• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 63件
辞書ファセット
/ 2ページ
資料編1(考古編) (2.堀越城跡)

2.堀越城跡 (遺跡番号 02043)(図122~124) (国指定史跡 津軽氏城跡)昭和60年11,図122 堀越城跡出土木製品(1) 図123 堀越城跡出土木製品(2) 図124 ,堀越城跡出土木製品(3) 〔文献記載〕 城館編参照 ※参考文献 1) 堀越城跡発掘調査委員会,『堀越城跡…国道7号線バイパス遺跡発掘調査報告書』 1978年 3) 堀越城跡発掘調査委員会・弘前市,「堀越城の発掘」(歴史手帖第5巻4号) 1977年 5) 今井二三夫「堀越城の調査」(中世の考古学- / 2.堀越城跡
通史編2(近世1) (堀越城の構造)

堀越城の構造 堀越城跡は、弘前市街から旧国道七号を通って石川に至るほぼ中間、市内堀越字川合・柏田にある,図25.堀越城縄張り推定復元図  堀越城下町の形態は、羽州街道に沿って両側に町屋が並び、しかもその,この東西の二つの木戸に守られた地域こそ、かつての堀越城下町の範囲であった。,図26.堀越城跡の航空写真(平成13年撮影)  なお、堀越城跡から舶載磁器(はくさいじき)・国産陶磁器,・銅銭等が出土している(『堀越城跡発掘調査報告書I』平成十二年 弘前市教育委員会刊)。 / 堀越城の構造
通史編1(古代・中世) (堀越城と城下町)

堀越城と城下町 堀越城は、文禄三年(一五九四)に大浦為信が大浦城から堀越に本拠地を移し、慶長十六年(,図64 堀越城と堀越城下町の地籍図  そしてもう一つは、羽州街道という街道を意識的に城のすぐ脇を,写真206 堀越城跡航空写真  堀越城下町は大きく分けて四つの町屋から構成される。,この町屋1は堀越城の曲輪Ⅳと堀越城の南側の外堀的な性格をもった前川を挟む形で作られている。,町曲輪1部分は延長九〇メートルと短いが、堀越城の大手虎口部分に位置していることから、この部分は堀越城の / 堀越城と城下町
通史編2(近世1) (堀越城の限界性)

堀越城の限界性 慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦いの際に為信が遠く関ヶ原へ出陣していた時、尾崎喜蔵(,おざききぞう)・板垣兵部(いたがきひょうぶ)・多田玄蕃(ただげんば)の三人の重臣が謀反を起こし、堀越城,「尾崎ら三人が深浦から堀越城へ帰り、それぞれ城内の自分の屋敷へ引き籠もった。,この記述によれば、堀越城内に重臣尾崎らの屋敷があったこと、武器・弾薬を置く櫓が本丸にあったことがわかる,堀越城は、堀・土塁・塀という設備によって防御すると同時に、重臣の城郭内への取り込み、武器・弾薬の所有を / 堀越城の限界性
通史編2(近世1) (堀越城への移転)

堀越城への移転 「津軽一統志」(資料近世1No.五六)によれば、為信は、文禄三年(一五九四)、岩木川東岸,の堀越城を居城たるにふさわしいよう修復を加え、大浦城から堀越城へ居城を移転した。,、しばしば前線基地として城館が設けられ、激しい攻防が繰り広げられていた(以下、資料古代・中世第四節「堀越城,すでに為信は、新たな拠点として堀越城に注目しその強化に乗り出したことを知ることができる。,この時期堀越城は大改修され、「政庁」としての機能を果たす大城郭となった。 / 堀越城への移転
資料編1(古代・中世編) (一 堀越城の立地と現状)

一 堀越城の立地と現状 堀越城跡は、弘前市街から旧国道七号を通って石川に至るほぼ中間、市内堀越字川合,堀越城跡がとりわけ注目されるのは、文禄三年(一五九四)、津軽為信が大浦城からこの地に本拠を移し、慶長十六年,この時期、堀越城は大改修され、「政庁」としての機能を果たす大城郭となった。,それゆえ、堀越城及び堀越城下町の実像の解明は、近世大名津軽氏の権力の形成と、津軽地方における中世から近世,I(本丸)の虎口D部分 図24 堀越城跡位置図 堀越城跡の航空写真(昭和20年代撮影 / 一 堀越城の立地と現状
資料編1(古代・中世編) (三 堀越城「縄張り」の復元)

三 堀越城「縄張り」の復元 堀越城の旧状復元に当たっては、地表からの表面観察に加えて、次の諸資料を用,沼舘愛三作成の見取図(『津軽諸城の研究』より)   イ、天和四年堀越村書上絵図 図25 堀越城跡,(明治四年模写、『史跡堀越城跡・石川バイパス遺跡発掘調査報告書』一九七八年、所収)』) 図26 ,堀越城跡の見取図 上、堀越城跡略図(明治4年模写)  (3)航空写真(昭和二十年代のもの、弘前市役所蔵,)  (4)その他 地図・地元住民からの聞き取り 図27 堀越城跡測量図 / 三 堀越城「縄張り」の復元
資料編1(古代・中世編) ((2) 戦国時代の堀越城)

(2) 戦国時代の堀越城 堀越城は、戦国時代末期、大浦為信による津軽平定作戦の基地として再び姿を現す,「津軽氏系譜(歴譜)」は、大浦為則の弟甚三郎守信は、はじめ赤石城にいたが、後に堀越城主武田重信の養子となって,この「町飛鳥の屋敷」こそ問題の堀越城である。,その後も堀越城は、南部勢の津軽侵攻に対する防戦や、天正三年(一五七五)の大光寺城攻めなど、為信の津軽東部,当時の堀越城の姿についても、不明としか言いようがない。 / (2) 戦国時代の堀越城
資料編1(古代・中世編) ((3) 津軽氏の政庁としての堀越城)

(3) 津軽氏の政庁としての堀越城 『永禄日記』は、天正十五年(一五八七)、「正月より堀越御城所々築直,し、人夫多く出、大工小屋多く懸り申候」と、為信が堀越城を大々的に改修した記事を載せている。,この記事は『封内事実秘苑』にもあり、この時点ですでに、為信が新たな拠点として堀越城に注目し、その強化に,現在見る堀越城の遺構は、この時期のものである。,つまり、堀越城下に集められたのは、大浦にあった寺院と町、それに津軽氏の家臣団であった。 / (3) 津軽氏の政庁としての堀越城
資料編1(古代・中世編) (五 堀越城下(都市としての堀越)の構造)

五 堀越城下(都市としての堀越)の構造 堀越城の在り方を考える際、重要な問題として城と町場のかかわりがある,堀越城は津軽藩の最初の政庁であり、そこには当然「都市」を伴っていたはずだからである。,では、この堀越城下町の範囲はどこからどこまでであったろうか。,堀越城へ入る大手虎口Aの跡  さらに、この「堀越城下町」の内部は、堀越城の東南の外堀をなす前川と,そして、この評価は、二の「堀越城の歴史」の項で述べたこととも一致する。 / 五 堀越城下(都市としての堀越)の構造
通史編1(古代・中世) (堀越城・石川城を中心とした城館群)

堀越城・石川城を中心とした城館群 堀越城と石川城を中心とした城館群のネットワークについては、まず南部氏,大浦氏はその石川城を津軽領域を掌握する手始めとして攻撃し、その石川城を攻撃する拠点とした場所が堀越城である,なお、大浦氏は堀越城を拠点としていたが、さらに落城させた石川城なども、その後大浦氏が改修して利用していたことが,堀越城や石川城は、現在の当市域の中心地からかなり南に位置しているが、このように石川地域を中心として見た / 堀越城・石川城を中心とした城館群
通史編1(古代・中世) ([口絵])

種里城跡(国指定史跡 鰺ヶ沢町) 25 根城(国指定史跡 八戸市) 26 懸仏(堀越城跡出土,) 27 食膳の復元(堀越城跡出土) 28 堀越城跡(国指定史跡 弘前市),29 堀越城跡東域(平成14年度調査区)
通史編1(古代・中世) (本城(根城)の城館跡)

