• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 98件
辞書ファセット
/ 2ページ
通史編4(近・現代1) (堀越村の場合)

堀越村の場合 中津軽郡堀越村は、明治初年、門外村一〇三戸、堀越村五五戸、堀越村の支村川合村五三戸、取上村三三戸,川村元作 葛西穏    (のち村長) 三浦又吉 板垣九十九 小枝彦右衛門 相馬善左衛門 佐藤卯之吉,阿保福次郎 小堀寅助 工藤長左衛門 (のち村長) 道川太郎   (堀越村) 工藤辧吉  ,この一二人は二十二年七月まで在職し、四月から九月までの堀越村の予算を決めていた。,二十二年度の堀越村の歳出入の金額は七〇六円九五銭九厘だった。 / 堀越村の場合
通史編2(近世1) (堀越城の構造)

堀越城の構造 堀越城跡は、弘前市街から旧国道七号を通って石川に至るほぼ中間、市内堀越字川合・柏田にある,城跡のある堀越集落は、岩木川の支流の一つ平川と大和沢(おおわさわ)川の合流点から南西五〇〇メートルの、,図25.堀越城縄張り推定復元図  堀越城下町の形態は、羽州街道に沿って両側に町屋が並び、しかもその,『天和四年堀越村書上絵図』には、羽州街道が堀越の集落に入る東西の入口(石川方面と弘前方面からの入口)に,また、町曲輪は、一方を堀越城の堀、外周を前川や水濠によって囲まれた曲輪であり、大浦城は「城―町曲輪―町 / 堀越城の構造
資料編1(考古編) (2.堀越城跡)

月15日指定 (1)所在地 弘前市大字堀越字川合 (2)立地・環境  弘前市街地の南東一級河川平川,図122 堀越城跡出土木製品(1) 図123 堀越城跡出土木製品(2) 図124 ,堀越城跡出土木製品(3) 〔文献記載〕 城館編参照 ※参考文献 1) 堀越城跡発掘調査委員会,『堀越城跡…国道7号線バイパス遺跡発掘調査報告書』 1978年 3) 堀越城跡発掘調査委員会・弘前市,・弘前市教育委員会『堀越城跡…前川災害復旧関連工事発掘調査報告書』 1979年3月 4) 今井二三夫 / 2.堀越城跡
資料編1(古代・中世編) (五 堀越城下(都市としての堀越)の構造)

五 堀越城下(都市としての堀越)の構造 堀越城の在り方を考える際、重要な問題として城と町場のかかわりがある,この図にも石川村から進んできた羽州街道が堀越村に入り、堀越城跡(「古城」と記されている)の周りの集落を,注目すべきは、天和の絵図では、羽州街道が堀越の集落に入る東西の入口(石川方面と弘前方面からの入口)に、,堀越城へ入る大手虎口Aの跡  さらに、この「堀越城下町」の内部は、堀越城の東南の外堀をなす前川と,そして、①の「町曲輪Ⅰ・Ⅱ」の地区は、一方を堀越城の堀、外周を前川や水濠(現在は用水路)によって囲まれた / 五 堀越城下(都市としての堀越)の構造
通史編1(古代・中世) (堀越城と城下町)

堀越城と城下町 堀越城は、文禄三年(一五九四)に大浦為信が大浦城から堀越に本拠地を移し、慶長十六年(,地籍図(図64)などをみる限りにおいて、堀越城下町の範囲は、羽州街道が石川方面から向かってきて堀越の集落,まず石川方面から堀越に向かって入ってきた部分が「町屋1」である。,この町屋1は堀越城の曲輪Ⅳと堀越城の南側の外堀的な性格をもった前川を挟む形で作られている。,後世の伝承などでは、堀越城は前川の洪水にたびたび襲われ被害を受けていたことなどから、弘前城の城下町建設 / 堀越城と城下町
通史編2(近世1) (堀越城への移転)

