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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (東北地方北部の群集墳)

東北地方北部に分布する群集墳の規模からみて、それらが族長層の墳墓であるにしては多く、家族成員すべての墳墓,写真3 丹後平墳墓群  これに対し、津軽地方では尾上町原(はら)墳墓群(写真4)が知られている。,丹後平墳墓群でも湖西窯跡群の八世紀第1四半期に比定される長頸壺が出土している。,さらに、一九九〇年の発掘調査では九基の古墳が確認されており、八戸市丹後平墳墓群や下田町阿光坊墳墓群をしのぐ,写真4 原墳墓群 図3 原墳墓群遺構配置図 図4 原墳墓群の構造 図5 
資料編1(考古編) (はじめに)

しかし、過去の人々の死後における安住地、つまり墳墓も重要な遺跡なのである。,一般に墳墓と聞くと、古墳のような封土(盛土)を持つものを連想するであろうが、縄文時代にはそのような大規模,な墳墓は無く、極めて簡素な埋葬の仕方を行っている。
通史編1(古代・中世) (原エミシ文化・エミシ文化の祭祀遺物)

墳墓の副葬品は、岩手県の例になるが、北上市岩崎台地墳墓群からは土師器甕(かめ)・壺、直刀・刀子(とうす,青森県内の群集墳は、古墳文化系の副葬品で占められているが、前代の墳墓の副葬品構成を引き継いだ岩崎台地墳墓群
通史編1(古代・中世) (古墳文化と続縄文文化の交流)

では、この時期の遺物は大半が採集資料であったが、先に触れた天間林村森ヶ沢遺跡では続縄文文化の特徴をもつ墳墓,続縄文文化の前半期には、多くの墳墓のほか、道東部では舌状の張り出し部をもつ隅丸方形ないし小判形の竪穴住居,中葉になるとこれらの遺跡数はピークに達し、後半期に至るまで多くの墳墓が見つかっているにもかかわらず、住居,墳墓の数から考えると人口が増加していたことは間違いないと思われるが、この現象は北海道だけではなく、東北地方北部
通史編1(自然・原始) (石棺墓)

られた土坑の壁に立て並べ、遺体をその内部に安置して、石かあるいは木の板で蓋のように覆い隠したもので、墳墓
資料編1(考古編) ((1)縄文時代の土壙墓)

(1)縄文時代の土壙墓 この墳墓は、地表を楕円形・長楕円形(小判形など)・長方形に深さ50cm~1m,以上述べた土壙は、間違いなく墳墓(土壙墓)であろうと思うが、残念ながら内部から遺体を埋葬したという明らかな
資料編1(考古編) ((3)葬制(終末期古墳))

~9世紀後葉)にかけて東北地方と北海道石狩低地帯に分布する直径10m前後、高さ1mほどの小墳丘をなす墳墓,これらの墳墓は、その構造的な面から古墳時代の古墳の影響を受けたものとして、「終末期古墳」あるいは「末期古墳
資料編1(考古編) (1.古墳時代の概観)

めころになると、支配者層は支配圏をいっそう拡大するとともに、自らの権力を誇示する目的で、前方後円墳のような巨大墳墓,この巨大墳墓の被葬者は、政治・経済・宗教などすべてにおいて最高の権力を持った支配者であり、中でも畿内に,これに呼応する形で、青森県においても阿光坊古墳群や、鹿島沢古墳群などの終末期古墳と呼ばれる小墳墓がこの
通史編1(自然・原始) (環状列石)

環状列石 この類の遺跡は、昭和二十六年(一九五一)から実施された秋田県鹿角市にある大湯遺跡の調査を契機に墳墓説,現在は墳墓とする考えが大勢を占めている。  
資料編1(考古編) ((1)縄文時代の甕棺墓)

