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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(古代・中世)
(堀越城と城下町)
堀越
城
と
城
下町
堀越
城
は、文禄三年(一五九四)に大浦為信が大浦
城
から
堀越
に本拠地を移し、慶長十六年(,
堀越
城
は天和の「一国一
城
令」で廃
城
となり、
堀越
は貞享二年(一六八五)には宿場としての機能を失い、農村化,図64
堀越
城
と
堀越
城
下町の地籍図 そしてもう一つは、羽州街道という街道を意識的に
城
のすぐ脇を,写真206
堀越
城
跡航空写真
堀越
城
下町は大きく分けて四つの町屋から構成される。,この町屋1は
堀越
城
の曲輪Ⅳと
堀越
城
の南側の外堀的な性格をもった前川を挟む形で作られている。 /
堀越
城
と
城
下町
通史編2(近世1)
(堀越城の構造)
堀越
城
の構造
堀越
城
跡は、弘前市街から旧国道七号を通って石川に至るほぼ中間、市内
堀越
字川合・柏田にある,図25.
堀越
城
縄張り推定復元図
堀越
城
下町の形態は、羽州街道に沿って両側に町屋が並び、しかもその,この東西の二つの木戸に守られた地域こそ、かつての
堀越
城
下町の範囲であった。,また、町曲輪は、一方を
堀越
城
の堀、外周を前川や水濠によって囲まれた曲輪であり、大浦
城
は「
城
―町曲輪―町,図26.
堀越
城
跡の航空写真(平成13年撮影) なお、
堀越
城
跡から舶載磁器(はくさいじき)・国産陶磁器 /
堀越
城
の構造
資料編1(考古編)
(2.堀越城跡)
2.
堀越
城
跡 (遺跡番号 02043)(図122~124) (国指定史跡 津軽氏
城
跡)昭和60年11,図122
堀越
城
跡出土木製品(1) 図123
堀越
城
跡出土木製品(2) 図124 ,
堀越
城
跡出土木製品(3) 〔文献記載〕
城
館編参照 ※参考文献 1)
堀越
城
跡発掘調査委員会,『
堀越
城
跡…国道7号線バイパス遺跡発掘調査報告書』 1978年 3)
堀越
城
跡発掘調査委員会・弘前市,「
堀越
城
の発掘」(歴史手帖第5巻4号) 1977年 5) 今井二三夫「
堀越
城
の調査」(中世の考古学- / 2.
堀越
城
跡
通史編2(近世1)
(堀越城への移転)
堀越
城
への移転 「津軽一統志」(資料近世1No.五六)によれば、為信は、文禄三年(一五九四)、岩木川東岸,の
堀越
城
を居
城
たるにふさわしいよう修復を加え、大浦
城
から
堀越
城
へ居
城
を移転した。,為信の
堀越
城
進出を可能にした背景には、戦国以来、南部氏が勢力を置いた「西根」地方の大光寺
城
・石川
城
の自力,
堀越
城
は、文禄三年(一五九四)の大浦
城
からの移転後、慶長十六年(一六一一)に二代信枚(のぶひら)が高岡
城
,この時期
堀越
城
は大改修され、「政庁」としての機能を果たす大
城
郭となった。 /
堀越
城
への移転
通史編2(近世1)
(堀越城の限界性)
堀越
城
の限界性 慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦いの際に為信が遠く関ヶ原へ出陣していた時、尾崎喜蔵(,おざききぞう)・板垣兵部(いたがきひょうぶ)・多田玄蕃(ただげんば)の三人の重臣が謀反を起こし、
堀越
城
,「尾崎ら三人が深浦から
堀越
城
へ帰り、それぞれ
城
内の自分の屋敷へ引き籠もった。,この記述によれば、
堀越
城
内に重臣尾崎らの屋敷があったこと、武器・弾薬を置く櫓が本丸にあったことがわかる,
堀越
城
は、堀・土塁・塀という設備によって防御すると同時に、重臣の
城
郭内への取り込み、武器・弾薬の所有を /
堀越
城
の限界性
資料編1(古代・中世編)
(五 堀越城下(都市としての堀越)の構造)
五
堀越
城
下(都市としての
堀越
)の構造
堀越
城
の在り方を考える際、重要な問題として
城
と町場のかかわりがある,
堀越
城
は津軽藩の最初の政庁であり、そこには当然「都市」を伴っていたはずだからである。,この図にも石川村から進んできた羽州街道が
堀越
村に入り、
堀越
城
跡(「古
城
」と記されている)の周りの集落を,では、この
堀越
城
下町の範囲はどこからどこまでであったろうか。,
堀越
城
へ入る大手虎口Aの跡 さらに、この「
堀越
城
下町」の内部は、
堀越
城
の東南の外堀をなす前川と / 五
堀越
城
下(都市としての
堀越
)の構造
資料編1(古代・中世編)
(一 堀越城の立地と現状)
一
堀越
城
の立地と現状
堀越
城
跡は、弘前市街から旧国道七号を通って石川に至るほぼ中間、市内
堀越
字川合,この時期、
堀越
城
は大改修され、「政庁」としての機能を果たす大
城
郭となった。,それゆえ、
堀越
城
及び
堀越
城
下町の実像の解明は、近世大名津軽氏の権力の形成と、津軽地方における中世から近世,
堀越
城
は、藩政時代には種里
城
・大浦
城
とともに「当家の御居
城
」(『津軽一統志』)として重視され、遺構もよく,I(本丸)の虎口D部分 図24
堀越
城
跡位置図
堀越
城
跡の航空写真(昭和20年代撮影 / 一
堀越
城
の立地と現状
資料編1(古代・中世編)
((2) 戦国時代の堀越城)
(2) 戦国時代の
堀越
城
堀越
城
は、戦国時代末期、大浦為信による津軽平定作戦の基地として再び姿を現す,「津軽氏系譜(歴譜)」は、大浦為則の弟甚三郎守信は、はじめ赤石
城
にいたが、後に
堀越
城
主武田重信の養子となって,
堀越
紀伊守守信と名乗り、その子為信が為則の養子となって大浦
城
主を継いだと記す。,元亀二年(一五七一)、為信は巧みに南部高信を偽り、
堀越
にある「町飛鳥の屋敷」(「
堀越
の旧
城
」ともある),当時の
堀越
城
の姿についても、不明としか言いようがない。 / (2) 戦国時代の
堀越
城
資料編1(古代・中世編)
(三 堀越城「縄張り」の復元)
三
堀越
城
「縄張り」の復元
堀越
城
の旧状復元に当たっては、地表からの表面観察に加えて、次の諸資料を用,(1)分限図(明治二十七年測量) ア、大字
堀越
字柏田 イ、大字
堀越
字川合 ウ、大字
堀越
字柳田,図25
堀越
城
跡の古絵図 天和4年
堀越
村書上絵図 ウ、貴田稲
城
筆写の古絵図(明治十六年,) 貴田稲
城
筆写の古絵図 エ、
堀越
城
跡略図(明治四年模写、『史跡
堀越
城
跡・石川バイパス,遺跡発掘調査報告書』一九七八年、所収)』) 図26
堀越
城
跡の見取図 上、
堀越
城
跡略図(明治4 / 三
堀越
城
「縄張り」の復元
資料編1(古代・中世編)
((3) 津軽氏の政庁としての堀越城)
(3) 津軽氏の政庁としての
堀越
城
『永禄日記』は、天正十五年(一五八七)、「正月より
堀越
御
城
所々築直,し、人夫多く出、大工小屋多く懸り申候」と、為信が
堀越
城
を大々的に改修した記事を載せている。,現在見る
堀越
城
の遺構は、この時期のものである。,それゆえ、これらの記録が正しければ、
堀越
城
では家臣団の集住が進められただけで、領内の寺社・商工業者の
城
下集住,」によって、
堀越
城
は廃
城
となった。 / (3) 津軽氏の政庁としての
堀越
城
通史編1(古代・中世)
(堀越城・石川城を中心とした城館群)
堀越
城
・石川
城
を中心とした
城
館群
堀越
城
と石川
城
を中心とした
城
館群のネットワークについては、まず南部氏,大浦氏はその石川
城
を津軽領域を掌握する手始めとして攻撃し、その石川
城
を攻撃する拠点とした場所が
堀越
城
である,なお、大浦氏は
堀越
城
を拠点としていたが、さらに落
城
させた石川
城
なども、その後大浦氏が改修して利用していたことが,や沖館
城
跡・高畑
城
跡・新館
城
跡などの
城
館跡が点在し、南側には森山館跡をはじめとし、大鰐町の蔵館(くらだて,
堀越
城
や石川
城
は、現在の当市域の中心地からかなり南に位置しているが、このように石川地域を中心として見た /
堀越
城
・石川
城
を中心とした
城
館群
資料編1(古代・中世編)
((1) 南北朝時代の「堀越楯」)
(1) 南北朝時代の「
堀越
楯」
堀越
城
の名が初めて文献に見えるのは、南北朝時代、建武三年(南延元元年,建武四年(一三三七)七月日曽我貞光軍忠状案には、当時足利方として行動していた曽我貞光が、前年七月「新里・
堀越
両所,
堀越
・新里楯の構築はこうした合戦の中で起こったことである。,堀の形も掘られた方向も、後の
堀越
城
のものと全く異なるという(『史跡
堀越
城
跡・石川バイパス遺跡発掘調査報告書,断定はできないが、このうち最も古い時期の堀が「
堀越
楯」のものである可能性がある。 / (1) 南北朝時代の「
堀越
楯」
通史編2(近世1)
(三 大浦から堀越への移転~西根から東根へ)
三 大浦から
堀越
への移転~西根から東根へ 津軽為信は、戦国期以来、津軽(大浦)氏の居
城
であった大浦(,おおうら)
城
から、文禄三年(一五九四)に
堀越
(ほりこし)
城
へ、さらに慶長十六年(一六一一)には高岡(たかおか,)
城
(弘前
城
)へとその居
城
を移転していく。,大名の居
城
にはその権力の特徴が顕著に現れており、この居
城
移転の過程と居
城
の構造は、津軽氏が戦国大名から / 三 大浦から
堀越
への移転~西根から東根へ
通史編1(古代・中世)
(本城(根城)の城館跡)
本
城
(根
城
)の
城
館跡 当市域内にある
城
館跡で、領国支配の拠点的性格をもった戦国期の
城
館跡としては石川
城
跡,や、
堀越
城
跡、和徳
城
跡などが挙げられる。,しかし
堀越
城
跡などは、数時期にわたり改変が行われていたことが考古学的な調査によってしだいに明らかとなってきている,)という山
城
と「内館」と呼ばれる曲輪を中心とした平
城
が合体した形の
城
跡である。,また、
堀越
城
跡は大浦氏が近世大名としての家臣団編成を迫られるという必要性の中から造られたものである。 / 本
城
(根
城
)の
城
館跡
通史編2(近世1)
(為信の築城計画)
築
城
計画があったことを推定させる。,為信が当時の本拠
堀越
(ほりこし)
城
(現弘前市
堀越
)を捨てて、高岡築
城
に踏み切った理由は、
堀越
城
が水に弱,「津軽徧覧日記」の慶長十一年(一六〇六)の条に、正月下旬
堀越
城
下が洪水に悩まされていた様子がみえる。,また、
城
跡内に洪水の痕跡(こんせき)がある程度確認されていることからも(『
堀越
城
跡 前川災害復旧関連工事遺跡発掘調査報告書,』一九七八年 弘前市教育委員会他刊)、
堀越
の地は津軽氏にとって領国経営の中心地として、必ずしも適切な地 / 為信の築
城
計画
資料編1(古代・中世編)
(四 城館の構造)
四
城
館の構造 慶安二年(一六四九)の「津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳」には、「
堀越
古
城
」として、,
堀越
城
の規模と概要が記されている。,それによれば、
堀越
古
城
但平
城
大道筋 一、本丸之内東之方卅間、南廿壱間、西廿間、北五拾弐間半,図28
堀越
城
縄張り推定復元図
堀越
城
の大手は、曲輪Ⅲの西、弘前から進んできた羽州街道(旧国道七号,図30
堀越
城
跡の現状写真と模式図 図31
堀越
城
跡の現状写真と模式図 曲輪Ⅱは、現在一般 / 四
城
館の構造
資料編3(近世編2)
(1 弘前城の歴史)
1 弘前
城
の歴史 津軽為信が、その居
城
を大浦
城
から
堀越
城
へ移したのが文禄二年(一五九三)であった。,江戸幕府成立後、外様大名の一人として、四万七〇〇〇石を領したが、
堀越
城
では近世的な
城
下を形成するうえで,そこで新たに「高岡」の地へ新
城
築
城
を計画し、幕府にその許可を求めるとともに、町割りに着手したのが慶長八年,また、材木は近くの山々から伐り出されたものと見られるが、大浦
城
や大光寺
城
など、旧
城
郭の建物を解体したものもあったという,早くも翌十六年(一六一一)一月には町方が引き移り、五月には藩主信枚自身が
堀越
城
からの引っ越しを行っている / 1 弘前
城
の歴史
通史編1(古代・中世)
(城館調査の今後)
城
館調査の今後 青森県の中世考古学をリードした発掘調査は、昭和五十一年(一九七六)から始まった
堀越
城
,その後、弘前
城
跡などと一連の歴史遺産であるとの理解から、昭和六十年(一九八五)には「津軽氏
城
跡」として,その調査結果によると、弘前
城
移封までの津軽氏本拠として、数時期にわたる
城
郭の改修、総構(そうがまえ)的,木製品は、かつて
堀越
城
で出土した遺物に匹敵する内容を示し、陶磁器や鉄製品・銭貨など中世社会を理解できる,、
堀越
城
など毎年のように良好な発掘成果を提示しており、遺跡の保護とともに市民の歴史啓発の場となっている /
城
館調査の今後
通史編1(古代・中世)
(大浦氏の城下町建設の流れ)
同年、種里
城
の光信には大浦
城
を築
城
させ鼻和郡の本拠地とさせた。,利用していたが、同年に大浦から石川
城
の北側に位置する
堀越
(ほりこし)に本拠地を移し、
堀越
城
と
堀越
城
下町,そしてここは近世の弘前
城
と弘前
城
下町が建設されていく慶長十六年(一六一一)まで使われていた。 ,大浦氏が近世大名に成長していく段階で、どのような考え方でそれぞれの
城
と
城
下町建設を進めていったのか。,これらのことを念頭に入れながら各時期の大浦氏の
城
と
城
下町をみていくことにする。 / 大浦氏の
城
下町建設の流れ
通史編1(古代・中世)
(福村城跡)
し、和徳から大光寺、
堀越
への旧街道の拠点となる位置にある。,この福村
城
跡から和徳
城
跡までは約二・五キロメートル、大光寺
城
跡、
堀越
城
跡へは約三・五キロメートルの距離,福村
城
跡は後世に書かれた『本藩通観録』や『津軽歴代記類』などの史料によると、築
城
年代は天正二年(一五七四,そしてこの福村
城
は、大浦氏が元亀二年(一五七一)に大浦
城
を築いた時に、その支
城
のひとつとして造られたと,図79 福村
城
跡の地籍図 発掘調査は、平成九年(一九九七)十月から行われた。 / 福村
城
跡
通史編1(古代・中世)
([口絵])
21 田向冷水遺跡(八戸市) 22 山元(1)遺跡(浪岡町) 23 浪岡
城
跡,(国指定史跡 浪岡町) 24 種里
城
跡(国指定史跡 鰺ヶ沢町) 25 根
城
(国指定史跡, 八戸市) 26 懸仏(
堀越
城
跡出土) 27 食膳の復元(
堀越
城
跡出土),28
堀越
城
跡(国指定史跡 弘前市) 29
堀越
城
跡東域(平成14年度調査区)
資料編1(古代・中世編)
(二 本章で取り上げる中世城館跡)
(5)市街地区 ⑳和徳
城
(和徳町)、21鷹ヶ岡
城
(のちの弘前
城
、下白銀町)、22出間(でま)館(銅屋町,(7)千年・石川・
堀越
地区 26大和沢館(大麻館、一野渡字野尻)、27一野渡館(一野渡字西平山、Bのみ,石川大仏ケ鼻
城
・石川十三館、石川字大仏・平山・寺山・小山田)、32
堀越
城
(
堀越
字川合・柏田)。,③
堀越
城
跡(弘前市
堀越
) ④ 国吉館・坂本館跡(弘前市国吉・館後)と東目屋地区の
城
館群 ,そして、③の
堀越
城
は、為信の津軽統一後、二代信枚が高岡(弘前)
城
に移るまでの十七年間、津軽氏の本拠だった / 二 本章で取り上げる中世
城
館跡
資料編1(古代・中世編)
(二 大浦城の歴史)
さらに文亀二年(一五〇二)、南部大浦光信は「花輪郡賀田郷」の地に築
城
、「大浦ノ
城
」と名付け、嫡子盛信を,本
城
であった。,しかし文禄三年(一五九四)、津軽為信は
堀越
城
を修築して移り、大浦の寺院・町々も移転させたという(『永禄日記,その後も大浦
城
は、
堀越
・高岡(弘前)
城
の支
城
として存続したが、元和元年(一六一五)の「一国一
城
令」によって,廃
城
となった。 / 二 大浦
城
の歴史
資料編1(古代・中世編)
([口絵])
本文史料一〇九三号) 天正十八年正月十六日 豊臣秀吉判物(本文史料一一〇〇号)
堀越
城
跡全景,(上空南東から)
堀越
城
曲輪Ⅰ(本丸)土塁
堀越
城
曲輪Ⅰ遠景(南東から),石川大仏ケ鼻
城
跡遠景(南東から) 石川
城
跡内館地区遠景(南方丘陵上から) 坂本館跡遠景
通史編4(近・現代1)
(町村合併と弘前市制施行)
向外瀬村 清野袋村 豊田村(大字新里)-新里村 境関村 福田村 福村 外崎村 高田村 小比内村
堀越
村,(大字門外)-門外村
堀越
村 大清水村 取上村 千年村(大字小栗山)-小栗山村 松木平村 清水森村 ,
堀越
村-大村
堀越
村と古
城
堀越
城
、旧藩
堀越
組頭村に由来。,和徳村-大村和徳村と古
城
和徳
城
、旧藩和徳組頭村に由来。,石川村-大村石川村と歴史上有名な石川
城
の所在地である。 裾野村-岩木山麓の村である。
通史編1(古代・中世)
(調査された館)
ただ文献上から
城
館主を特定できる
城
館が少ないことも事実である。 ,弘前市域では現在まで五〇ヵ所の中世
城
館が確認されており、中崎館をはじめ石川
城
(楯)(写真178)・福村
城
,(写真179)・小友館・荼毘(だび)館・独狐(とっこ)館・境関館・
堀越
城
・出間(でま)館・鷹ヶ岡
城
・乳井茶臼館,写真178 石川
城
跡航空写真 写真179 福村
城
跡航空写真 しかしながら、発掘面積は,少なく、明確に中世段階の生活痕を確認した調査は、中崎館・荼毘館・独狐館・境関館・石川
城
・
堀越
城
・福村
城
通史編3(近世2)
(藩政前期為信)
、落
城
後は
城
番に当たらせた(『記類』)。,文禄三年(一五九四)居
城
を大浦(おおうら)より
堀越
(ほりこし)へ移し、
城
下町の形成に着手し、寺社をその,慶長七年(一六〇二)の為信の棟札(同前No.一五一)が現存する弘前神明宮は、初め
堀越
城
内に創建、のち、,別に
城
内に祀った稲荷宮が、現在
堀越
にある稲荷宮であり、この地の熊野宮は為信の再興したものという(資料近世,このような状況の中で、翌六年には
堀越
城
の西の清水森に横七間、縦一五間の仮の仏殿を建て、中央に須弥壇(しゅみだん
通史編2(近世1)
(信枚の築城)
信枚の築
城
弘前
城
築
城
が着手されたのは慶長十五年(一六一〇)のことで、一月に領内に人夫の割り当てを行,六月一日から
城
を築き始めた。,大光寺
城
や大浦
城
の門も移築され、外北門(通称亀甲門)、内北門(通称賀田(よした)門、現存しない)になった,築
城
のため、大工などの職人も多数江戸やその他の地域から呼び寄せ、
城
は一年足らずの内にほとんど完成した。,慶長十六年(一六一一)には
城
の築造がなったため、
堀越
より神社・仏閣、大小諸武士の屋敷、職人・商人の居宅 / 信枚の築
城
資料編1(古代・中世編)
(新編 弘前市史 資料編1-2 古代・中世編 目次)
五 大浦
城
と「
城
下」の構造……………………………………… 四七九 第四節
堀越
城
跡……………,の「
堀越
楯」………………………………… 四八八 (2) 戦国時代の
堀越
城
……………………………,
堀越
城
「縄張り」の復元……………………………………… 四九一 四
城
館の構造………………………,……………………………… 四九五 五
堀越
城
下(都市としての
堀越
)の構造………………………… ,大浦
城
及び
城
下推定復元図
堀越
城
縄張り推定復元図・
堀越
城
及び
城
下推定復元図 国吉館縄張
資料編1(古代・中世編)
(一 大浦城の立地と現状)
一 大浦
城
の立地と現状 大浦
城
跡は、弘前
城
の西方およそ四・三キロメートル、中津軽郡岩木町五代字早稲田,この
城
の名を「大浦
城
」、別名「西根の
城
」(『奥羽永慶軍記』)というのはそのためである。,大浦
城
は、元和元年(一六一五)のいわゆる「一国一
城
令」によって廃
城
となったが、津軽氏のルーツをなす
城
の,一つであることから、種里
城
・
堀越
城
とともに重視され、藩政期を通じて旧西の丸に「賀田塩硝御蔵」が設けられて,大浦
城
の周辺(旧
城
下町地区) 百沢街道と大浦
城
の大手 大浦
城
の
城
下,賀田地区 図 / 一 大浦
城
の立地と現状
通史編1(古代・中世)
(衣の道具)
境関館ではみられなかったが、
堀越
城
では文様の施された製品や差歯になった下駄(写真176)、さらに独狐(,写真176
堀越
城
跡三之丸出土の下駄
通史編3(近世2)
(西福寺)
「浄土宗諸寺院縁起」は、
堀越
城
下に創建し、慶長年間(一五九六~一六一四)に弘前
城
下元寺町の貞昌寺門内に
資料編1(古代・中世編)
(一 はじめに)
その中には、
堀越
城
跡のように国史跡に指定され(弘前
城
跡と合わせて「津軽氏
城
跡」)、公有地化も進められて,文禄三年(一五九四)、津軽為信は、それまでの本拠・大浦
城
から
堀越
城
に移り、ここを津軽領国支配の拠点として,
堀越
から移転する(寛永五年・一六二八、高岡は弘前と改称される)。 ,十四世紀半ばの南北朝動乱時代、弘前周辺では南北両党の激戦が繰り広げられ、大光寺楯・石川楯・船水楯・新里楯・
堀越
楯,だが、かつての中世
城
館研究の大部分は、いわば〝
城
主の歴史〟の研究であって、
城
郭自体の構造的な特徴や、
城
館
通史編1(古代・中世)
(二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)
寺伝では、天文元年(一五三二)僧弘信が
堀越
に建立した金剛山光明寺に始まるという。,法立寺 日蓮宗 京都本 満寺 天文二 (一五三三) 日尋 賀田村 (岩木町) 新寺町
堀越
を経て,本行寺 日蓮宗 京都本 圀寺 天正八 (一五八〇) 日健
堀越
(弘前市) 新寺町 慶長十一年に,西福寺 浄土宗 貞昌寺 慶長(一五九六~ 一六一五)以前 不詳 不詳
堀越
(弘前市)
城
下寺町,賀田村(岩木町)→
堀越
→慶長十五(一六一〇)、現在地へ。寺内に「嘉元鐘」あり。
通史編3(近世2)
(本行寺)
慶長五年(一六〇〇)、為信が関ヶ原の戦いに出陣中、
堀越
城
内の三ツ目内玄蕃等の反乱を日健が和睦させた功により,慶長年間(一五九六~一六一四)、法立寺が
堀越
より弘前元寺町へ移ると、信枚は本行寺と改称させようとした。
通史編3(近世2)
(寛政期の城下)
寛政期の
城
下 寛政期には
城
下の景観が大きく変化する出来事があった。,寛政七年(一七九五)の「御家中在宅之族(やから)村寄」(同前No.八五)によれば、藤代組・和徳組・高杉組・
堀越
組,なお、同五年の「御家中潰(つぶれ)町之事」(前掲『弘前
城
下史料』上)によれば、
城
南では在府町後通りと同新割町,、
城
西では馬屋町・新町・鷹匠町・五十石町、
城
北では若党町・小人町・春日町、
城
東では長坂町など一七町、また,結局、この政策は失敗に終わり、在宅者たちは再び弘前
城
下へ戻って来ることになった。 / 寛政期の
城
下
通史編3(近世2)
(神明宮)
神明宮 神明宮(現弘前神明宮)は、慶長七年(一六〇二)、為信が鎮護国家のため
堀越
城
内に創建し、信枚によって,築
城
された弘前
城
内へ移転されたものとみられる(資料近世1No.一五一・同2No.四一七)。,寛永四年(一六二七)、天守閣が落雷により焼失した時、御神体を背負って
城
の東北へ避難させた者が、後に伊勢神宮
通史編1(古代・中世)
(農の道具)
中崎館では鍬先や鎌、境関館では鎌、
堀越
城
では鍬の木製柄の部分や横杵(よこきね)(砧(きぬた))・槌(つち
通史編3(近世2)
((一)藩主家の菩提寺)
(一)藩主家の菩提寺 大浦光信は大永六年(一五二六)十月八日、種里
城
(現西津軽郡鰺ヶ沢町)で臨終の際,為信は、長勝寺八世格翁(かくおう)を参禅の師とし、
堀越
城
下の形成に当たり長勝寺を種里から
堀越
へ移し、後,に大浦
城
下賀田(よした)(現中津軽郡岩木町)に移した。,同十五年、高岡(現弘前市)に築
城
すると、長勝寺も賀田より移転させ、長勝寺構の中心に据えた。
通史編5(近・現代2)
(都市計画と道路建設)
3.3.10 元寺町向外瀬線 25 2,050 昭和38年9月18日 昭和59年7月3日 0 3.4.1 和徳
堀越
線,805 3.4.13 藤崎弘前線 16.5 1,260 昭和48年11月22日 0 3.4.18 東
城
北宮川線, 1,356 3.4.19 宮川神田線 20 1,050 〃 1,050 3.4.20 紺屋町
堀越
線,16 2,500 〃 平成9年7月18日 1,500 3.4.31
城
東中央福村線 16 2,250,悪戸紺屋町線 12 4,080 昭和38年9月18日 昭和54年1月27日 4,080 3.5.2
堀越
大原線
資料編1(考古編)
(7.陶磁器の組成)
堀越
城
は、16世紀を主体とするため舶載陶磁器では染付、国産陶磁器では美濃灰釉の比率が高い。,表3 青森県内遺跡出土陶磁器数(破片により集計) 中崎館 荼毘館 境関館 独狐 遺跡
堀越
城
尻八館,浪岡
城
内館 浪岡
城
北館 根
城
浜通 遺跡 青磁 12 12 220 4 2 56 1833,浪岡
城
内館も、舶載陶磁器を60%の比率で出土し尻八館と同様であるが、染付の比率は浪岡
城
内館が多くなる。,その傾向は浪岡
城
北館でも同様であり、白磁と珠洲の比率が低くなる以外構成は類似している。
資料編1(古代・中世編)
([付図])
[付図] 石川
城
縄張り推定復元図 乳井茶臼館縄張り推定復元図 大浦
城
縄張り推定復元図, 大浦
城
及び
城
下推定復元図 国吉館縄張り推定復元図 坂本館縄張り推定復元図,
堀越
城
縄張り推定復元図
堀越
城
及び
城
下推定復元図 弘前市周辺の板碑分布図,96 大光寺小館 31 新館(石川十三館のうち) 97 大光寺古館 32
堀越
城
98 大光寺
城
33,120 八幡館 55 高館
城
121 三ッ目内
城
(1)〔高館
城
〕 56 山下館〔兼平館〕 122 三ッ
資料編1(考古編)
(第7節 出土遺物と生活)
中世に入ると、浪岡
城
や根
城
では、五鈷杵・銅椀・高台・仏像・香炉・鉦・鈴・数珠・塔婆・柿経といった例があり,
堀越
城
跡出土人骨は三ノ丸の堀跡改修に関連するものであろうか、明確なことは分からない。,図23 陶磁器に書かれた文字(浪岡
城
跡出土資料) 木製品に墨書で書かれた例は、浪岡
城
跡において,
堀越
城
では木器の表面に達筆な文字で書かれた事例が存在するが判読までには至っていない。 ,図24 浪岡
城
出土墨書例
通史編1(古代・中世)
(住の道具)
、最近まで民俗事例として残っていた松ヤニなどの油を燃やす「シデバチ」といわれる石製の鉢は境関館や浪岡
城
から,井戸の作事をみると、中崎館のように曲物を井筒として使用したり(写真174)、浪岡
城
では隅柱にほぞ穴を穿,ふ)き方については、茅(かや)を利用したと考えがちであるが、実際発掘調査で茅が出土する事例は少なく、
堀越
城
,写真175
堀越
城
堀跡出土の割板
通史編1(古代・中世)
(藤崎城と中世都市)
藤崎
城
と中世都市 戦国期の
城
下町ということでみるならば、藤崎町の
城
下町も津軽地域における特異な手法によって,さらに、近世の津軽藩時代には藤崎
城
が廃
城
となっていることから、こうしたカギ型街路が作られることは、近世,写真207 藤崎
城
周辺の天和の絵図面 その絵図でみると、藤崎
城
は一辺一〇〇メートル×,「外構」とは、「外の構え」というように、
城
の中でも、
城
主や一族・家臣などが居住する
城
館の中心部とはある,このことは藤崎
城
を管轄していた権力者が、種里や大浦・
堀越
といった大浦氏の
城
下町建設の発想とは異なった、 / 藤崎
城
と中世都市
資料編1(古代・中世編)
((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)
・大光寺
城
主葛西頼清を討って津軽を平定し、石川大淵岬(大仏ケ鼻)に築
城
。,である石川
城
を重視して、重臣板垣兵部を
城
代に置きこの
城
を守らせた。,にも、元長峰館・唐牛(かろうじ)
城
などの
城
郭が連なっている。,これらの
城
館も単独ではなく、南部高信時代の三戸との「繋(つな)ぎの
城
」、あるいは板垣兵部時代の石川
城
防衛,尾崎喜蔵・三ツ目内玄蕃とともに主君為信に叛(そむ)き、
堀越
城
を占拠しようとして失敗。 / (2)戦国時代の「石川
城
(石川大仏ケ鼻
城
)」
通史編3(近世2)
(長勝寺)
長勝寺 長勝寺(ちょうしょうじ)は、大永六年(一五二六)、大浦光信が種里
城
(現西津軽郡鰺ヶ沢町)で死去,為信の時に種里から
堀越
城
下・大浦
城
下と移転し、寺領二〇〇石の寄進を受けた。,慶長十五年(一六一〇)、弘前
城
築
城
にあたり、防衛のために長勝寺構(ちょうしょうじがまえ)がつくられ、長勝寺,この時、庫裡(くり)は大浦
城
の建築物を移して使用した。
通史編4(近・現代1)
(道路改修問題と佐和知事)
表20 弘前市関係各道路線表 名称 起線 経過市町村 終尾 第41号国道 青森市長島 滝内村、新
城
村、,大杉村、浪岡村、藤崎村、和徳村、弘前市元寺町、同親方町、同松森町、
堀越
村、石川村、大鰐村、蔵館村、碇ケ,輜重兵第八大隊兵営 弘前市新寺町 清水村富田樹木派立 輜重営 騎兵第八聯隊兵営 第八師団司令部 弘前市富田町、
堀越
村取上
通史編3(近世2)
(二代信枚)
二代信枚 信枚は、慶長十五年(一六一〇)に高岡(たかおか)(現弘前市)に築
城
を開始すると、
城
下町形成,に当たり
堀越
や在方から寺社を移転させ、
城
下防衛の役割を負わせるとともに、寺社を通じて領民の掌握に当たった,図189.茂森禅林街 元寺町(もとてらまち)へ集めた寺院は「正保
城
絵図」(資料近世1No.七一六,弘前総鎮守の八幡宮(現弘前八幡宮)は、古くからあった熊野宮(現熊野奥照(くまのおくてる)神社)の地が
城
の,鬼門に当たるとして八幡(やわた)村(現中津軽郡岩木町)から移転させ、別当最勝院は
堀越
から賀田(同前)へ
資料編1(考古編)
(第3節 中世・近世の住居と集落)
城
館 9 蓬田大館遺跡 蓬田村 12,15 竪穴
城
館 10 尻八館跡 青森市 14,15 掘立・竪穴,
城
館 12 朝日山遺跡 青森市 15 掘立 屋敷 14 種里
城
跡 鰺ヶ沢町 15,16 掘立・竪穴,
城
館 25 源常平遺跡 浪岡町 13,16 掘立・竪穴
城
館 26 浪岡
城
跡 浪岡町 12,15,16,16,17 掘立・竪穴
城
館 56 七戸
城
跡 七戸町 16 掘立・竪穴
城
館 57 矢館跡 七戸町 16,掘立・竪穴
城
館 60
堀越
城
跡 弘前市 16 掘立・竪穴
城
館 61 中崎館跡 弘前市 12 掘立
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