堀越城への移転 「津軽一統志」(資料近世1No.五六)によれば、為信は、文禄三年(一五九四)、岩木川東岸,の堀越城を居城たるにふさわしいよう修復を加え、大浦城から堀越城へ居城を移転した。,すでに為信は、新たな拠点として堀越城に注目しその強化に乗り出したことを知ることができる。,為信の堀越城進出を可能にした背景には、戦国以来、南部氏が勢力を置いた「西根」地方の大光寺城・石川城の自力,この時期堀越城は大改修され、「政庁」としての機能を果たす大城郭となった。 / 堀越城への移転
通史編2(近世1) (堀越城の限界性)

堀越城の限界性 慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦いの際に為信が遠く関ヶ原へ出陣していた時、尾崎喜蔵(,「尾崎ら三人が深浦から堀越城へ帰り、それぞれ城内の自分の屋敷へ引き籠もった。,また慶長十一年正月には、堀越川(平川)が大洪水を起こし、町屋まで浸水するという事件があった(同前No.,実際、堀越城跡の発掘調査では、平川の氾濫原に位置していたため、たびたび洪水に見舞われたと報告されている,堀越城は、岩木川東岸で浅瀬石川・平川に囲まれた地帯へ津軽氏が進出する拠点として、政治的・経済的な側面に / 堀越城の限界性
資料編1(古代・中世編) (一 堀越城の立地と現状)

一 堀越城の立地と現状 堀越城跡は、弘前市街から旧国道七号を通って石川に至るほぼ中間、市内堀越字川合,城跡のある堀越集落は、岩木川の支流の一つ平川と大和沢川の合流点から南西五〇〇メートルの、津軽平野南部の,堀越の地は、中世において津軽平賀郡に属していたが、この地は津軽平野南部を南北に縦断して流れる平川(中世,には平賀川・堀越川などと呼ばれた)のすぐ西岸に位置し、平賀・石川・大鰐を中心とする「東根」地方と、鼻和,それゆえ、堀越城及び堀越城下町の実像の解明は、近世大名津軽氏の権力の形成と、津軽地方における中世から近世 / 一 堀越城の立地と現状
資料編1(古代・中世編) ((2) 戦国時代の堀越城)

(2) 戦国時代の堀越城 堀越城は、戦国時代末期、大浦為信による津軽平定作戦の基地として再び姿を現す,元亀二年(一五七一)、為信は巧みに南部高信を偽り、堀越にある「町飛鳥の屋敷」(「堀越の旧城」ともある),五月、ここを前進拠点として一気に石川城を攻略した。この「町飛鳥の屋敷」こそ問題の堀越城である。,当時の堀越城の姿についても、不明としか言いようがない。,は、この時代の堀越城の遺構である可能性が強い。 / (2) 戦国時代の堀越城
資料編1(古代・中世編) (三 堀越城「縄張り」の復元)

三 堀越城「縄張り」の復元 堀越城の旧状復元に当たっては、地表からの表面観察に加えて、次の諸資料を用,(1)分限図(明治二十七年測量)   ア、大字堀越字柏田   イ、大字堀越字川合   ウ、大字堀越字柳田,図25 堀越城跡の古絵図 天和4年堀越村書上絵図   ウ、貴田稲城筆写の古絵図(明治十六年,) 貴田稲城筆写の古絵図   エ、堀越城跡略図(明治四年模写、『史跡堀越城跡・石川バイパス,遺跡発掘調査報告書』一九七八年、所収)』) 図26 堀越城跡の見取図 上、堀越城跡略図(明治4 / 三 堀越城「縄張り」の復元
資料編1(古代・中世編) ((1) 南北朝時代の「堀越楯」)

(1) 南北朝時代の「堀越楯」 堀越城の名が初めて文献に見えるのは、南北朝時代、建武三年(南延元元年,新里もまた堀越北方の平川沿いの土地であり、ともに貞光が本拠の岩楯・大光寺を守る前線拠点として構えたものであろう,南北朝時代の「堀越楯」の実体については不明だが、一九七六~七七年、国道七号石川バイパス建設に伴う緊急調査,堀の形も掘られた方向も、後の堀越城のものと全く異なるという(『史跡堀越城跡・石川バイパス遺跡発掘調査報告書,その場合、堀の発見された場所が平川寄りの東の地区であることから考えて、当初の堀越楯は平川沿いの段丘状の / (1) 南北朝時代の「堀越楯」
資料編1(古代・中世編) ((3) 津軽氏の政庁としての堀越城)

(3) 津軽氏の政庁としての堀越城 『永禄日記』は、天正十五年(一五八七)、「正月より堀越御城所々築直,し、人夫多く出、大工小屋多く懸り申候」と、為信が堀越城を大々的に改修した記事を載せている。,これに対し堀越は、津軽の西根と東根の接点にあり、かつての南部高信の本拠石川城にも近く、津軽の政治的中心,現在見る堀越城の遺構は、この時期のものである。,天藤騒動の際の乱入事件、さらに同十一年の堀越川(平川)大洪水など不祥事が相次ぎ、軍事的・地形的欠陥が明 / (3) 津軽氏の政庁としての堀越城
通史編1(古代・中世) (堀越城・石川城を中心とした城館群)

堀越城・石川城を中心とした城館群 堀越城と石川城を中心とした城館群のネットワークについては、まず南部氏,大浦氏はその石川城を津軽領域を掌握する手始めとして攻撃し、その石川城を攻撃する拠点とした場所が堀越城である,なお、大浦氏は堀越城を拠点としていたが、さらに落城させた石川城なども、その後大浦氏が改修して利用していたことが,堀越城や石川城は、現在の当市域の中心地からかなり南に位置しているが、このように石川地域を中心として見た,このように石川城跡周辺、とくに石川城跡の南側に造られた城館群の大きな特徴としては、交通の要衝地、あるいは / 堀越城・石川城を中心とした城館群
通史編2(近世1) (為信の築城計画)

為信が当時の本拠堀越(ほりこし)城(現弘前市堀越)を捨てて、高岡築城に踏み切った理由は、堀越城が水に弱,「津軽徧覧日記」の慶長十一年(一六〇六)の条に、正月下旬堀越城下が洪水に悩まされていた様子がみえる。,また、城跡内に洪水の痕跡(こんせき)がある程度確認されていることからも(『堀越城跡 前川災害復旧関連工事遺跡発掘調査報告書,』一九七八年 弘前市教育委員会他刊)、堀越の地は津軽氏にとって領国経営の中心地として、必ずしも適切な地
通史編4(近・現代1) (町村合併と弘前市制施行)

中津軽郡一六村のうち、現在弘前市になっている旧村と南津軽郡石川村を構成した村(大字)を挙げる。,向外瀬村 清野袋村 豊田村(大字新里)-新里村 境関村 福田村 福村 外崎村 高田村 小比内村 堀越村,(大字門外)-門外村 堀越村 大清水村 取上村 千年村(大字小栗山)-小栗山村 松木平村 清水森村 ,堀越村-大村堀越村と古城堀越城、旧藩堀越組頭村に由来。,石川村-大村石川村と歴史上有名な石川城の所在地である。 裾野村-岩木山麓の村である。
通史編1(古代・中世) (本城(根城)の城館跡)

本城(根城)の城館跡 当市域内にある城館跡で、領国支配の拠点的性格をもった戦国期の城館跡としては石川城跡,や、堀越城跡、和徳城跡などが挙げられる。,しかし堀越城跡などは、数時期にわたり改変が行われていたことが考古学的な調査によってしだいに明らかとなってきている,石川城跡は、天文二年(一五三三)か文亀二年(一五〇二)に三戸南部安信が、藤崎城主安東教季・大光寺城主葛西頼清,また、堀越城跡は大浦氏が近世大名としての家臣団編成を迫られるという必要性の中から造られたものである。
資料編1(古代・中世編) ([口絵])

本文史料一〇九三号) 天正十八年正月十六日 豊臣秀吉判物(本文史料一一〇〇号) 堀越城跡全景,(上空南東から) 堀越城 曲輪Ⅰ(本丸)土塁 堀越城 曲輪Ⅰ遠景(南東から),石川大仏ケ鼻城跡遠景(南東から) 石川城跡内館地区遠景(南方丘陵上から) 坂本館跡遠景
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

四 城館の構造 慶安二年(一六四九)の「津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳」には、「堀越古城」として、,堀越城の規模と概要が記されている。,図28 堀越城縄張り推定復元図  堀越城の大手は、曲輪Ⅲの西、弘前から進んできた羽州街道(旧国道七号,図30 堀越城跡の現状写真と模式図 図31 堀越城跡の現状写真と模式図  曲輪Ⅱは、現在一般,図32 堀越城縄張り推定復元図(部分拡大)  曲輪ⅡBの東に、曲輪ⅡCがある。
通史編1(古代・中世) (調査された館)

弘前市域では現在まで五〇ヵ所の中世城館が確認されており、中崎館をはじめ石川城(楯)(写真178)・福村城,(写真179)・小友館・荼毘(だび)館・独狐(とっこ)館・境関館・堀越城・出間(でま)館・鷹ヶ岡城・乳井茶臼館,写真178 石川城跡航空写真 写真179 福村城跡航空写真  しかしながら、発掘面積は,少なく、明確に中世段階の生活痕を確認した調査は、中崎館・荼毘館・独狐館・境関館・石川城・堀越城・福村城
通史編4(近・現代1) (農会の設立と農事改良)

当時の各村ごとの出品点数は、清水三〇八、和徳二四三、豊田一一九、堀越一九四、千年一一九、相馬一三八、東目屋一一一,受賞者のうち、一等賞は、米-成田七太郎(大浦村)・小堀章六(堀越村)、稲-木村要作(豊田村)・木村長五郎,同)・工藤銀次郎(同)・玉田多作(駒越村)、榲悖(まるめろ)-藤田常正(駒越村)、葡萄-藤田葡萄園(堀越村,)、林檎苗木-楠美冬次郎(清水村)、畳表-舘山三次郎(堀越村)、木通(あけび)蔓細工-熊嶋蔓細工購買販売組合,当時の各村ごとの出品点数は、清水一七六、和徳一二八、豊田一二二、堀越九九、千年八九、相馬九三、東目屋八八
通史編1(古代・中世) (大浦氏の城下町建設の流れ)

その後、文亀二年(一五〇二)三戸南部安信(やすのぶ)は、弟の高信(たかのぶ)を津軽郡代とし、平賀郡石川城,文禄三年(一五九四)の五年間、近世大名津軽氏の領国支配の本拠として大浦城を利用していたが、同年に大浦から石川城,の北側に位置する堀越(ほりこし)に本拠地を移し、堀越城と堀越城下町の建設に着手する。
通史編1(古代・中世) (城館調査の今後)

城館調査の今後 青森県の中世考古学をリードした発掘調査は、昭和五十一年(一九七六)から始まった堀越城,平成八年度(一九九六)に実施した石川城跡内館跡の調査では、広大な領域を有する石川城跡のごく一部ではあったが,写真181 石川城跡内館の堀跡  とくに、堀跡から出土した下駄・箸・曲物・箆(へら)・取手などの,木製品は、かつて堀越城で出土した遺物に匹敵する内容を示し、陶磁器や鉄製品・銭貨など中世社会を理解できる,182 福村城跡発見の橋梁  現在は、弘前市域に限定しても、国史跡となっている弘前城、長勝寺構、堀越城
通史編3(近世2) (藩政前期為信)

また、同十三年外浜油川城攻撃に当たっては油川(あぶらかわ)の浄土真宗円明寺(えんみょうじ)の念西坊頼英,文禄三年(一五九四)居城を大浦(おおうら)より堀越(ほりこし)へ移し、城下町の形成に着手し、寺社をその,慶長七年(一六〇二)の為信の棟札(同前No.一五一)が現存する弘前神明宮は、初め堀越城内に創建、のち、,別に城内に祀った稲荷宮が、現在堀越にある稲荷宮であり、この地の熊野宮は為信の再興したものという(資料近世,このような状況の中で、翌六年には堀越城の西の清水森に横七間、縦一五間の仮の仏殿を建て、中央に須弥壇(しゅみだん
通史編4(近・現代1) (村会情景)

明治三十年八月十日堀越村臨時村会議事録である。,番外収入役館山堅水      開会午後一時 議長  本日臨時村会ヲ開キシハ大字門外ノ倉庫移転ト大字堀越,、川合、大清水倉庫破損箇所修繕ノタメ至急村会ヲ開設セシ次第デアリマス 写真68 明治30年度堀越村議案並議事録綴,レナルヤ 議長  当時土地ハ未タ判然セスト雖トモ多分共有ノ古墓地ヘ移転スル積リデアリマス 十一番 大字堀越
資料編1(古代・中世編) (新編 弘前市史 資料編1-2 古代・中世編 目次)

………………………………………………………  四八四   一 堀越城の立地と現状……………………………,………………  四八四   二 堀越城の歴史……………………………………………………  四八八    ,(1) 南北朝時代の「堀越楯」…………………………………  四八八    (2) 戦国時代の堀越城……,……………………………………  四八九    (3) 津軽氏の政庁としての堀越城……………………………,………………………………………………………  四九五   五 堀越城下(都市としての堀越)の構造………
通史編1(古代・中世) (福村城跡)

福村城跡 福村地区は、弘前駅から東へ約二・五キロメートルの平川下流域、平川と引座(ひきざ)川の合流点付近,福村城跡は福村の南側にあり、平川と腰巻(こしまき)川に挟まれた自然堤防上の標高二七~三一メートルに所在,し、和徳から大光寺、堀越への旧街道の拠点となる位置にある。,この福村城跡から和徳城跡までは約二・五キロメートル、大光寺城跡、堀越城跡へは約三・五キロメートルの距離
資料編1(古代・中世編) (二 本章で取り上げる中世城館跡)

(7)千年・石川・堀越地区 26大和沢館(大麻館、一野渡字野尻)、27一野渡館(一野渡字西平山、Bのみ,(石川大仏ケ鼻城・石川十三館、石川字大仏・平山・寺山・小山田)、32堀越城(堀越字川合・柏田)。,① 石川城跡(弘前市石川)   ② 大浦城跡(中津軽郡岩木町賀田(よした)・五代(ごだい))   ,③ 堀越城跡(弘前市堀越)   ④ 国吉館・坂本館跡(弘前市国吉・館後)と東目屋地区の城館群   ,そして、③の堀越城は、為信の津軽統一後、二代信枚が高岡(弘前)城に移るまでの十七年間、津軽氏の本拠だった
通史編4(近・現代1) (中津軽郡会)

村会議員互選当選者 駒越村 石郷岡文吉      堀越村 葛西穏 和徳村 川村譲        高杉村,船沢村 成谷亀之助      清水村 三浦大吉 新和村 小山内小三郎     藤代村 不詳 石川村,憲政) 千年村  佐藤義雄(憲政)   裾野村 須藤信夫(憲政) 和徳村  福士音太郎(憲政)  堀越村, 工藤長左衛門(憲政) 清水村  今八太郎(中立) 南津軽郡石川村 工藤敬爾(憲本) (注・「憲本
通史編5(近・現代2) (極東大会陸上競技で優勝・道川茂作)

極東大会陸上競技で優勝・道川茂作 道川茂作(どうがわもさく)は明治三十三年(一九〇〇)に、当時の中津軽郡堀越村門外,道川がいかに足が速かったか、それを伝えるエピソードがある。,道川がどのくらい速かったのか。,地元中国やフィリピンの選手は、道川に何度も抜かれ、どこが先頭か分からなくなってしまった、道川はそのまま,写真309 道川茂作 / 極東大会陸上競技で優勝・道川茂作
資料編1(古代・中世編) (一 はじめに)

その中には、堀越城跡のように国史跡に指定され(弘前城跡と合わせて「津軽氏城跡」)、公有地化も進められて,文禄三年(一五九四)、津軽為信は、それまでの本拠・大浦城から堀越城に移り、ここを津軽領国支配の拠点として,さらに、為信の意志を継いだ二代信枚は、慶長十五年(一六一〇)、高岡の地に新城築城の事業を起こし、翌年、堀越,・堀越楯・小栗山楯など、数多くの城郭が構えられたことが文書に見える(「南部家文書」)。,降って天文二年(一五三三)、三戸の南部氏は市内石川に石川城(石川大仏ケ鼻城)を営み、一族の重鎮南部高信
通史編1(古代・中世) (二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)

