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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(報恩寺)
報恩寺
天海に帰依して天台宗に改宗した信枚は、寛永八年(一六三一)に江戸で死去すると常福寺に葬られ、,国元では同三年、
報恩寺
を寛永寺宮門跡から寺号を受けて創建した(資料近世2No.四〇四)。,以後、長勝寺に替わって
報恩寺
が菩提所になったため、六代信著の墓所をめぐって両寺が対立することもあった。 /
報恩寺
資料編3(近世編2)
(●報恩寺 本堂 新寺町--県重宝)
●
報恩寺
本堂 新寺町--県重宝 津軽三代信義の菩提寺として創立されたもので、その後、三代藩主の五〇,図15
報恩寺
本堂平面図 / ●
報恩寺
本堂 新寺町--県重宝
通史編3(近世2)
((一)藩主家の菩提寺)
三代藩主信義は江戸で死去すると津梁院に埋葬されたが、国元では、四代藩主信政が新しく天台宗
報恩寺
を創建して,この時から国元でも
報恩寺
を菩提寺とする取り扱いになった。 ,ところが、六代藩主信著は、延享元年(一七四四)
報恩寺
だけが重く扱われ、長勝寺は光信以来の先祖が崇敬してきているのに,この様子をみて、
報恩寺
亮運は長勝寺呂山と論争し、遂に津梁院へ訴え、本寺寛永寺の権威により改葬することになった,この時、遺体はそのまま長勝寺に置き、
報恩寺
には墓所を立てたという(『記類』)。
通史編5(近・現代2)
(承祜公のミイラ)
昭和二十九年、隣接の
報恩寺
の墓地約一万二〇〇〇平方メートルを買収したが、その拡張工事のとき思いがけない,
報恩寺
はもともと天台宗で、津軽家の菩提寺として由緒ある寺であったが、一二代藩主を継ぐべくして夭折した承祜
通史編3(近世2)
(薬王院)
報恩寺
信枚が天海に帰依したことから、藩主家は江戸の菩提寺を天台宗津梁院・常福寺としてきた。,信政は父信義が明暦元年(一六五五)死去すると、国元に
報恩寺
を建立し、長勝寺に替えて菩提寺とした。,このため、六代信著が遺言で長勝寺に埋葬されると、両寺が対立し、
報恩寺
が津梁院を通じて寛永寺に訴え、その,威光を借りて信著の墓石を
報恩寺
にも建てた(「記類」)。,同三年、寛永寺宮門跡より、「一輪山桂光院
報恩寺
」の補任状が与えられた(資料近世2No.四〇四)。
通史編3(近世2)
(長勝寺)
藩主家は曹洞宗を信仰してきたが、信枚が天台宗に改宗し、後に建立される
報恩寺
を菩提寺に改めた。,しかし、長勝寺はこれまで菩提寺として重きをなしていたため、信著は遺言で長勝寺へ埋葬させたことから、
報恩寺
,昭和二十九年(一九五四)には
報恩寺
から藩主家の五輪塔が移された。 図214.長勝寺
通史編3(近世2)
(慈雲院)
慈雲院 慈雲院(じうんいん)は、享保十年(一七二五)に藩から
報恩寺
東隣に二七六〇坪の寄進を受けて創建,大正四年(一九一五)から旧制弘前中学校校地の拡張が、慈雲院の境内全部と
報恩寺
の一部に及んだため、慈雲院
通史編3(近世2)
(天台宗)
天台宗 天台宗は、
報恩寺
が領内触頭で寺内に僧録所を設けて一宗の寺務を取り扱い、図193のように触下には
通史編3(近世2)
(袋宮権現宮)
神仏分離により袋宮寺は
報恩寺
境内の十一面観音堂無量院へ移り、社司森下氏がそのまま神事を行った。
通史編3(近世2)
(黄檗宗)
慈雲院を、享保十年(一七二五)、新寺町
報恩寺
の東側に創建する時は、新寺建立禁止に触れるため、長勝寺山内
資料編3(近世編2)
(●袋宮寺 本堂 新寺町--県重宝)
であり、弘前の樋の口にある熊野宮(本殿は県重宝)の別当寺であったが、明治に廃止されたために、現在地の
報恩寺
通史編3(近世2)
(山伏にあるまじき行為)
大重院は医王山大重院教円寺(きょうえんじ)と称し、大行(だいぎょう)院(宝暦四年〈一七五四〉新寺町の
