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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編4(近・現代1)
(堀越村の場合)
堀
越
村の場合 中津軽郡
堀
越
村は、明治初年、門外村一〇三戸、
堀
越
村五五戸、
堀
越
村の支村川合村五三戸、取上村三三戸,工藤長左衛門 (のち村長) 道川太郎 (
堀
越
村) 工藤辧吉 この一二人は二十二年七月まで,在職し、四月から九月までの
堀
越
村の予算を決めていた。,三浦又吉 葛西穏 工藤友吉 佐藤卯之吉 工藤長左衛門 鎌田萬次郎 芳賀仁三郎 小
堀
藤太郎,二十二年度の
堀
越
村の歳出入の金額は七〇六円九五銭九厘だった。 /
堀
越
村の場合
通史編2(近世1)
(堀越城の構造)
堀
越
城の構造
堀
越
城跡は、弘前市街から旧国道七号を通って石川に至るほぼ中間、市内
堀
越
字川合・柏田にある,図25.
堀
越
城縄張り推定復元図
堀
越
城下町の形態は、羽州街道に沿って両側に町屋が並び、しかもその,『天和四年
堀
越
村書上絵図』には、羽州街道が
堀
越
の集落に入る東西の入口(石川方面と弘前方面からの入口)に,また、町曲輪は、一方を
堀
越
城の
堀
、外周を前川や水濠によって囲まれた曲輪であり、大浦城は「城―町曲輪―町,図26.
堀
越
城跡の航空写真(平成13年撮影) なお、
堀
越
城跡から舶載磁器(はくさいじき)・国産陶磁器 /
堀
越
城の構造
資料編1(考古編)
(2.堀越城跡)
図16
堀
越
城跡出土陶磁器(3)(表裏) 1~3美濃瀬戸灰釉 4~6
越
前 〔陶磁器〕 中国製青磁,図122
堀
越
城跡出土木製品(1) 図123
堀
越
城跡出土木製品(2) 図124 ,
堀
越
城跡出土木製品(3) 〔文献記載〕 城館編参照 ※参考文献 1)
堀
越
城跡発掘調査委員会,『
堀
越
城跡…国道7号線バイパス遺跡発掘調査報告書』 1978年 3)
堀
越
城跡発掘調査委員会・弘前市,「
堀
越
城の発掘」(歴史手帖第5巻4号) 1977年 5) 今井二三夫「
堀
越
城の調査」(中世の考古学- / 2.
堀
越
城跡
通史編1(古代・中世)
(堀越城と城下町)
堀
越
城と城下町
堀
越
城は、文禄三年(一五九四)に大浦為信が大浦城から
堀
越
に本拠地を移し、慶長十六年(,まず
堀
越
城下町の復元でもっとも基本となった資料は、天和四年(一六八四)の「
堀
越
村書上絵図」と慶安二年(,
堀
越
城は天和の「一国一城令」で廃城となり、
堀
越
は貞享二年(一六八五)には宿場としての機能を失い、農村化,写真206
堀
越
城跡航空写真
堀
越
城下町は大きく分けて四つの町屋から構成される。,この町屋1は
堀
越
城の曲輪Ⅳと
堀
越
城の南側の外
堀
的な性格をもった前川を挟む形で作られている。 /
堀
越
城と城下町
資料編1(古代・中世編)
(五 堀越城下(都市としての堀越)の構造)
五
堀
越
城下(都市としての
堀
越
)の構造
堀
越
城の在り方を考える際、重要な問題として城と町場のかかわりがある,(一六八四)の
堀
越
村書上絵図である。,この図にも石川村から進んできた羽州街道が
堀
越
村に入り、
堀
越
城跡(「古城」と記されている)の周りの集落を,では、この
堀
越
城下町の範囲はどこからどこまでであったろうか。,
堀
越
城へ入る大手虎口Aの跡 さらに、この「
堀
越
城下町」の内部は、
堀
越
城の東南の外
堀
をなす前川と / 五
堀
越
城下(都市としての
堀
越
)の構造
通史編3(近世2)
(御用染屋堀越屋)
御用染屋
堀
越
屋 「国日記」安永五年(一七七六)七月六日条には、
堀
越
屋は先祖から代々年始御目見、染物御用相勤,『津軽古今偉業記』(一九六三年 青森県叢書刊行会刊)の
堀
越
屋軍兵衛の項によると、
堀
越
屋軍兵衛は
越
後の出身,後、
堀
越
村(現市内
堀
越
)に移り、陣旗・幕染方秘伝を心得ていて、軍事にその染めた品を用いると常に勝利するので,
堀
越
屋軍兵衛の姓名を賜ったという。 / 御用染屋
堀
越
屋
通史編2(近世1)
(堀越城への移転)
堀
越
城への移転 「津軽一統志」(資料近世1No.五六)によれば、為信は、文禄三年(一五九四)、岩木川東岸,の
堀
越
城を居城たるにふさわしいよう修復を加え、大浦城から
堀
越
城へ居城を移転した。,し、人夫多く出、大工小屋多く懸り申候」と、為信が
堀
越
城を大々的に改修した記事を載せている。,すでに為信は、新たな拠点として
堀
越
城に注目しその強化に乗り出したことを知ることができる。,この時期
堀
越
城は大改修され、「政庁」としての機能を果たす大城郭となった。 /
堀
越
城への移転
通史編2(近世1)
(堀越城の限界性)
堀
越
城の限界性 慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦いの際に為信が遠く関ヶ原へ出陣していた時、尾崎喜蔵(,おざききぞう)・板垣兵部(いたがきひょうぶ)・多田玄蕃(ただげんば)の三人の重臣が謀反を起こし、
堀
越
城,「尾崎ら三人が深浦から
堀
越
城へ帰り、それぞれ城内の自分の屋敷へ引き籠もった。,この記述によれば、
堀
越
城内に重臣尾崎らの屋敷があったこと、武器・弾薬を置く櫓が本丸にあったことがわかる,
堀
越
城は、
堀
・土塁・塀という設備によって防御すると同時に、重臣の城郭内への取り込み、武器・弾薬の所有を /
堀
越
城の限界性
資料編1(古代・中世編)
(一 堀越城の立地と現状)
一
堀
越
城の立地と現状
堀
越
城跡は、弘前市街から旧国道七号を通って石川に至るほぼ中間、市内
堀
越
字川合,城跡のある
堀
越
集落は、岩木川の支流の一つ平川と大和沢川の合流点から南西五〇〇メートルの、津軽平野南部の,この時期、
堀
越
城は大改修され、「政庁」としての機能を果たす大城郭となった。,それゆえ、
堀
越
城及び
堀
越
城下町の実像の解明は、近世大名津軽氏の権力の形成と、津軽地方における中世から近世,I(本丸)の虎口D部分 図24
堀
越
城跡位置図
堀
越
城跡の航空写真(昭和20年代撮影 / 一
堀
越
城の立地と現状
資料編1(古代・中世編)
((2) 戦国時代の堀越城)
(2) 戦国時代の
堀
越
城
堀
越
城は、戦国時代末期、大浦為信による津軽平定作戦の基地として再び姿を現す,元亀二年(一五七一)、為信は巧みに南部高信を偽り、
堀
越
にある「町飛鳥の屋敷」(「
堀
越
の旧城」ともある),この「町飛鳥の屋敷」こそ問題の
堀
越
城である。,当時の
堀
越
城の姿についても、不明としか言いようがない。,は、この時代の
堀
越
城の遺構である可能性が強い。 / (2) 戦国時代の
堀
越
城
資料編1(古代・中世編)
(三 堀越城「縄張り」の復元)
三
堀
越
城「縄張り」の復元
堀
越
城の旧状復元に当たっては、地表からの表面観察に加えて、次の諸資料を用,(1)分限図(明治二十七年測量) ア、大字
堀
越
字柏田 イ、大字
堀
越
字川合 ウ、大字
堀
越
字柳田,図25
堀
越
城跡の古絵図 天和4年
堀
越
村書上絵図 ウ、貴田稲城筆写の古絵図(明治十六年,) 貴田稲城筆写の古絵図 エ、
堀
越
城跡略図(明治四年模写、『史跡
堀
越
城跡・石川バイパス,遺跡発掘調査報告書』一九七八年、所収)』) 図26
堀
越
城跡の見取図 上、
堀
越
城跡略図(明治4 / 三
堀
越
城「縄張り」の復元
資料編1(古代・中世編)
((1) 南北朝時代の「堀越楯」)
(1) 南北朝時代の「
堀
越
楯」
堀
越
城の名が初めて文献に見えるのは、南北朝時代、建武三年(南延元元年,
堀
越
・新里楯の構築はこうした合戦の中で起こったことである。,
堀
の形も掘られた方向も、後の
堀
越
城のものと全く異なるという(『史跡
堀
越
城跡・石川バイパス遺跡発掘調査報告書,断定はできないが、このうち最も古い時期の
堀
が「
堀
越
楯」のものである可能性がある。,その場合、
堀
の発見された場所が平川寄りの東の地区であることから考えて、当初の
堀
越
楯は平川沿いの段丘状の / (1) 南北朝時代の「
堀
越
楯」
資料編1(古代・中世編)
((3) 津軽氏の政庁としての堀越城)
(3) 津軽氏の政庁としての
堀
越
城 『永禄日記』は、天正十五年(一五八七)、「正月より
堀
越
御城所々築直,し、人夫多く出、大工小屋多く懸り申候」と、為信が
堀
越
城を大々的に改修した記事を載せている。,現在見る
堀
越
城の遺構は、この時期のものである。,このとき「在々住居之諸人並大浦御城下面々、
堀
越
え御引
越
被仰付、其外寺社之分も引
越
被仰付候」(『永禄日記,移転を記さないかわりに、領内の寺院を「不残
堀
越
へ御引
越
させ」たと述べている)。 / (3) 津軽氏の政庁としての
堀
越
城
通史編2(近世1)
(三 大浦から堀越への移転~西根から東根へ)
三 大浦から
堀
越
への移転~西根から東根へ 津軽為信は、戦国期以来、津軽(大浦)氏の居城であった大浦(,おおうら)城から、文禄三年(一五九四)に
堀
越
(ほりこし)城へ、さらに慶長十六年(一六一一)には高岡(たかおか / 三 大浦から
堀
越
への移転~西根から東根へ
通史編1(古代・中世)
(堀越城・石川城を中心とした城館群)
堀
越
城・石川城を中心とした城館群
堀
越
城と石川城を中心とした城館群のネットワークについては、まず南部氏,大浦氏はその石川城を津軽領域を掌握する手始めとして攻撃し、その石川城を攻撃する拠点とした場所が
堀
越
城である,なお、大浦氏は
堀
越
城を拠点としていたが、さらに落城させた石川城なども、その後大浦氏が改修して利用していたことが,
堀
越
城や石川城は、現在の当市域の中心地からかなり南に位置しているが、このように石川地域を中心として見た,これらの館跡はすべて同時期に存在していたか不明であるが、小館跡と篠館跡の間にある
堀
や斜面の処理の仕方を /
堀
越
城・石川城を中心とした城館群
通史編2(近世1)
(津軽信枚の越後転封)
心得るようにと申し付けてから帰るようにと、将軍秀忠から直々に命を受けたとあり、一緒に津軽に下る相手役は
堀
直之,このため、六月二十一日秋田藩では島田・
堀
の領内通行に際して、両名にごちそうすることはもとより、付き従う,また、津軽へ下るときは両人へ馬一匹ずつを進上し、津軽から帰るときは島田には太刀折紙・馬代銀一〇〇枚、
堀
へは,を知るヵ) 信枚の
越
後転封を知る 津軽信枚へ
越
後転封指示ヵ 18 領内比内・八森筋の弘前藩の荷物運搬許可,への加増転封につき指示 島田直時・
堀
直之への馳走指示 25 弘前藩へ伝馬・舟貸与の指示 26 / 津軽信枚の
越
後転封
通史編2(近世1)
(越後高田領検地の実施)
越
後高田領検地の実施 天和二年(一六八二)三月十九日、津軽弘前藩江戸留守居役は老中阿部正武より
越
後高田領,
越
後高田領は、親藩(
越
前家)の有力大名松平光長(みつなが)の領するところであったが、相続問題が発展して,検地の実施中、
越
後と弘前の間には飛脚がたびたび往来し、また
越
後へ御用金も送られた(「国日記」天和二年六月十五,また大老
堀
田正俊、勘定頭ら農政専管の諸役人にも同目録を提出した(同前天和三年閏五月二十八日条)。,表14
越
後高田領検地派遣役人表(江戸から派遣) No. /
越
後高田領検地の実施
資料編1(古代・中世編)
(四 城館の構造)
四 城館の構造 慶安二年(一六四九)の「津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳」には、「
堀
越
古城」として、,
堀
越
城の規模と概要が記されている。,図28
堀
越
城縄張り推定復元図
堀
越
城の大手は、曲輪Ⅲの西、弘前から進んできた羽州街道(旧国道七号,図29
堀
越
城縄張り推定復元図(部分拡大) 曲輪Ⅲから曲輪Ⅱに入るには水
堀
跡h2を渡ってゆく。,図30
堀
越
城跡の現状写真と模式図 図31
堀
越
城跡の現状写真と模式図 曲輪Ⅱは、現在一般
通史編2(近世1)
(為信の築城計画)
為信が当時の本拠
堀
越
(ほりこし)城(現弘前市
堀
越
)を捨てて、高岡築城に踏み切った理由は、
堀
越
城が水に弱,「津軽徧覧日記」の慶長十一年(一六〇六)の条に、正月下旬
堀
越
城下が洪水に悩まされていた様子がみえる。,また、城跡内に洪水の痕跡(こんせき)がある程度確認されていることからも(『
堀
越
城跡 前川災害復旧関連工事遺跡発掘調査報告書,』一九七八年 弘前市教育委員会他刊)、
堀
越
の地は津軽氏にとって領国経営の中心地として、必ずしも適切な地
通史編1(古代・中世)
([口絵])
種里城跡(国指定史跡 鰺ヶ沢町) 25 根城(国指定史跡 八戸市) 26 懸仏(
堀
越
城跡出土,) 27 食膳の復元(
堀
越
城跡出土) 28
堀
越
城跡(国指定史跡 弘前市),29
堀
越
城跡東域(平成14年度調査区)
通史編5(近・現代2)
(第五中学校開校)
第五中学校開校 昭和四十一年(一九六六)四月一日、豊田中学校と
堀
越
中学校の統合による弘前市立第五中学校,名目統合のためまだ校舎はなく、豊田校舎と
堀
越
校舎の二つに分かれて発足した。,生徒の間にはよい意味での豊田・
堀
越
の競争意識はあったが、対立意識はほとんどなかった。
通史編4(近・現代1)
(農会の設立と農事改良)
当時の各村ごとの出品点数は、清水三〇八、和徳二四三、豊田一一九、
堀
越
一九四、千年一一九、相馬一三八、東目屋一一一,受賞者のうち、一等賞は、米-成田七太郎(大浦村)・小
堀
章六(
堀
越
村)、稲-木村要作(豊田村)・木村長五郎,)、榲悖(まるめろ)-藤田常正(駒
越
村)、葡萄-藤田葡萄園(
堀
越
村)、林檎苗木-楠美冬次郎(清水村)、,畳表-舘山三次郎(
堀
越
村)、木通(あけび)蔓細工-熊嶋蔓細工購買販売組合(大浦村)・古川喜太郎(同)・,当時の各村ごとの出品点数は、清水一七六、和徳一二八、豊田一二二、
堀
越
九九、千年八九、相馬九三、東目屋八八
通史編1(古代・中世)
(城館調査の今後)
城館調査の今後 青森県の中世考古学をリードした発掘調査は、昭和五十一年(一九七六)から始まった
堀
越
城,写真181 石川城跡内館の
堀
跡 とくに、
堀
跡から出土した下駄・箸・曲物・箆(へら)・取手などの,木製品は、かつて
堀
越
城で出土した遺物に匹敵する内容を示し、陶磁器や鉄製品・銭貨など中世社会を理解できる,さらに、平成九年度(一九九七)に調査した福村城跡では、
堀
跡から橋梁(きょうりょう)の跡が発見され(写真,182 福村城跡発見の橋梁 現在は、弘前市域に限定しても、国史跡となっている弘前城、長勝寺構、
堀
越
城
通史編4(近・現代1)
(町村合併と弘前市制施行)
向外瀬村 清野袋村 豊田村(大字新里)-新里村 境関村 福田村 福村 外崎村 高田村 小比内村
堀
越
村,(大字門外)-門外村
堀
越
村 大清水村 取上村 千年村(大字小栗山)-小栗山村 松木平村 清水森村 ,大川村 新和村(大字種市)-種市村 青女子村 小友村 三和村 笹舘村 船沢村(大字富栄)-富栄村 細
越
村,
堀
越
村-大村
堀
越
村と古城
堀
越
城、旧藩
堀
越
組頭村に由来。
通史編1(古代・中世)
(本城(根城)の城館跡)
)の城館跡 当市域内にある城館跡で、領国支配の拠点的性格をもった戦国期の城館跡としては石川城跡や、
堀
越
城跡,しかし
堀
越
城跡などは、数時期にわたり改変が行われていたことが考古学的な調査によってしだいに明らかとなってきている,また、
堀
越
城跡は大浦氏が近世大名としての家臣団編成を迫られるという必要性の中から造られたものである。
資料編1(古代・中世編)
([口絵])
本文史料一〇九三号) 天正十八年正月十六日 豊臣秀吉判物(本文史料一一〇〇号)
堀
越
城跡全景,(上空南東から)
堀
越
城 曲輪Ⅰ(本丸)土塁
堀
越
城 曲輪Ⅰ遠景(南東から)
資料編3(近世編2)
(1 弘前城の歴史)
1 弘前城の歴史 津軽為信が、その居城を大浦城から
堀
越
城へ移したのが文禄二年(一五九三)であった。,江戸幕府成立後、外様大名の一人として、四万七〇〇〇石を領したが、
堀
越
城では近世的な城下を形成するうえで,早くも翌十六年(一六一一)一月には町方が引き移り、五月には藩主信枚自身が
堀
越
城からの引っ
越
しを行っている
通史編4(近・現代1)
(村会情景)
明治三十年八月十日
堀
越
村臨時村会議事録である。,出席議員 六名 一番小枝彦右衛門 三番小
堀
藤太郎 八番鎌田万次郎 九番五十嵐清次郎,番外収入役館山堅水 開会午後一時 議長 本日臨時村会ヲ開キシハ大字門外ノ倉庫移転ト大字
堀
越
,、川合、大清水倉庫破損箇所修繕ノタメ至急村会ヲ開設セシ次第デアリマス 写真68 明治30年度
堀
越
村議案並議事録綴,レナルヤ 議長 当時土地ハ未タ判然セスト雖トモ多分共有ノ古墓地ヘ移転スル積リデアリマス 十一番 大字
堀
越
通史編5(近・現代2)
(計画案の修正)
②
堀
越
中学校と豊田中学校を統合して新たに一校を設ける。 ,まず、三十六年度には第四中学校と清水中の統合を終え、次いで
堀
越
中と豊田中の廃校統合による第五中学校新設
通史編1(古代・中世)
(調査された館)
石川城(楯)(写真178)・福村城(写真179)・小友館・荼毘(だび)館・独狐(とっこ)館・境関館・
堀
越
城,、発掘面積は少なく、明確に中世段階の生活痕を確認した調査は、中崎館・荼毘館・独狐館・境関館・石川城・
堀
越
城
通史編1(古代・中世)
(大浦氏の城下町建設の流れ)
五年間、近世大名津軽氏の領国支配の本拠として大浦城を利用していたが、同年に大浦から石川城の北側に位置する
堀
越
,(ほりこし)に本拠地を移し、
堀
越
城と
堀
越
城下町の建設に着手する。
通史編3(近世2)
(藩政前期為信)
文禄三年(一五九四)居城を大浦(おおうら)より
堀
越
(ほりこし)へ移し、城下町の形成に着手し、寺社をその,慶長七年(一六〇二)の為信の棟札(同前No.一五一)が現存する弘前神明宮は、初め
堀
越
城内に創建、のち、,別に城内に祀った稲荷宮が、現在
堀
越
にある稲荷宮であり、この地の熊野宮は為信の再興したものという(資料近世,このような状況の中で、翌六年には
堀
越
城の西の清水森に横七間、縦一五間の仮の仏殿を建て、中央に須弥壇(しゅみだん
通史編4(近・現代1)
(戸長の配置)
宮崎文蔵 元大工町 森町 覚仙町 塩分町 元長町 上白銀町 打
越
(,永吉 茂森町 西茂森町 成田俊蔵 茂森新町 古
堀
町, 古
堀
新割町 大島佳寿 新寺町 北新寺町 新寺町新割町 , 吉澤勇馬 新町 工藤寅之助 駒
越
町, 石戸谷惣右衛門 藤代村 川
越
與吉
通史編1(古代・中世)
(福村城跡)
にあり、平川と腰巻(こしまき)川に挟まれた自然堤防上の標高二七~三一メートルに所在し、和徳から大光寺、
堀
越
,この福村城跡から和徳城跡までは約二・五キロメートル、大光寺城跡、
堀
越
城跡へは約三・五キロメートルの距離,その結果、
堀
跡に架けていた「橋脚跡」が検出された。
通史編1(古代・中世)
(衣の道具)
境関館ではみられなかったが、
堀
越
城では文様の施された製品や差歯になった下駄(写真176)、さらに独狐(,写真176
堀
越
城跡三之丸出土の下駄
通史編3(近世2)
(本行寺)
慶長五年(一六〇〇)、為信が関ヶ原の戦いに出陣中、
堀
越
城内の三ツ目内玄蕃等の反乱を日健が和睦させた功により,慶長年間(一五九六~一六一四)、法立寺が
堀
越
より弘前元寺町へ移ると、信枚は本行寺と改称させようとした。
通史編1(古代・中世)
(住の道具)
井戸から汲み上げた水を貯蔵するものとして、陶器の甕や曲物が使われていたと考えられ、陶器では珠洲・
越
前,ふ)き方については、茅(かや)を利用したと考えがちであるが、実際発掘調査で茅が出土する事例は少なく、
堀
越
城,の
堀
跡から大量に出土した薄い割板(津軽地域ではマサという表現をし、柾と表記することが多い)を屋根に葺いていたものと,写真175
堀
越
城
堀
跡出土の割板
通史編4(近・現代1)
(中津軽郡会)
村会議員互選当選者 駒
越
村 石郷岡文吉
堀
越
村 葛西穏 和徳村 川村譲 高杉村,憲政) 千年村 佐藤義雄(憲政) 裾野村 須藤信夫(憲政) 和徳村 福士音太郎(憲政)
堀
越
村
通史編4(近・現代1)
(郡制の施行)
第一回の中津軽郡会議員(定員一六人) 駒
越
村 石郷岡文吉
堀
越
村 葛西穏 和徳村 川村譲,船沢村 高谷貞助 高杉村 外崎平八 岩木村 太田惣六 相馬村 沢田藤太郎 大浦村 前田俊蔵 駒
越
村, 小杉左吉 東目屋村 竹内藤太郎 西目屋村 斎藤弘民(以上一〇人憲政本党)
堀
越
村 工藤長左衛門
通史編3(近世2)
(月峰院)
