• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 14件
辞書ファセット
/ 1ページ
通史編3(近世2) (修験道(しゅげんどう)の整理)

法螺貝(ほらがい)を吹き、総髪の者が多く、とても僧侶にはみえなかったが、祈祷に際しては真言密教を唱え、堂社,②修験者の持宮で仏号の堂社は、神体・仏体に関わらず、別社・末社は神体上納のうえ、廃社または仏体の堂社は,では九三社が修験者の持宮であったが、内七〇社は修験者では維持できないので、仏体を除去して最寄りの神職に堂社,また、残り二三社は観音堂・大日堂など仏教色が強い堂社であり、神体を上納して神道色を抜いたうえで修験者による,そのため、場合によっては一村に産土神の氏子と旧修験者の堂社を信奉する氏子が混在する事例もみられたが、藩
通史編3(近世2) (小社の神仏分離)

小社の神仏分離 弘前藩で領内の堂社数を把握したのは一七世紀末のことであり、その数は七四六ヵ所であった,しかし、在村では専業神主のいない小さな堂社も多く、七四六の社堂の内、四一〇は神官のいない堂社であった。,神体そのまま 28 119 4 神  社 社号改正 70 216 5 社号そのまま 16 38 6 堂社廃止,1 50 7 堂社合社 0 21 8 社寺掛指示 神職願い出を 承 認 そのまま存続 35 24 9,条件付き存続 46 0 10 不承認 新神体勧進 7 0 11 堂社廃社 0 107 12 堂社合社
通史編1(古代・中世) (三 中世寺社の存在形態)

乳井郷における僧栄秀と長秀の別当職をめぐる世襲には、ひとつの郷内における中世堂社の存在の在り方を伺い知,僧栄秀に始まる乳井郷内のこうした堂社の宗教施設は、長秀の後、毘沙鶴と女子鶴(史料五六八)、幸秀(史料五九一,平賀郡乳井郷とともに、今ひとつ同郡岩楯(いわだて)郷の中世堂社にも注目してみると、それは仁治二年(一二四一,こうして中世堂社の経営を始めた岩楯郷には、建武二年(一三三五)、曽我光貞による熊野堂の再興が現実化する,中世堂社が日々の生活のなかで、どのように営まれていたかを知る上で、次の史料はとても有益である。
通史編3(近世2) ((二)神職組織)

(二)神職組織 各堂社には、それぞれ仏教系の修験と神道系の神職が存在してきたが、その実態は明らかでない
通史編3(近世2) (藩政後期)

続いて、臨時の祈祷を命じる時は寺社奉行より祈祷料を出すこと、堂社破損の際は財政難ですぐにできないが、いずれ,同五年には社家頭小野左門は、堂社譲渡の混乱と経済的困窮から、神職が官職受領に上京する際に賤しい行動をとる,これには藩主・藩からの下賜品を細大漏らさず記載したほか、在村小社の堂社の管理者である神職・修験の把握も,よって寺社奉行により領内の全堂社の把握が行われたことになる。
通史編3(近世2) (藩政中期四代信政)

⑥堂社の修復と掃除のこと。 ⑦神職、僧侶は行動を批判されないよう慎むこと。,四年間をかけて実施した「貞享検地」は詳細を極めたもので、寺社領については年貢地か除地かを明記しており、堂社地七四六,ここには領内の全寺社名・藩主からの寄進の石高・堂社の管理者が記されており、藩は寺社の経済的把握のみならず
通史編3(近世2) (心応院)

元禄十五年(一七〇二)の「堂社縁起修験道由緒」には、最勝院に属する山伏七人がみえ、その中心は心応院とみられるが
通史編3(近世2) (大行院)

「堂社縁起修験道由緒」(資料近世2No.四一二)によると、近江国飯道寺岩本院の袈裟筋にあたる大行院永尊
通史編3(近世2) (居開帳)

修復を目的とした開帳としては、十腰内(とこしない)観音堂(現巖鬼山神社)が、元禄八年(一六九五)、堂社,ここでは、堂社の修復は最初だけで、後には結縁と収入を求めるものになった。  ,湯口(現中津軽郡相馬村)の修験大重院は、元禄十一年(一六九八)、堂社修復のため、薬師如来の開帳を地元と,宝永七年(一七一〇)に堂社が焼失したため、再建のための開帳が青森・鰺ヶ沢町で認められ、修験触頭大行院・
通史編3(近世2) (修験)

元禄十五年(一七〇二)の「堂社縁起修験道由緒」(資料近世2No.四一二)によれば、大峰派=修験の山伏六六人
通史編3(近世2) (神仏分離政策の転換)

また、従来こうした仏体神号の堂社を拠点に活動してきたのは修験者であり、これを契機に藩では修験者の復飾神勤
通史編3(近世2) ((二)富籤興行)

幕府は、元禄年間(一六八八~一七〇三)に、流行する富籤を禁止したが、他方、寺社に堂社の修復費を目的とする
通史編3(近世2) (寺院の動向)

その他、最勝院のような大寺院ではなく、各村には小さな庵や堂社が多数あった。
資料編3(近世編2) (【解説】)

享和のものは藩主や藩からの下賜品を細大漏らさず記載するほか、在村小社の堂社と管理者である神職・修験をも
/ 1ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました