軽諸城の研究』『青森県の中世
城館
,台地の先端を空堀で区画した単郭の
城館
である。 / 二 各
城館
の位置
通史編1(古代・中世)
(支城の城館跡)
支城の
城館
跡 支城は領域支配の拠点的な
城館
に付随する形で築かれる
城館
跡で、東目屋地区の国吉館跡(写真,関惣右衛門は「十二人屋形城衆」の中の「城代」とされていることから、国吉館跡が大浦城周辺の中世
城館
跡の中,さらにその武者溜を通り北側の丘陵地上部に
城館
跡らしき遺構もみられ、地元の人によると「山伏館(やまぶしだて,そのようなことから国吉館跡は支城でもかなり重要な本城的な性格を有していた
城館
跡であった可能性があるといえる,福村古館跡は、曲輪が三つの平場から構成されており、県内で一般的にみられる家臣居住型
城館
跡であると考えられるが / 支城の
城館
跡
通史編1(古代・中世)
(その他の城館跡)
その他の
城館
跡 当市域内には、これらの
城館
跡に属さない
城館
も存在している。,西北域の船沢(ふなざわ)地域にも、
城館
跡の築城年代はもとより、館跡の由来・沿革がまったく不明なものなどがそれに,の板碑群が五一基(公卿塚(くぎょうづか)六基・石仏(せきぶつ)四十五基)あることなどから、中世前期の
城館
跡,中崎館遺跡)や、一五世紀から一六世紀にかけて使われた境関(さかいぜき)館跡(境関館遺跡)など、戦国時代以前の
城館
跡 / その他の
城館
跡
通史編1(古代・中世)
(五 城館の発掘成果)
五
城館
の発掘成果
城館
のなかでは、
城館
主や一族郎党そして家臣団および従属する下人・職人・工人・商人,でもみたように一般集落から出土する遺物に関しては、主として食膳具や生産に関連した遺物が多いのに対し、
城館
,ここでは、弘前市内で行われた
城館
調査の成果をまとめておくことにしよう。 / 五
城館
の発掘成果
通史編1(古代・中世)
(複雑化する城館)
複雑化する
城館
一四世紀ころに「城」と呼ばれていたものは、堀や矢倉、防御用の逆茂木(さかもぎ)、垣楯,一五世紀に入ってもその
城館
の形態はあまり変わらなかったようである。,しかし室町期から戦国期の一五世紀末~一六世紀にかけて、
城館
は全国的に爆発的に作られ、その形態も従来の
城館
,そのために
城館
は、はじめ集落の近くに築かれ、台地や丘陵地を削平したり、切り込んで造られていた。,しかし丘陵から遠い集落では、平地に
城館
を築かなければならなかった。 / 複雑化する
城館
通史編1(古代・中世)
(城館タイプの分類)
城館
タイプの分類 一五世紀末~一六世紀になってから青森県内の中世
城館
跡は、その機能や役割によってさまざまなものに,これらの領域支配を目的として作られた
城館
跡の特徴は、大きく二つのタイプがみられる。,またこのタイプの
城館
跡が北奥羽地方ではもっとも多く存在している。,以上、これらの
城館
跡はどちらかというと公的な性格が強い
城館
の特徴である。 ,これらのタイプの
城館
の大きな特徴は、身分格差によって
城館
跡の規模の大小や構造が端的に読み取れることである /
城館
タイプの分類
通史編1(古代・中世)
(城館発掘の成果)
城館
発掘の成果 中崎館に関しては、すでに第四章第一節第五項でみたように、古代から中世への移り変わりがわかる,また、荼毘館遺跡は出土陶磁器によると一三世紀後半から一五世紀にかけて成立している
城館
であるが、堀跡の確認,かつて、
城館
調査の先達であった中村良之進は荼毘館を「古代の蝦夷館なるべし」と『青森県中津軽郡船澤村郷土史,』に記したように、確かに古代から館のような構造であった可能性もあり、中世に至っても同じ占地に
城館
を構えるということは,さらに、中別所の地は広大な
城館
ではないかと指摘する人もおり、
城館
の中に板碑を造営することによって「聖地 /
城館
発掘の成果
通史編1(古代・中世)
(城館調査の今後)
城館
調査の今後 青森県の中世考古学をリードした発掘調査は、昭和五十一年(一九七六)から始まった堀越城,また近年、弘前市内で重要な
城館
調査がなされている。,調査した福村城跡では、堀跡から橋梁(きょうりょう)の跡が発見され(写真182)、中世末から近世初頭の
城館
構造,橋梁は、ヒバ・スギ・クリといった素材の太い木柱を規則的に配置して、
城館
の出入り口にあたる部分を木橋で構築,これまで平賀町大光寺城など中世
城館
で土橋などの出入り口を発見した例はあるものの、木橋であることを明確に /
城館
調査の今後
通史編1(古代・中世)
(本城(根城)の城館跡)
本城(根城)の
城館
跡 当市域内にある
城館
跡で、領国支配の拠点的性格をもった戦国期の
城館
跡としては石川城跡,これらの
城館
跡は、はじめから領国支配をすることを目的に築かれた
城館
である。,その他、当市域外ではあるが津軽氏に関係する
城館
跡としては、鯵ヶ沢町の種里城跡や岩木町の大浦城跡なども挙,これらの
城館
跡を拠点として津軽領国の統一が行われていくことになるのである。 / 本城(根城)の
城館
跡
資料編1(古代・中世編)
((3)城館の構造)
(3)
城館
の構造 坂本館は、東の「古館」、西の「新館」の二つで構成されていたと言われるが、古館の規模,平場⑤には現在土塁状の遺構hが見られるが、
城館
に伴う遺構かどうか判断が難しい。,第二に、東目屋地区のほかの
城館
に比べて規模が格段に大きいにもかかわらず、館主の名が伝えられていないこと,これらのことから、坂本館は、軍事的緊張の中で急ごしらえで造られた
城館
であり、しかも、完成して十分に機能,
城館
として利用しようとした可能性はあるが、仮にそうであったとしても「未完の
城館
」に終わったものと理解すべきであろう / (3)
城館
の構造
通史編1(古代・中世)
((四)中世城館のネットワーク)
(四)中世
城館
のネットワーク
城館
のネットワークは時期によって異なる。,一五世紀における
城館
のネットワークと、一六世紀における
城館
のネットワークではまったく違ってくる。,青森県内において一五世紀段階では、一六世紀ころに比べてまだ意図的に
城館
を配置しようとする動きはみられない,一六世紀中ごろから領域支配の拠点となる城が求心力をもち、その
城館
を中心とした防御性などを意識し、さらに,地形なども考慮に入れながら
城館
が配置されていくように変わっていく。 / (四)中世
城館
のネットワーク
資料編1(古代・中世編)
((3)城館の構造)
(3)
城館
の構造 国吉館は曲輪が一つだけの、いわゆる「単郭」の
城館
であるが、虎口の位置や地割の在り方,この通路が
城館
期に存在していたとしても、搦手のようなものだったろう。 ,このように国吉館跡は、中世
城館
としては比較的単純な造りで、戦争に備えた城郭ではなく、領主が日常居住する,現時点では調査不十分だが、国吉館跡北側の丘陵上部に
城館
跡らしき遺構があり、「山伏館」と呼ばれていることから / (3)
城館
の構造
資料編1(古代・中世編)
(四 城館の構造)
四
城館
の構造 推定復元される乳井茶臼館の縄張りを示したのが図47である。,しかし今回の調査の結果、曲輪Ⅰの西側台地にも
城館
に伴う遺構らしいものがあることが分かり、この部分(曲輪,Ⅱ)を含めて
城館
の構造を考えることにした。,現在は、直接この腰曲輪mを登って頂上に達する道路が造られているが、中世
城館
の通路としては不自然であり、,この段は、戦闘時に重い甲冑を着た敵兵の前進を妨害するためのもので、中世
城館
特有の工夫である。 / 四
城館
の構造
資料編1(古代・中世編)
(二 本章で取り上げる中世城館跡)
二 本章で取り上げる中世
城館
跡 青森県では、昭和五十五~五十七年度に、青森県教育委員会によって中世
城館
,そこで本章では、弘前市地域の中世史を考察する上で最低限必要な
城館
と、中世城郭の一つのタイプを示す
城館
跡,しかも、近隣する坂本館など、東目屋の他の
城館
の在り方を通じ、地域内での
城館
相互の関係を考えることも可能,そこで軍事機能中心の
城館
の例として、この館を取り上げ、合わせて乳井地区全体の
城館
分布と、この地区の特質,また、この縄張り図で示したのは、
城館
の最終段階の姿であり、
城館
を建設して以後、様々な変遷をたどっていること / 二 本章で取り上げる中世
城館
跡
通史編1(古代・中世)
(大浦城築城以前の城館跡)
大浦城築城以前の
城館
跡 大浦城が築城される以前の大浦城周辺では、新岡(にいおか)地域を中心とした
城館
,現在までに新岡地域で確認されていた
城館
跡は上新岡(かみにいおか)館跡と下新岡(しもにいおか)館跡、八幡,結果下、新岡館跡と八幡館跡の中間に位置する小高い丘陵地、現在は愛宕(あたご)神社が建立されている地点にも
城館
跡,図68 大浦城築城以前の
城館
ネットワーク(新岡地域を中心として) 遺構の状況などからみると、下新岡館跡,図72 高館城跡見取図 『青森県の中世
城館
』の図面に加筆修正 (下国〈安東〉義孝陣城とも伝えられる / 大浦城築城以前の
城館
跡
通史編1(古代・中世)
(種里城を中心とした城館群)
種里城を中心とした
城館
群 種里城跡を中心とした
城館
群は、川崎城をはじめ、赤石川流域を中心とした山の麓,写真213 種里城跡周辺航空写真 図67 種里城と周辺の
城館
群(50,000分の1), これらの
城館
跡の関係についてはいまだに不明な部分もあるが、種里城跡が機能していた時期にこれらの
城館
も,このことからもわかるように、種里城跡を中心としたネットワークという視点で整備されていれば進軍が可能だったと考えられるが、
城館
配置,種里城と日本海との中間で、日本海側を望むことができる地点に位置していることから、何らかの役割をもった
城館
跡 / 種里城を中心とした
城館
群
資料編1(古代・中世編)
(五 東目屋地区の中世城館の特徴)
五 東目屋地区の中世
城館
の特徴 一、二でも述べたように、東目屋地区は弘前市内でも特に中世
城館
跡が密集,しかも、大浦城から目屋に向かう旧目屋街道は、この高館城跡の直下を通っていて、高野館跡(
城館
というより、,東目屋の
城館
群の中で中心的な役割を果たしたのは、館主の伝承や
城館
の構造から見ても、国吉館だったに違いない,これ以外の
城館
は、坂本館を除き規模も小さく、しかも集落に隣接して設けられている。,そうした問題も含め、東目屋地区全体の
城館
の詳細については、今後の研究課題であろう。 / 五 東目屋地区の中世
城館
の特徴
通史編1(古代・中世)
(東目屋地域に見られる城館跡)
東目屋地域に見られる
城館
跡 大浦城跡から西側に当たる岩木山麓から目屋地区にかけての地域は、西浜と津軽平野,そのようなことを念頭に入れながら東目屋地区の
城館
跡についてみていくと、注目されるのが「十二人屋形城衆」,この東目屋地区の中心となる
城館
は、関氏の居館とされる国吉館といえるであろう。,この国吉館跡がこの地域の中心となり、その区域内の東西の端には関所(木戸)のような性格をもった
城館
として,図73 東目屋地区の
城館
群 / 東目屋地域に見られる
城館
跡
通史編1(古代・中世)
(詰城の城館跡)
詰城の
城館
跡 詰城としては、乳井茶臼館跡(写真212)や乳井古館跡、笹館跡、隣接町村では相馬村の湯口茶臼館跡 / 詰城の
城館
跡
通史編1(古代・中世)
(堀越城・石川城を中心とした城館群)
堀越城・石川城を中心とした
城館
群 堀越城と石川城を中心とした
城館
群のネットワークについては、まず南部氏,これらの個々の
城館
跡はいくつかの
城館
群ネットワークによって構成されていることが考えられ、
城館
の築城構造,図74 石川城を中心とした
城館
群配置状況 まず第一は「奥大道」に沿った状態で
城館
群が構築されていったということである,そのことはすなわち交通の要衡である街道を重視した
城館
配置であるといえる。 ,領国の境目といった重要な地に
城館
跡を配置しているといえ、一六世紀の戦国期においては一連の
城館
ネットワーク / 堀越城・石川城を中心とした
城館
群
資料編1(古代・中世編)
(一 東目屋地区の中世城館と領主の歴史)
一 東目屋地区の中世
城館
と領主の歴史 弘前市の飛地となっている東目屋地区には、規模は小さいが数多くの,中世
城館
跡が残っている。,ここではその中から、①国吉館跡、②坂本館跡の二つを取り上げ、さらに東目屋地区全体の
城館
相互のネットワーク,東目屋地区の
城館
について考える際、注目されるのが「十二人屋形城衆」の伝承である。,この地域の中小の
城館
は、そうした歴史の中で築かれたものであろう。 / 一 東目屋地区の中世
城館
と領主の歴史
資料編1(古代・中世編)
(五 乳井地区の城館群と宗教的領域)
五 乳井地区の
城館
群と宗教的領域 二で述べたように乳井茶臼館を築いたのは、戦国時代に乳井を本拠とした,図51 乳井地区の中世
城館
と寺社・集落の分布 興味深いのは、近世の「乳井通り」=中世の奥大道が,もとより、乳井茶臼館は合戦に備えた砦、乳井城は三つの曲輪を持つ平時の居館であるが、単に霊場福王寺の周縁部に
城館
,そして、以上の宗教的・軍事的二つの意味において、これらの
城館
は、福王寺や「寺内」を中心とする乳井の地域,乳井地区の「寺内」は近世の呼称であるが、これまで見てきたようなこの地域の街道の配置、寺社の分布、
城館
の / 五 乳井地区の
城館
群と宗教的領域
資料編1(古代・中世編)
(四 城館の構造)
四
城館
の構造 大浦城跡は、慶安二年(一六四九)の「津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳」(弘前市立図書館蔵八木橋文庫,ただし本丸虎口のみ)など、近世大名津軽氏の津軽支配の政庁として、それなりにふさわしい威厳と内容を持った
城館
/ 四
城館
の構造
通史編1(古代・中世)
(大浦氏関係の中世城館跡)
大浦氏関係の中世
城館
跡 鯵ヶ沢町種里城跡や岩木町大浦城跡などは開発に伴う発掘調査が行われている。 / 大浦氏関係の中世
城館
跡
資料編1(古代・中世編)
(四 城館の構造)
四
城館
の構造 石川城には「石川十三館」と呼ばれる多数の曲輪(郭)が存在するが、図5に示したように、,第二は「内館」という主郭を思わせる曲輪の名称で、事実、県内の中世
城館
を見ても、この名称は城の中心部分に,このように、第三ブロックの寺山館跡もまた、それだけで一つの完結した
城館
をなしている。,推測の域を出ないが、石川城落城の後、あるいは豊臣統一政権下で、新たに近世的
城館
として築かれた可能性も考 / 四
城館
の構造
資料編1(古代・中世編)
(四 城館の構造)
四
城館
の構造 慶安二年(一六四九)の「津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳」には、「堀越古城」として、 / 四
城館
の構造
資料編1(考古編)
(第3節 中世・近世の住居と集落)
城館
9 蓬田大館遺跡 蓬田村 12,15 竪穴
城館
10 尻八館跡 青森市 14,15 掘立・竪穴,
城館
25 源常平遺跡 浪岡町 13,16 掘立・竪穴
城館
26 浪岡城跡 浪岡町 12,15,16,16,17 掘立・竪穴
城館
56 七戸城跡 七戸町 16 掘立・竪穴
城館
57 矢館跡 七戸町 16,掘立・竪穴
城館
60 堀越城跡 弘前市 16 掘立・竪穴
城館
61 中崎館跡 弘前市 12 掘立,63 荼毘館跡 弘前市 13,14,15 掘立
城館
64 境関館跡 弘前市 15 掘立・竪穴
城館
通史編1(古代・中世)
(調査された館)
また
城館
の構築が、開発行為や軍事的関係と表裏一体の関係にあることはいうまでもない。,ただ文献上から
城館
主を特定できる
城館
が少ないことも事実である。 ,弘前市域では現在まで五〇ヵ所の中世
城館
が確認されており、中崎館をはじめ石川城(楯)(写真178)・福村城
資料編1(古代・中世編)
(一 はじめに)
一 はじめに 本章は、弘前市内とその周辺にある主な中世
城館
跡を取り上げ、遺構の現状と過去、及び構造や,現在、弘前市内には四〇を超える中世
城館
跡が確認されている。,だが、かつての中世
城館
研究の大部分は、いわば〝城主の歴史〟の研究であって、城郭自体の構造的な特徴や、
城館
,しかも、ここ十数年来の中世
城館
研究の進歩は、文字どおりめざましいものがある。,最近の市町村史では、こうした視点から『資料編』に「中世
城館
編」を置くことが多く、独自に『中世
城館
編』を
通史編1(古代・中世)
(建物の変化)
図54 掘立柱建物(母屋)の変遷(高島成侑氏原図) このような建物の在り方は
城館
という遺跡の例,
城館
の場合は、明確な防御的施設である堀や、土塁が存在するから「
城館
」という概念で調査できるが、もしそのような,ふたつぬま)遺跡のように、掘立柱建物がまったくなくて竪穴建物だけで構成されている遺跡が一般的集落だとすると、
城館
,の一部にも竪穴建物だけで構成する範囲が認められることから、
城館
と集落の境が見出しにくくなってしまう。
資料編1(考古編)
([付図])
ヶ袋
城館
跡 歴史 02031 黒土館遺跡 弘前市大字黒土
城館
跡・包含地 歴史 02032 番館遺跡,弘前市大字和徳
城館