その後、
堀
越
村(現市内)に移り、慶長年間(一五九六~一六一四)に長勝寺構の中に移った。
資料編1(古代・中世編)
(一 はじめに)
その中には、
堀
越
城跡のように国史跡に指定され(弘前城跡と合わせて「津軽氏城跡」)、公有地化も進められて,文禄三年(一五九四)、津軽為信は、それまでの本拠・大浦城から
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城に移り、ここを津軽領国支配の拠点として,さらに、為信の意志を継いだ二代信枚は、慶長十五年(一六一〇)、高岡の地に新城築城の事業を起こし、翌年、
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,十四世紀半ばの南北朝動乱時代、弘前周辺では南北両党の激戦が繰り広げられ、大光寺楯・石川楯・船水楯・新里楯・
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楯,
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・土塁・切岸などによって仕切られた一区画)など城の防御遺構を把握。
資料編1(古代・中世編)
(新編 弘前市史 資料編1-2 古代・中世編 目次)
……………………………………………………… 四八四 一
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城の立地と現状……………………………,……………… 四八四 二
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城の歴史…………………………………………………… 四八八 ,(1) 南北朝時代の「
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楯」………………………………… 四八八 (2) 戦国時代の
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城……,…………………………………… 四八九 (3) 津軽氏の政庁としての
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城……………………………,……………………………………………………… 四九五 五
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城下(都市としての
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)の構造………
通史編3(近世2)
(安盛寺)
後に
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村(同前)へ移り、慶長年間(一五九六~一六一四)に弘前へ移った。
通史編3(近世2)
(照源寺)
「曹洞諸寺院縁起志」には、創建は
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村(現市内)と温湯村の二説を挙げ、慶長年間(一五九六~一六一四)としている
通史編4(近・現代1)
(大区小区制の成立)
鍛冶町 新鍛冶町 北川端丁 南川端丁 銅屋町 桶屋町 新寺町 北新寺町 新寺町新割丁 茂森新丁 古
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新割丁, 西茂森町 古
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丁 茂森町 在府丁 相良丁 覚仙丁 森丁 塩分町 土手町 住吉丁 山道丁 紙漉町 新品川町,茶畑丁 茶畑新割丁 北横丁 紺屋丁 浜ノ町 五十石町 袋町 鷹匠町 馬屋町 新町 西大工町 平岡町 駒
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町,ヵ村) 菅野村 境関村 福田村 福村 新里村 高田村 外崎村 小比内村 取上村 大清水村 門外村
