機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
年表一覧
キーワード一覧
弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
年表
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 265件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 6ページ
通史編4(近・現代1)
(堀越村の場合)
堀
越村の場合 中津軽郡
堀
越村は、明治初年、門外村一〇三戸、
堀
越村五五戸、
堀
越村の支村川合村五三戸、取上村三三戸,工藤長左衛門 (のち村長) 道川太郎 (
堀
越村) 工藤辧吉 この一二人は二十二年七月まで,在職し、四月から九月までの
堀
越村の予算を決めていた。,三浦又吉 葛西穏 工藤友吉 佐藤卯之吉 工藤長左衛門 鎌田萬次郎 芳賀仁三郎 小
堀
藤太郎,二十二年度の
堀
越村の歳出入の金額は七〇六円九五銭九厘だった。 /
堀
越村の場合
通史編2(近世1)
(堀越城の構造)
堀
越城の構造
堀
越城跡は、弘前市街から旧国道七号を通って石川に至るほぼ中間、市内
堀
越字川合・柏田にある,図25.
堀
越城縄張り推定復元図
堀
越城下町の形態は、羽州街道に沿って両側に町屋が並び、しかもその,『天和四年
堀
越村書上絵図』には、羽州街道が
堀
越の集落に入る東西の入口(石川方面と弘前方面からの入口)に,また、町曲輪は、一方を
堀
越城の
堀
、外周を前川や水濠によって囲まれた曲輪であり、大浦城は「城―町曲輪―町,図26.
堀
越城跡の航空写真(平成13年撮影) なお、
堀
越城跡から舶載磁器(はくさいじき)・国産陶磁器 /
堀
越城の構造
資料編1(考古編)
(2.堀越城跡)
(7)検出遺構 二の丸北側からは、現存する水
堀
の内側に三本の薬研状の空
堀
ないしは溝跡を検出したが、,図122
堀
越城跡出土木製品(1) 図123
堀
越城跡出土木製品(2) 図124 ,
堀
越城跡出土木製品(3) 〔文献記載〕 城館編参照 ※参考文献 1)
堀
越城跡発掘調査委員会,『
堀
越城跡…国道7号線バイパス遺跡発掘調査報告書』 1978年 3)
堀
越城跡発掘調査委員会・弘前市,「
堀
越城の発掘」(歴史手帖第5巻4号) 1977年 5) 今井二三夫「
堀
越城の調査」(中世の考古学- / 2.
堀
越城跡
資料編1(古代・中世編)
(五 堀越城下(都市としての堀越)の構造)
五
堀
越城下(都市としての
堀
越)の構造
堀
越城の在り方を考える際、重要な問題として城と町場のかかわりがある,(一六八四)の
堀
越村書上絵図である。,この図にも石川村から進んできた羽州街道が
堀
越村に入り、
堀
越城跡(「古城」と記されている)の周りの集落を,
堀
越城へ入る大手虎口Aの跡 さらに、この「
堀
越城下町」の内部は、
堀
越城の東南の外
堀
をなす前川と,そして、①の「町曲輪Ⅰ・Ⅱ」の地区は、一方を
堀
越城の
堀
、外周を前川や水濠(現在は用水路)によって囲まれた / 五
堀
越城下(都市としての
堀
越)の構造
通史編1(古代・中世)
(堀越城と城下町)
堀
越城と城下町
堀
越城は、文禄三年(一五九四)に大浦為信が大浦城から
堀
越に本拠地を移し、慶長十六年(,
堀
越城は「本丸」を中心として、六つの曲輪から構成されており、築城技法でみると、
堀
と土塁の組合わせによる,まず
堀
越城下町の復元でもっとも基本となった資料は、天和四年(一六八四)の「
堀
越村書上絵図」と慶安二年(,写真206
堀
越城跡航空写真
堀
越城下町は大きく分けて四つの町屋から構成される。,この町屋1は
堀
越城の曲輪Ⅳと
堀
越城の南側の外
堀
的な性格をもった前川を挟む形で作られている。 /
堀
越城と城下町
通史編3(近世2)
(御用染屋堀越屋)
御用染屋
堀
越屋 「国日記」安永五年(一七七六)七月六日条には、
堀
越屋は先祖から代々年始御目見、染物御用相勤,『津軽古今偉業記』(一九六三年 青森県叢書刊行会刊)の
堀
越屋軍兵衛の項によると、
堀
越屋軍兵衛は越後の出身,後、
堀
越村(現市内
堀
越)に移り、陣旗・幕染方秘伝を心得ていて、軍事にその染めた品を用いると常に勝利するので,
堀
越屋軍兵衛の姓名を賜ったという。 / 御用染屋
堀
越屋
通史編2(近世1)
(堀越城の限界性)
堀
越城の限界性 慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦いの際に為信が遠く関ヶ原へ出陣していた時、尾崎喜蔵(,おざききぞう)・板垣兵部(いたがきひょうぶ)・多田玄蕃(ただげんば)の三人の重臣が謀反を起こし、
堀
越城,「尾崎ら三人が深浦から
堀
越城へ帰り、それぞれ城内の自分の屋敷へ引き籠もった。,この記述によれば、
堀
越城内に重臣尾崎らの屋敷があったこと、武器・弾薬を置く櫓が本丸にあったことがわかる,
堀
越城は、
堀
・土塁・塀という設備によって防御すると同時に、重臣の城郭内への取り込み、武器・弾薬の所有を /
堀
越城の限界性
通史編2(近世1)
(堀越城への移転)
堀
越城への移転 「津軽一統志」(資料近世1No.五六)によれば、為信は、文禄三年(一五九四)、岩木川東岸,の
堀
越城を居城たるにふさわしいよう修復を加え、大浦城から
堀
越城へ居城を移転した。,し、人夫多く出、大工小屋多く懸り申候」と、為信が
堀
越城を大々的に改修した記事を載せている。,すでに為信は、新たな拠点として
堀
越城に注目しその強化に乗り出したことを知ることができる。,この時期
堀
越城は大改修され、「政庁」としての機能を果たす大城郭となった。 /
堀
越城への移転
資料編1(古代・中世編)
(一 堀越城の立地と現状)
一
堀
越城の立地と現状
堀
越城跡は、弘前市街から旧国道七号を通って石川に至るほぼ中間、市内
堀
越字川合,城跡のある
堀
越集落は、岩木川の支流の一つ平川と大和沢川の合流点から南西五〇〇メートルの、津軽平野南部の,この時期、
堀
越城は大改修され、「政庁」としての機能を果たす大城郭となった。,それゆえ、
堀
越城及び
堀
越城下町の実像の解明は、近世大名津軽氏の権力の形成と、津軽地方における中世から近世,I(本丸)の虎口D部分 図24
堀
越城跡位置図
堀
越城跡の航空写真(昭和20年代撮影 / 一
堀
越城の立地と現状
資料編1(古代・中世編)
((2) 戦国時代の堀越城)
(2) 戦国時代の
堀
越城
堀
越城は、戦国時代末期、大浦為信による津軽平定作戦の基地として再び姿を現す,元亀二年(一五七一)、為信は巧みに南部高信を偽り、
堀
越にある「町飛鳥の屋敷」(「
堀
越の旧城」ともある),この「町飛鳥の屋敷」こそ問題の
堀
越城である。,当時の
堀
越城の姿についても、不明としか言いようがない。,は、この時代の
堀
越城の遺構である可能性が強い。 / (2) 戦国時代の
堀
越城
資料編1(古代・中世編)
(三 堀越城「縄張り」の復元)
三
堀
越城「縄張り」の復元
堀
越城の旧状復元に当たっては、地表からの表面観察に加えて、次の諸資料を用,(1)分限図(明治二十七年測量) ア、大字
堀
越字柏田 イ、大字
堀
越字川合 ウ、大字
堀
越字柳田,図25
堀
越城跡の古絵図 天和4年
堀
越村書上絵図 ウ、貴田稲城筆写の古絵図(明治十六年,) 貴田稲城筆写の古絵図 エ、
堀
越城跡略図(明治四年模写、『史跡
堀
越城跡・石川バイパス,遺跡発掘調査報告書』一九七八年、所収)』) 図26
堀
越城跡の見取図 上、
堀
越城跡略図(明治4 / 三
堀
越城「縄張り」の復元
資料編1(古代・中世編)
((1) 南北朝時代の「堀越楯」)
(1) 南北朝時代の「
堀
越楯」
堀
越城の名が初めて文献に見えるのは、南北朝時代、建武三年(南延元元年,
堀
の形も掘られた方向も、後の
堀
越城のものと全く異なるという(『史跡
堀
越城跡・石川バイパス遺跡発掘調査報告書,断定はできないが、このうち最も古い時期の
堀
が「
堀
越楯」のものである可能性がある。,その場合、
堀
の発見された場所が平川寄りの東の地区であることから考えて、当初の
堀
越楯は平川沿いの段丘状の,高まりを利用して構築されたものであり、西に
堀
を掘って曲輪を設け、さらに東西に走る
堀
で内部をいくつかに区分 / (1) 南北朝時代の「
堀
越楯」
通史編5(近・現代2)
(棟梁・堀江佐吉)
棟梁・
堀
江佐吉 弘前における洋風建築について述べるとき、覚仙町に生まれた棟梁・
堀
江佐吉(ほりえさきち,写真292
堀
江佐吉 弘前に帰った佐吉は、類焼した東奥義塾の再建を依頼され、それまでの経験から,旧弘前市立図書館は、日露戦争にかかわる第八師団諸施設工事の大量請負で多くの利益を得た斎藤主(さいとうつかさ)や
堀
江佐吉 / 棟梁・
堀
江佐吉
資料編1(古代・中世編)
((3) 津軽氏の政庁としての堀越城)
(3) 津軽氏の政庁としての
堀
越城 『永禄日記』は、天正十五年(一五八七)、「正月より
堀
越御城所々築直,し、人夫多く出、大工小屋多く懸り申候」と、為信が
堀
越城を大々的に改修した記事を載せている。,現在見る
堀
越城の遺構は、この時期のものである。,』)、あるいは「寺院並町々共大浦より
堀
越へ移る」(『封内事実秘苑』)と伝えられている。,移転を記さないかわりに、領内の寺院を「不残
堀
越へ御引越させ」たと述べている)。 / (3) 津軽氏の政庁としての
堀
越城
通史編1(古代・中世)
(堀越城・石川城を中心とした城館群)
堀
越城・石川城を中心とした城館群
堀
越城と石川城を中心とした城館群のネットワークについては、まず南部氏,大浦氏はその石川城を津軽領域を掌握する手始めとして攻撃し、その石川城を攻撃する拠点とした場所が
堀
越城である,なお、大浦氏は
堀
越城を拠点としていたが、さらに落城させた石川城なども、その後大浦氏が改修して利用していたことが,
堀
越城や石川城は、現在の当市域の中心地からかなり南に位置しているが、このように石川地域を中心として見た,これらの館跡はすべて同時期に存在していたか不明であるが、小館跡と篠館跡の間にある