跡・包含地 平安 02050 八幡館(1)遺跡 弘前市大字八幡舘
城館
跡 平安,宮館 弘前市大字宮舘字宮舘沢
城館
跡 歴史 02094 折笠館 弘前市大字折笠字宮川
城館
跡 歴史,船水館 弘前市大字船水字横船
城館
跡 歴史 02101 藤代館 弘前市大字藤代一丁目
城館
跡 歴史,
城館
跡 歴史 02106 乳井茶臼館 弘前市大字乳井字古堂
城館
跡 歴史 02107 小栗山館遺跡
通史編1(古代・中世)
([付図])
縄文・平安 23 高野館遺跡 国古字耕田28ほか 山林・畑 包蔵地・
城館
跡 縄文・平安・中世 24,2の14ほか 宅地 包蔵地・祭祀跡 平安 46 薬師堂元宮遺跡 薬師堂字南熊沢 境内・山地
城館
跡 〃,・散布地 縄文・平安 50 八幡舘(1)遺跡 乳井字沢田 畑
城館
跡 平安 51 八幡舘(2)遺跡 ,〃 茶臼館・古堂 〃 包蔵地 縄文 52 大舘山遺跡 乳井字沢田ほか 山林
城館
跡・散布地 縄文・平安,平安 89 種市舘 種市 畑
城館
跡 歴史 90 高杉舘 高杉字尾上山 〃
城館
跡・包蔵地 縄文・平安
資料編1(古代・中世編)
(一 乳井茶臼館の立地と現状)
弘前市と大鰐町の境をなす山地から北に伸びた尾根の先端、標高一一〇メートルほどの丘陵を利用して造られた
城館
,先端を掘切り、さらに斜面を同心円状に何段にも削平して平場(腰曲輪)を造るという、典型的な「茶臼館型」の
城館
,今回の調査では、茶臼館以外の
城館
については概略の紹介にとどめざるをえなかったが、中世乳井地区の歴史の解明,のためには、今後これら二つの
城館
の調査・研究が不可欠である。,乳井茶臼館跡の遠景 北西側より撮影 南西側より撮影 図45 乳井茶臼館跡周辺の
城館
跡位置図
通史編1(古代・中世)
((五)発掘調査から見た遺跡)
当市域においては石川城跡の内館部分や福村城跡の堀跡が発掘調査され、また大浦氏に関係した
城館
跡としては、,合戦の舞台として登場してくる平賀町大光寺新城跡、藤崎町藤崎城跡なども開発に伴う緊急発掘調査が行われ、
城館
跡
資料編1(考古編)
((4)12世紀)
されて遺構の内容が把握されているものは2例(弘前市中崎館遺跡、青森市内真部遺跡)しかなく、しかもいずれも
城館
関係,
城館
関係では、大小の掘立柱建物と竪穴建物がある。
通史編1(古代・中世)
(枝城・端城の城跡)
枝城・端城の城跡 支城よりも規模が小さく、なおかつ
城館
跡としての性格を有するものが枝城であり、端城である,枝城と端城の中間地点には「繋ぎの城」「伝えの城」「境目の城」といった用途を別にした
城館
が整備されていくことになる,当市域内で枝城・端城と考えられる
城館
跡としては、宮館跡や、小沢(こざわ)館跡、東目屋地域に所在する高野
資料編1(古代・中世編)
(新編 弘前市史 資料編1-2 古代・中世編 目次)
三八七 (七) 安藤氏系図参考史料…………………………………………… 四一二 第三章 弘前地域の中世
城館
, 一 はじめに………………………………………………………… 四二八 二 本章で取り上げる中世
城館
跡,……… 四三九 三 石川城「縄張り(平面プラン)」の復元……………………… 四四一 四
城館
,………… 四七〇 三 大浦城「縄張り」の復元……………………………………… 四七一 四
城館
,二 各
城館
の位置…………………………………………………… 五一三 三 国吉館跡………………………
資料編1(古代・中世編)
((1)立地と遺構の現状)
弘前市館後字新田、館後集落の東方二〇〇メートルに位置し、割山南西山麓の舌状台地先端を利用した比較的規模の大きな
城館
,現在、館跡は大部分がリンゴ園として利用されており、そのため段築があっても、
城館
の遺構なのか、リンゴ園を
資料編1(古代・中世編)
((1)立地と遺構の現状)
は自然の沢と空堀をもって北方の丘陵(海抜約一五〇メートル)から区画された「単郭」(曲輪が一つだけ)の
城館
,関惣右衛門としているが、彼が「十二人屋形城衆」の中の「城代」とされることから、国吉館が大浦城周辺の中小
城館
資料編1(考古編)
(〈建物跡の発見される遺跡〉)
〈建物跡の発見される遺跡〉 (1)
城館
跡 礎石建物跡・掘立柱建物跡・竪穴建物跡 (2)集落跡 掘立柱建物跡
通史編1(古代・中世)
(戦いの道具)
戦いの道具
城館
の発掘調査では、戦いの道具である武具の出土数は多い。,さらに、天正年間に落城したと想定される
城館
からは、鉛の鉄砲玉や火縄銃の部品である火縄鋏(ひなわばさみ)
通史編1(古代・中世)
(北日本の地域差)
とくに、津軽地域の
城館
のなかでも平野部と海岸部では出土陶磁器に違いはないものの、農耕具や狩猟具といった,境関館の組成は
城館
の有する政治的儀礼もさることながら、集落的な日常生活の痕跡が色濃く反映している組成とみたい
資料編1(古代・中世編)
(五 縄張りからの問題点)
寺山館跡の発達した虎口や堀の造り方などは、中世末から近世初頭の
城館
を思わせる。,寺山館が中世の時期になんらかの形で
城館
として利用されていた可能性は否定できないが、現時点で見られる寺山館跡
通史編1(古代・中世)
(文献史料から見た戦国動乱の激化)
このような構造の
城館
跡は、県内で見られる中世
城館
跡の中では特異な構造であるといえる。,合戦が激しく繰り返し行なわれ、それらの合戦の舞台となったのがそれぞれの領地を統括する拠点としていた中世
城館
跡,図66 戦国時代の代表的な
城館
跡配置図
資料編1(考古編)
(2.堀越城跡)
(3)地形概観 資料編1-2「第3章弘前地域の中世
城館
」参照 (4)発見の経緯 発掘調査は、国道,県内で行われた初めての中世
城館
調査であったが、バイパス路線内という限定された調査であったことから、堀越城,(5)歴史環境 資料編1-2「第3章弘前地域の中世
城館
」参照 (6)発掘状況 発掘調査は、二の丸,123 堀越城跡出土木製品(2) 図124 堀越城跡出土木製品(3) 〔文献記載〕
城館
編参照
通史編1(古代・中世)
(方形居館跡)
方形居館跡 津軽地方で比較的多く見られる
城館
跡に、堀を方形に設けた方形居館跡がみられる。
通史編2(近世1)
(津軽地域の確保と蝦夷荒)
・宮舘(みやだて)村(現弘前市)・大秋(たいあき)村(現西目屋村)といった、鼻和(はなわ)郡の地域の
城館
,図3.戦国末期津軽地方の
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分布 また、現西津軽郡の海岸一帯に当たる西浜地域では、中村(現鰺ヶ
資料編1(古代・中世編)
(-例言-)
-例言- 一、本編には、文献史料・中世
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調査資料・金石文資料を収録した。,日本紀略 類史=類聚国史 略記=扶桑略記 補任=公卿補任 逸史=日本逸史 一、中世
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調査資料
資料編1(古代・中世編)
(三 乳井茶臼館「縄張り」の復元)
一で述べたように、現在、乳井茶臼館跡はその大部分がリンゴ園となり、丘陵全体に段々畑が造成されて、
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資料編1(考古編)
(第2節 中世・近世の考古学研究略史)
しかし、福島城は安藤氏
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と伝えられてはいたが、考古学的調査の年代観は、とても中世としての時代認定をできない,時期を同じくして、史跡整備のため浪岡町の浪岡城*12と八戸市の根城*13が本格的発掘調査体制に入り、
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,特に、青森県においては、城郭の体系化*18や中世
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の分布調査*19が行われ、
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研究と中世考古学研究,市浦村伝山王坊跡*25は宗教遺跡の調査であり、十和田市切田前谷地遺跡*26、大鰐町唐牛城(2)遺跡*27は
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関連遺跡
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