報恩寺
隣接地
通史編3(近世2)
(袋宮寺)
明治二年(一八六九)、別当職が廃止となり、そのまま社内に寺院を置くことが不都合になり、
報恩寺
境内の十一面観音堂無量院
通史編3(近世2)
(瓦の利用)
現中津軽郡岩木町五代早稲田)・百沢寺(ひゃくたくじ)(現岩木山神社、中津軽郡岩木町)の宝蔵その他、および
報恩寺
,城外の場合、①
報恩寺
(現市内新寺町)玄関・本堂・客殿・護摩堂・位牌堂および中門と両側の塀、番所などには,元禄十七年(一七〇四)三月十三日条によると、
報恩寺
作事入用瓦として九万枚余の見積もりが出されている。,なお
報恩寺
の境内では黒瓦(焼成の終期に燻(いぶ)して表層を黒くした瓦〈耐水性と硬度を高めかつ美化をはかった
通史編3(近世2)
(大行院)
承応二年(一六五三)、花輪(鼻和)庄八幡郷より新寺町
報恩寺
東隣へ移転、宝暦四年(一七五四)、茂森の常源寺坂
通史編3(近世2)
(江戸時代中期の建築)
袋宮寺(たいぐうじ)の本堂は、元来は
報恩寺
(ほうおんじ)の無量院観音堂であった。,その建立は宝永元年(一七〇四)であることが保存されている棟札によって知られ、
報恩寺
本堂と同時に造られたものであった,袋宮寺は天台宗の寺院であり、元来は樋の口の「熊野神社」の別当寺であったが、明治に廃止された後、現在地の
報恩寺
,
報恩寺
は、三代信義の菩提寺として創建された天台宗の寺院であり、その五〇回忌に当たって再建されたのが現本堂
通史編2(近世1)
(協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))
平賀町郷土資料館 弘前市教育委員会 弘前市立図書館 弘前市立博物館 広島市公文書館 福岡市博物館
報恩寺
通史編3(近世2)
(弘前市内寺院所蔵の彫刻・絵画)
数多くの寺の中で、藩とかかわり深い長勝寺・
報恩寺
・貞昌寺・本行寺・誓願寺などに作風の優れた像が多かったのも,江戸や上方から入手したものであるが、江戸京橋の小林長五郎作・西光寺金光上人坐像、京堀川綾小路弘教作・
報恩寺
地蔵菩薩半跏像
資料編3(近世編2)
(協力機関及び協力者一覧(各機関・個人ごとに五十音順、敬称略))
弘前市教育委員会(青森県弘前市) 弘前大学附属図書館(青森県弘前市) 普門院(青森県弘前市)
報恩寺
通史編3(近世2)
((二)本末制と僧録制)
関三刹の宗寧寺(下総)・大中寺(下総)・龍穏寺(武蔵)、日蓮宗は身延派が瑞輪寺・善立寺・宗延寺、本圀寺が
報恩寺
通史編4(近・現代1)
(旧藩主逝去と小学校)
また、三年以上の男女児童は
報恩寺
における遙拝式に参列した。
通史編3(近世2)
(信明)
天明四年八月二十五日には長袴を着し、長勝寺・
報恩寺
・本行寺の廟所に詣でているが、本行寺には六代信著の側室円授院
通史編3(近世2)
(協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))
青森県弘前市) 弘前八幡宮(青森県弘前市) 普門院(青森県弘前市) 遍照尊院(和歌山県伊都郡高野町)
報恩寺
通史編3(近世2)
(野本道玄)
茶庭にも才を発揮し、青森油川の浄満寺、弘前の梅林寺、本行寺、貞昌寺、
報恩寺
の庭を造っており、三の丸庭園
通史編3(近世2)
(火災)
藩主の菩提寺である長勝寺(ちょうしょうじ)と
報恩寺
(ほうおんじ)に対しては、延宝三年(一六七五)に寺の
通史編4(近・現代1)
(伝統習俗の刷新)
やむなく、十四年四月からイタコや座頭の頭役(
報恩寺
)を定め、お役金四円也を上納させて、その職能を認めるという
通史編4(近・現代1)
(大正期の弘中)
大正四年には、校舎の大改築と校地の拡張を行い、慈雲院と西隣の
報恩寺
の一部が加えられることになった。
通史編3(近世2)
(信政)
遺髪・爪は菩提寺
報恩寺
に五輪塔を建て、ここに納めた。
通史編4(近・現代1)
(大区小区制の成立)
新屋敷は上白銀町、大行院門前・長勝寺山内・同門前・耕春院門前は西茂森町、裏門前は茂森新町、貞昌寺門前・
報恩寺
門前
通史編3(近世2)
(大社の神仏分離)
袋宮(ふくろのみや)権現宮(現熊野宮、市内茜町)は袋宮が別当を免じられ、
報恩寺
(ほうおんじ)境内の無量院
通史編3(近世2)
((一)衣服)
藩主家の菩提寺である長勝寺(ちょうしょうじ)(現市内西茂森一丁目)・
報恩寺
(ほうおんじ)(現市内新寺町
通史編3(近世2)
(城下での生活)
二十五日、午前九時すぎ藩主は仏参(場所不明)、藩主が帰ってから
報恩寺
(ほうおんじ)(現市内新寺町)へ参詣,そのため長勝寺・
報恩寺
の火消番は勤めがたいと申し上げる。このことは黒土刑部左(ママ)も聞いていた。,二十五日、午前九時に藩主が
報恩寺
へ参詣。藩主が帰った後に仏参。
通史編2(近世1)
(野本道玄の招聘)
しかし、道玄は茶道を伝授するのみならず、養蚕技術の導入、岩木山麓での茶の栽培、弘前城下の貞昌寺・本行寺・
報恩寺
通史編2(近世1)
(漆の栽培奨励)
また、長勝寺、
報恩寺
など城下寺社の境内、弘前城の郭内でも漆の栽培が行われた。
通史編3(近世2)
(藩政中期四代信政)
寺社の建立では、信政が明暦二年(一六五六)、父信義のため天台宗
報恩寺
(ほうおんじ)を創建し、薬王院(やくおういん
通史編3(近世2)
(二 藩主の日常生活)
報恩寺
の湯治願いを了承。,その後すぐ長勝寺と
報恩寺
へ参詣して、正午すぎに帰城。午後二時に夕飯。午後七時すぎに夜食。,午前十時すぎ
報恩寺
へ参詣。 三日、午前十一時すぎ麻裃を着用し毘沙門天(びしゃもんてん)を拝む。,それから
報恩寺
へ参詣し、午後三時すぎに帰城。
通史編3(近世2)
((二)富籤興行)
この年十一月には
報恩寺
の十一面観音堂(現袋宮寺)、十二月には白狐寺でも富籤が行われた。
通史編4(近・現代1)
(戸籍法と戸籍区)
茂森町 宇庭光海及耕春院并元門前 長勝寺々中一円 同元門前 古堀丁 同新割町 元裏門前 茂森派立 新寺町
報恩寺
元門前
通史編4(近・現代1)
(第五十九国立銀行の創設)
創設 上京して直接渋沢より教示を受けた大道寺・松野の両人は、帰郷後の明治十年(一八七七)十月十二日に
報恩寺
通史編2(近世1)
(高照神社の造営と「名君」信政像の創出)
信政の葬儀は菩提寺の天台宗
報恩寺
で営まれ、神道による祭儀によって高岡に葬送された。
通史編2(近世1)
(城下弘前の変化)
第一は新寺町に
報恩寺
・円明寺(えんみょうじ)などの八ヵ寺と四〇軒余りの町屋が取り立てられたこと。
通史編4(近・現代1)
(明治二十年度予算審議)
このときの案件は「弘前全市街拝借地処分議案-弘前新寺町
報恩寺
境外寺庵六ヶ処慈雲院界外共」だった。
通史編3(近世2)
(居開帳)
報恩寺
内の観音堂(現袋宮寺)は、享保二十年(一七三五)、修復のための開帳をいったん断られたが、後にようやく
通史編3(近世2)
(掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)
弘前市立図書館蔵津軽家文書 口絵2 弘前市立博物館蔵 口絵3 弘前市立図書館蔵津軽家文書 口絵4 弘前市
報恩寺
蔵
通史編2(近世1)
(掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)
国文学研究資料館史料館蔵津軽家文書 口絵10 御国縮図並弘前同其外所々之図 弘前市立博物館蔵 口絵11 弘前市
報恩寺
蔵
通史編1(古代・中世)
(一 古代における北奥の宗教世界)
東福院 天台宗 不詳 頽廃後、袋宮寺として再興 (10) 袋宮寺 同右 天正年中 (11)
報恩寺
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