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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (大光寺新城跡)

大光寺新城跡 大光寺新城跡(写真217)は南津軽郡平賀町字三村井に所在する。,写真217 大光寺城跡空撮  大光寺新城跡の発掘調査は昭和六十三年(一九八八)から土地開発に伴い,写真218 大光寺新城跡検出の土橋  出土遺物は武器・武具関係が多く、武器としては鉄鏃(蕪(かぶら,とくにこの大光寺新城は出土品が多い(図80)。,図80 大光寺新城跡出土の遺物 / 大光寺新城跡
通史編1(古代・中世) (大光寺楯の合戦)

大光寺楯の合戦 元弘三年から翌年初めにかけて、ついに大光寺楯を中心に朝廷方と幕府方との間で戦いが始まった / 大光寺楯の合戦
通史編1(古代・中世) (嫡流と庶流)

また従来の地元の研究では、鎌倉時代末期の元弘の乱の過程で曽我氏が後醍醐方と北条方とに分裂し、「大光寺合戦,りとする津軽での合戦が始まった際、庶流惟重の系統は後醍醐方につき、嫡流助光の系統と推測される曽我氏を大光寺,嫡流助光の系統が大光寺にあり、庶流惟重の系統が岩楯に本拠を置いたのだともされてきた。,系統が伝領した大平賀郷は平賀郡の政治経済の中心地であり、板碑も大平賀郷や岩楯郷には多く現存するのに、大光寺付近,ただ現存の古文書では、助光の系統が大光寺に拠点を置いたという確証もないので、今のところ断案は保留しなければなるまいが
資料編1(古代・中世編) (二 乳井茶臼館の歴史)

乳井氏は、もともと独立の領主であったが、天正二年(一五七四)、福王寺玄蕃が大光寺城主瀧本重行に謀殺されたことから,その後、乳井大隅は、高畑城攻略や天正四年(一五七六)の大光寺城攻略戦などに活躍。,天正四年以後は大光寺城代となって、慶長四年(一五九九)までこの城に駐屯した。  ,その結果、乳井・沖館・大光寺一帯では激戦が繰り返され、六羽川で行われた合戦では、為信は一時窮地に追い込,ちなみに、これら近世の津軽側記録では、「比山勢」を「大光寺左衛門の二子六郎・七郎兄弟」とするが、「比山
資料編3(近世編2) (●誓願寺 山門 新町--重要文化財)

●誓願寺 山門 新町--重要文化財 誓願寺は大光寺村に創立され、弘前城築城の際に現在地へ移されたものと,その構造形式からすると江戸時代中期のものと推定されるが、下層の蟇股などの形式は室町期のものとみられ、旧大光寺村
通史編1(古代・中世) (為信の離反)

天正三年(一五七五)八月、為信は大光寺城を攻めたと伝えられる(史料一〇〇〇~一〇〇二)。,このときは「大光寺之勢以ての外強く、大浦殿漸帰り候」というが、翌年正月には再度大光寺城を攻め、城代瀧本重行
通史編3(近世2) (泉光院)

泉光院 泉光院(せんこういん)は、慶長十年(一六〇五)、大光寺村籠田(現南津軽郡平賀町)に創建され、
通史編3(近世2) (神宮寺)

熊野系の修験である福王寺玄蕃が乳井(にゅうい)毘沙門宮と兼帯したが、のち大光寺城主瀧本重行によって滅ぼされた,元禄十四年(一七〇一)には神宮寺配下の尾上村獅子権現、三味原地、猿賀・大光寺村三味原地は除地になっており
通史編3(近世2) (貞昌寺)

また、為信は津軽建広へ嫁した娘富が慶長八年(一六〇三)死去すると、大光寺へ供養塔を建て岌禎に読経させた,弘前城下の形成に伴い、大光寺から元寺町へ移ったが、正保二年(一六四九)の火事で類焼し、翌三年に新寺町へ
通史編3(近世2) (真教寺)

信義は乗玄のもとを数回にわたって訪れ、鐘のないのを知って、大光寺の為信の娘の供養塔にあった釣鐘を寄附した,この釣鐘は大光寺供養塔が焼失したときに傷を受けていたので、寛永十三年に鋳直して新たに銘を入れ、鐘楼堂に
資料編1(古代・中世編) ((1)南北朝時代の「石川楯」)

この津軽反乱では、はじめに元弘三年末から四年初めにかけ、「大光寺楯」を中心に合戦が行われ、大光寺楯が元弘四年正月,彼ら曽我一族が大光寺・石川の戦いで北条勢の主力だったのであろう。
通史編1(古代・中世) (福村城跡)

の南側にあり、平川と腰巻(こしまき)川に挟まれた自然堤防上の標高二七~三一メートルに所在し、和徳から大光寺,この福村城跡から和徳城跡までは約二・五キロメートル、大光寺城跡、堀越城跡へは約三・五キロメートルの距離
通史編1(古代・中世) ((五)発掘調査から見た遺跡)

さらに津軽領内での合戦の舞台として登場してくる平賀町大光寺新城跡、藤崎町藤崎城跡なども開発に伴う緊急発掘調査
通史編3(近世2) (三観音)

三観音 このほか、今井仁兵衛の文政六年(一八二三)の巡礼記念碑(現保食神社 南津軽郡平賀町大光寺)によると
通史編2(近世1) (信枚の築城)

また、石は大光寺・汗石(浅瀬石(あせいし))・和徳・黒石などの古城からも運んだ。,大光寺城や大浦城の門も移築され、外北門(通称亀甲門)、内北門(通称賀田(よした)門、現存しない)になった
通史編2(近世1) (続発する強訴の動き)

さらに、翌九月二十六日、今度は大光寺組(現南津軽郡平賀町・同尾上町)・尾崎組(現南津軽郡平賀町)の百姓,が大勢徒党を組み、大光寺組の本町村(もとまちむら)(現南津軽郡平賀町)に集合し、柏木町村(現同郡同町)
通史編3(近世2) (藤先寺)

藤先寺(とうせんじ)は、天正元年(一五七三)に開山を中岳とし、藤崎村(現南津軽郡藤崎町)に創建され、後に大光寺
通史編1(古代・中世) (種里城を中心とした城館群)

松代(現鯵ヶ沢町大字松代町)→岳(現岩木町大字常盤野)→百沢(現岩木町大字百沢)→相馬(現相馬村)→大光寺城,(現平賀町大字大光寺)か石川(現弘前市石川)という中世の街道ルートがあったことが伝えられている。
通史編3(近世2) (為信)

津軽建広へ嫁した娘が死去すると、大光寺に供養塔を建立し、岌禎は供養の法要を行った。,図242.大光寺三重塔跡  為信は、元亀元年(一五七〇)、最上義光(もがみよしあき)への対面の途中羽黒山
通史編1(古代・中世) (津軽惣地頭宇佐美実政)

なおこの実政については、平賀郡大光寺あたりにあって、「津軽奉行」の任にあったともいわれているが、この説
通史編1(古代・中世) (文献史料から見た戦国動乱の激化)

津軽地域では天文二年(一五三三)ころに、南部安信(やすのぶ)が藤崎城主安藤教季(のりすえ)を討ち、平賀町大光寺,反乱の中心は葛西一族の大光寺城主や藤崎安藤氏で、一五世紀の半ば以来南部氏に従ってきた津軽領主層の、南部氏,津軽地方支配の拠点としていた石川城の攻撃(史料八七四・八七五)から始まり、天正三年(一五七五)八月には平賀町の大光寺城攻撃
通史編1(古代・中世) (下総葛西氏と津軽葛西氏)

その津軽入り当初の拠点は大光寺城あたりといわれているが、時期も含めて史料的には確認できない。
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

[十六世紀] ●文亀二年(一五〇二)、この年、南部氏、藤崎・大光寺城を攻め安東教季没落するという。,●永禄年間末ごろ、このころ、瀧本播磨守重行、大光寺城城代となるという。,●天正二年(一五七四)三月、大光寺城代瀧本重行、乳井福王寺玄蕃を謀殺するという。,●天正三年(一五七五)八月、大浦為信、大光寺城を攻めるという。,大光寺城もこのころまでに南部氏側に奪回された模様。
資料編1(古代・中世編) ([付図])

小栗山館 93 五日市館 29 大沢館 94 荒田館 30 堂ヶ平館 95 平田森館 31 石川城 96 大光寺小館,31 新館(石川十三館のうち) 97 大光寺古館 32 堀越城 98 大光寺城 33 乳井茶臼館 99
通史編3(近世2) (深沙宮)

とも元亀二年(一五七一)ともいわれるが、別当を兼帯していた乳井毘沙門宮(現乳井神社)の福王寺玄蕃は、大光寺城主瀧本重行
通史編1(古代・中世) (本城(根城)の城館跡)

石川城跡は、天文二年(一五三三)か文亀二年(一五〇二)に三戸南部安信が、藤崎城主安東教季・大光寺城主葛西頼清
資料編1(考古編) (2.13世紀の様相)

破片としては浪岡城跡や根城跡、境関館跡、大光寺城跡から瀬戸瓶子や青磁鎬蓮弁文碗・梅瓶、白磁口禿碗・皿などが
資料編1(考古編) (〈1〉津軽地方の土師器と擦文土器)

岩木町百沢字東岩木山 集落 〃 10C後 7 古館遺跡 大鰐町蔵館字古館 防御性集落 〃 11C 8 大光寺新城遺跡,平賀町大光寺字三村井 防御性集落?
通史編2(近世1) (前期農政と検地)

前期農政と検地 前期検地は、大光寺遣のような古い村落でも実施されたように、開発地のみであったわけではない
通史編2(近世1) (検地の実施)

大光寺遣四ヵ村検地目録提出。 天和元年  2月28日 例年の通り,検地役人任命。,そして、翌二十七日には、大光寺遣(だいこうじけん)本田舎館村・上田舎館村・小杉村・柏木村四ヵ村の検地目録
通史編4(近・現代1) (女学生の風俗)

当時大光寺(現平賀町)の富豪の娘が、紋羽二重の牡丹色の羽織を着ていたのが羨望の的であったという。
資料編3(近世編2) (1 弘前城の歴史)

また、材木は近くの山々から伐り出されたものと見られるが、大浦城や大光寺城など、旧城郭の建物を解体したものもあったという
通史編1(古代・中世) (津軽独立に向けて)

さらに、同年四月末には、為信の行動の鉾先は糠部に向けられ、その余波が浪岡や大光寺など各地に及んでいることが
通史編4(近・現代1) (民次郎百年忌)

専右衛門    木造新田山田村庄屋   庄屋取放ノ上十日戸〆    太右衛門     当年凶作ニ付大光寺組尾崎組猿賀組其他,五三郎   仝 仝   猿賀村     寅吉   仝 三鞭  八幡崎村    八左衛門    大光寺組金屋村
通史編1(古代・中世) (曽我貞光とその家族)

なお大光寺系と呼ばれる曽我氏の孫二郎貞光(史料六五二)とは別人である。  
通史編1(古代・中世) (城館調査の今後)

これまで平賀町大光寺城など中世城館で土橋などの出入り口を発見した例はあるものの、木橋であることを明確に
資料編1(古代・中世編) ((2) 戦国時代の堀越城)

その後も堀越城は、南部勢の津軽侵攻に対する防戦や、天正三年(一五七五)の大光寺城攻めなど、為信の津軽東部
資料編1(考古編) (第3節 中世・近世の住居と集落)

27 高館遺跡 黒石市 12 竪穴 集落 28 板留(2)遺跡 黒石市 13,14 竪穴 集落 31 大光寺新城跡
資料編1(考古編) (4.15世紀の様相)

今別町大開城跡、中里町中里城跡、青森市尻八館遺跡・油川城跡、蓬田村蓬田大館遺跡、浪岡町浪岡城跡、平賀町大光寺城跡
通史編1(自然・原始) (平賀面)

東側にあっては、引座川流域の扇状地性の低湿地を除いて黒石面の周辺に分布し、尾上町八幡崎・新屋町、平賀町大光寺,大光寺新城跡は小丘状の平賀面に位置し、発掘調査地点では下位の常盤面と比高三~四メートルの急斜面が認められる
通史編1(古代・中世) (三戸南部氏による領国支配の強化)

反乱の中心勢力は大光寺城主葛西頼清(かさいよりきよ)や藤崎城主安東教季(あんどうのりすえ)で(史料九九一,また別働隊は迂回して大光寺を落としたという。,そして、すでに西浜・津軽西根の押さえとして入部していた南部一門の大浦氏(当時は盛信の代)と、大光寺城主南部政行
通史編2(近世1) (土着対象地と在宅分布)

駒 越 63   24   46   ③ 高 杉 76   17   31   ④ 平 賀 庄 大光寺,表40 天明3年諸組作毛状況 庄名 組名 田 畑 平 賀 庄 大光寺 30% 40% 猿賀 30&
通史編4(近・現代1) (鉄道事業の伸展)

弘南鉄道期成同盟会趣意書には「本県南津軽郡大光寺村及ヒ尾上村ヲ中心トセル一帯ノ平野ハ、本県中最モ豪腴(,一室を借受芳賀事務主任以下四五名の事務員が事務を開始している、弘前駅から発程し中郡及び南郡河南を通過し大光寺本町
資料編1(考古編) ((3)葬制(終末期古墳))

 このほか、津軽地方では7~8世紀の古墳群に埋葬されるものと同類の勾玉が、田舎館村境森や平賀町大光寺新城遺跡
通史編1(古代・中世) (安藤高季の活躍)

安藤高季の活躍 高季は、建武方に加わって大光寺合戦にも参戦し、新たに平賀郡上柏木郷(現平賀町柏木町付近
通史編1(古代・中世) (安藤愛季の津軽侵略)

津軽侵攻後、天正十年(一五八二)、三戸南部家継承を実現した信直は、弟政信を浪岡城に入部させて津軽郡代とし、大光寺城
資料編1(古代・中世編) ((1) 南北朝時代の「堀越楯」)

新里もまた堀越北方の平川沿いの土地であり、ともに貞光が本拠の岩楯・大光寺を守る前線拠点として構えたものであろう
通史編1(古代・中世) (二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)

貞昌寺 浄土宗 岩城専称寺 永禄年間 (一五五八~七〇) 為信の生母 岌禎 大光寺 (平賀町) 新寺町,泉光院 同右 藤先寺 慶長七(一六〇二) 察庵 大光寺 (平賀町) 同右 慶長十七年、現在地に移転,津梁 和徳村 (弘前市) 同右 同右 誓願寺 浄土宗 岩城専称寺 慶長元(一五九六) 為信 岌禎 大光寺
通史編1(自然・原始) (第一節~第三節 引用・参考文献)

二〇〇〇a) 第一章自然環境、浪岡町史 第一巻、浪岡町、四~三九頁 山口義伸(二〇〇〇b) 第三章大光寺新城跡周辺,の地形及び地質について、大光寺新城跡遺跡-第十次発掘調査-、平賀町埋蔵文化財報告書 第二六集、平賀町教育委員会
通史編2(近世1) (三戸南部氏の津軽進出と大浦築城)

)・比内(ひない)に通じる津軽南部の要衝石川城に三戸南部当主安信(やすのぶ)の弟高信(たかのぶ)を、大光寺
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