堀
や斜面の処理の仕方を /
堀
越城・石川城を中心とした城館群
通史編2(近世1)
(三 大浦から堀越への移転~西根から東根へ)
三 大浦から
堀
越への移転~西根から東根へ 津軽為信は、戦国期以来、津軽(大浦)氏の居城であった大浦(,おおうら)城から、文禄三年(一五九四)に
堀
越(ほりこし)城へ、さらに慶長十六年(一六一一)には高岡(たかおか / 三 大浦から
堀
越への移転~西根から東根へ
通史編1(古代・中世)
(石川城跡)
(うち)館(八幡(はちまん)館跡とか次五兵衛殿館とも呼ばれる)という石川城跡の中心部に当たる曲輪と、
堀
跡部分,その結果、内館と茂兵衛殿(もべえいどの)館の間にある
堀
跡が箱
堀
であったことが確認された。,その
堀
の規模は、現在の地表面から
堀
底までの深さがおよそ六メートルを超えており、非常に実用的なもので、しかも,また
堀
底からは、焼けた米・麦などの炭化物なども出土している。,図78 石川城跡検出の
堀
跡断面図 写真216 石川城跡発掘状況
資料編1(古代・中世編)
(四 城館の構造)
堀
越城の規模と概要が記されている。,、南北へ八十五間、四方
堀
之広さ九間宛、深さ三間宛、土手之高さ壱間半宛、但右之外ニ南北ニ
堀
有、此
堀
之広さ,図29
堀
越城縄張り推定復元図(部分拡大) 曲輪Ⅲから曲輪Ⅱに入るには水
堀
跡h2を渡ってゆく。,その際、曲輪ⅡBの北側の
堀
跡h2に近い場所から、
堀
跡h1~h6とは時期の異なる三つの
堀
跡を検出、「城郭,三つの
堀
はすべて水
堀
で、形状は薬研
堀
であった。
資料編1(古代・中世編)
((3)城館の構造)
館の北側は深い空
堀
となって、北の丘陵から分離しているが、この空
堀
の東の部分は自然の沢に手を加えたもので,、その西続きの部分を掘り割って空
堀
としている。,この
堀
跡h1からh2に進むと、
堀
幅が六・八メートルと急激に狭くなる。,
堀
跡h2からh3に進むと、
堀
は左に屈曲し、幅も六メートルとなる。,このように
堀
の幅を狭め、何度も屈曲させているのも、敵に対する防御のためで、敵の動きを狭い
堀
の底で封じ、
資料編1(古代・中世編)
(四 城館の構造)
土塁bに平行した形で、外側には
堀
h2が設けられている。,この虎口の部分で
堀
h4は「折り」の形となっている。,また遺構eとした部分で
堀
h2と
堀
h4は断ち切られており、一種の通路になっていた。,曲輪Ⅴは
堀
h5によって造り出されるが、現在この
堀
h5は確認することができない。,曲輪Ⅵ(南郭)も現在は水田で、
堀
h6によって曲輪が造り出されるが、この
堀
h6も現在では確認することはできない
通史編1(古代・中世)
(城館調査の今後)
城館調査の今後 青森県の中世考古学をリードした発掘調査は、昭和五十一年(一九七六)から始まった
堀
越城,一九九六)に実施した石川城跡内館跡の調査では、広大な領域を有する石川城跡のごく一部ではあったが、大規模な
堀
跡,写真181 石川城跡内館の
堀
跡 とくに、
堀
跡から出土した下駄・箸・曲物・箆(へら)・取手などの,木製品は、かつて
堀
越城で出土した遺物に匹敵する内容を示し、陶磁器や鉄製品・銭貨など中世社会を理解できる,さらに、平成九年度(一九九七)に調査した福村城跡では、
堀
跡から橋梁(きょうりょう)の跡が発見され(写真
通史編2(近世1)
(為信の築城計画)
