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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (海の民・山の民としての安藤氏)

中世末期の史料ではあるが、安藤氏が、海の民の守護神たるところの陸奥国一の宮、塩竃(しおがま)神社(写真,130)の社人となっていたこと、その塩竃神社の神領が安藤氏と関係の深い外浜に存在していたことなども明らかになってきており,、陸奥国を代表する海の民としての安藤氏の存在が、この北の世界で大きな意味を持っていたことはまちがいあるまい,写真130 塩竃神社(宮城県塩竈市)  しかしそれにもまして注目されるのは、山の民としての安藤氏
通史編3(近世2) (振舞の場合)

振舞の場合 振舞とは饗応あるいは「もてなし」の意味である。,そのほかに肴は塩鰯・羽鯡(はにしん)(どのような鯡か不明)・田作魚・数の子のうち一品がつけられた。,鮹(たこ)・烏賊(いか)、 丼 数の子・豆腐・青菜(あおな)・辛子和物(からしあえもの)、 押 塩鱒,(ます)或鰈或鮭(さけ)魚、 吸物 鮊或ハ鱈の雲綿(タチ)、鯖或ハ鯡(にしん)或ハ鮒(ふな)、味噌スマシ,濁酒、 平 胡蘿蔔、豆腐、魚、牛蒡、日和貝(ひよりがい)、 汁 大根卸、 皿 大根鱠(なます)、塩鮭一切
通史編3(近世2) (年越しと小正月の料理)

ひらわん)に盛りつけた鱠(なます)(材料は凍豆腐(こおりどうふ)・人参(にんじん)・牛蒡(ごぼう)・塩鮭,夜は昼と同様大勢で、おかず三種(中味不明)に吸物(すいもの)でお酒を飲み、さらに副食物として鱈の刺身、,か)、加藤(かとう)(鮫の一種か)・凍豆腐・人参・牛蒡の煮染(にしめ)の入った丼、大丼(材料不明)、塩鮭,安政二年一月十五日の昼の献立は、塩鮭・凍豆腐・牛蒡二切・人参二切・わらびの入った平椀、塩鮭(焼いたものか
通史編3(近世2) ((二)食事)

調味料の中心は塩・味噌で、もちろん自家製であった。,味噌汁のほかに副食は漬物と各種の野菜である。
通史編2(近世1) (預け・入牢・護送)

預け・入牢・護送 なにか怪しいふしがあって吟味が始まると、入牢(じゅろう)(吟味中牢屋に入れる)とまでいかないものは,⑤護送される者が道中で病気になった際には医者に治療を頼み、もし死亡した場合には塩詰めにして江戸へ送ること
通史編1(古代・中世) (渡嶋の所在)

もっとも正確な地理認識がなかった当時のことであるから、厳密に現在の地点に比定するのは意味がないといえばそれまでであるが,馬を飼うには大量の塩が必要である。,この塩をどうやって入手するのかがまた重要な論点であるが、詳細は明らかではない。,時代が下れば、陸奥湾岸で非常に多くの製塩土器を伴う遺跡が発見されている。,しかしその時代でも北海道ではまだ製塩土器が発見されていない。
通史編2(近世1) (改革の終焉と成果)

その意味では、急転直下の改革劇の幕引きであった。  ,天明四年(一七八四)、再び許されて生涯五人扶持を与えられ、弘前城下の塩飽(しわく)町(現塩分(しおわけ,図146.津軽徧覧日記の蝦夷部分  さて、改革は藩財政の再建という意味では失敗に帰したが、標符(
通史編3(近世2) (諸役と仲間)

されており、その中には粒油・水油の支配の事、職人支配の事、酒・麹役支配の事、居鯖支配の事、紺屋役布吟味の,文目 合羽屋 2文目 唐笠屋 1文目 提灯屋 2文目 檜物師 4文目 足袋屋 3文目5分 塩触売,5文目 魚 売 30文目 両浜魚売小頭は15文目 塩肴・干肴 30文目 魚触売 10文目 干 ,匁、蝋燭(ろうそく)の役銭五文目、造醤油の役銭八五匁、造酢の役銭二五匁、饂飩(うどん)の役銭一〇匁、塩触売,の役銭五匁、蕎麦切の役銭五文目、室屋の役銭三〇匁、塩味触売の役銭五文目、塩店売の役銭五匁が挙げられる。
通史編4(近・現代1) (市制施行直前の商業)

58 41 …… …… …… 5 …… 12 酒 類 124 4 3 21 14 13 4 65 味 ,小間物 12 …… …… 6 …… 5 1 …… 練 油 19 …… …… 15 …… …… …… 4 塩,… … … … … 1 酒 5 4 … … … … … 1 生 糸 3 … … 3 … … … … 味 ,327 7 1 22 5 3 3 286 古 着 252 36 12 54 15 50 2 83 塩,659 121 42 85 26 39 24 322 銅 鉄 128 20 8 … 5 4 5 86 味 
通史編3(近世2) ((二)食事)

、夕飯は平椀(ひらわん)(平椀に盛った料理)もしくは焼物一種、夜は湯漬けに香物(こうのもの)(野菜を塩・,糠味噌(ぬかみそ)などに漬けた食品)・猪口物(ちょこもの)(小丼で刺身(さしみ)や酢のものなどを盛る小
通史編4(近・現代1) (農会の設立と農事改良)

