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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (堀越村の場合)

堀越村の場合 中津軽郡堀越村は、明治初年、門外村一〇三戸、堀越村五五戸、堀越村の支村川合村五三戸、取上村三三戸,相馬善左衛門 佐藤卯之吉 阿保福次郎 小堀寅助 工藤長左衛門 (のち村長) 道川太郎   (堀越村,) 工藤辧吉  この一二人は二十二年七月まで在職し、四月から九月までの堀越村の予算を決めていた。,二十二年度の堀越村の歳出入の金額は七〇六円九五銭九厘だった。 / 堀越村の場合
通史編2(近世1) (堀越城の構造)

堀越城の構造 堀越城跡は、弘前市街から旧国道七号を通って石川に至るほぼ中間、市内堀越字川合・柏田にある,図25.堀越城縄張り推定復元図  堀越城下町の形態は、羽州街道に沿って両側に町屋が並び、しかもその,『天和四年堀越村書上絵図』には、羽州街道が堀越の集落に入る東西の入口(石川方面と弘前方面からの入口)に,この東西の二つの木戸に守られた地域こそ、かつての堀越城下町の範囲であった。,図26.堀越城跡の航空写真(平成13年撮影)  なお、堀越城跡から舶載磁器(はくさいじき)・国産陶磁器 / 堀越城の構造
資料編1(考古編) (2.堀越城跡)

2.堀越城跡 (遺跡番号 02043)(図122~124) (国指定史跡 津軽氏城跡)昭和60年11,図122 堀越城跡出土木製品(1) 図123 堀越城跡出土木製品(2) 図124 ,堀越城跡出土木製品(3) 〔文献記載〕 城館編参照 ※参考文献 1) 堀越城跡発掘調査委員会,『堀越城跡…国道7号線バイパス遺跡発掘調査報告書』 1978年 3) 堀越城跡発掘調査委員会・弘前市,「堀越城の発掘」(歴史手帖第5巻4号) 1977年 5) 今井二三夫「堀越城の調査」(中世の考古学- / 2.堀越城跡
通史編1(古代・中世) (堀越城と城下町)

堀越城と城下町 堀越城は、文禄三年(一五九四)に大浦為信が大浦城から堀越に本拠地を移し、慶長十六年(,まず堀越城下町の復元でもっとも基本となった資料は、天和四年(一六八四)の「堀越村書上絵図」と慶安二年(,堀越城は天和の「一国一城令」で廃城となり、堀越は貞享二年(一六八五)には宿場としての機能を失い、農村化,写真206 堀越城跡航空写真  堀越城下町は大きく分けて四つの町屋から構成される。,この町屋1は堀越城の曲輪Ⅳと堀越城の南側の外堀的な性格をもった前川を挟む形で作られている。 / 堀越城と城下町
資料編1(古代・中世編) (五 堀越城下(都市としての堀越)の構造)

五 堀越城下(都市としての堀越)の構造 堀越城の在り方を考える際、重要な問題として城と町場のかかわりがある,(一六八四)の堀越村書上絵図である。,この図にも石川村から進んできた羽州街道が堀越村に入り、堀越城跡(「古城」と記されている)の周りの集落を,では、この堀越城下町の範囲はどこからどこまでであったろうか。,堀越城へ入る大手虎口Aの跡  さらに、この「堀越城下町」の内部は、堀越城の東南の外堀をなす前川と / 五 堀越城下(都市としての堀越)の構造
通史編3(近世2) (御用染屋堀越屋)

御用染屋堀越屋 「国日記」安永五年(一七七六)七月六日条には、堀越屋は先祖から代々年始御目見、染物御用相勤,『津軽古今偉業記』(一九六三年 青森県叢書刊行会刊)の堀越屋軍兵衛の項によると、堀越屋軍兵衛は越後の出身,後、堀越村(現市内堀越)に移り、陣旗・幕染方秘伝を心得ていて、軍事にその染めた品を用いると常に勝利するので,堀越屋軍兵衛の姓名を賜ったという。 / 御用染屋堀越屋
通史編2(近世1) (堀越城への移転)

堀越城への移転 「津軽一統志」(資料近世1No.五六)によれば、為信は、文禄三年(一五九四)、岩木川東岸,の堀越城を居城たるにふさわしいよう修復を加え、大浦城から堀越城へ居城を移転した。,し、人夫多く出、大工小屋多く懸り申候」と、為信が堀越城を大々的に改修した記事を載せている。,すでに為信は、新たな拠点として堀越城に注目しその強化に乗り出したことを知ることができる。,この時期堀越城は大改修され、「政庁」としての機能を果たす大城郭となった。 / 堀越城への移転
通史編2(近世1) (堀越城の限界性)

堀越城の限界性 慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦いの際に為信が遠く関ヶ原へ出陣していた時、尾崎喜蔵(,おざききぞう)・板垣兵部(いたがきひょうぶ)・多田玄蕃(ただげんば)の三人の重臣が謀反を起こし、堀越城,「尾崎ら三人が深浦から堀越城へ帰り、それぞれ城内の自分の屋敷へ引き籠もった。,この記述によれば、堀越城内に重臣尾崎らの屋敷があったこと、武器・弾薬を置く櫓が本丸にあったことがわかる,堀越城は、堀・土塁・塀という設備によって防御すると同時に、重臣の城郭内への取り込み、武器・弾薬の所有を / 堀越城の限界性
資料編1(古代・中世編) (一 堀越城の立地と現状)

一 堀越城の立地と現状 堀越城跡は、弘前市街から旧国道七号を通って石川に至るほぼ中間、市内堀越字川合,城跡のある堀越集落は、岩木川の支流の一つ平川と大和沢川の合流点から南西五〇〇メートルの、津軽平野南部の,この時期、堀越城は大改修され、「政庁」としての機能を果たす大城郭となった。,それゆえ、堀越城及び堀越城下町の実像の解明は、近世大名津軽氏の権力の形成と、津軽地方における中世から近世,I(本丸)の虎口D部分 図24 堀越城跡位置図 堀越城跡の航空写真(昭和20年代撮影 / 一 堀越城の立地と現状
資料編1(古代・中世編) ((2) 戦国時代の堀越城)

(2) 戦国時代の堀越城 堀越城は、戦国時代末期、大浦為信による津軽平定作戦の基地として再び姿を現す,堀越紀伊守守信と名乗り、その子為信が為則の養子となって大浦城主を継いだと記す。,元亀二年(一五七一)、為信は巧みに南部高信を偽り、堀越にある「町飛鳥の屋敷」(「堀越の旧城」ともある),この「町飛鳥の屋敷」こそ問題の堀越城である。,当時の堀越城の姿についても、不明としか言いようがない。 / (2) 戦国時代の堀越城
資料編1(古代・中世編) (三 堀越城「縄張り」の復元)

三 堀越城「縄張り」の復元 堀越城の旧状復元に当たっては、地表からの表面観察に加えて、次の諸資料を用,(1)分限図(明治二十七年測量)   ア、大字堀越字柏田   イ、大字堀越字川合   ウ、大字堀越字柳田,図25 堀越城跡の古絵図 天和4年堀越村書上絵図   ウ、貴田稲城筆写の古絵図(明治十六年,) 貴田稲城筆写の古絵図   エ、堀越城跡略図(明治四年模写、『史跡堀越城跡・石川バイパス,遺跡発掘調査報告書』一九七八年、所収)』) 図26 堀越城跡の見取図 上、堀越城跡略図(明治4 / 三 堀越城「縄張り」の復元
資料編1(古代・中世編) ((1) 南北朝時代の「堀越楯」)

(1) 南北朝時代の「堀越楯」 堀越城の名が初めて文献に見えるのは、南北朝時代、建武三年(南延元元年,建武四年(一三三七)七月日曽我貞光軍忠状案には、当時足利方として行動していた曽我貞光が、前年七月「新里・堀越両所,堀越・新里楯の構築はこうした合戦の中で起こったことである。,堀の形も掘られた方向も、後の堀越城のものと全く異なるという(『史跡堀越城跡・石川バイパス遺跡発掘調査報告書,断定はできないが、このうち最も古い時期の堀が「堀越楯」のものである可能性がある。 / (1) 南北朝時代の「堀越楯」
資料編1(古代・中世編) ((3) 津軽氏の政庁としての堀越城)

(3) 津軽氏の政庁としての堀越城 『永禄日記』は、天正十五年(一五八七)、「正月より堀越御城所々築直,し、人夫多く出、大工小屋多く懸り申候」と、為信が堀越城を大々的に改修した記事を載せている。,現在見る堀越城の遺構は、この時期のものである。,』)、あるいは「寺院並町々共大浦より堀越へ移る」(『封内事実秘苑』)と伝えられている。,移転を記さないかわりに、領内の寺院を「不残堀越へ御引越させ」たと述べている)。   / (3) 津軽氏の政庁としての堀越城
通史編2(近世1) (三 大浦から堀越への移転~西根から東根へ)

三 大浦から堀越への移転~西根から東根へ 津軽為信は、戦国期以来、津軽(大浦)氏の居城であった大浦(,おおうら)城から、文禄三年(一五九四)に堀越(ほりこし)城へ、さらに慶長十六年(一六一一)には高岡(たかおか / 三 大浦から堀越への移転~西根から東根へ
通史編1(古代・中世) (堀越城・石川城を中心とした城館群)

堀越城・石川城を中心とした城館群 堀越城と石川城を中心とした城館群のネットワークについては、まず南部氏,大浦氏はその石川城を津軽領域を掌握する手始めとして攻撃し、その石川城を攻撃する拠点とした場所が堀越城である,なお、大浦氏は堀越城を拠点としていたが、さらに落城させた石川城なども、その後大浦氏が改修して利用していたことが,堀越城や石川城は、現在の当市域の中心地からかなり南に位置しているが、このように石川地域を中心として見た / 堀越城・石川城を中心とした城館群
通史編2(近世1) (為信の築城計画)

為信が当時の本拠堀越(ほりこし)城(現弘前市堀越)を捨てて、高岡築城に踏み切った理由は、堀越城が水に弱,「津軽徧覧日記」の慶長十一年(一六〇六)の条に、正月下旬堀越城下が洪水に悩まされていた様子がみえる。,また、城跡内に洪水の痕跡(こんせき)がある程度確認されていることからも(『堀越城跡 前川災害復旧関連工事遺跡発掘調査報告書,』一九七八年 弘前市教育委員会他刊)、堀越の地は津軽氏にとって領国経営の中心地として、必ずしも適切な地
通史編1(古代・中世) ([口絵])

種里城跡(国指定史跡 鰺ヶ沢町) 25 根城(国指定史跡 八戸市) 26 懸仏(堀越城跡出土,) 27 食膳の復元(堀越城跡出土) 28 堀越城跡(国指定史跡 弘前市),29 堀越城跡東域(平成14年度調査区)
通史編5(近・現代2) (第五中学校開校)

第五中学校開校 昭和四十一年(一九六六)四月一日、豊田中学校と堀越中学校の統合による弘前市立第五中学校,名目統合のためまだ校舎はなく、豊田校舎と堀越校舎の二つに分かれて発足した。,生徒の間にはよい意味での豊田・堀越の競争意識はあったが、対立意識はほとんどなかった。
通史編1(古代・中世) (本城(根城)の城館跡)

)の城館跡 当市域内にある城館跡で、領国支配の拠点的性格をもった戦国期の城館跡としては石川城跡や、堀越城跡,しかし堀越城跡などは、数時期にわたり改変が行われていたことが考古学的な調査によってしだいに明らかとなってきている,また、堀越城跡は大浦氏が近世大名としての家臣団編成を迫られるという必要性の中から造られたものである。
通史編4(近・現代1) (町村合併と弘前市制施行)

向外瀬村 清野袋村 豊田村(大字新里)-新里村 境関村 福田村 福村 外崎村 高田村 小比内村 堀越村,(大字門外)-門外村 堀越村 大清水村 取上村 千年村(大字小栗山)-小栗山村 松木平村 清水森村 ,堀越村-大村堀越村と古城堀越城、旧藩堀越組頭村に由来。
資料編1(古代・中世編) ([口絵])

本文史料一〇九三号) 天正十八年正月十六日 豊臣秀吉判物(本文史料一一〇〇号) 堀越城跡全景,(上空南東から) 堀越城 曲輪Ⅰ(本丸)土塁 堀越城 曲輪Ⅰ遠景(南東から)
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

四 城館の構造 慶安二年(一六四九)の「津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳」には、「堀越古城」として、,堀越城の規模と概要が記されている。,図28 堀越城縄張り推定復元図  堀越城の大手は、曲輪Ⅲの西、弘前から進んできた羽州街道(旧国道七号,図30 堀越城跡の現状写真と模式図 図31 堀越城跡の現状写真と模式図  曲輪Ⅱは、現在一般,図32 堀越城縄張り推定復元図(部分拡大)  曲輪ⅡBの東に、曲輪ⅡCがある。
通史編5(近・現代2) (計画案の修正)

② 堀越中学校と豊田中学校を統合して新たに一校を設ける。  ,まず、三十六年度には第四中学校と清水中の統合を終え、次いで堀越中と豊田中の廃校統合による第五中学校新設
資料編3(近世編2) (1 弘前城の歴史)

1 弘前城の歴史 津軽為信が、その居城を大浦城から堀越城へ移したのが文禄二年(一五九三)であった。,江戸幕府成立後、外様大名の一人として、四万七〇〇〇石を領したが、堀越城では近世的な城下を形成するうえで,早くも翌十六年(一六一一)一月には町方が引き移り、五月には藩主信枚自身が堀越城からの引っ越しを行っている
通史編4(近・現代1) (農会の設立と農事改良)

当時の各村ごとの出品点数は、清水三〇八、和徳二四三、豊田一一九、堀越一九四、千年一一九、相馬一三八、東目屋一一一,受賞者のうち、一等賞は、米-成田七太郎(大浦村)・小堀章六(堀越村)、稲-木村要作(豊田村)・木村長五郎,同)・工藤銀次郎(同)・玉田多作(駒越村)、榲悖(まるめろ)-藤田常正(駒越村)、葡萄-藤田葡萄園(堀越村,)、林檎苗木-楠美冬次郎(清水村)、畳表-舘山三次郎(堀越村)、木通(あけび)蔓細工-熊嶋蔓細工購買販売組合,当時の各村ごとの出品点数は、清水一七六、和徳一二八、豊田一二二、堀越九九、千年八九、相馬九三、東目屋八八
通史編1(古代・中世) (調査された館)

石川城(楯)(写真178)・福村城(写真179)・小友館・荼毘(だび)館・独狐(とっこ)館・境関館・堀越城,、発掘面積は少なく、明確に中世段階の生活痕を確認した調査は、中崎館・荼毘館・独狐館・境関館・石川城・堀越城
通史編4(近・現代1) (村会情景)

明治三十年八月十日堀越村臨時村会議事録である。,番外収入役館山堅水      開会午後一時 議長  本日臨時村会ヲ開キシハ大字門外ノ倉庫移転ト大字堀越,、川合、大清水倉庫破損箇所修繕ノタメ至急村会ヲ開設セシ次第デアリマス 写真68 明治30年度堀越村議案並議事録綴,レナルヤ 議長  当時土地ハ未タ判然セスト雖トモ多分共有ノ古墓地ヘ移転スル積リデアリマス 十一番 大字堀越
通史編1(古代・中世) (大浦氏の城下町建設の流れ)

五年間、近世大名津軽氏の領国支配の本拠として大浦城を利用していたが、同年に大浦から石川城の北側に位置する堀越,(ほりこし)に本拠地を移し、堀越城と堀越城下町の建設に着手する。
通史編1(古代・中世) (城館調査の今後)

城館調査の今後 青森県の中世考古学をリードした発掘調査は、昭和五十一年(一九七六)から始まった堀越城,石川城跡内館の堀跡  とくに、堀跡から出土した下駄・箸・曲物・箆(へら)・取手などの木製品は、かつて堀越城,182 福村城跡発見の橋梁  現在は、弘前市域に限定しても、国史跡となっている弘前城、長勝寺構、堀越城
通史編3(近世2) (藩政前期為信)

文禄三年(一五九四)居城を大浦(おおうら)より堀越(ほりこし)へ移し、城下町の形成に着手し、寺社をその,慶長七年(一六〇二)の為信の棟札(同前No.一五一)が現存する弘前神明宮は、初め堀越城内に創建、のち、,別に城内に祀った稲荷宮が、現在堀越にある稲荷宮であり、この地の熊野宮は為信の再興したものという(資料近世,このような状況の中で、翌六年には堀越城の西の清水森に横七間、縦一五間の仮の仏殿を建て、中央に須弥壇(しゅみだん
通史編3(近世2) (本行寺)

慶長五年(一六〇〇)、為信が関ヶ原の戦いに出陣中、堀越城内の三ツ目内玄蕃等の反乱を日健が和睦させた功により,慶長年間(一五九六~一六一四)、法立寺が堀越より弘前元寺町へ移ると、信枚は本行寺と改称させようとした。
通史編1(古代・中世) (衣の道具)

境関館ではみられなかったが、堀越城では文様の施された製品や差歯になった下駄(写真176)、さらに独狐(,写真176 堀越城跡三之丸出土の下駄
通史編3(近世2) (月峰院)

その後、堀越村(現市内)に移り、慶長年間(一五九六~一六一四)に長勝寺構の中に移った。
通史編3(近世2) (安盛寺)

後に堀越村(同前)へ移り、慶長年間(一五九六~一六一四)に弘前へ移った。
通史編3(近世2) (照源寺)

「曹洞諸寺院縁起志」には、創建は堀越村(現市内)と温湯村の二説を挙げ、慶長年間(一五九六~一六一四)としている
資料編1(古代・中世編) (新編 弘前市史 資料編1-2 古代・中世編 目次)

………………………………………………………  四八四   一 堀越城の立地と現状……………………………,………………  四八四   二 堀越城の歴史……………………………………………………  四八八    ,(1) 南北朝時代の「堀越楯」…………………………………  四八八    (2) 戦国時代の堀越城……,……………………………………  四八九    (3) 津軽氏の政庁としての堀越城……………………………,………………………………………………………  四九五   五 堀越城下(都市としての堀越)の構造………
通史編1(古代・中世) (二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)

寺伝では、天文元年(一五三二)僧弘信が堀越に建立した金剛山光明寺に始まるという。,法立寺 日蓮宗 京都本 満寺 天文二 (一五三三) 日尋 賀田村 (岩木町) 新寺町 堀越を経て,本行寺 日蓮宗 京都本 圀寺 天正八 (一五八〇) 日健 堀越 (弘前市) 新寺町 慶長十一年に,西福寺 浄土宗 貞昌寺 慶長(一五九六~ 一六一五)以前 不詳 不詳 堀越 (弘前市) 城下寺町,賀田村(岩木町)→堀越→慶長十五(一六一〇)、現在地へ。寺内に「嘉元鐘」あり。
通史編3(近世2) (西福寺)

「浄土宗諸寺院縁起」は、堀越城下に創建し、慶長年間(一五九六~一六一四)に弘前城下元寺町の貞昌寺門内に
通史編3(近世2) (海蔵寺)

堀越村(現市内)・大浦坪貝(現中津軽郡岩木町)へ移転し、慶長年間(一五九六~一六一四)、長勝寺構の中に
通史編4(近・現代1) (中津軽郡会)

村会議員互選当選者 駒越村 石郷岡文吉      堀越村 葛西穏 和徳村 川村譲        高杉村,憲政) 千年村  佐藤義雄(憲政)   裾野村 須藤信夫(憲政) 和徳村  福士音太郎(憲政)  堀越村
通史編1(古代・中世) (福村城跡)

にあり、平川と腰巻(こしまき)川に挟まれた自然堤防上の標高二七~三一メートルに所在し、和徳から大光寺、堀越,この福村城跡から和徳城跡までは約二・五キロメートル、大光寺城跡、堀越城跡へは約三・五キロメートルの距離
資料編1(古代・中世編) (二 本章で取り上げる中世城館跡)

(7)千年・石川・堀越地区 26大和沢館(大麻館、一野渡字野尻)、27一野渡館(一野渡字西平山、Bのみ,大沢字堂ヶ平、Bのみ)、31石川城(石川大仏ケ鼻城・石川十三館、石川字大仏・平山・寺山・小山田)、32堀越城,(堀越字川合・柏田)。,(弘前市堀越)   ④ 国吉館・坂本館跡(弘前市国吉・館後)と東目屋地区の城館群   ⑤ 乳井茶臼館跡,そして、③の堀越城は、為信の津軽統一後、二代信枚が高岡(弘前)城に移るまでの十七年間、津軽氏の本拠だった
通史編3(近世2) (法立寺)

文禄三年(一五九四)に堀越、慶長十六年(一六一一)元寺町へ移転、同十七年、信枚は法立寺を本行寺と改称させ
資料編1(古代・中世編) (一 はじめに)

その中には、堀越城跡のように国史跡に指定され(弘前城跡と合わせて「津軽氏城跡」)、公有地化も進められて,文禄三年(一五九四)、津軽為信は、それまでの本拠・大浦城から堀越城に移り、ここを津軽領国支配の拠点として,さらに、為信の意志を継いだ二代信枚は、慶長十五年(一六一〇)、高岡の地に新城築城の事業を起こし、翌年、堀越,十四世紀半ばの南北朝動乱時代、弘前周辺では南北両党の激戦が繰り広げられ、大光寺楯・石川楯・船水楯・新里楯・堀越楯
通史編1(古代・中世) (農の道具)

中崎館では鍬先や鎌、境関館では鎌、堀越城では鍬の木製柄の部分や横杵(よこきね)(砧(きぬた))・槌(つち
通史編4(近・現代1) (郡制の施行)

第一回の中津軽郡会議員(定員一六人) 駒越村  石郷岡文吉   堀越村  葛西穏 和徳村  川村譲,前田俊蔵  駒越村 小杉左吉 東目屋村 竹内藤太郎  西目屋村 斎藤弘民(以上一〇人憲政本党) 堀越村
通史編5(近・現代2) (経済更生運動と計画)

経済更生計画は全村ぐるみで行われ、同計画に基づいて、新和村、船沢村、豊田村、和徳村、堀越村、大浦村、高杉村,和徳村 1,462 617 396,737 643 豊田村 728 492 380,496 773 堀越村,年より作成  経済更生計画は全村ぐるみで行われ、同計画に基づいて、新和村、船沢村、豊田村、和徳村、堀越村
通史編5(近・現代2) (都市計画と道路建設)

3.3.10 元寺町向外瀬線 25 2,050 昭和38年9月18日 昭和59年7月3日 0 3.4.1 和徳堀越線,  1,356 3.4.19 宮川神田線 20 1,050 〃   1,050 3.4.20 紺屋町堀越線,悪戸紺屋町線 12 4,080 昭和38年9月18日 昭和54年1月27日 4,080 3.5.2 堀越大原線
通史編3(近世2) (耕春院)

「曹洞諸寺院縁起志」には、為信が実父守信のために堀越村(現市内)に創建したとある。
通史編3(近世2) ((一)藩主家の菩提寺)

為信は、長勝寺八世格翁(かくおう)を参禅の師とし、堀越城下の形成に当たり長勝寺を種里から堀越へ移し、後
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