為信が当時の本拠
堀
越(ほりこし)城(現弘前市
堀
越)を捨てて、高岡築城に踏み切った理由は、
堀
越城が水に弱,「津軽徧覧日記」の慶長十一年(一六〇六)の条に、正月下旬
堀
越城下が洪水に悩まされていた様子がみえる。,また、城跡内に洪水の痕跡(こんせき)がある程度確認されていることからも(『
堀
越城跡 前川災害復旧関連工事遺跡発掘調査報告書,』一九七八年 弘前市教育委員会他刊)、
堀
越の地は津軽氏にとって領国経営の中心地として、必ずしも適切な地
通史編1(古代・中世)
([口絵])
種里城跡(国指定史跡 鰺ヶ沢町) 25 根城(国指定史跡 八戸市) 26 懸仏(
堀
越城跡出土,) 27 食膳の復元(
堀
越城跡出土) 28
堀
越城跡(国指定史跡 弘前市),29
堀
越城跡東域(平成14年度調査区)
資料編1(古代・中世編)
(四 城館の構造)
空
堀
h2は幅八・八メートル、深さは現状で〇・七メートルほど、
堀
の形は箱
堀
である。,さらにその先に進むと、高田館・寺館と内館の間に平行して横たわっている空
堀
h3・中土塁状の曲輪・空
堀
h4,また空
堀
跡h5は「く」の字状に屈曲して造られており、中世での
堀
の造り方とはやや異なるように感じられる。,曲輪Ⅱの全体の形は正方形に近く、東西は自然の沢を利用した
堀
、南北は空
堀
で区切られている。,しかも、枡形虎口Fや、屈曲する空
堀
跡h5、東西の水
堀
などの施設は、寺山館が中世末期ないし近世初頭になって
通史編4(近・現代1)
(市立図書館の設置)
市立図書館の設置 本格的な図書館の設置を望んでいた私立弘前図書館関係者が、たまたま地元の建築業者の
堀
江佐吉,と話し合う機会があって、図書館の必要を説いたことがきっかけで、
堀
江佐吉らは日露戦勝記念に市に図書館を新築寄附,
堀
江のほか斎藤主、石戸谷末九郎、武田秀三郎、久保初太郎の四人が協力することになった。,新築寄附の申し出に対し、市会は直ちに寄附採納をし、
堀
江らは明治三十八年一月二日、旅順陥落の日を期して起工式
通史編1(古代・中世)
(阿津賀志山の防塁)
(あつかしやま)(福島県国見町)に、延べ二五万人にのぼる人夫を動員して掘り上げさせたという長大な二重
堀
をめぐらした,史書によれば「口五丈」(写真95)とあるから、
堀
の幅は一五メートルという巨大なものであるが、近年の発掘調査,写真94 阿津賀志山防塁(福島県国見町) 写真95 『扶桑見聞誌記』口五丈 さらに
堀
の,
堀
が築かれたのかは定かではない。,阿津賀志山の二重
堀
も、まさにこうした戦法の典型的な事例なのである。
通史編5(近・現代2)
(第五中学校開校)
第五中学校開校 昭和四十一年(一九六六)四月一日、豊田中学校と
堀
越中学校の統合による弘前市立第五中学校,名目統合のためまだ校舎はなく、豊田校舎と
堀
越校舎の二つに分かれて発足した。,生徒の間にはよい意味での豊田・
堀
越の競争意識はあったが、対立意識はほとんどなかった。
通史編1(古代・中世)
(方形居館跡)
方形居館跡 津軽地方で比較的多く見られる城館跡に、
堀
を方形に設けた方形居館跡がみられる。,また
堀
跡は潅漑(かんがい)用水路から水を引き込んで、水
堀
としているものが多い。
資料編1(考古編)
((1)石棺墓)
発見年 遺跡名 所在地 遺構 発見数 形態 規模(m) 時期 備考 1971年 (昭和46)
堀
合,Ⅲ号 南津軽郡 平賀町唐竹
堀
合 3基 長方形 円形 2.00×0.70 ~0.80 〔,後期〕十腰内Ⅰ群(式)土器期 人骨・石鏃・土器・木炭片 1972年 (昭和47)
堀
合Ⅲ号 南津軽郡,平賀町唐竹
堀
合 1基 長方形 1.60×0.90 〔後期〕十腰内Ⅰ群(式)土器期 人骨・,Ⅰ号 南津軽郡 平賀町唐竹
堀
合 12基 長方形 0.60×0.40 ~2.00×
通史編1(古代・中世)
(環壕集落の構造と年代)
世紀後半における律令体制の崩壊という国家体制変動の時期に、東北地方北部から北海道南部にかけて竪穴住居群を空
堀
(,さて、この環壕集落は、主要とみられる数軒の竪穴を空
堀
・土塁・柵列などの施設で区画して、その後背地に集落,の主体部分を配置する構造のものと、空
堀
・土塁などの施設で集落全体を囲む構造のものと、二つのタイプがあり,、さらに主要部分を直線的な
堀
で台地を切断する。,第二番目は浪岡町高屋敷館遺跡(図22)や蓬田大館遺跡などのように、低平台地の端部に空
堀
で半円形あるいは
通史編1(古代・中世)
(枝城・端城の城跡)
館跡の中央部には
堀
の上幅七メートル、深さ二メートルの空
堀
が東西方向に設けられ、西側直下に土淵(つちぶち,東目屋盆地の入口には、割山から南に延びる尾根の先端を空
堀
で掘り切った遺構がみられ、高野館跡と伝えられている,この
堀
切は、旧目屋街道が東目屋盆地に入る切り通しでもあったことから、中世のものかどうかの判断は難しいが
資料編1(考古編)
(4.中崎館遺跡)
擦文土器は、SD01
堀
中からの出土のものが大部分である。,カラー図5 上段:中崎館遺跡出土鉄製品 下段:中崎館遺跡出土井筒 ④
堀
跡 2本の
堀
跡とも,第Ⅲ期は、SD08
堀
によってⅢ郭が構成される段階である。,
堀
跡出土陶器(珠洲系) 図60 中崎館遺跡SD01
堀
跡出土かわらけ(1) 図61 ,中崎館遺跡SD01
堀
跡出土かわらけ(2) 図62 中崎館遺跡SD01
堀
跡出土かわらけ(3)
資料編1(考古編)
(5.荼毘館遺跡)
遺構は、竪穴住居跡30軒、掘立柱建物跡15棟、井戸跡6基、土壙94基、焼土遺構19基、溝状遺構63本、
堀
跡,④
堀
跡 集落を保塞すると見られる空
堀
跡が、台地北端と中央部で検出されている。,1号
堀
は幅4~5m、深さ約2mの薬研
堀
である。,そのほか、3号
堀
からは碑面の上部に「札」(ア)と推定される種子の刻まれた板碑が1点出土している。,荼毘館遺跡
堀
跡
通史編1(古代・中世)
(本城(根城)の城館跡)
)の城館跡 当市域内にある城館跡で、領国支配の拠点的性格をもった戦国期の城館跡としては石川城跡や、
堀
越城跡,しかし
堀
越城跡などは、数時期にわたり改変が行われていたことが考古学的な調査によってしだいに明らかとなってきている,また、
堀
越城跡は大浦氏が近世大名としての家臣団編成を迫られるという必要性の中から造られたものである。
通史編1(古代・中世)
(阿津賀志山の合戦)
金剛別当秀綱(こんごうべっとうひでつな)以下の「二万騎」が、二重
堀
に沿って横に広がりながら展開していた,畠山重忠(はたけやましげただ)の指揮で、あらかじめ用意した鋤や鍬をもった「疋夫八十人」(写真97)が
堀
の,すでに見たような大規模な二重
堀
である。,「にわかに構えられた
堀
」とはいえ、ある段階でその存在は頼朝方にも知られるところとなっていたのであろう。,平泉軍の奮闘にもかかわらず、数に勝る鎌倉軍は、午前十時ころには二重
堀
を越えて秀綱の陣を破り、秀綱は国衡
通史編4(近・現代1)
(農会の設立と農事改良)
当時の各村ごとの出品点数は、清水三〇八、和徳二四三、豊田一一九、
堀
越一九四、千年一一九、相馬一三八、東目屋一一一,受賞者のうち、一等賞は、米-成田七太郎(大浦村)・小
堀
章六(
堀
越村)、稲-木村要作(豊田村)・木村長五郎,同)・工藤銀次郎(同)・玉田多作(駒越村)、榲悖(まるめろ)-藤田常正(駒越村)、葡萄-藤田葡萄園(
堀
越村,)、林檎苗木-楠美冬次郎(清水村)、畳表-舘山三次郎(
堀
越村)、木通(あけび)蔓細工-熊嶋蔓細工購買販売組合,当時の各村ごとの出品点数は、清水一七六、和徳一二八、豊田一二二、
堀
越九九、千年八九、相馬九三、東目屋八八
通史編4(近・現代1)
(町村合併と弘前市制施行)
向外瀬村 清野袋村 豊田村(大字新里)-新里村 境関村 福田村 福村 外崎村 高田村 小比内村
堀
越村,(大字門外)-門外村
堀
越村 大清水村 取上村 千年村(大字小栗山)-小栗山村 松木平村 清水森村 ,
堀
越村-大村
堀
越村と古城
堀
越城、旧藩
堀
越組頭村に由来。
通史編4(近・現代1)
(北部無産社)
のちに本県労働運動の指導者になる
堀
江彦蔵が、前出の黒旗事件で有名になった同社を訪ねた記録がある。,
堀
江は、洋風建築で名高い
堀
江佐吉の子だが、藤田謙一の弘前市公会堂の建築を請け負って仮借(かしゃく)ない,ともあれ、
堀
江は次のように当時を思い出している。 ……そのころ中学をやめてしまって。,
堀
江はここから堺利彦、荒畑寒村、山川均らの作品や雑誌を中学校の旧友にばらまいて歩いた。
通史編4(近・現代1)
(村会情景)
明治三十年八月十日
堀
越村臨時村会議事録である。,出席議員 六名 一番小枝彦右衛門 三番小
堀
藤太郎 八番鎌田万次郎 九番五十嵐清次郎,番外収入役館山堅水 開会午後一時 議長 本日臨時村会ヲ開キシハ大字門外ノ倉庫移転ト大字
堀
越,、川合、大清水倉庫破損箇所修繕ノタメ至急村会ヲ開設セシ次第デアリマス 写真68 明治30年度
堀
越村議案並議事録綴,レナルヤ 議長 当時土地ハ未タ判然セスト雖トモ多分共有ノ古墓地ヘ移転スル積リデアリマス 十一番 大字
堀
越
資料編1(古代・中世編)
([口絵])
本文史料一〇九三号) 天正十八年正月十六日 豊臣秀吉判物(本文史料一一〇〇号)
堀
越城跡全景,(上空南東から)
堀
越城 曲輪Ⅰ(本丸)土塁
堀
越城 曲輪Ⅰ遠景(南東から)
資料編1(古代・中世編)
(二 各城館の位置)
現地に行ってみると、東目屋盆地の入口、割山から南に伸びる尾根の先端を、空
堀
で掘り切った遺構が存在していた,しかし、この
堀
切は、旧目屋街道が東目屋盆地に入る切通しでもあり、ほかには明白に人の手の加わった遺構は見出,現地踏査で空
堀
跡が存在することを確認した。台地の先端を空
堀
で区画した単郭の城館である。,『青森県の中世城館』は「番館集落の東端部、岩木川に張り出す舌状台地を空
堀
で切断したもの」と述べているが,、現地を踏査したところ、空
堀
らしきものはあるが、台地の先端を切って曲輪を設ける形にはなっていなかった。
資料編1(古代・中世編)
((3)城館の構造)
台地の先端を東西に走る二本の空
堀
で区画して、Ⅰ~Ⅲの三つの曲輪を設け、曲輪Ⅰ・Ⅱの東側に一段の腰曲輪⑨⑩,さらに曲輪Ⅱと曲輪Ⅰの間の空