豆・蕓臺(うんだい)(油菜)・果実・繭・苗木・蔬菜・牧草、工産は生糸・真綿・畳表・竹蔓細工・醸造物・味噌,、各町村から補助金を受けながら、事業として立毛(たちげ)品評会、農事視察、害虫駆除、堆肥舎建設、種子塩水選
通史編3(近世2) (三 八幡宮の祭礼と山車の運行)

また、山車も大型化し、塩分町入口の木戸を含めて四ヵ所の木戸の片側を引き抜いた。  ,・親方町)・大黒山(本寺町)・文殊山(土手町)・高砂山(東長町)・神楽山(亀甲町・黒石町)・大根山(塩分町,元文五年(一七四〇)、茂森町の山車に踊り子五人・音頭二人・笛吹き一人・三味線二人・小鼓一人、土手町の獅子踊,りに笛吹き三人・地謡三人、鍛冶町の太神楽に囃子方、亀甲町の踊り子は役者八人・小鼓一人・三味線一人・小歌詠三人
通史編2(近世1) (「標符(通帳)」通用の実態)

これらの意味するところは、窮乏した藩財政の補填に、領内から収奪した金銀・米穀・諸物資が充てられるということであり,特に塩・味噌・たばこの類はひどく、購入の順番を争う様子は言語に堪えないものであった。
通史編3(近世2) (商業の農村進出)

進出し、木綿・小間物の店を出すことは禁止され(木綿は弘前城下の本町(ほんちょう)以外での販売禁止)、塩・,味噌・油(醤油か灯油か不明)の触売(ふれう)りはよいが、その他の品物は役銭を提出して販売を許可されていた
通史編2(近世1) (飢饉への対策)

いわゆる新田地方では宝暦五年十一月に、鶴田村の兵蔵ら七人が村々の難儀の者に米・金銭・塩・味噌・薪などを
資料編1(考古編) (〈用語の解説…第2節〉)

玄武岩・はんれい岩・輝緑岩などの塩基性岩。 *17 級化成層…級化層理ともいう。,角礫の対語として一般的な意味で用いる。礫を円磨度により角礫・亜角礫・亜円礫・円礫と区分される。,本来的な意味で命名された関東ローム層が、のちに火山灰起源とわかってからはロームに「火山灰起源」の意味を,*55 コノドント (conodonts) …〝円錐形の歯〟、という意味を持つ所属不明の微化石で錐歯類,*60 塩基性岩 (basic rock) …岩石をその化学組成に基づいて分類した場合、SiO2含有量
通史編3(近世2) (商社の活動内容)

青森に入港したが、品目は玉砂糖・白砂糖・生蝋(ろう)・晒(さらし)蝋・半紙・備後表・鍋類・瀬戸物および塩一,西蝦夷地古平(ふるびら)(現北海道古平郡古平町)の数ヵ所に場所が設定され、出稼ぎ人たちへの貸付金の貸与や、米・味噌
資料編1(考古編) ((2)太平洋戦争後から現代まで)

平山は須恵器67、橘は擦文や続縄文土器*82*88*102~*104で、北林は製塩土器*70*109で,以上、遺跡の調査を中心に略述したが、調査の成果は各々の報告書や多くの研究論文等で発表され、遺跡の意味づけが,蝦夷論」からさらに一歩進み、各時代の土器編年作業の進展に伴い、生業の具体的な内容(農業・窯業・鉄生産・塩業
通史編2(近世1) (刑罰体系)

③身分刑――社会的身分に影響を及ぼす刑の意味である。,隠居には自発的なものがあるが、武士が刑罰として強制的に隠居を命じられる閏刑を意味する。,取上の御仕置場や出身地の村端で獄門にかけたり、塩漬けの後に磔にする。
通史編1(古代・中世) (一 古代における北奥の宗教世界)

北奥の宗教世界 現在の弘前市内における中世寺社を語ることは、必ずしも中世の弘前宗教界を語ることを意味しない,この天台寺院の東国建立も、たしかに同宗の東国布教線の拡大を意味するものであるが、実はこれにも増して、天台宗,と東国との結び付きの強さを証明してくれる興味深いことがある。,また七代の猷憲は下野国塩屋(しおや)郡出身、というように天台座主のポストを、初代~七代の間に東国出身者,この天台座主のポストをほぼ東国出身者が独占したという意味は決して小さくはなく、陰に陽に東国仏教の世界と
資料編1(考古編) (第5節 温泉)

この地下水の賦存層は帯水層と呼ばれ、それが温泉として利用可能か否かは、帯水層の形状や状態を意味する堆積層,しかし、さらに古い地質系統の中新統中・下部層から取水している温泉水は弱~強食塩泉で、油田かん水的な性格
通史編2(近世1) (二代信枚の動向)

両者から「塩味(えんみ)」(譲歩のこと)の打診がなされるが、交渉はなかなか進展せず、津軽側は八森境は矢立
通史編2(近世1) (青森町の成立と青森開港)

最も北の浜側には上浜町・仲浜町・下浜町、蜆貝(しじみかい)町、次の街路には、上町、中町、下町、塩町(しおまち,都市に固有の税が賦課されるようになったことは、藩が青森を「青森村」ではなく町方として把握したことを意味した
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