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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (弘前士族の反発)

弘前士族の反発 明治六年春から夏にかけて弘前貫属士族の起こした給禄渡しの騒擾(そうじょう)は、青森県,この騒ぎの直接の原因は、米価の値上がりによる士族の生活難であった。,一、徴兵令を廃し、士族兵とする。  一、金納をやめ、米納を主とする。  ,しかし弘前士族は常禄に甘え、安逸に馴れ、自活の精神を失い、飢餓瀕死の域に陥った。,「士族先生須(すべから)ク猛省スヘシ」と。 / 弘前士族の反発
通史編4(近・現代1) (士族授産事業の成立と展開)

士族授産事業の成立と展開 山田秀典県令の「県治状況報告書」に開牧社の開業の事項が記されていたが、これは,内務省から起業基金の提供を受けて可能になった牧畜事業であり、士族六一二人が関係する大規模なものであり、,このほか、牧畜、開墾、樹林を目的とする士族授産結社に農牧社があった。,笹森と、同じく旧弘前藩士族の大道寺繁禎は、起業のための補助金を申請した。,明治政府の資金援助を受けて設立された士族授産結社には、他に、明治十六年(一八八三)に一万円の勧業資金貸与 / 士族授産事業の成立と展開
通史編4(近・現代1) (士族授産事業としての銀行設立の奨励)

士族授産事業としての銀行設立の奨励 明治新政府による旧体制改革である廃藩置県と、それに続く秩禄処分によって,家禄を失った士族は、その多くがわずかばかりの金禄公債を生活の糧とするしかなく、失業状態に置かれ、深刻な,このような士族を救済するため、政府は主務省である内務省を中心に士族授産政策を実施することになるが、その,明治九年(一八七六)八月、政府は華士族の禄制を廃止して、その代わりに金禄公債証書を交付したが、公債総額,つまり、華士族が銀行事業への投資により、公債の利子金とともに銀行事業利益の配当金を得ることで、生活の安定 / 士族授産事業としての銀行設立の奨励
通史編1(古代・中世) (一族の分裂)

一族の分裂 同年十二月には、降伏人のうち津軽に留め置かれた五〇人余と、それを預った二〇人余の交名(きょうみょう,それによれば曽我氏も工藤氏・小川(河)氏も、いずれも一族分裂して戦ったさまがうかがわれ、降人にも預人にも,双方に、同じ一族の名が見出だせる。  ,写真135 熊野奥照神社板碑  また降人の半分近くは、安藤氏一族に預けられており、ここから安藤氏,こういったクラスの不満多き武士たちは、積極的に後醍醐方に参加していった。   / 一族の分裂
通史編3(近世2) (赤穂四十七士批判)

赤穂四十七士たちは「名」を惜しむあまりに、家族に対する責務を放棄して果たさなかった、このことこそがまさに,近世で論じられたさまざまな義士論の中で、このように妻子・眷族に対する浪士たちの責任の問題をこれだけ明確,確かに事件後に作られた浄瑠璃や歌舞伎の戯曲の多くの中には、親族への情の問題を顧慮・喚起させることに意を,しかしそれらは、そのような家族の情的な結合を断ち切ってまでもして、君臣関係に殉じた浪士たちの心情のけなげさを,乳井が展開したような、妻子・眷族に対する浪士たちの責任追及の論点は、それまでの多くの義士論が欠落させていた / 赤穂四十七士批判
通史編3(近世2) (王族利益の実態と帰田法の意義)

表27.禄高別士族卒数および分与地面積 No.,では、次にこの田地から士族らは実際どれほどの地主作徳米を得られたのだろうか。,表28.阿部家分与士族作徳米一覧 No.,士族氏名 家禄 (俵) 分与地面積 分与村 作徳米高 (石) 扱い料 諸郷役 士族純益 (石) %,それでも、こうした利益にもかかわらず士族の家計は好転しなかった。 / 王族利益の実態と帰田法の意義
通史編3(近世2) (藩士の信仰)

藩士の信仰 藩士の信仰としては、三代藩主信義が明暦元年(一六五五)に死去すると、四人の殉死者があった,戦場で君主の馬の先で死ぬことは武士にとって名誉であるので、私の死をそのように考えてもらえれば、冥土にあっても,図244.信義廟所内の墓石(向かって右が山本安次の墓石)  庚申信仰は藩士の間にも行われており、,普門院(現市内西茂森二丁目)境内にある天保三年(一八三二)の庚申塔には、町人に混じって藩士八反田縫之丞,また、過去・現世・未来と三世の祈祷や一門九族の武運長久・延命を祈った願文もあった。   / 藩士の信仰
通史編1(古代・中世) (嘉元鐘銘文に登場する鎌倉武士)

嘉元鐘銘文に登場する鎌倉武士 したがってこの鐘の銘文の第二区から第三区にかけて名を連ねている施銭檀那,この津軽曽我氏は、仇討ちで有名な曽我兄弟の義父曽我太郎祐信(すけのぶ)の一族であるが、当初においては関東,陸奥にも源姓氏族は多いが、光氏の苗字は不明。,小川氏は、鎌倉初期より乳井郷の福王寺・極楽寺別当職を受け継いだ一族で、小川宗直は弘安十年(一二八七)、,さて、これら津軽の有力武士たちのなかで、最も勢力のあったと推測される津軽安藤氏「安倍季盛」の前に名を連 / 嘉元鐘銘文に登場する鎌倉武士
通史編1(古代・中世) (南部晴政の登場と一族間の対立)

南部晴政の登場と一族間の対立 天文八年(一五三九)、「奥州南部彦三郎」が上洛し、将軍足利義晴(よしはる,室町期から戦国期にかけて、奥州の有力武士が将軍の偏諱を得ることはさほど珍しいことではなかった。,九戸氏は周辺の浄法寺(じょうぼうじ)氏・久慈氏、さらに七戸氏、岩手郡の福士(ふくし)氏、八戸南部家の支族新田,このように強大な勢力を幕府によって認められていた九戸氏のほかにも、室町中期まで本家と並ぶ勢力を保っていた一族の / 南部晴政の登場と一族間の対立
通史編3(近世2) (弘前の民衆)

このためか、明治四年(一八七一)十一月には城内に桑や茶を植えて士族授産の補いとし、廓内の建家(たていえ,「士族在籍引越之際地図並官社商現図」(弘前市立博物館蔵)は、廃藩から明治十四年ころまでの弘前市街の各戸,当時、全国的に脱籍士族による外国人殺傷事件が続発しており、新政府も県や藩に管轄士族の管理を徹底させていたが,士族も断髪令や脱刀令によって服装が変わったが、最初は相当慣れなかったらしい。,その後、秩禄処分・徴兵令・地租改正といった一連の政策により、士族の特権は否定されていった。
通史編4(近・現代1) (家禄制度改革)

廃藩置県後も旧知藩事や士族らには禄米が支払われていた。,944.00 旧黒石藩 802.00 旧斗南藩 738.00 旧七戸藩 162.00 貫属士族卒家禄,表4 旧弘前県貫属士族卒家禄内訳 家禄の大きさ 人数 合計(石) 米80石 11 880.00 米60,4,097 57,876.955 旧黒石県華士族 75 3,849.118 旧八戸県華士族 536,資となったが、一方で、金禄公債を失っていく士族も多かった。
通史編4(近・現代1) (軍都以前の弘前市)

明治維新以後、国内最大の内乱となった西南戦争には、全国各地の士族が応援にかけつける一方、政府の命令で各地,青森県もその例に漏れず、弘前の士族も応援に駆けつけた。,けれども元来が城下町だった弘前には多数の士族が集まっており、明治政府の諸政策に対する不平・不満が集中していた,とくに士族たちは、四民平等に基づく家禄の廃止や、士族・平民の別なく兵役義務を課せられることに強く反発していた,明治政府が進める近代国家の軍事制度は、士族の町弘前には、かえって浸透しなかったのだろう(詳細については
通史編4(近・現代1) (帰田法の帰結)

これによれば、士族卒は家禄の削減により、家計が苦しい者が多いので、土着を促すために、余裕がある田畑を購入,これを見れば、献納や売却の主体は農民であるが、士族、卒の土地も集められていたのである。  ,これらの土地は、家禄一五俵以上の士族に、禄一〇〇俵につき、土地二四石の割合で分与された。,一士族ノ方向ハ憂中ノ最モ大ナルモノニ付過日旧藩ノ総体ヲ左ニ陳ス 士族元卒総員四千三百五十六名之内、方向,士族土着は、家禄の削減が前提であり、支出の減少につながり、歓迎すべきことだったのである。
通史編4(近・現代1) (県政初期の混乱)

弘前藩では、版籍奉還後、数回大幅な禄制改革を行い、士族の家禄は上等士族が二〇〇俵から一〇〇俵、中等士族,が八〇俵、下等士族は三〇俵から一五俵となった。,青森県では正米不足を理由に士族の家禄を現金支給とした。しかも四期分割支給だった。,生活不安を訴える士族たちは、寺院に集まり、不満を述べ合った。,当時の弘前士族は四分五裂の状態にあった。津軽家一門も保守派と時代容認派があった。
通史編3(近世2) (実施までの規則改訂)

変更点とは、たとえば、慣れない農村に移住した士族らの面倒をみるために村の庄屋などを大作人(だいさくにん,)に任じ、かわりに大作人に士族利益分から五パーセントの米の徴収を認めたこと(明治三年十一月)、士族らに,⑤士族・卒の内、田地買い上げに応じた者は、希望地への在着を許可する。,それでも、この段階で藩はまだ帰田法の本来的意義である士族の帰農という目的を放棄したわけではなかった。,⑥で小作権の保護と農村慣行の遵守(じゅんしゅ)を挙げているのは、在方に移住した後、士族らが農民と円滑な
通史編4(近・現代1) (第五十九国立銀行の創設)

付、何卒願意至急御聞届相成候様御執達被成下度、此段奉願候也  明治十一年一月〔二十五日〕 青森県士族,    蒲田昌清 印 青森県士族 第三大区一小区陸奥国津軽郡相良町二十七番  松野幹  印 青森県士族,設立時の族籍別株主は表15のとおりであり、士族が株主総数の九四・五%を占め、さらに、持株数も九七・四%,このことから第五十九国立銀行は、士族授産のための士族銀行として設立されたのは明らかである。,表15 族籍別株主内訳(創立時) 人 員 株 数 士 族 659名( 94.5%) 3,896
通史編3(近世2) (帰田法(きでんほう)とは)

帰田法(きでんほう)とは よって、明治三年六月以降、藩としての最大の問題は士族・卒の困窮化をいかにくい,町歩だけは彼らに残し、あとは強制的に藩が廉価(れんか)で買い上げるか、または献納(けんのう)させて、士族,もっとも藩士の帰農についてみれば、当時は何も珍しい政策ではなく、財政が破綻(はたん)しかかっていた全国,しかし、弘前藩の場合は田地配賦とともに従来の家禄支給も約束されており、士族・卒にとって圧倒的に有利なもので
通史編4(近・現代1) (町の様子)

貧乏士族の子弟一団は集って城中を利用して唯一の酒食場としたのである。,これは、明治維新後の改革で、特に士族層が苦境に立たされたことによる影響が大きい。,我が弘前の衰微したのは、第一に旧藩主の東京に移住したときに始まり、夫は士族の在宅に次ぎ、士族の安逸に耽,り産を失ひ家族分離するもの多く、北海道に夜逃げしたる勝(ママ)て夫れは士族斗りでは町家でも農家でも沢山,このように、士族中心の旧藩体制下の弘前の生活環境は、明治維新後に一変したのである。
通史編3(近世2) (新しい指導者)

さて、着任した菱田が最も尽力したのは旧斗南県士族の救済であった。,時に冬の最中であり、斗南県士族ら約一万人の生活は危機に瀕していた。,そのため菱田は十二月に再び上京し、政府高官を説き伏せて、ようやく斗南県士族の救済は決着をみた。  ,また、すでにこのころ、士族特権の廃止に伴って日本各地で不平士族の動向が新政府でも憂慮されており、弘前で,の騒動ともあいまって、北代も旧弘前県士族に対し強く嫌悪感を抱いていた。  
通史編4(近・現代1) (私立小学校の乱立)

乱立の原因の第一は、士族階級の窮迫である。,廃藩置県以来三年を経過して、家禄を失った旧藩士族がようやく窮迫し始めたころで、糊口をしのぐ手段として私立小学校,また、士農工商の子弟に同一の教育を施す公立小学の教育を、一部士族の中には忌避するものがあったなど、私立小学校
通史編4(近・現代1) (菊池武徳と中央政治)

佐々は熊本藩士、国権論者で教育者でもあり、陸羯南の対外硬運動などに参加した。,また、青森市は、前年十二月まで弘前士族で国士肌の笹森儀助が市長であり、その後任の芹川得一も弘前士族で東奥義塾,帝国憲政施行以来既に廿有余年 憲法ありと雖(いえど)も未だ其実挙らず 国家の基礎今や漸く危からんとす 之れ皆閥族官僚,の非違横暴の行動に職由(しょくゆう)せずんばあらず 是故に吾党は茲(ここ)に立憲の大義に基き閥族官僚の,菊池も脱会したが、他の青森県の政友会代議士は政友会に残った。
通史編3(近世2) (廃藩置県と帰田法の終焉)

同年七月十二日に藩は規則を再び改定し、分与地の士族・卒同士、農民所有地との交換を認め、家禄に応じて在方,ここに、帰田法は士族らを自作農化するという目的を棄て、弘前城下にいながら農村からの利益を享受できる途を,もはや弘前藩は消滅し、このままでは戊辰戦争以来、疲弊した士族・卒は何らの救済措置もないまま、先行き不透明,たとえば、同年十一月上旬にはすでに農村移住を願い出ている八三一人の士族・卒の引越代米が大幅に削減され、
通史編4(近・現代1) (町並みの推移)

町並みの推移 廃藩、そして県庁の青森移転で、新時代に取り残されてしまった形の弘前は、商工業は沈滞し、士族,こうした市中の新しい気運は、まず士族屋敷の町並みに現れた。  ,士族の人々にとっては、旧習古格を守るばかりでなく、祖先伝来の家を手離すことは最も恥ずべくいやしむべきことでもあった,そうした信条も、しかし世の推移の前には是非もなく、三十一、二年ごろから、士族の家は目立って軍人の貸家に,また、士族の広い空屋敷にも、新しい移住者に提供するための家作が建ち、数年も経たぬうちに空地がなくなるだろうと
通史編3(近世2) (「概略手続」の発表と変更)

これによると、分与地に移住した士族・卒は年貢米を納めれば、残る部分は自分の自由となる。,そう考えれば帰田法は最初から士族・卒の自作農化を意図したともみえる。,もし、配賦を受けた士族らが自己の利益を得ようとすれば、小作人を追放しなければならないし、藩がそれを黙認,さらに、「概略手続」発表直後から、地主・農民・士族らにより続々と分地願い・質地請戻(しっちうけもどし),もちろん、この願いは藩により却下されているが、同時期に出された士族葛西協一の土地献納願いは許可されている
通史編3(近世2) (神職の扱い)

神職の扱い 神職は自らを吉田家からの「公儀御条目」にある「文武士」と認識しており、国家を守護する役務,から藩は名字・帯刀を許し、藩士同様の扱いをしていた。,そのため明治になって神職が士族に含まれる下地(したじ)は、この時からあったといえよう。,また、社家・修験・浄土真宗は家族に次、三男という男性を抱えているため、これらに対し慶応元年(一八六五),明治二年(一八六九)社家隊は深浦、修験隊は赤石方面へ出陣し、同三年士族卒以外は兵隊禁止となり、解兵された
通史編1(古代・中世) (狄坂丸の乱)

「狄」とあることや鎮守府将軍の管轄範囲から考えて、坂丸は米代川上流地域の族長であった可能性が高いとされているが,またこのときには坂丸が「軍士を徴発し兵糧を舂運(しょううん)した」とあって、彼らが兵士動員のシステムを,この時代、すでに東北地方の兵力も、在地の豪族たちに頼らざるを得ない事態になっていたのである。  
通史編4(近・現代1) (第一回通常県会)

当選二四人のうち士族出身は一〇人だったが、郡定員が全員士族というのは中津軽郡のみだった。,繋ル所ニ至テハ十分ニ意見ヲ開陳シ、論議ヲ悉スニ何ノ難キコトコレアランヤ、(中略)堂々四十余万人ノ代議士タルモノ,他地域では黒石に共進社が発足、のち益友会と改めたが、大地主の加藤宇兵衛や弘前藩士族竹内清明、黒石藩士族,で東奥義塾派・弁護士の榊喜洋芽が指導者で自由党系、これに対し、浪岡の一心社は、帝政党系で浪岡八幡宮の出自
通史編4(近・現代1) (私設青年団の結成)

鷹城青年会は五十石町や鷹匠町など中級以下の士族が多く、士族意識は依然として強く、排他的な孤立が根強かった
通史編4(近・現代1) (旧藩主逝去と小学校)

小学校教員に旧藩士族が多かったためか、各校とも旧藩主を敬愛する念が強かった。,弘前が古武士的な教育を強調し、他郡市に見られぬ剛風を持続し得たのは、旧藩主に対する士族教員の忠誠心が作用
通史編4(近・現代1) (洋化風俗の一例)

洋化風俗の一例 江戸定府の藩士渋江成善(抽斎の嗣子)が、国元の弘前に家族とともに引き揚げたのは明治元年,官員や士族の良家の人々が威張って着て歩いたもので、大正初年までは在郷の人たちが町に出てくる時の服装でもあった
通史編4(近・現代1) (地域と軍隊の密接化)

なんといっても黒溝台の会戦をはじめ、戦場で死と直面した兵士たちの精神には決して消えることのない深い爪痕,軍当局は、廃兵や軍人遺家族の保護と慰撫、そして授産政策を強化せざるを得なかった。,この点は雪中行軍の遺家族対策と同じだった。,戦争が終了した後、最も必要な措置は、軍隊に対する遺家族の不満や非難を抑制することだった。,これには日露戦争で苦しんだ軍人兵士やその遺家族の慰撫・慰安、そして保護・授産対策の意味合いもあった。
通史編1(古代・中世) (奥羽の特殊産物)

そこで異民族たる蝦夷の住む夷島に注目し、奥羽の延長に夷島があり、したがってその夷島産物は奥羽所出品であるという,幕府の儀式の進物として、馬や砂金が指定されることからも明らかなように、馬・砂金は、武士による中世国家にとって,めてこうした中世国家編成上の必要性から、奥羽(ないし夷島)からの特殊な官物搾取を維持するために、蝦夷異民族観,一三二五)の「安藤宗季譲状」(史料六二一)に記された糠部の地名はほとんどが「浦」であり、また「きぬ女類族交名,(きょうみょう)」中に、その一族として「もくし(牧士)きとう四郎」なる人物がみえることから明らかなように
通史編2(近世1) (文久の面改め)

めでは、領内の正確な人口把握のため詳細な基準を設け、一般的な人別帳にみられる田畑の所持面積や所属する家族形態,・五軒組合・旦那寺(だんなでら)などのほか、職業や家族の構成員の領内外への移動の様子などを細かに申告させている,これに対し文久三年時は武士人口も含んだ徹底したものであった。,在方に住んでいる武士はそのまま村役人が報告した。,この条文の前文で、特に田畑を所持しないのに大勢の家族を養っている者など包み隠さず報告するよう指示するなど
通史編4(近・現代1) (日清戦争終了後の民情)

とくに士族の場合などは藩士同士の交流関係が強く、その意味で郷里の人的交流が深く浸透していたと見てよいだろう,戦死者の葬儀に莫大な金員を投じる傾向に対しても、家族救護の費用に転用するよう郡役所を通じて通達している,事実、上北郡役所などは管下町村当局に対し、出征軍人の家族補助を調査しており、同様の調査は他地方ないし他府県,そのためにも日清戦争で負傷し戦死した人々を顕彰し、遺家族を慰撫・救済する運用手段を講じる必要があったのである,戦死傷者の顕彰や遺家族の救済事業は、その人々の生活する各地域で支援する運用を講じたのである。
通史編1(古代・中世) (足利幕府の奥羽支配)

その配下には、意外に斯波氏・石塔氏の一族被官が少ない。,国府と同じように、鎌倉幕府以来、奥羽各地を掌握していた得宗御内人(とくそうみうちびと)クラスの奥羽の武士をそのまま,たとえば斯波家長は、南奥には斯波兼頼(かねより)と佐竹一族の中賀野義長(よしなが)を、北奥には津軽に安藤家季,の制度的拠点を奪い合いながらも、結局は同一の奥羽掌握策をとっているわけで、中央政府にとっての奥羽の武士たちの
通史編3(近世2) (藩政改革がもたらしたもの)

断行された菱田重禧主導による藩治職制の顛末(てんまつ)については、先に詳しく述べたが、この改革で弘前藩士に,形での藩からの賦課(ふか)や、各地への出兵に伴う軍費負担、明治二年の凶作といった要素は、加速度的に藩士財政,その具体的事例として、藩士樋口小作(ひぐちこさく)家の例をみてみよう。,彼には八人の扶養家族がいたが、翌四年四月まではなんとか家計は成り立っていた。,食事を粥(かゆ)に切りつめ、傘張りの内職をして糊口(ここう)をしのいでいったが、ついにこのままでは家族全員渇命
通史編4(近・現代1) (蓬萊館から大和館へ)

館名は社会福祉が看板の「慈善館」に対し、一回り大きく〝大和民族〟の名を借りて「大和館」とした。  ,大和館の名を高めたのは、坂巻ラッパという名弁士の存在であった。,大正期はまだ無声映画の時代であり、映画のシーンに合わせて、生の音楽が流れ、弁士が七色の声を使い分けながら,興行の出来、不出来は弁士で決まると言われていたほどである。,大和館は、新派(邦画の現代物)の弁士として、東京の人気弁士・坂巻ラッパを県知事の給料を上回る月給を出して
通史編5(近・現代2) (新制弘前高校の誕生)

質実剛健を校風に明治十七年八月二十日、士族とわずかな平民でスタートした弘高は、ここに男女席を同じくしたのである,選択した時間割に従って、生徒が教室に出向くという形をとったので、休み時間は「民族の大移動」でにぎわった
通史編4(近・現代1) (米作奨励と栽培管理)

旧弘前藩の藩士は、廃藩置県、秩禄処分などで失職・困窮したが、士族授産として土地の払い下げによる牧場開墾,、農工商への就業支援、開業資金の貸し付けなどにより、失業士族の救済策がとられた。,この中で、斉藤は「農ニアラサレハ士民生活ヲ保カタシ、農ノ時ヲ不失ハ国家豊饒也」と、農業振興の重要性を説
通史編4(近・現代1) (東奥共同会の設立)

これは、本多ら東奥義塾のグループが東奥共同会を作って自由民権運動を進めたことに対する弘前の保守士族の反撃,生産とは桐、桑、楮を植えて自活することであり、これが後には士族のりんご栽培となった。,しかし一般人は、身代を破り、斗酒なお辞さぬ慷慨家や壮士的人間を拒否した。,菱田重禧 青森県権令に任命さる    6 (1873)  5 ~俸禄問題を巡り士族,北代正臣発令さる    7 (1874)  1 民選議院設立建白  4 県士族
通史編1(古代・中世) (津軽曽我氏の出自)

津軽曽我氏の出自 平賀郡を中心に活躍した津軽の中世武士としてよく知られているのが曽我氏である。,したものの、のちにその麾下(きか)に入った曽我太郎祐信(すけのぶ)(仇討ちで有名な曽我兄弟の義父)の一族であることは,、この曽我氏を駿河国有度(うど)の領主伊原左衛門尉の末裔とするのは誤りで、れっきとした平姓曽我氏の一族である
通史編1(古代・中世) (安倍氏の登場)

その一方で、それまでの勢力をふるった在地豪族が歴史から姿を消していった。,それらに代わって台頭してきた新興豪族の筆頭が安倍氏であったのである。,また太平洋岸の南三陸地方では、陸奥国府との関係を強めた金(き(こ)ん)氏一族も台頭しつつあった。  ,六郡に横行して、庶士を囚俘(とりこ)にし、驕暴滋蔓にして、漸くに衣川の外に出づ。,台頭してきた一族である。
通史編1(古代・中世) (津軽安藤氏)

北条得宗領の最重要拠点の一つであった津軽地方の地頭代官は、これまで見てきたような有力御家人の一族と目される,人々が大半であったが、そうしたなかで津軽安藤氏は、例外的に津軽生え抜きの武士から地頭代官に抜擢された一族,民・海の民として水上交通の拠点を中心に北の世界で活躍してきており、そうした北の非農業世界を代表する一族として,近年の日本=単一民族文化論の見直しと、それに伴う「もう一つの日本」=「ひのもと」、すなわち北方世界の歴史
通史編1(古代・中世) (陸奥・出羽の在庁官人たち)

そしてその鎮守府将軍・秋田城介には、次第に源氏・平氏といった軍事貴族が任命されるようになっていった。,挙げれば、平国香(くにか)・良持(よしもち)・良孫・良文(よしふみ)・貞盛(さだもり)といった平氏一族、,(ひでさと)の流れをくむ藤原千常・千方・文脩・兼光(かねみつ)といった、いずれも坂東の武門の名門の一族から,こうして他には例をみないほど、奥羽には坂東の武士たちが多数入り込んでくるようになり、他に先駆けていち早,く武士の社会が形成されつつあったのである。
通史編4(近・現代1) (保守派との合同団結)

明治十四年十月二十八日、県政を動かす弘前士族の指導者たちが、山田秀典県令の呼びかけで郷田兼徳(ごうだかねのり,しかし、この青森県発展への妙手の山田案は、キリスト教を憎み、自由民権に反対する固陋(ころう)の弘前士族
通史編4(近・現代1) (明治九年の巡幸)

そのころ、明治新政府は発足したものの、各地に不平士族たちの不満がくすぶっている状態であり、新政府は、必,終わって間もなく、熊本では神風連(じんぷうれん)の挙兵(肥後勤王党保守派の流れをくむ敬神党が起こした士族反乱
通史編2(近世1) (津軽領の知行制)

津軽領の知行制 いわゆる「地方(じかた)知行制」とは主として中・上層藩士に個別の知行地が設定され、年貢,これは中世以来の有力家臣・一族が領内に割拠し、領主権力の相対的自立性が弱いまま幕藩体制を迎えたという理由,しかし、津軽領の場合、藩が藩士への俸禄の支給を一括して管理する「蔵米制」への移行が進み、貞享二年(一六八五,)に早くも全藩士への蔵米化がなされているが、正徳二年(一七一二)には再び地方知行制が復活している。,一〇〇石程度の中級の藩士でも四~七ヵ村に分散しているのが通常だった(「知行帳」弘図津)。
通史編4(近・現代1) (町道場の設置)

町道場の設置 明治初年からの社会的・経済的な激動は、士族平民を問わず、すべての者を巻き込んで大きなうねりとなって,特に士族は生活の基盤を失い、変転する事態に対応できない者は落伍し、一家離散に追い込まれた。,これに対する反省と批判は、時代の流れに敏感な若者たちの間に沸き起こり、失われた士気を奮い起こそうとする
通史編4(近・現代1) (組織的活動-化育社)

旧弘前藩士の菊池や中畑清八郎等は、北海道開拓使の七重勧業試験場において、苗木生産及び果樹栽培などの技術,これらの士族出身の先覚者は、早速民間有志を募り、老農の経験や篤農家の技術をみずから学ぶ組織を結成した。,研究会は、菊池楯衛を中心とする旧藩士等一一人によって明治十七年に結成され、明治二十三年、楠美冬次郎(くすみふゆじろう,同様の刊行物は、盛岡のりんご士族グループによっても同十六年に出版され、また、明治二十五年から二十七年にかけては,青森りんごの普及と技術的発展の端緒を開くに当たって、弘前士族が果たした指導的役割は大きなものがあった。
通史編4(近・現代1) (県政の展開と産業育成政策)

これにより、明治初期の青森県の産業政策展開や士族授産の内容がわかる。,一八七六)の着任以後、多くの施策を手がけたとして、その功績を列挙しているが、それらのうちで、殖産興業、士族授産,・旧弘前藩の士族授産のため、開牧資金の拝借を内務省へ申立て、許可を得た。
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