堀
iを渡り、曲輪Ⅰに入ったと考えられる。,さらに通路は緩く左折し、帯曲輪状の平場⑥と曲輪Ⅰとの間の
堀
割状の部分に入る。平場⑥は高さ三メートル。,曲輪Ⅱと曲輪Ⅰの間の空
堀
跡iは良好に残っており、幅は九・四メートル、深さは現状で約二メートルあり、途中,j 空
堀
跡i そのほか、この坂本館(古館)には多くの謎がある。
通史編5(近・現代2)
(計画案の修正)
②
堀
越中学校と豊田中学校を統合して新たに一校を設ける。 ,まず、三十六年度には第四中学校と清水中の統合を終え、次いで
堀
越中と豊田中の廃校統合による第五中学校新設
資料編3(近世編2)
(1 弘前城の歴史)
1 弘前城の歴史 津軽為信が、その居城を大浦城から
堀
越城へ移したのが文禄二年(一五九三)であった。,江戸幕府成立後、外様大名の一人として、四万七〇〇〇石を領したが、
堀
越城では近世的な城下を形成するうえで,早くも翌十六年(一六一一)一月には町方が引き移り、五月には藩主信枚自身が
堀
越城からの引っ越しを行っている
通史編2(近世1)
(城下高岡の形成)
立地を概観すると、城の西には駒越川(こまごしがわ)(岩木川)が流れ、本丸の西下を岩木川(西
堀
)が流れ、,ともに
堀
の役割をしている。,その内側、城に近い所を和徳堰につながる
堀
川が流れ、さらにその内側本丸の真西にかつての岩木川の河跡湖である,城下の東端を土淵川(つちぶちがわ)が流れ、これも
堀
の役割をしている。,通路は東門(二の丸東門)と南門(二の丸南門)を通る二つだけであったが、現在は二の丸の北、丑寅櫓の西側に
堀
を
資料編1(考古編)
(3.石川長者森遺跡)
北西方向に伸びる長さ約240m、幅50~130mの独立丘陵は、10世紀後半~11世紀において、集落全体を空
堀
で,試掘調査のため、集落及び保塞施設の全容は明らかでないが、遺跡全体に設定された各トレンチで空
堀
跡が検出されている,空
堀
跡は断面が「V」字状の薬研
堀
であるが、一部箱薬研状を呈するものもある。,〔竪穴住居跡〕 空
堀
に囲まれた丘陵頂部のトレンチで3軒の竪穴住居跡が検出された。 ,(網部分) 図42 石川長者森遺跡
堀
跡断面図 図43 石川長者森遺跡竪穴住居跡
通史編1(古代・中世)
(調査された館)
石川城(楯)(写真178)・福村城(写真179)・小友館・荼毘(だび)館・独狐(とっこ)館・境関館・
堀
越城,、発掘面積は少なく、明確に中世段階の生活痕を確認した調査は、中崎館・荼毘館・独狐館・境関館・石川城・
堀
越城
通史編1(古代・中世)
(福村城跡)
にあり、平川と腰巻(こしまき)川に挟まれた自然堤防上の標高二七~三一メートルに所在し、和徳から大光寺、
堀
越,この福村城跡から和徳城跡までは約二・五キロメートル、大光寺城跡、
堀
越城跡へは約三・五キロメートルの距離,その結果、
堀
跡に架けていた「橋脚跡」が検出された。
通史編1(古代・中世)
(大浦氏の城下町建設の流れ)
五年間、近世大名津軽氏の領国支配の本拠として大浦城を利用していたが、同年に大浦から石川城の北側に位置する
堀
越,(ほりこし)に本拠地を移し、
堀
越城と
堀
越城下町の建設に着手する。
通史編4(近・現代1)
(学区の改変)
白銀小学学区は、鷹匠町、江戸町(現中新町地区)、西大工町、駒越町、馬屋町、茂森町、片
堀
町(旧古
堀
町)、
/ 6ページ