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村, 中畑村 笹舘村 七小区(一七ヵ村) 熊島村 高屋村 坪貝村 横町村 賀田村 八幡村 植田村 細
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村
通史編4(近・現代1)
(学区の改変)
白銀小学学区は、鷹匠町、江戸町(現中新町地区)、西大工町、駒
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町、馬屋町、茂森町、片
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町(旧古
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町)、
通史編3(近世2)
(耕春院)
耕春院(こうしゅんいん)(現宗徳寺)は、「長勝寺並寺院開山世代調」によれば、曹洞宗現空派に属し、龍泉寺(
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前,「曹洞諸寺院縁起志」には、為信が実父守信のために
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村(現市内)に創建したとある。
通史編1(古代・中世)
(二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)
寺伝では、天文元年(一五三二)僧弘信が
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に建立した金剛山光明寺に始まるという。,法立寺 日蓮宗 京都本 満寺 天文二 (一五三三) 日尋 賀田村 (岩木町) 新寺町
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を経て,本行寺 日蓮宗 京都本 圀寺 天正八 (一五八〇) 日健
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(弘前市) 新寺町 慶長十一年に,西福寺 浄土宗 貞昌寺 慶長(一五九六~ 一六一五)以前 不詳 不詳
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(弘前市) 城下寺町,賀田村(岩木町)→
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→慶長十五(一六一〇)、現在地へ。寺内に「嘉元鐘」あり。
通史編3(近世2)
(西福寺)
「浄土宗諸寺院縁起」は、
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城下に創建し、慶長年間(一五九六~一六一四)に弘前城下元寺町の貞昌寺門内に
通史編5(近・現代2)
(農業会の解体と農協の乱立)
駒
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村 昭和23年3月18日 同右 悪戸 昭和23年3月3日 千年村 清水森 昭和23年3月12日,駒
越
村民主 昭和23年3月24日 豊田村 豊田村 昭和23年4月15日 相馬村 相馬村 昭和23年5,清水 昭和23年4月7日 大浦村 大浦村 昭和23年4月23日 千年村 原ヶ平 昭和23年6月24日
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村,
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村 昭和23年4月7日 豊田村 豊田第一 昭和23年4月23日 新和村 新和村青女子 昭和23年,しかし、単協からの連合会委託は少なく、中津軽郡では、清水村、高杉村、
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村などの経済的力量のある単協は
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