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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (弘前士族の反発)

弘前士族の反発 明治六年春から夏にかけて弘前貫属士族の起こした給禄渡しの騒擾(そうじょう)は、青森県,この騒ぎの直接の原因は、米価の値上がりによる士族の生活難であった。,一、徴兵令を廃し、士族兵とする。  一、金納をやめ、米納を主とする。  ,しかし弘前士族は常禄に甘え、安逸に馴れ、自活の精神を失い、飢餓瀕死の域に陥った。,「士族先生須(すべから)ク猛省スヘシ」と。 / 弘前士族の反発
通史編4(近・現代1) (士族授産事業の成立と展開)

士族授産事業の成立と展開 山田秀典県令の「県治状況報告書」に開牧社の開業の事項が記されていたが、これは,内務省から起業基金の提供を受けて可能になった牧畜事業であり、士族六一二人が関係する大規模なものであり、,このほか、牧畜、開墾、樹林を目的とする士族授産結社に農牧社があった。,笹森と、同じく旧弘前藩士族の大道寺繁禎は、起業のための補助金を申請した。,明治政府の資金援助を受けて設立された士族授産結社には、他に、明治十六年(一八八三)に一万円の勧業資金貸与 / 士族授産事業の成立と展開
通史編4(近・現代1) (士族授産事業としての銀行設立の奨励)

士族授産事業としての銀行設立の奨励 明治新政府による旧体制改革である廃藩置県と、それに続く秩禄処分によって,家禄を失った士族は、その多くがわずかばかりの金禄公債を生活の糧とするしかなく、失業状態に置かれ、深刻な,このような士族を救済するため、政府は主務省である内務省を中心に士族授産政策を実施することになるが、その,明治九年(一八七六)八月、政府は華士族の禄制を廃止して、その代わりに金禄公債証書を交付したが、公債総額,つまり、華士族が銀行事業への投資により、公債の利子金とともに銀行事業利益の配当金を得ることで、生活の安定 / 士族授産事業としての銀行設立の奨励
通史編3(近世2) (弘前の民衆)

このためか、明治四年(一八七一)十一月には城内に桑や茶を植えて士族授産の補いとし、廓内の建家(たていえ,「士族在籍引越之際地図並官社商現図」(弘前市立博物館蔵)は、廃藩から明治十四年ころまでの弘前市街の各戸,当時、全国的に脱籍士族による外国人殺傷事件が続発しており、新政府も県や藩に管轄士族の管理を徹底させていたが,士族も断髪令や脱刀令によって服装が変わったが、最初は相当慣れなかったらしい。,その後、秩禄処分・徴兵令・地租改正といった一連の政策により、士族の特権は否定されていった。
通史編4(近・現代1) (帰田法の帰結)

これによれば、士族卒は家禄の削減により、家計が苦しい者が多いので、土着を促すために、余裕がある田畑を購入,これを見れば、献納や売却の主体は農民であるが、士族、卒の土地も集められていたのである。  ,これらの土地は、家禄一五俵以上の士族に、禄一〇〇俵につき、土地二四石の割合で分与された。,一士族ノ方向ハ憂中ノ最モ大ナルモノニ付過日旧藩ノ総体ヲ左ニ陳ス 士族元卒総員四千三百五十六名之内、方向,士族土着は、家禄の削減が前提であり、支出の減少につながり、歓迎すべきことだったのである。
通史編3(近世2) (実施までの規則改訂)

変更点とは、たとえば、慣れない農村に移住した士族らの面倒をみるために村の庄屋などを大作人(だいさくにん,)に任じ、かわりに大作人に士族利益分から五パーセントの米の徴収を認めたこと(明治三年十一月)、士族らに,⑤士族・卒の内、田地買い上げに応じた者は、希望地への在着を許可する。,それでも、この段階で藩はまだ帰田法の本来的意義である士族の帰農という目的を放棄したわけではなかった。,⑥で小作権の保護と農村慣行の遵守(じゅんしゅ)を挙げているのは、在方に移住した後、士族らが農民と円滑な
通史編4(近・現代1) (県政初期の混乱)

弘前藩では、版籍奉還後、数回大幅な禄制改革を行い、士族の家禄は上等士族が二〇〇俵から一〇〇俵、中等士族,が八〇俵、下等士族は三〇俵から一五俵となった。,青森県では正米不足を理由に士族の家禄を現金支給とした。しかも四期分割支給だった。,生活不安を訴える士族たちは、寺院に集まり、不満を述べ合った。,当時の弘前士族は四分五裂の状態にあった。津軽家一門も保守派と時代容認派があった。
通史編4(近・現代1) (家禄制度改革)

廃藩置県後も旧知藩事や士族らには禄米が支払われていた。,944.00 旧黒石藩 802.00 旧斗南藩 738.00 旧七戸藩 162.00 貫属士族卒家禄,表4 旧弘前県貫属士族卒家禄内訳 家禄の大きさ 人数 合計(石) 米80石 11 880.00 米60,明治六年に弘前藩士族が家禄を現米で渡すよう要求して不穏な動きを見せたのはこのためであった(『新編弘前市史,4,097 57,876.955 旧黒石県華士族 75 3,849.118 旧八戸県華士族 536
通史編4(近・現代1) (軍都以前の弘前市)

明治維新以後、国内最大の内乱となった西南戦争には、全国各地の士族が応援にかけつける一方、政府の命令で各地,青森県もその例に漏れず、弘前の士族も応援に駆けつけた。,けれども元来が城下町だった弘前には多数の士族が集まっており、明治政府の諸政策に対する不平・不満が集中していた,とくに士族たちは、四民平等に基づく家禄の廃止や、士族・平民の別なく兵役義務を課せられることに強く反発していた,明治政府が進める近代国家の軍事制度は、士族の町弘前には、かえって浸透しなかったのだろう(詳細については
通史編3(近世2) (帰田法(きでんほう)とは)

帰田法(きでんほう)とは よって、明治三年六月以降、藩としての最大の問題は士族・卒の困窮化をいかにくい,町歩だけは彼らに残し、あとは強制的に藩が廉価(れんか)で買い上げるか、または献納(けんのう)させて、士族,しかし、弘前藩の場合は田地配賦とともに従来の家禄支給も約束されており、士族・卒にとって圧倒的に有利なもので
通史編3(近世2) (王族利益の実態と帰田法の意義)

表27.禄高別士族卒数および分与地面積 No.,では、次にこの田地から士族らは実際どれほどの地主作徳米を得られたのだろうか。,表28.阿部家分与士族作徳米一覧 No.,士族氏名 家禄 (俵) 分与地面積 分与村 作徳米高 (石) 扱い料 諸郷役 士族純益 (石) %,それでも、こうした利益にもかかわらず士族の家計は好転しなかった。
通史編3(近世2) (新しい指導者)

さて、着任した菱田が最も尽力したのは旧斗南県士族の救済であった。,時に冬の最中であり、斗南県士族ら約一万人の生活は危機に瀕していた。,そのため菱田は十二月に再び上京し、政府高官を説き伏せて、ようやく斗南県士族の救済は決着をみた。  ,また、すでにこのころ、士族特権の廃止に伴って日本各地で不平士族の動向が新政府でも憂慮されており、弘前で,の騒動ともあいまって、北代も旧弘前県士族に対し強く嫌悪感を抱いていた。  
通史編4(近・現代1) (町の様子)

はりがなかったが、一旦青森県となって県の位置がなくなり、同時に旧藩知事たりし旧藩主が東京に移住となり又各士族,貧乏士族の子弟一団は集って城中を利用して唯一の酒食場としたのである。,これは、明治維新後の改革で、特に士族層が苦境に立たされたことによる影響が大きい。,我が弘前の衰微したのは、第一に旧藩主の東京に移住したときに始まり、夫は士族の在宅に次ぎ、士族の安逸に耽,このように、士族中心の旧藩体制下の弘前の生活環境は、明治維新後に一変したのである。
通史編4(近・現代1) (第五十九国立銀行の創設)

付、何卒願意至急御聞届相成候様御執達被成下度、此段奉願候也  明治十一年一月〔二十五日〕 青森県士族,    蒲田昌清 印 青森県士族 第三大区一小区陸奥国津軽郡相良町二十七番  松野幹  印 青森県士族,渋沢栄一や商業を営む平民の株主らが海陸交通の便のよい青森にすべきだと主張したが、株主の大半を占める弘前士族,設立時の族籍別株主は表15のとおりであり、士族が株主総数の九四・五%を占め、さらに、持株数も九七・四%,このことから第五十九国立銀行は、士族授産のための士族銀行として設立されたのは明らかである。
通史編4(近・現代1) (私立小学校の乱立)

乱立の原因の第一は、士族階級の窮迫である。,廃藩置県以来三年を経過して、家禄を失った旧藩士族がようやく窮迫し始めたころで、糊口をしのぐ手段として私立小学校,また、士農工商の子弟に同一の教育を施す公立小学の教育を、一部士族の中には忌避するものがあったなど、私立小学校
通史編3(近世2) (「概略手続」の発表と変更)

これによると、分与地に移住した士族・卒は年貢米を納めれば、残る部分は自分の自由となる。,そう考えれば帰田法は最初から士族・卒の自作農化を意図したともみえる。,もし、配賦を受けた士族らが自己の利益を得ようとすれば、小作人を追放しなければならないし、藩がそれを黙認,さらに、「概略手続」発表直後から、地主・農民・士族らにより続々と分地願い・質地請戻(しっちうけもどし),もちろん、この願いは藩により却下されているが、同時期に出された士族葛西協一の土地献納願いは許可されている
通史編3(近世2) (廃藩置県と帰田法の終焉)

同年七月十二日に藩は規則を再び改定し、分与地の士族・卒同士、農民所有地との交換を認め、家禄に応じて在方,ここに、帰田法は士族らを自作農化するという目的を棄て、弘前城下にいながら農村からの利益を享受できる途を,もはや弘前藩は消滅し、このままでは戊辰戦争以来、疲弊した士族・卒は何らの救済措置もないまま、先行き不透明,たとえば、同年十一月上旬にはすでに農村移住を願い出ている八三一人の士族・卒の引越代米が大幅に削減され、
通史編4(近・現代1) (私設青年団の結成)

鷹城青年会は五十石町や鷹匠町など中級以下の士族が多く、士族意識は依然として強く、排他的な孤立が根強かった
通史編4(近・現代1) (町並みの推移)

町並みの推移 廃藩、そして県庁の青森移転で、新時代に取り残されてしまった形の弘前は、商工業は沈滞し、士族,こうした市中の新しい気運は、まず士族屋敷の町並みに現れた。  ,士族の人々にとっては、旧習古格を守るばかりでなく、祖先伝来の家を手離すことは最も恥ずべくいやしむべきことでもあった,そうした信条も、しかし世の推移の前には是非もなく、三十一、二年ごろから、士族の家は目立って軍人の貸家に,また、士族の広い空屋敷にも、新しい移住者に提供するための家作が建ち、数年も経たぬうちに空地がなくなるだろうと
通史編4(近・現代1) (第一回通常県会)

当選二四人のうち士族出身は一〇人だったが、郡定員が全員士族というのは中津軽郡のみだった。,他地域では黒石に共進社が発足、のち益友会と改めたが、大地主の加藤宇兵衛や弘前藩士族竹内清明、黒石藩士族
通史編3(近世2) (神職の扱い)

そのため明治になって神職が士族に含まれる下地(したじ)は、この時からあったといえよう。,明治二年(一八六九)社家隊は深浦、修験隊は赤石方面へ出陣し、同三年士族卒以外は兵隊禁止となり、解兵された
通史編4(近・現代1) (旧藩主逝去と小学校)

小学校教員に旧藩士族が多かったためか、各校とも旧藩主を敬愛する念が強かった。,弘前が古武士的な教育を強調し、他郡市に見られぬ剛風を持続し得たのは、旧藩主に対する士族教員の忠誠心が作用
通史編4(近・現代1) (明治九年の巡幸)

そのころ、明治新政府は発足したものの、各地に不平士族たちの不満がくすぶっている状態であり、新政府は、必,終わって間もなく、熊本では神風連(じんぷうれん)の挙兵(肥後勤王党保守派の流れをくむ敬神党が起こした士族反乱
通史編4(近・現代1) (保守派との合同団結)

明治十四年十月二十八日、県政を動かす弘前士族の指導者たちが、山田秀典県令の呼びかけで郷田兼徳(ごうだかねのり,しかし、この青森県発展への妙手の山田案は、キリスト教を憎み、自由民権に反対する固陋(ころう)の弘前士族
通史編4(近・現代1) (東奥共同会の設立)

これは、本多ら東奥義塾のグループが東奥共同会を作って自由民権運動を進めたことに対する弘前の保守士族の反撃,生産とは桐、桑、楮を植えて自活することであり、これが後には士族のりんご栽培となった。,菱田重禧 青森県権令に任命さる    6 (1873)  5 ~俸禄問題を巡り士族,北代正臣発令さる    7 (1874)  1 民選議院設立建白  4 県士族
通史編4(近・現代1) (県政の展開と産業育成政策)

これにより、明治初期の青森県の産業政策展開や士族授産の内容がわかる。,一八七六)の着任以後、多くの施策を手がけたとして、その功績を列挙しているが、それらのうちで、殖産興業、士族授産,・旧弘前藩の士族授産のため、開牧資金の拝借を内務省へ申立て、許可を得た。
通史編4(近・現代1) (殖産興業の展開)

殖産興業の展開 明治十一年(一八七八)の第五十九国立銀行創設など、士族の禄券などを主たる元手とする企業,の設立が見られ、また、士族授産結社の活動が活発化するなど、新時代の地域経済を担う組織や人材の形成も進み
通史編4(近・現代1) (藩祖三百年祭)

また、士族にとっては、藩祖の津軽統一の偉業を偲び、その遺徳を敬仰するとともに、御家中自らの伝統と誇りに,三百年祭準備委員会を設けて大道寺繁禎を会長に、以下各役員に士族の歴々を選んだが、この会を中心に商家の商業的企画
通史編3(近世2) (東奥義塾)

東奥義塾は漢・英の二学部に新たに小学部を設け、士族だけではなく一般庶民の子弟や女子の入学も認め、四〇〇
通史編4(近・現代1) (米作奨励と栽培管理)

旧弘前藩の藩士は、廃藩置県、秩禄処分などで失職・困窮したが、士族授産として土地の払い下げによる牧場開墾,、農工商への就業支援、開業資金の貸し付けなどにより、失業士族の救済策がとられた。
通史編4(近・現代1) (町道場の設置)

町道場の設置 明治初年からの社会的・経済的な激動は、士族平民を問わず、すべての者を巻き込んで大きなうねりとなって,特に士族は生活の基盤を失い、変転する事態に対応できない者は落伍し、一家離散に追い込まれた。
通史編4(近・現代1) (若き日の笹森儀助)

明治十四年に郡長を辞して、弘前士族救済のため岩木山麓に農牧社(のうぼくしゃ)を開業、以後一〇年間寝食を
通史編4(近・現代1) (組織的活動-化育社)

これらの士族出身の先覚者は、早速民間有志を募り、老農の経験や篤農家の技術をみずから学ぶ組織を結成した。,同様の刊行物は、盛岡のりんご士族グループによっても同十六年に出版され、また、明治二十五年から二十七年にかけては,青森りんごの普及と技術的発展の端緒を開くに当たって、弘前士族が果たした指導的役割は大きなものがあった。
通史編4(近・現代1) (弘前の小学校)

当時、弘前は県内最大の都市で、人口三万三八八四人(明治四年調査)と最も多く、士族や商人が居住して、文化的
通史編5(近・現代2) (新制弘前高校の誕生)

質実剛健を校風に明治十七年八月二十日、士族とわずかな平民でスタートした弘高は、ここに男女席を同じくしたのである
通史編5(近・現代2) (明治時代の柔術)

/一方、廃藩と同時に、士族の若者達は、エネルギー発散の場として町道場を作り、柔剣術修業に励むと共に、文化面
通史編4(近・現代1) (不平の源流)

不平の源流 弘前不平士族の不満の第一は、維新時の藩政と廃藩後の旧藩主家の家政に参加できないことにあった,津軽平八郎も森岡鶴翁も津軽氏の一門であり、廃藩後の津軽藩主家に四〇万円の巨額な財産があり、生活難の士族
通史編4(近・現代1) (東奥義塾の啓蒙活動)

東奥義塾の啓蒙活動 青森県は創県以来、野田大参事と菱田権令の確執、維新政府の近代化政策への一部弘前士族,の反発、弘前士族間の対立などの上に任期の短い県令が続き、地方行政が円滑を欠き、難治県とされ、政府からの
通史編4(近・現代1) (菊池武徳と中央政治)

また、青森市は、前年十二月まで弘前士族で国士肌の笹森儀助が市長であり、その後任の芹川得一も弘前士族で東奥義塾
通史編4(近・現代1) (藩祖の銅像)

藩祖為信の銅像建立を決定したが、四十二年一月に完成して到着、二十一日銅像が公園本丸の台座に載せられると、旧士族
通史編4(近・現代1) (在府町の偉人たち)

在府町の偉人たち 弘前城下最南端の士族の町在府町(ざいふちょう)は丘陵地で、東南に南溜池(鏡ヶ池)が
通史編4(近・現代1) (菊池九郎の手紙)

この状況を見て、菊池九郎の長男菊池良一や弘前士族で時事新報記者工藤十三雄も政界進出の希望を抱き、大先輩
通史編4(近・現代1) (勧業諸会の展開)

武田清七、竹内半左衛門ほか二九人が議員となり、一〇七人の会員で構成され、他に大道寺繁禎、菊池九郎ほかの士族
通史編4(近・現代1) ([付図])

国会開設建言書」〈明治13年〉 7 弘前事件~本多庸一の弁明書〈明治15年〉 8 士族授産,大正13年〉   【掲載史料の所蔵および典拠】 6 明治13年公文附録元老院之部二「青森県士族本多庸一等建白国会開設一件
通史編4(近・現代1) (弘前における国立銀行設立計画)

渋沢栄一から教示を仰ぐが、「青森県下銀行創立方法大意」(同前No.二一〇)において、渋沢が「青森県下士族相連合,合本し、以て其家産を固確ならしめんと欲するの考案は」と述べていることから、当初の銀行設立計画は、県下士族
通史編5(近・現代2) (錦風流尺八(きんぷうりゅうしゃくはち))

神久雄・如道(明治二四-昭和四一 一八九一-一九六六)は士族の子として茂森新町に生まれた。,普化(ふけ)尺八に特有な瞑想的雰囲気の楽曲が中心になっているのは当然だが、津軽では士族以外には楽器をさわらせず
通史編4(近・現代1) (洋化風俗の一例)

官員や士族の良家の人々が威張って着て歩いたもので、大正初年までは在郷の人たちが町に出てくる時の服装でもあった
通史編4(近・現代1) (町村会)

したがって、実質的な行政運営を行っているのは書役と戸長代理で、士族出身など相応の知的能力と事務能力を有
通史編5(近・現代2) (弘前初の洋風建築)

常吉は和徳の士族の出であるが、廃藩後いち早く文明開化の機運を察し、新しい洋風建築技術を身につけようと仙台
通史編4(近・現代1) (養蚕業の奨励)

製糸工場内風景  また、養蚕業は、明治初期から藩士の授産事業として奨励され、同七年(一八七四)、士族授産
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