本県では、当該遺跡に対する調査は古く、縄文時代における墳墓の調査研究は、この甕棺墓によって始まったと言,笠井は、この墳墓に対して洗骨式(埋葬後数年を経て掘り起し、骨を洗い清めた後に土器の中に入れて改葬する風習
通史編1(古代・中世) (弥生文化と続縄文文化)

本州側では、従来通り「後北式」という名称を用いることが一般的であるが、主に江別墳墓群から出土した土器を,北大Ⅲ式と称された土器については、かつては墳墓以外の遺構形態がはっきりしなかったが、恵庭市カリンバ3遺跡
資料編1(考古編) ((1)7世紀~8世紀)

この小円墳は、「部族長」あるいは「戸主」層クラスの墳墓とされており、副葬品には在地生産物のほかに、西日本
資料編1(考古編) (第7節 出土遺物と生活)

葬制の面では、いまだ大規模な墓域の調査はなされていないものの、北海道上ノ国町勝山館に接する夷王山墳墓群
資料編1(考古編) ((2)人骨の出土した土壙墓)

使うフラスコの形状に類似した遺構がしばしば発見され、中には、当時の食料の一部が検出された例もあるが、墳墓
通史編2(近世1) (飢饉のその後)

名代らは餓死者の墳墓の前で、藩主自筆の祭文を読み上げ、死者の亡魂を弔うとともに生存者の息災も祈った。
通史編1(自然・原始) (住居)

もし統率者も居ない無秩序の状態であるとなると、掘立柱の建造物をはじめ、墳墓・盛土や大型を含めた住居などの
通史編3(近世2) (「概略手続」の発表と変更)

明治三年十一月に、士族高瀬裕之進は柏木(かしわぎ)組梅田(うめだ)村(現五所川原市梅田)に先祖の墳墓があり
通史編1(古代・中世) (三 北奥宗教界の中世的転回)

写真144 『津軽一統志』唐糸前   唐糸前 此所有二墳墓一、曰レ伝最明寺時頼鎌倉副元帥北條相模守,滿藏寺ト一、如今(イマ)移二来リ于弘城ニ一、列シ二長勝門内ニ一、成ル二耕春門徒一、故ニ往古所ニレ呼フ墳墓
通史編1(自然・原始) (第一節 注および引用・参考文献)

石器時代遺物」『東京人類学会雑誌』二五-二八六 一九一〇年一月 (34)笠井新也 「陸奥国発見の石器時代の墳墓,に就て」『考古学雑誌』九-二 一九一八年十月 (35)A 喜田貞吉 「石器時代の墳墓に就いて」『考古学雑誌,』九-三 一九一八年十一月   B 喜田貞吉 「古代アイヌ族の墳墓」『歴史地理』三二-五 一九一八年十二月
通史編1(古代・中世) (一 中世寺院の建立)

(ふさん)遊行」をしていた時宗の開祖一遍智真(いっぺんちしん)(一二三九~八九)が、祖父・河野通信の墳墓
通史編1(自然・原始) (第三節 注および引用・参考文献)

(75)笠井新也 「陸奥国発見の石器時代の墳墓に就いて」『考古学雑誌』九-二 一九一八年 (76)市川金丸
資料編1(考古編) (〈注一覧…第2章〉)

遺跡発掘調査概要』(報告書作成会議資料) 1993年3月 *232 笠井新也 「陸奥国発見の石器時代の墳墓,に就て」(考古学雑誌9-2) 1918年10月 *233 喜田貞吉 「石器時代の墳墓に就いて」(考古学雑誌
資料編1(考古編) (〈注及び参考文献一覧…第3章〉)

について」(考古学雑誌51-3) 1966年 *59 石附喜三男 「北海道南部における8世紀前後の墳墓,大間崎割石遺跡を中心に」(北奥古代文化5) 1973年 *105 石附喜三男 「擦文式文化における墳墓
通史編1(自然・原始) (発掘調査の成果)

縄文時代を通じて一般的な墳墓は、地面を掘りくぼめて作った土壙墓であった。
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