寺伝では、天文元年(一五三二)僧弘信が堀越に建立した金剛山光明寺に始まるという。,法立寺 日蓮宗 京都本 満寺 天文二 (一五三三) 日尋 賀田村 (岩木町) 新寺町 堀越を経て,本行寺 日蓮宗 京都本 圀寺 天正八 (一五八〇) 日健 堀越 (弘前市) 新寺町 慶長十一年に,西福寺 浄土宗 貞昌寺 慶長(一五九六~ 一六一五)以前 不詳 不詳 堀越 (弘前市) 城下寺町,賀田村(岩木町)→堀越→慶長十五(一六一〇)、現在地へ。寺内に「嘉元鐘」あり。
通史編5(近・現代2) (都市計画と道路建設)

3.3.10 元寺町向外瀬線 25 2,050 昭和38年9月18日 昭和59年7月3日 0 3.4.1 和徳堀越線,3.4.13 藤崎弘前線 16.5 1,260 昭和48年11月22日   0 3.4.18 東城北宮川線,20 1,630 昭和51年4月15日   1,356 3.4.19 宮川神田線 20 1,050,〃   1,050 3.4.20 紺屋町堀越線 16 4,880 昭和38年9月18日 昭和53年1月,悪戸紺屋町線 12 4,080 昭和38年9月18日 昭和54年1月27日 4,080 3.5.2 堀越大原線
通史編5(近・現代2) (経済更生運動と計画)

経済更生計画は全村ぐるみで行われ、同計画に基づいて、新和村、船沢村、豊田村、和徳村、堀越村、大浦村、高杉村,、東目屋村、藤代村、石川町が「計画指定町村」に指定され、全町村民を挙げて隣保共助の組織化を要求された。,和徳村 1,462 617 396,737 643 豊田村 728 492 380,496 773 堀越村,年より作成  経済更生計画は全村ぐるみで行われ、同計画に基づいて、新和村、船沢村、豊田村、和徳村、堀越村,、大浦村、高杉村、東目屋村、藤代村、石川町が「計画指定町村」に指定され、全町村民を挙げて隣保共助の組織化
通史編4(近・現代1) (道路改修問題と佐和知事)

改進)       一三票  村谷有秀(富田・中立) 弘前市 定員二人   当選  二三票  芹川得一,福島九成知事によって県内道路改修のため三〇万円の特別起債工事が企てられ、十一月三日の天長節を期して青森古川で,号国道 青森市長島 滝内村、新城村、大杉村、浪岡村、藤崎村、和徳村、弘前市元寺町、同親方町、同松森町、堀越村,輜重兵第八大隊兵営 弘前市新寺町 清水村富田樹木派立 輜重営 騎兵第八聯隊兵営 第八師団司令部 弘前市富田町、堀越村取上,河川工事では岩木川、平川、浅瀬石川は全額県費、大和沢川、大峰川、栩内川、相馬川が半額補助だった。  
通史編4(近・現代1) (郡制の施行)

第一回の中津軽郡会議員(定員一六人) 駒越村  石郷岡文吉   堀越村  葛西穏 和徳村  川村譲,前田俊蔵  駒越村 小杉左吉 東目屋村 竹内藤太郎  西目屋村 斎藤弘民(以上一〇人憲政本党) 堀越村
資料編1(古代・中世編) ([付図])

  大浦城及び城下推定復元図   国吉館縄張り推定復元図   坂本館縄張り推定復元図   堀越城縄張,り推定復元図   堀越城及び城下推定復元図     弘前市周辺の板碑分布図 市町村 板碑番号,133 弘前市十腰内字猿沢 寺庵跡付近 大鰐 1・2 大鰐町蔵館字村岡 大円寺墓地 3・4 大鰐町宿川原字川崎,96 大光寺小館 31 新館(石川十三館のうち) 97 大光寺古館 32 堀越城 98 大光寺城 33,107 館田館 42 吉川館 108 樋川館〔樋川砦〕 43 平山館 ?
通史編1(古代・中世) (中世の農民)

表7「津軽(郡)中名字」にみられる当市域の地名一覧表 郡 郡中名字地名 現地名 平賀郡 大仏鼻 石川,乳井嘉承山福王寺 乳井 日照田 薬師堂 河合 川合 新里 新里 堀越 堀越 角県 門外 取挙,斯土沢 四戸野沢 縫笠 折笠 望石 国吉 青女 青女子 小友 小友 中畑 通称中畑 野端 川村
資料編1(古代・中世編) (二 大浦城の歴史)

はあくまでも〝南部氏の目下の同盟者〟にとどまり、天文二年(一五三三)、津軽平定作戦の上、「津軽郡代」として石川城,元亀二年(一五七一)、石川城を急襲して攻略したのを皮切りに、津軽地方の領有を進め、天正十八年(一五九〇,しかし文禄三年(一五九四)、津軽為信は堀越城を修築して移り、大浦の寺院・町々も移転させたという(『永禄日記,その後も大浦城は、堀越・高岡(弘前)城の支城として存続したが、元和元年(一六一五)の「一国一城令」によって
通史編5(近・現代2) (二 中学校教育)

内山武男 一一 三三七 八 9 中学校 豊田 新里字東里見三〇 対馬貞吉 一二 三三五 八 10 中学校 堀越,対馬勇三 四九 一七四六 三八 17 中学校 第四 富田字桔梗野一八五の一 神正雄 二四 七二〇 一七 石川中学校
通史編4(近・現代1) (市会と市役所開庁)

宮川富三郎 蒲田廣 本多謙一 花田直太郎 葛西末吉 芹川得一 佐田正之丞 桜庭又蔵 奈良誠之助 石郷岡文吉,(以上三級一〇人)  宮本甚兵衛 海老名東太郎 宮川久一郎 片山忠兵衛 今泉文蔵 武田荘七 山内金三郎, 菊池定次郎 小山友三郎 中田多七(以上二級一〇人)  榊喜洋芽 長谷川如泡 古田栄次郎 村林嘉左衛門,鳴海正彦 奈良平雄 小野常三郎 鈴木久造 関静逸(以上一級一〇人)  五月十三日に市会を召集、長谷川如泡,清水村  中田平次郎 和徳村  小野貞助 豊田村  一戸久之亟 堀越村  樋口徳太郎 千年村  
資料編1(考古編) (第7節 出土遺物と生活)

中世人骨出土事例を見ると、下北郡川内町宿野部遺跡出土人骨は、珠洲の擂鉢をかぶせて埋葬し和人の形質が認められた,堀越城跡出土人骨は三ノ丸の堀跡改修に関連するものであろうか、明確なことは分からない。,堀越城では木器の表面に達筆な文字で書かれた事例が存在するが判読までには至っていない。  
通史編5(近・現代2) (中弘地区の合併推移)

当時の弘前市長桜田清芽は、和徳、藤代、大浦、駒越、清水、千年、堀越、豊田の八ヵ村との合併を考慮していた,中弘地区は①弘前市、清水村、和徳村、豊田村、堀越村、千年村、②大浦村、岩木村、駒越村、③藤代村、高杉村,弘前市も市の発展が南方に広がりつつあり、弘前電鉄の開通もあって、南津軽郡石川町との合併も考慮し始めた。,弘前市が郡を越えて南津軽郡石川町への接近をはかっていたころ、裾野村と新和村も郡を越えて北津軽郡板柳町との,八月十二日、県の合併促進審議会は原案から石川町を除き、代わりに裾野村を加えた一五村の合併を、県の第二次試案
通史編4(近・現代1) (通信関係)

弘前郵便局の呼出区域は、弘前市、中津軽郡駒越村駒越、同郡清水村常盤坂・紙漉町・富田、同郡小沢村大原、同郡堀越村取上,には市外通話の範囲も広がり、大館(二〇銭)、小坂(二〇銭)、浅虫(二五銭)、久栗坂(二〇銭)、野内、油川等
通史編1(自然・原始) (広野面)

広野面 大和沢川の一野渡を扇頂部として、松原面、原ヶ平面、広野面、そして清野袋面の各面は舌状に張り出,いずれも大和沢川の氾濫による砂礫を主体とする堆積物で形成された面であり、形成時期の新しい広野面や清野袋面,大和沢川北岸には一野渡・大和沢・狼森・千年・広野・大清水が位置し、またりんご園としても利用されている。,この砂礫層は大和沢川の氾濫によって帯状に堆積したものである。,大和沢川南岸の堀越城跡の位置する清野袋面は、同じ氾濫性の堆積物で構成されているが、碇ヶ関浮石層を欠いていることから
資料編1(古代・中世編) ((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)

(2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」 「前代歴譜」『津軽一統志』『館越日記(『永禄日記』一本,これがいわゆる「石川大仏ケ鼻城」で、ここに石川城は、南部氏の津軽支配の拠点として再び姿を現わす。,石川落城に対して、南部氏は早速軍勢を大鰐・宿川原に出陣させ、その後もしばしば軍勢を送った。,尾崎喜蔵・三ツ目内玄蕃とともに主君為信に叛(そむ)き、堀越城を占拠しようとして失敗。,石川城への敗走途中、討ち死にした(『封内事実秘苑』『津軽一統志』、石川城で自殺したともいう)。 / (2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」
通史編3(近世2) (二代信枚)

信枚は、慶長十五年(一六一〇)に高岡(たかおか)(現弘前市)に築城を開始すると、城下町形成に当たり堀越,くまのおくてる)神社)の地が城の鬼門に当たるとして八幡(やわた)村(現中津軽郡岩木町)から移転させ、別当最勝院は堀越,図190.求聞寺  天海僧正は、天台宗の僧で徳川家康の帰依を受け、上野の寛永寺(かんえいじ)を創立
通史編4(近・現代1) (「農事調査」と中津軽郡)

副業として一般的だったのは、藁細工、養蚕、炭焼のほか、川漁、山菜の販売などであった。,貯蓄人数 石   勺 人 清水村 280 373 2 625 千年村 211 352 0 306 堀越村,各村の中心的な農産物として、弘前市街-林檎・養蚕・葡萄、清水村-米・小麦・蕎麦・大根、千年村-米・粟、堀越村
通史編2(近世1) (信枚の築城)

木材は碇ヶ関・蔵館・石川の山から伐採し、平川を利用して運んだという。,慶長十六年(一六一一)には城の築造がなったため、堀越より神社・仏閣、大小諸武士の屋敷、職人・商人の居宅
通史編4(近・現代1) (戸籍法と戸籍区)

 右取扱 右同 三上虎平太 同小三区 土手町 松森町 富田町 足軽町 富田新町 品川町 山道丁,瓦丁 田代町 西川岸丁 御徒町 同川端町 徳田丁 萱丁 南横丁 北横丁 山下丁 片山丁 植田丁 柳丁 , 高畑 小金崎 第一八区(堀越) 一渡 福村 小比内(さんぴない) 清水森 新里 門外 取上 松木平, 小栗山 堀越 大和沢 大清水 外崎 高田 境関 菅野 福田 第一九区(和徳) 和徳 宮田 津賀野,米袋 中野 中畑 番館 杉ヶ沢 田代 白沢 大秋 藤川 居森平 砂子瀬 川原平 第二三区(藤代)
資料編1(古代・中世編) (一 乳井茶臼館の立地と現状)

この地は、平川・六羽川(ろっぱがわ)を挟んで西の石川城と向かい合う場所であり、石川と同様、津軽平野の南,また丘陵の西は台地となって続き、先端は約一五メートルの崖となって、平川の支流・六羽川に臨んでいる。,六羽川は現在でこそ単なる用水路にすぎないが、近世の記録には「堀越川」(平川本流)と並ぶ河川として記されており,、地形の状況(扇状地や自然堤防の発達状況)から判断して、もとは平川の有力な派川(分流)であったに違いない
/ 2ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました