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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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資料編1(古代・中世編) (大鰐1~25)

大鰐1~25 大鰐1 南大鰐町蔵館字村岡-大円寺墓地- 大鰐2 南大鰐町蔵館字村岡-大円寺墓地-,大鰐3 南大鰐町宿川原字川崎-山田美佐雄氏地所- 大鰐4 南大鰐町宿川原字川崎-山田美佐雄氏地所-,大鰐5 南大鰐町三ッ目内字富岡-阿弥陀堂跡- 大鰐6 南大鰐町三ッ目内字富岡-阿弥陀堂跡- 大鰐7, 南大鰐町三ッ目内字富岡-阿弥陀堂跡- 大鰐8 南大鰐町三ッ目内字富岡-阿弥陀堂跡- 大鰐9 南大鰐町三,大鰐20 南大鰐町八幡舘字水入-土岐大佶郎氏園地- 大鰐21 南大鰐町八幡舘字水入-土岐大佶郎氏園地 / 大鰐1~25
資料編1(考古編) (14.大鰐湖成堆積物Ⅷ)(おおわにこせいたいせきぶつ))

14.大鰐湖成堆積物Ⅷ)(おおわにこせいたいせきぶつ) 村岡・長谷(1990)の命名による。,模式地は、大鰐町大鰐スキー場付近。,大鰐町唐牛(かろうじ)西方、大鰐スキー場付近、弘前市石川南方の3地域に分布する。,大鰐スキー場付近では、下部の約50mが巨礫~大磯の亜角礫を多量に含む礫層から成る。 / 14.大鰐湖成堆積物Ⅷ)(おおわにこせいたいせきぶつ)
通史編1(古代・中世) (奥大道と文物の流通)

奥大道と文物の流通 北奥諸郡の建置、さまざまな物品の流通で注目されるのが、陸奥国を縦貫する奥大道(奥州街道,大鰐町の宿川原はこの幹線道路にちなむ地名である。,奥大道沿いにはいくつか類似の地名が現存しているが、大鰐のそれは日本最北の宿川原である。,矢立峠をはさんで大館側には矢立廃寺が、大鰐側には高伯寺跡が知られており、いずれもこの時代の大寺院である,高伯寺とかかわる大鰐町大円寺には、日本最北端の丈六仏である大日如来像(実は阿彌陀如来像)があるが、鎌倉前期 / 奥大道と文物の流通
通史編3(近世2) (大円寺)

大円寺 大円寺(だいえんじ)は、「大円寺縁起」(資料近世2No.四一一)によると、文亀年間(一五〇一,~〇三)に、種里村一ツ森麓(現西津軽郡鰺ヶ沢町)に大円房が創建した。,明治五年(一八七二)、神仏分離により最勝院が大円寺の場所へ移り、大円寺は高伯寺(こうはくじ)(現南津軽郡大鰐町 / 大円寺
通史編1(古代・中世) (大光寺楯の合戦)

大光寺楯の合戦 元弘三年から翌年初めにかけて、ついに大光寺楯を中心に朝廷方と幕府方との間で戦いが始まった,秋田城に楯を築いて抵抗し、矢立峠あたりから津軽方面に侵入する動きを示したのに対し、「国中給主御家人」を大阿尓,(大鰐)に集めて防戦しようとしている(史料六三二)。 / 大光寺楯の合戦
通史編5(近・現代2) (本県スキーの父・油川貞策)

翌四十五年一月五日から三週間の講習会に参加し、レルヒ少佐からスキー技術を学んだ第八師団の四人の将校の中に、大鰐町出身,したがって、大鰐町のスキーの歴史はわが国のスキーの歴史とその軌を一にしているといえよう。  ,油川中尉の全面的な指導を得ながら、大鰐町は〈競技スキーのメッカ〉として全国にその名を轟(とどろ)かすことになる,大正十四年(一九二五)一月十四日に開催された、大鰐での初めての全国大会「第三回全日本スキー大会」に油川,当時、第三一連隊の中隊長だった油川は、「本日の演習は大鰐町あじゃら山方面」と号令をかけ、毎日のように演習
通史編5(近・現代2) (石川町、弘前へ合併)

ところが、弘前・石川合併に対して、反対していた「分市大鰐町合併派」の八幡舘、森山、鯖石、小金崎の四部落民,は、三十四年二月十四日、石川中学校に押しかけ、四部落から通学している同校生徒五六人を、全員大鰐中学校に,これは、法務局弘前支局が違法として、大鰐町に勧告して収まったが、同年四月八日、分市派の乳井部落では小学生,その後も分市派の運動は断続して行われたが、昭和三十八年九月三十日、弘前市議会は森山・八幡舘両部落の大鰐町,への分市を可決、十月一日、大鰐町議会は受け入れを可決して、弘前市と石川町の合併問題はようやく終止符を打
資料編1(考古編) (12.大落前川層Ⅲ)(おおらくまえかわそう))

12.大落前川層Ⅲ)(おおらくまえかわそう) 小高ほか(1969)の命名による。,模式地は、碇ヶ関村大落前川上流域。模式地及びその北東の山地、大鰐町三軒新田の西方に分布する。 / 12.大落前川層Ⅲ)(おおらくまえかわそう)
資料編1(古代・中世編) ((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)

を討って津軽を平定し、石川大淵岬(大仏ケ鼻)に築城。,石川落城に対して、南部氏は早速軍勢を大鰐・宿川原に出陣させ、その後もしばしば軍勢を送った。,「南部家文書」の年欠三月二十四日付南慶儀書状写には、「津軽郡相破」れ、「自大浦大わに(大鰐)被攻候而、,このように石川落城後も、津軽平野の関門に当たる石川・大鰐一帯の地は軍事的緊張が続いたため、為信は、戦略的要地,また、石川城跡の南、尾開山東面の尾根には、鉢巻山館・鶉長根館などの城塞群が、大鰐から碇ヶ関にかけての平川河谷 / (2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」
資料編1(考古編) (11.大日影山層Ⅸ)(おおひかげやまそう))

11.大日影山層Ⅸ)(おおひかげやまそう) 井上・三浦(1961)の命名による。,模式地は、大鰐町平川支流の虹貝川上流の大日影山付近。模式地付近にほぼ帯状に分布する。,備考:金谷(1949)の藍内川層の下部、井上・酒井(1960)及び(1962)の天狗森層の一部、大沢( / 11.大日影山層Ⅸ)(おおひかげやまそう)
通史編1(自然・原始) (白神山地)

白神山地 岩木火山および弘前盆地の背後には白神山地と、隣接する大鰐山地が東西方向に連なり、青森・秋田県境,出羽山地の延長にあたる白神山地および大鰐山地には白神(しらかみ)岳・向白神(むかいしらがみ)岳・尾太(,写真2 険しい白神山地(手前)と雄大な岩木火山 (青森県史編さん室提供)
通史編5(近・現代2) (石川町の存在)

県は大鰐・蔵館両町の合併に石川町と碇ヶ関村を取り上げていたし、弘前市も弘前電鉄の開通から石川町との合併,しかし碇ヶ関村が自立に固執し、石川町が弘前市との合併交渉に取り込まれている間に、大鰐・蔵館両町は単独合併,昭和二十九年(一九五四)七月一日、大鰐町の誕生である。
資料編1(古代・中世編) ([付図])

白山神社御神体 131・132 弘前市小友字宇田野 小友小学校校門横 133 弘前市十腰内字猿沢 寺庵跡付近 大鰐,1・2 大鰐町蔵館字村岡 大円寺墓地 3・4 大鰐町宿川原字川崎 山田美佐雄氏地所 5~18 大鰐町三,ツ目内字富岡 阿弥陀堂跡 19 大鰐町森山字古館 森山共同墓地 20・21 大鰐町八幡舘字水入 土岐大佶郎氏園地,22 大鰐町八幡舘字水入 阿部守喜氏地所内 23~25 大鰐町八幡舘字八幡舘 観音堂 平賀 1~5,大光寺古館 32 堀越城 98 大光寺城 33 乳井茶臼館 99 小和森館 34 乳井古館 100
資料編1(古代・中世編) (四 板碑の様式と石質)

大鰐町周辺の板碑は、宿川原~大鰐間の鶴ヶ鼻から産する石英安山岩が利用され、分布範囲は平川下流部の弘前市外崎,(とのさき)、田舎館村大袋・二津屋方面にまで及んでいる。,岩木山の周辺の板碑は、岩木町兼平や弘前市大森に見られる輝石安山岩に類似した石質である。  ,大鰐町三ッ目内の板碑群の中にも、比較的大型の碑が含まれている。,一律には言えないが、一二〇〇年代末期から一三〇〇年代の早い時期には大型の板碑が造立されたのに対し、時代
通史編5(近・現代2) (本県初の鉄道電化)

 昭和二十七年(一九五二)には、弘前市に二社目の私鉄が開業することになり、弘前市中心部と南津軽郡大鰐町,当初の計画では、大鰐町から弘前市を経て北津軽郡板柳町までの路線と、弘前市から中津軽郡西目屋村までの路線,をつくる予定であったが、資金が思うように集まらず、結局弘前-大鰐間の第一期工事でで完了となった。,ちなみに板柳までのルートは、西弘前駅から分岐し、樹木-茂森-駒越-大浦-船沢-高杉-裾野-新和-掛落林
通史編1(古代・中世) (延久蝦夷合戦と津軽)

延久蝦夷合戦と津軽 この乳井から大鰐にかけての南津軽地方は、中世前期において津軽全体の政治的・文化的中心,をなしていたと推測されており、福王寺以外にも、後白河上皇の創建と伝えられ「津軽国分寺」の伝承(史料五二二)をもつ大鰐町蔵館,の高伯寺(現在の大円寺、旧寺地の神岡山には今もなお礎石や基壇が残る・写真75)や、建長六年(一二五四),写真75 高伯寺跡(大鰐町)  とはいえ、延久合戦後の津軽・比内・鹿角・糠部など、北緯四〇度以北,しかもそうした高地性集落の一つである大鰐町砂沢平遺跡では、一一世紀の後半、その集落の最終時期に切岸が整備
通史編5(近・現代2) (景気回復後の弘前市の商業)

五能線沿線   薬品 A 市内個人,官公立病院,深浦,鰺ヶ沢,北,南,西各郡   B 市内各病院,浪岡,大鰐,,尾上,目屋,石川,平賀,猿賀   C 市内各病院,南郡,北郡,市周辺   陶器 A 黒石,大鰐,浪岡,,相馬,目屋   C 秋田,大館,大岩   D 黒石,板柳,目屋,市周辺   海産物 A 大館,鷹巣,,市内,南,中,西,北郡,五能線沿線 90% B 中,南郡,市内 70% 食料品 A 船沢,相馬,目屋,大鰐,,水木,吉田   B 鰺ヶ沢,五所川原,大鰐,黒石,相馬,船内,五能線沿線   C 西,南,北の各郡,
資料編1(考古編) ((10)工具)

斧は袋柄のもので、大小があり、最も大きなものでは長さ15cm(大鰐町大平遺跡)、小さなもので9cm(青森市蛍沢遺跡,鉋は、古館遺跡(碇ヶ関村)・砂沢遺跡・大平遺跡(大鰐町)の3遺跡から出土している。,古館遺跡・砂沢遺跡のものは、いずれも大きく、鎬(しのぎ)も明瞭である。  ,ノミは、大平遺跡・源常平遺跡(浪岡町)から出土しており、いずれも袋状の柄をなす。,このうち、大平遺跡の2点は大型品で全長が20cm、刃部幅が1.5cmである。
通史編4(近・現代1) (鉄道の開通と運輸事業)

、馬車台数二八輌で、同盟員は青森五人、弘前三人(田辺粂吉・福津兼蔵・鹿内友蔵)、碇ヶ関二人、蔵館(現大鰐町蔵館,)三人、大鰐二人、小湊(現平内町小湊)一人、野辺地一人で構成され、相当広い営業圏を持っていた。,新城 大釈迦 浪岡 弘前 大鰐 碇ヶ関運賃 八・五銭 二三銭 三〇・五銭 五五・五銭 七三銭 八八銭
資料編1(古代・中世編) (七 板碑の発見と保護の状況)

       一基  中津軽郡岩木町如来瀬  一基  南津軽郡平賀町岩館   一基  南津軽郡大鰐町宿川原,  一基  南津軽郡大鰐町三ッ目内 一基  南津軽郡藤崎町藤崎   二基  南津軽郡田舎館村二津屋,①弘前市高杉の宇気茂都大神の板碑は、工藤喜久雄氏屋敷内へ移転し、奥石神社として祭られている。,④大鰐町(当時蔵館村)蔵館の二基のうち、一基は大円寺墓地へ移されている。他の一基は行方不明。,現在行方不明になっている大鰐町蔵館の板碑(『陸奥古碑集』所載)  現在津軽地方の板碑の多くは文化財
資料編1(考古編) ((3)10世紀後半~11世紀)

(3)10世紀後半~11世紀 この時期には、集落の立地形態に大きな変化が現れる。,(大鰐町)・中里城跡(中里町)などに見られるような、集落全体を諸施設で同時に保塞する「津軽型防御性集落,図13 10世紀の集落跡(大鰐町大平遺跡) 図14 津軽型防御性集落(11世紀,碇ヶ関村古館遺跡,) 図15 津軽型防御性集落(11世紀,大鰐町砂沢平遺跡) 砂沢平遺跡地形図,竪穴住居跡は、柱の配置に前代とは大きな変化が認められる。
通史編5(近・現代2) (極東大会陸上競技で優勝・道川茂作)

極東大会陸上競技で優勝・道川茂作 道川茂作(どうがわもさく)は明治三十三年(一九〇〇)に、当時の中津軽郡堀越村門外,中には、「ある日、いたずらをした道川を警官が見つけ自転車で追いかけたが、速すぎて追いつけなかった」「大鰐,(『青森20 世紀の群像』東奥日報社、二〇〇〇年)  事実、道川選手は国際大会において新記録で優勝している,昭和二年(一九二七)八月に中国・上海市で開催された第八回極東選手権大会の一万メートル決勝で三四分五六秒 / 極東大会陸上競技で優勝・道川茂作
通史編3(近世2) (盛雲院)

乳井氏が建立し、本寺は三ツ目内村(現南津軽郡大鰐町)の金竜寺であったが、後に耕春院末寺となった。
資料編1(考古編) (62.三ツ目内川層Ⅰ)(みつめないがわそう))

模式地は、大鰐町三ツ目内川上流。深山沢の上流及び大和沢の上流域に分布する。
資料編1(考古編) (19.折紙層Ⅸ)(おりがみそう))

模式地は、大鰐町三ツ目内川支流の折紙沢下流域。
通史編3(近世2) (正伝寺)

正伝寺 正伝寺(しょうでんじ)は、文禄四年(一五九五)、森山村(現南津軽郡大鰐町)の庵で竜岩が薬師像
通史編1(古代・中世) (協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))

沢町教育委員会 胆沢町教育委員会 財団法人 石川県埋蔵文化財センター 石巻文化センター 岩手大学附属図書館,円覚寺(西津軽郡深浦町) 円明寺(弘前市) 大国主神社(秋田県仙北郡西木村) 大阪府立中之島図書館,大日霊貴神社(秋田県鹿角市) 大鰐町企画観光課 尾上町教育委員会 鹿島神宮(茨城県鹿嶋市),弘前市) 宮内庁正倉院事務所 宮内庁書陵部 国見町教育委員会 熊野奥照神社(弘前市) 熊野那智大社,(南津軽郡大鰐町) 中尊寺(岩手県西磐井郡平泉町) 長勝寺(弘前市) 築館町教育委員会 鶴岡八幡宮
通史編3(近世2) (大社の神仏分離)

大社の神仏分離 弘前藩の神仏分離は、大社から行われた。,以下、その他の大社の状況を列挙しよう。,これに伴い、大円寺は高伯寺(こうはくじ)跡(現南津軽郡大鰐町(おおわにまち))へ移転した。  ,図78.愛宕山橋雲寺お札  岩木三所大権現(現中津軽郡岩木町)は、百沢寺(ひゃくたくじ)が別当を,そしてこれまでの大堂は拝殿(はいでん)、山門は楼門(ろうもん)と改称し、新たに神体を祀らせた。 / 大社の神仏分離
資料編1(古代・中世編) (はじめに)

金石文には、梵鐘・鰐口・仏具・仏像・刀剣・銅鏡・古銭・擬宝珠などの金属製品に刻まれた文字や五輪塔・宝篋印塔,隣接する町村では、大鰐町宿川原・三ッ目内・八幡舘、藤崎町藤崎、平賀町岩館などが挙げられる。  ,また、中世に入ってからの金石資料は延べ数は多いが、その大部分は板碑であり、それ以外の金石資料は種類・数量
通史編3(近世2) (十一面観音堂)

十一面観音堂 十一面観音堂(現巖鬼山(がんきさん)神社)は、岩木三所大権現の左峰十一面観音を巖鬼山西方寺観音院,享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」には、慶長元年(一五九六)八月十七日に為信の長男信建が鰐口を寄進
資料編1(考古編) (18.尾開山凝灰岩※Ⅷ)(おびらきやまぎょうかいがん))

模式地は、大鰐町尾開山周辺。弘前盆地南東縁に円弧状に分布する。,備考:岩井(1965)の竹館層と小高ほか(1969)の大落前川層を合わせたもの、北村ほか(1972)の
通史編3(近世2) (百沢寺)

百沢寺 百沢寺(ひゃくたくじ)は、岩木山三所大権現の下居宮(おりいのみや)(現岩木山(いわきやま)神社,この時、仏像は長勝寺と専称院(現南津軽郡大鰐町)へ移された。
通史編2(近世1) (陸上交通網の整備)

また大道小道帳は領内の主要道路を、大道筋・小道・脇道・磯辺路に分けているのに対し、道程帳は大道筋・脇道,)~青森~浅虫~小湊(こみなと)~狩場沢(かりばさわ)~南部領、②弘前~堀越~大鰐~碇ヶ関~秋田領境杉峠,弘前~油川間と、奥州街道の油川~狩場沢間を合わせたものであり、②は後に参勤交代路となる羽州街道の弘前~大鰐,を結ぶ百沢街道、同じく東根小道とある大鰐~黒石~浪岡を結ぶ乳井(にゅうい)通り、同じく下ノ切(しものきり,大道小道帳ではこの他にも小道・脇道の記載が多数あるが、浪岡~高田~荒川~浜田~青森間の大豆坂(まめさか
資料編1(古代・中世編) (協力者及び協力機関一覧(敬称略))

戸沢武(青森県弘前市) 長岐喜代次(秋田県秋田市) 南部光徹(東京都府中市) 日景健(秋田県大館市,(岩手県盛岡市) 円覚寺(青森県深浦町) 大鰐町教育委員会(青森県) 小浜市文化課(福井県小浜市,) 静岡県史編纂室(静岡県静岡市) 白河集古苑(福島県白河市) 神明社(大日堂)(秋田県比内町),浄願寺(秋田県秋田市) 誓願寺(青森県弘前市) 大円寺(青森県大鰐町) 大日堂(秋田県鹿角市,長勝寺(青森県弘前市) 鶴岡市郷土資料館(山形県鶴岡市) 東京国立博物館(東京都台東区) 那智大社
資料編1(古代・中世編) (第一節 金属資料)

古銭については、弘前市大字乳井・石川などから発見されているが、『資料編一(考古編)』第四章に「青森県内埋納銭出土遺跡一覧表,所蔵の「永正十四年(一五一七)作」の釣燈籠、広船神社(平賀町)に伝来する「正長二年(一四二九)銘」の鰐口
通史編5(近・現代2) (度重なる大水害)

度重なる大水害 昭和三十三年の惨害が残る二年後に、弘前市を再び大水害が襲った。,一九六〇)年八月二日から三日未明にかけて、岩木川上流の県境付近に集中豪雨があり、岩木川下流の弘前市や大鰐町,、碇ヶ関村に大水害をもたらしたのである。,三日午前四時五分、青森地方気象台は「大雨洪水警報」を出した。,このときは市街地を流れる寺沢川が氾濫し、沿岸の人家などに多大な被害を及ぼし、一一人の犠牲者を出す大惨事 / 度重なる大水害
資料編1(考古編) ((11)その他の生活用具)

鉄鍋は、蓬田大館遺跡(蓬田村)、古館遺跡(碇ヶ関村)で出土している。,また、蓬田大館遺跡の場合は時期が特定できない。  ,このほか、火おこしの道具として火きり杵(弘前市荼毘館遺跡)、火きり臼(大鰐町大平遺跡)があるが、これは,約1/3 残存 10C 3 高館遺跡(黒石市) 86H・床面 1cmあたり16本の歯 11C 4 大平遺跡,(大鰐町) 24H 約1/3 欠損 10C 5 杢沢遺跡(鰺ヶ沢町)  9H・床面 横幅5.6cm
通史編1(自然・原始) (花巻面)

標高一〇五~一一五メートルの、浅瀬石川への緩い傾斜面で、浅瀬石川に沿って最大幅五〇〇メートルの帯状の分布,大釈迦丘陵では、青森市岩渡(いわたり)にある産廃処理場内で確認したように、八甲田第一期火砕流堆積物および,また写真35に示したが、大鰐町鯖石(さばいし)に分布する「さば石」も年代側定では約四九万年前であって、,大鰐町鯖石より採取 (KFT 941124-1784) (株)京都フィッション・トラックによる(Ma,は100万年) 写真35 大鰐町鯖石の「さば石」採石場
通史編3(近世2) (常源寺)

「曹洞諸寺院縁起志」は、三ツ目内村(現南津軽郡大鰐町)の金竜寺の末寺であったが、金竜寺が衰退するに及んで
資料編1(考古編) (55.早瀬森層Ⅲ)(はやせもりそう))

模式地は、大鰐町早瀬森。模式地を中心として、北西に狭く南東に幅広い鋭三角形状に分布する。,備考:井上・三橋(1962)が虹貝層及び島田層としたものの大部分と遠部層としたものの一部、岩井(1965
通史編5(近・現代2) (秩父宮の歩兵第三一連隊赴任)

秩父宮の歩兵第三一連隊赴任 昭和十年(一九三五)八月十日、秩父宮は歩兵第三一連隊の大隊長として着任し,昭和三年一月十四日、秩父宮は大鰐スキー大会に参加するため来県している。,秩父宮のスキー大会参加に当たっては、その奉迎に対する実施要綱があった。,写真17 大鰐スキー場への行啓  秩父宮の来弘に対しては、市当局や市民だけでなく、青森県全体が宮,弘前市民はラジオのある家に集まったり、大通りのラジオ拡声器の前で放送に聴き入った。
資料編1(考古編) (48.虹貝凝灰岩Ⅷ)(にじかいぎょうかいがん))

模式地は、大鰐町虹貝字新田付近。碇ヶ関カルデラの地形的カルデラ縁及びその外縁に広く分布する。
資料編1(考古編) (20.折紙沢層Ⅷ)(おりがみざわそう))

模式地は、大鰐町折紙から上流の折紙沢沿い。,デイサイト溶岩は大きく上下2つに分けられる。,下部の溶岩は、長径0.5~3mm大の斜長石斑晶様と、長径1cm大の淡緑色杏仁状孔隙が散点する。,また、径2mm大の球顆が多数発達する。,デイサイト凝灰岩は固結度が高く淡緑色を呈し、0.5~1㎜大の斑晶及び硬質頁岩の岩片、ガラス片を多量に含
通史編3(近世2) (民衆の動揺)

民衆の動揺 このように目にみえる形で戦闘が展開されるようになると、弘前の町民の間にも動揺が拡大した。,盛岡藩兵が秋田に侵入し、大館に火をつけて陥落させた明治元年(一八六八)八月、その戦闘の様子は市街の高所,弘前と大館の間は約三六キロメートルほどの距離だが、八月二十七日には大円寺(だいえんじ)(現最勝院)五重塔,碇ヶ関や大間越(おおまごし)には盛岡藩兵に追い立てられた秋田藩士らが妻子を連れて大挙逃れて来たが、その,兵士の中には負傷している者もいたであろうが、藩では大鰐(おおわに)(現南津軽郡大鰐町)と浪岡(なみおか
通史編5(近・現代2) (混乱・混迷の合併交渉)

その結果、石川町当局者の間では弘前市か大鰐町への合併が望ましいとの結論になった。,石川町でも町民の意向を調査した結果、町民の大勢は弘前市との合併に賛同する形勢だった。  ,藤森市長は「大弘前市」建設のため石川町や大鰐町との合併を推進していた。,議場は開会前から大混乱となり、警察まで出動する騒ぎとなった。,開会された議会も大いに紛糾し、議長不信任案まで持ち出されたが、合併案は賛成一二、反対七、白紙一で弘前市
資料編1(考古編) (61.萬左衛門山層Ⅲ)(まんざえもんやまそう))

模式地は、大鰐町萬左衛門山北側の小沢。虹貝川最上流域に分布する。,備考:井上・三橋(1961)の大日影層、甚吉森層及び虹貝層の一部、岩井(1965)の大日影山層、折紙層及
資料編1(考古編) (4.阿闍羅山安山岩Ⅷ)(あじゃらやまあんざんがん))

模式地は、大鰐町南東方の阿闍羅山。岩相は、安山岩溶岩と降下火砕物とから成る。,降下火砕物は、下部の約3mが径1~200cm大の安山岩火山弾*14やスコリア*15から成り、上部の3m
通史編1(自然・原始) (一 弘前市の位置および外形)

岩木山東半麓から岩木川と支流である平川より西側にかけて南北に帯状に分布し、また岩木川中流域の大秋(たいあき,南半では白神(しらかみ)山地とこれに続く大鰐(おおわに)山地が展開し、そして山地から平野部への出口付近,最西端は同じ岩木山北麓を流れる鳴沢(なるさわ)川(源流部は大鳴沢)流域の北緯四〇度四三分、東経一四〇度一七,稜線の延長部には大鰐町と境する西股(にしまた)山(九五四メートル)・尾開(おびらき)山(五〇九メートル,および薬師堂(やくしどう)付近の、北緯四〇度三二・四分、東経一四〇度三六・一分で、背後の平賀丘陵には大舘
通史編3(近世2) (一代本尊)

一代本尊 一代守本尊信仰は、干支と八大菩薩を組み合わせ、自分の生まれた干支による守本尊を一代様とする,(小池淳一「イチダイ様信仰の生成」『弘前大学国史研究』一〇二)。  ,表36 津軽の一代本尊 干支 守本尊(八大菩薩) 津軽の一代様 子 千手観音 目屋清水の観音(多賀神社,辰・巳 普賢菩薩 愛宕様(橋雲寺) 午 勢至菩薩 袋の観音(白山姫(はくさんひめ)神社) 未・申 大日如来,大鰐の大日様(大円寺) 酉 不動明王 古懸不動(国上寺) 戌・亥 八幡大菩薩 八幡宮(弘前八幡宮)
資料編1(古代・中世編) (二 青森県の板碑分布)

実地調査で確定できた数は二八四基余(大鰐町三ッ目内や弘前市乳井古堂・国吉には確定不能の板碑がある)、そのうち,津軽地方の板碑は、碑面の特色や造立の年代から大きく二つの地域に分けて考えることができる。,その第一は岩木川と平川の合流点、藤崎町藤崎と弘前市三世寺を北限とする平川・浅瀬石川の流域、黒石~大鰐を,多数の板碑が存在する地点は大鰐町三ッ目内、弘前市乳井、弘前市国吉、弘前市中別所、深浦町関、深浦町北金ヶ,大水の際流されてきたものと推定され、古くからあるのは一基だけである。
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