)の城館跡 当市域内にある城館跡で、領国支配の拠点的性格をもった戦国期の城館跡としては石川城跡や、堀越城跡,しかし堀越城跡などは、数時期にわたり改変が行われていたことが考古学的な調査によってしだいに明らかとなってきている,また、堀越城跡は大浦氏が近世大名としての家臣団編成を迫られるという必要性の中から造られたものである。
資料編1(古代・中世編) ([口絵])

本文史料一〇九三号) 天正十八年正月十六日 豊臣秀吉判物(本文史料一一〇〇号) 堀越城跡全景,(上空南東から) 堀越城 曲輪Ⅰ(本丸)土塁 堀越城 曲輪Ⅰ遠景(南東から)
資料編3(近世編2) (1 弘前城の歴史)

1 弘前城の歴史 津軽為信が、その居城を大浦城から堀越城へ移したのが文禄二年(一五九三)であった。,江戸幕府成立後、外様大名の一人として、四万七〇〇〇石を領したが、堀越城では近世的な城下を形成するうえで,早くも翌十六年(一六一一)一月には町方が引き移り、五月には藩主信枚自身が堀越城からの引っ越しを行っている
通史編1(古代・中世) (調査された館)

石川城(楯)(写真178)・福村城(写真179)・小友館・荼毘(だび)館・独狐(とっこ)館・境関館・堀越城,、発掘面積は少なく、明確に中世段階の生活痕を確認した調査は、中崎館・荼毘館・独狐館・境関館・石川城・堀越城
通史編1(古代・中世) (城館調査の今後)

城館調査の今後 青森県の中世考古学をリードした発掘調査は、昭和五十一年(一九七六)から始まった堀越城,石川城跡内館の堀跡  とくに、堀跡から出土した下駄・箸・曲物・箆(へら)・取手などの木製品は、かつて堀越城,182 福村城跡発見の橋梁  現在は、弘前市域に限定しても、国史跡となっている弘前城、長勝寺構、堀越城
通史編2(近世1) (為信の築城計画)

為信が当時の本拠堀越(ほりこし)城(現弘前市堀越)を捨てて、高岡築城に踏み切った理由は、堀越城が水に弱,「津軽徧覧日記」の慶長十一年(一六〇六)の条に、正月下旬堀越城下が洪水に悩まされていた様子がみえる。,また、城跡内に洪水の痕跡(こんせき)がある程度確認されていることからも(『堀越城跡 前川災害復旧関連工事遺跡発掘調査報告書
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

 城館の構造 慶安二年(一六四九)の「津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳」には、「堀越古城」として、堀越城,したがって堀越城は、曲輪ⅠからⅤまでの五つ、厳密には七つの曲輪からなっていた(図28)。,図28 堀越城縄張り推定復元図  堀越城の大手は、曲輪Ⅲの西、弘前から進んできた羽州街道(旧国道七号,図30 堀越城跡の現状写真と模式図 図31 堀越城跡の現状写真と模式図  曲輪Ⅱは、現在一般,図32 堀越城縄張り推定復元図(部分拡大)  曲輪ⅡBの東に、曲輪ⅡCがある。
通史編1(古代・中世) (衣の道具)

境関館ではみられなかったが、堀越城では文様の施された製品や差歯になった下駄(写真176)、さらに独狐(,写真176 堀越城跡三之丸出土の下駄
資料編1(古代・中世編) ((1) 南北朝時代の「堀越楯」)

(1) 南北朝時代の「堀越楯」 堀越城の名が初めて文献に見えるのは、南北朝時代、建武三年(南延元元年,堀の形も掘られた方向も、後の堀越城のものと全く異なるという(『史跡堀越城跡・石川バイパス遺跡発掘調査報告書
通史編3(近世2) (西福寺)

「浄土宗諸寺院縁起」は、堀越城下に創建し、慶長年間(一五九六~一六一四)に弘前城下元寺町の貞昌寺門内に
通史編1(古代・中世) (大浦氏の城下町建設の流れ)

本拠として大浦城を利用していたが、同年に大浦から石川城の北側に位置する堀越(ほりこし)に本拠地を移し、堀越城,と堀越城下町の建設に着手する。
資料編1(古代・中世編) (新編 弘前市史 資料編1-2 古代・中世編 目次)

………………………………………………………  四八四   一 堀越城の立地と現状……………………………,………………  四八四   二 堀越城の歴史……………………………………………………  四八八    ,(1) 南北朝時代の「堀越楯」…………………………………  四八八    (2) 戦国時代の堀越城……,……………………………………  四八九    (3) 津軽氏の政庁としての堀越城……………………………, 四九〇   三 堀越城「縄張り」の復元………………………………………  四九一   四 城館の構造
通史編1(古代・中世) (農の道具)

中崎館では鍬先や鎌、境関館では鎌、堀越城では鍬の木製柄の部分や横杵(よこきね)(砧(きぬた))・槌(つち
通史編3(近世2) (神明宮)

神明宮 神明宮(現弘前神明宮)は、慶長七年(一六〇二)、為信が鎮護国家のため堀越城内に創建し、信枚によって
通史編1(古代・中世) (住の道具)

ふ)き方については、茅(かや)を利用したと考えがちであるが、実際発掘調査で茅が出土する事例は少なく、堀越城,写真175 堀越城堀跡出土の割板
通史編3(近世2) (藩政前期為信)

慶長七年(一六〇二)の為信の棟札(同前No.一五一)が現存する弘前神明宮は、初め堀越城内に創建、のち、,このような状況の中で、翌六年には堀越城の西の清水森に横七間、縦一五間の仮の仏殿を建て、中央に須弥壇(しゅみだん
資料編1(考古編) (7.陶磁器の組成)

堀越城は、16世紀を主体とするため舶載陶磁器では染付、国産陶磁器では美濃灰釉の比率が高い。,表3 青森県内遺跡出土陶磁器数(破片により集計) 中崎館 荼毘館 境関館 独狐 遺跡 堀越城 尻八館
資料編1(古代・中世編) ([付図])

  大浦城及び城下推定復元図   国吉館縄張り推定復元図   坂本館縄張り推定復元図   堀越城縄張,り推定復元図   堀越城及び城下推定復元図     弘前市周辺の板碑分布図 市町村 板碑番号,平田森館 31 石川城 96 大光寺小館 31 新館(石川十三館のうち) 97 大光寺古館 32 堀越城
資料編1(考古編) (第7節 出土遺物と生活)

堀越城跡出土人骨は三ノ丸の堀跡改修に関連するものであろうか、明確なことは分からない。,堀越城では木器の表面に達筆な文字で書かれた事例が存在するが判読までには至っていない。  
通史編3(近世2) (本行寺)

慶長五年(一六〇〇)、為信が関ヶ原の戦いに出陣中、堀越城内の三ツ目内玄蕃等の反乱を日健が和睦させた功により
通史編3(近世2) (長勝寺)

為信の時に種里から堀越城下・大浦城下と移転し、寺領二〇〇石の寄進を受けた。
通史編1(古代・中世) (福村城跡)

この福村城跡から和徳城跡までは約二・五キロメートル、大光寺城跡、堀越城跡へは約三・五キロメートルの距離
通史編1(自然・原始) (広野面)

大和沢川南岸の堀越城跡の位置する清野袋面は、同じ氾濫性の堆積物で構成されているが、碇ヶ関浮石層を欠いていることから
資料編1(古代・中世編) (二 本章で取り上げる中世城館跡)

大沢字堂ヶ平、Bのみ)、31石川城(石川大仏ケ鼻城・石川十三館、石川字大仏・平山・寺山・小山田)、32堀越城,石川城跡(弘前市石川)   ② 大浦城跡(中津軽郡岩木町賀田(よした)・五代(ごだい))   ③ 堀越城跡,そして、③の堀越城は、為信の津軽統一後、二代信枚が高岡(弘前)城に移るまでの十七年間、津軽氏の本拠だった
資料編1(考古編) (第3節 中世・近世の住居と集落)

56 七戸城跡 七戸町 16 掘立・竪穴 城館 57 矢館跡 七戸町 16 掘立・竪穴 城館 60 堀越城跡
通史編2(近世1) (町年寄の由緒)

松山氏は町支配頭に任命され、一方、松井氏は堀越城下支配頭に任命され、その後、弘前町方取扱となり、町方支配
資料編1(古代・中世編) (一 はじめに)

その中には、堀越城跡のように国史跡に指定され(弘前城跡と合わせて「津軽氏城跡」)、公有地化も進められて,文禄三年(一五九四)、津軽為信は、それまでの本拠・大浦城から堀越城に移り、ここを津軽領国支配の拠点として
資料編1(古代・中世編) (一 大浦城の立地と現状)

のいわゆる「一国一城令」によって廃城となったが、津軽氏のルーツをなす城の一つであることから、種里城・堀越城
資料編1(考古編) (第2節 中世・近世の考古学研究略史)

それは「堀越城」の調査であった。,今井二三夫は堀越城の調査成果を全国誌に相次いで発表して*9、注目されるところとなった。,弘前市内では、前述した堀越城の調査とともに昭和52年(1977)から弘前城に関連した調査が進む一方、昭和
通史編1(古代・中世) (食の道具)

(8は弘前市堀越城跡,他は弘前市境関館出土)  このように粉食ともいえる食生活は、石製の粉挽き臼
通史編3(近世2) ((一)藩主家の菩提寺)

為信は、長勝寺八世格翁(かくおう)を参禅の師とし、堀越城下の形成に当たり長勝寺を種里から堀越へ移し、後
資料編1(考古編) (資料編1「考古編」掲載図・表・写真一覧)

境関館遺跡出土木製品(2) 図120 境関館遺跡の区画変遷図 図121 境関館遺跡の遺構変遷図 写真 堀越城跡発掘状況,図122 堀越城跡出土木製品(1) 図123 堀越城跡出土木製品(2) 図124 堀越城跡出土木製品,境関館遺跡出土陶磁器 10・11 荼毘館遺跡出土陶磁器 12・13 独狐遺跡出土陶磁器 14~16 堀越城跡出土陶磁器
通史編3(近世2) (為信)

慶長五年(一六〇〇)、為信が関ヶ原の戦に出陣中、板垣兵部らが堀越城で反乱を起こしたのを、日健が和睦をもちかけて
通史編1(古代・中世) (舶載と国産)

とくに一六世紀になると津軽地域に搬入される陶磁器の量は、地域の拠点的城館である浪岡城・大光寺城・石川城・堀越城
資料編1(考古編) (〈注一覧…第4章〉)

鳥海山遺跡発掘調査報告書』(青森県埋蔵文化財調査報告書第32集) 1977年 9) 弘前市教育委員会 『堀越城跡国道,浪岡町教育委員会 『昭和52年度浪岡城跡発掘調査報告書浪岡城跡』 1978年 14) 弘前市教育委員会 『堀越城跡前川災害復旧関連工事遺跡発掘発掘調査報告書,桜井清彦 「津軽十三と日本海沿岸文化」(考古学ジャーナル93号) 1974年 *9 今井二三夫 「堀越城,の発掘」(歴史手帖第5巻4号) 1977年   今井二三夫 「堀越城の調査」(中世の考古学-遺跡発掘
通史編4(近・現代1) (町村合併と弘前市制施行)

堀越村-大村堀越村と古城堀越城、旧藩堀越組頭村に由来。
資料編1(古代・中世編) (二 大浦城の歴史)

しかし文禄三年(一五九四)、津軽為信は堀越城を修築して移り、大浦の寺院・町々も移転させたという(『永禄日記
資料編1(考古編) (第1節 中世・近世遺跡の概観)

ほか 58 曽我森遺跡 七戸町 13 陶磁器 74 59 左組遺跡 七戸町 13 陶磁器 74 60 堀越城跡
/ 2ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました